トーニオ・クレーガー - みる会図書館


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1. 集英社ギャラリー「世界の文学」11 -ドイツ2

主要登場人物 ばしば遠くからトーニオをみつめ、ダンスではよ トーニオ・クレーガー れた体つきの優等生。活発で誰にでも愛されてい く転ぶが相手にはトーニオを選ぶ。 クレーガー領事・クレーガー商会の息子としてる。少年時代のトーニオのあこがれの的。 リザヴェータ・イヴァーノヴァ 少年時代をおくる。父ゆすりの市民気質と母ゆすインゲポルク・ホルム 女流画家。トーニオがなんでも打ち明ける女友 十六歳のトーニオが愛した少女。ゆたかな金髪 りの芸術家気質をもっ詩人。自分を、芸術に迷い め の捲き毛と切れ長の青い眼の陽気な娘。トーニオ達。 込んだ市民、幼いころのよい躾への郷愁をいだい アーダルベルト に恋の悩みを味わわせる。 ているポヘミアン、やましい良心をもった芸術家 マグダレーナ・フェルメーレン 作家。トーニオの知人。芸術は感性的なものを と規定している。 弁護士の娘。やさしいロと、大きな黒くかがや徹底的に排除しなければならないという考えの持 ・ハンゼン きまじめ く眼に生真面目で夢想的な色をたたえた少女。しち主として紹介される。 大きな材木商の息子。際立って美しく均斉のと しつけ イ、一ヶポ ~ ク・ホ ~ 《中 0 少 ハンス・ハンゼン を 学の、、、ゞ カれの少拿関 マグダレーナ・フェルメーレン トーニオ・クレーガー 知人・な家 アーダルベルト

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このお役人はただその義務を果 「それはほんとうかな」と警官が言って、ぐっと身体をそ「それだけのことですよ , ひろ しているだけのことだとお考えくださらなくては。なんでも らせ、突然、できるだけ大きく鼻穴を拡げた : しいのですが、ご身分を証明できればいいのです : : : なにか 「完全にほんとうです」とトーニオ・クレーガーが答えた。 書類を : : : 」 「いったいあなたの職業はなんなのだ ? 」 ーゼ氏に、自分は身分不詳 三人とも沈黙した。彼はゼー トーニオ・クレーガーは息をひとのみすると、しつかりと ーゼ氏は顔をあの詐欺師などではないし、緑色の馬車に乗ったジプシーの生 した声で自分の職業を名のった。 れでもなくて、領事の息子、クレーガー家のものだと打ち明 げて、物珍しげに彼の顔を見上げた。 「ふむ」と警官が言った。「ではあなたはこういう名の人物けて、この場のけりをつければよいのだろうか ? はその気にはなれなかった。それに市民的秩序に属するこの 彼は「人物」と言った。 と同一人ではないというのだな そしてあのさまざまな色のインクで書かれた書類からあるきひとびとも結局はいくぶん正しいのではなかろうか ? 彼は ・ : 彼は肩をすくめて、 ある程度、完全に彼らに同調していた : わめて複雑なロマンティックな名をたどたどしくつづったが、 それは多種類の民族の音をとびきり異常に組み合せたものの沈黙をまもっていた。 「それはなんですか ? 」と警官がたすねた、「そのポケット よ , つに思われ、 トーニオ・クレーガーはっギ、の瞬間にはも , っ それを忘れてしまった。「この人物は」と警官はつづけた、のなかにあるのは ? 「両親不明、身分不詳で、諸種の詐欺行為その他の犯罪行為「これですか ? なんでもありません。校正刷りですよ」と トーニオ・クレーガーが答えた。 によってミュンヒエン警察が追跡しているもので、どうやら いったいなんです、それは ? まあ、みせて 「」正刷り ? 目下デンマークへ逃走中らしいのだが ? 」 ガ とい , つばかりではありませごらんなき、い」 「ばくはそういうものではない そしてトーニオ・クレーガーは警官に自分の創作を手渡し ん」とトーニオ・クレーガーは言って、神経質に肩をふるわ ク た。警官はそれを棚の上に拡げて読みはじめた。ゼ せた、 これがある印象をあたえたらしかった。 オ 「なんだって ? ああそうか、たしかにな ! 」と警官が言っ氏も近づいて来ていっしょに読んだ。トーニオ・クレーガー のぞ はそれがどの箇所なのか、かれらの肩越しに覗いて観察した。 こ。「しかしなにも呈示できないというのは困る ! 」 さしは ) それは彼がみごとに書き上げたあるよい瞬間、あるクライマ ーゼ氏もなだめるように口を挿んだ。 ゼー ックス、ある効果であった。彼はわれながら満足した。 「これはなにごく形式的なことなのです」と彼は言った、

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を済ませて、荷物をまとめた。予定通りの時刻に馬車が着い見たら地のなかに潜り込んでしまうはすだとでもいうように、 たことを知らされて、トーニオ・クレーガーは旅装をととの入って来たトーニオ・クレーガーをにらみつけた。 えて、おりて行った。 トーニオ・クレーガーはひとりずつを見、そして待っこと ン マ 階段をおりたところで、黒い服を着た上品な紳士が彼を待にきめた。 ちうけていた。 「ミュンヒエンから来られたのですな ? 」とやがて警官は人 「まことに失礼ですが ! 」と彼は言って、短い指でカフスをのよさそうなのろまそうな声で言った。 袖口から奥へと押しこんだ : ・「ほんの一分間ほどお時間を トーニオ・クレーガーは肯定した。 さいていただかなくてはなりません。ゼー ーゼさんが 「コペンハーゲンへ旅行なさるのですな」 ホテルの所有者でございますがーー三分はどお話をしたいと 「ええ、ばくはデンマークの海水浴場へ行くつもりなので 申しております。なに形式的なことでして : : : むこうの奥のす」 部屋でお待ち申しております : : : ごいっしょにいらしてくだ 「海水浴場ですって、 いちおう、証明書類を提示してい き、い士すか : : なにホテルの所有者のゼー ーゼさんなのただこう」と警官は提示という一一一一口葉に特別の満足を感じなが ら一 = ロった。 彼は招くような身振りをしながら玄関の奥のほうへトーニ 「証明書類ですって : : : 」彳。 = = ロ日 皮ま正月書類をもっていなかった。 オ・クレーガーを案内した。事実、そこにはゼー ーゼ氏が紙入れをとりだしてなかを見たが、そこには数枚の紙幣のは 立っていた。トーニオ・クレーガーはむかしから彼を知ってかには、彼が旅行の目的地で仕上げるつもりのある短編小説 いた。小男で、肥って、脚が曲っている。刈り込んだ頬髯はの校正刷りしか入っていなかった。彼は役人とやりとりをす 白くなっていた。しかしむかしどおりに胸開きの広い燕尾服るのが嫌いで、これまでいちども旅券を発行してもらったこ ししゅう とがなかった : を着て、その上、緑色の刺繍をしたビロードの小さな帽子ま でかぶっている。ところで彼はひとりではなかった。彼の隣「残念ながら」とトーニオ・クレーガーが言った、「ばくは りの、壁にとりつけた机棚のところに、警官がひとり、鉄帽証明書類をもちあわせていません」 をかぶったまま立っている。警官は手袋をした右手を彼の前 「なんですって ? 」と警官が言った : 「なんの証明書類も の棚の上に置かれた、さまざまな色のインクで書いてある書ない ? あなたの名はなんというのだ ? 」 類の上に置いて、忠実な兵士の顔で、まるでこの彼の様子を トーニオ・クレーガーは彼に自分の名を言った。 ふと

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彼女は彼の前をひらひらと前後左右を歩いたりひるがえつるのに、きみだけはわからない どいて ! 戻って ! 」彳。 いしよ、つ たりしている。彼女の髪からか、彼女の衣裳のやわらかな白黄色い絹のハンカチーフをひきだして、それを振りながら、 トーニオ・クレーガーをもとの場所へ追い戻した。 ノい布地からか、ある香りがしばしば彼をかすめ、彼の眼はし マ だいに曇って来た。ばくはきみを愛しているのだよ、かわい みんなは笑った。ト ク年も少女もカーテンの奥の婦人たちも。 、」っけい いなっかしいインゲ、と彼は、いのなかで言って、彼女がダンクナーク氏がトーニオの失敗をすっかり滑稽なものにしてし スに夢中になって、彼のことなど気にもとめていない苦痛全まったからである。ひとびとは喜劇でも見ているように楽し 体をこの一言葉のなかにこめたのであった。シュトルムのあるんでいた。ただハインツェルマン氏だけは無表晴につぎの演 美しい詩が、いにうかんだ。「ばくは眠りたい。 けれどもきみ奏を待っていた。クナーク氏のこの種の芸に無感覚になって いたからである。 は踊らすにいられないのだ」恋をしながら踊らなければなら ないという、なさけない矛盾が彼を苦しめた : それからまたカドリールがつづけられた。そして休憩時間 アナヴァン 「第一の組、前へ ! 」とクナーク氏が言った。新しい一節になった。ト引吏、 / 卩イしが、ワイン・ジェリーを満載したお盆を ムリネ・デ・ダーム が始まったのである。「お辞儀 ! 」「ご婦人がたの旋舞 ! 」 もって、ドアから入って来た。そのあとにつづいて料理女が トウール・ド・マン 「手を回して ! 」そしていかに優雅に彼が斗の黙音 e を呑プラムケークをもってつづいた。けれどもトーニオ・クレー み込んでしまうかは、誰にも描写できないのである。 ガーはそっとサロンをぬけて、ひそかに廊下に出て行き、両 アナヴァン よろいど 「第二の組、前へ ! 」 トーニオ・クレーガーと彼の相手の手を後ろに回して、鎧戸をおろした窓の前に立った。この鎧 コンプリマン 番だった。「お辞儀 ! 」 トーニオ・クレーガーは身をかがめた。戸越しにはなにも見えない。だからその前に立って外を見て ムリネ・デ・ダーム 「ご婦人がたの旋舞 ! 」そしてトーニオ・クレーガーはうつ いるふりをするのはおかしい、などということは考えなかっ まゆ むいて、眉を暗くあつめながら、四人の女性の手の上に、イ あこがれ ンゲ・ホルムの手の上に手を置いて「旋舞」を踊りはじめた。 彼が見ているのは、悲しみとに満ちた自分の心のなか まわりにしのび笑いや高笑いが起った。クナーク氏は、様 だった。なぜ、なぜ自分はここにいるのだろう。なぜ自分の きようカく 式化された驚愕をしめすバレーの姿勢をとった。「やれや部屋の窓辺に坐って、シュトルムの『インメンゼー』を読み れ ! 」と彼は叫んだ。「中止、中止 ! クレーガーはご婦人ながら、時折、年老いたクルミの木が重々しい音を立ててい アナリエール たちのなかへ紛れ込んでしまった。さがって、クレーガーおるタ暮の庭に眼をやっていなかったろう ? そここそ彼本来 嬢さん、あとへ、なんということだ ! みんながわかってい の場所だったろう。ほかのひとびとは勝手に踊り、漫剌とし まギ一 コンプリマン の

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へ行こうと思いましてね。まあ、そこまではよかったのです言い合った。 あらし が。しかしあのオマール・オムレツはいけません。夜は嵐に 、、、ツドこ身本を トーニオ・クレーガーは小さい寝室の狭しへ ンなると船長も言っていましたね。それなのにあんな消化の悪のばしたが、なかなか眠れなかった。烈しい風とその鋭い香 、 ) うふん マ いものが胃のなかに入っていると、あまりいい気分じゃあり りが彼を奇妙に昂奮させ、彼の心臓はなにか甘美なものを不 ませんね・ : ・ : 」 安とともに期待するように落ち着かなかった。船がけわしい けいれん トーニオ・クレーガーはこういうばか話をひそかな好意的波の山を滑り落ちてスクリューが痙攣するように水の外で回 はキ一け・ な感情をもって聞いていた。 ることから起る振動も、ひどい嘔気を催させた。彼はまた服 「そうですね」と彼は言った、「北国ではいっこ、こ し食べ過を着て、甲板にのばって行った。 ゅううつ そろ ぎるようですね。だからなまけやすく憂鬱になるのですね」 雲が月をかすめる。海は踊っている。まるい一様な波が揃 あおじろ 「憂鬱に ? 」とその若い男は繰り返して、驚いたように彼をつて寄せて来るのではなくて、遠くで、蒼白いちらちらする よそ みつめた : ・「あなたは他所からいらしたのですね、きっ光を浴びながら、海は引き裂かれ打ち砕かれて湧き立ってい と ? 」と不意に彼はたずねた : る。尖った炎に似た巨大な舌のようにつき立ってなめまわし 「そうです、ばくはずっと遠くから来たのです ! 」とトーニている、泡だらけな峡谷のそばにぎざぎざの得体のしれない ばくぜん オ・クレーガーは漠然としかし拒否するように腕を動かしな 形のものを投げ上げる。まるで巨大な腕に力をこめて気違い ま すいまっ がら一一 = ロった。 じみた騒ぎを起し、水沫を四方八方撒きちらしているかのよ 「おっしやるとおりです」とその若い男は言った、「憂鬱に うだ。船はけっして楽な航行をしているのではなかった。あ 関しておっしやったことは、まったくそのとおりです ! ば がき、よろめき、あえぎながら、この騒乱のなかを進んでい くははとんどいつでも憂鬱ですよ。とりわけ空に星がかがやるのであった。ときおりこの航行に苦しむ北極熊や虎が船腹 いているこんな晩にはね」そして彼はまた拇指と人差指で顎で咆えるのが聞こえた。防水布のオー ーを着て、帽子をか おおまた をささえた。 ぶり、腰にランプをつけた男が、大股で危うげに重心をとり この男は詩を書いているな、とトーニオ・クレーガーは考ながら甲板の上を行ったり来たりしている。船尾のほうでは えた。真正直な実感のこもった商人の詩を : ハンブルク生れのあの若い男が船ばた越しに身をのりだして、 夜がふけて、風はもう話を困難にするほど烈しくなった。 ひどい目に会っている。「神さま」と彼はトーニオ・クレー しだい そこでふたりはすこし眠ることにして、たがいにおやすみをガーに気づくと、うつろな不安定な声で言った、「この四大 が

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っていたトーニオ・クレーガーが言った。ほほえみながら彼 は出迎えるように友人に近づいた。友人のほうはほかの仲間 と話し合いながらもうトーニオの前を通りすぎようとしてい 「なぜさ」と彼はたすねて、トーニオをみつめた : 「ああ、そうだった ! それじゃこれからすこしいっしょに ~ 打こ , つ」 め トーニオは沈黙した。そして彼の眼からかがやきが消えた。 きようの昼ふたりですこし散歩をしようと約束していたのを ハンスは忘れていて、いまそれを思い出したのだろうか ? 冬の太陽は乳白色の色褪せたあわれな光となって、雲の層 の奥から小さな町の上にかかっていた。破風屋根の多い町のトーニオはその約束をしたときから、うれしさに湧き立っ思 いで、ほとんどほかのことは考えられもしなかったというの 小路は湿ってたえず風が吹き、ともすると氷とも雪ともっか あられ オしいわばとけやすい霰が降ってきた。 しき 「それじゃまたな、みんな ! 」とハンス・ ンゼンは仲間に 授業が終った。解放された生徒たちの群が、そろぞろと舗 石をしいた校庭を越え、格子門をくぐり、それそれにわかれ言った。「ばくはこれからちょっとクレーガーと行くから」 そしてふたりは左手に道をとり、ほかの連中は右手にぶ ると、右や左に散って行った。上級生たちはもったいぶって 教科書の包みを左の肩の上にひっかけ、風にむかって右手でらぶらあるいて行った。 ひるめし ノンスとトーニオには放課後に散歩をする余裕があった。 一舵をとりながら、午飯をめざしてすすんで行く。小さい子た 1 ) さん 一ちは楽しげに駆けだして雪の泥を四方にはねちらしながら、ふたりの家庭では、四時になってはじめて正式の午餐をとる レ 習慣だったからである。かれらの父は大商人で、公職をおび アザラシ皮のランドセルのなかで勉強の七つ道具をがたがた ク ている、町の勢力者だった。河沿いにある広大な材木置場は オゆさぶって行く。しかし、時折、落ち着いた足どりであるい もう何代も前からハンゼン家のもので、そこでは巨大な機械 一てくる老先生のヴォータンのような帽子とユーピテルのよう ひげ な髯をみると、みんなはうやうやしいまなざしで帽子をぬい鋸が特有の音を響かせながら樹幹を製材していた。一方、 ーニオはクレーガー領事の息子で、クレーガー商会の太く黒 「やっと来てくれたね、ハンス」と、ながいあいだ車道で待い商会印を捺した穀物袋が毎日、町の通りを馬車で運ばれて のこ

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あげて来るのを彼は感じた。そしてたえすふるえそうになる 「うん」とトーニオはおばっかない調子で答えた。 一しは ) 「きみも」とハンス ハンゼンが口を挿んだ、「乗馬の授業顎をやっとのことでおさえつけていた : だからと言っ ハンスはトーニオという名が嫌いなのだ をうけたいとお父さんにたのむべきだよ、クレーガー」 せ ンスはハンスという名で、 てど , っすることができょ , っ ? 「うん」とトーニオは急き込むと同時に無関心に言った。一 のど 瞬、彼は喉を締められたような気がした。ハ、 ノスが彼を姓でインマータールはエルヴィンという名だ。結構。それは誰も 呼んだからである。ハンスもこれに気づいたらしく、説明す不思議と思わない一般に認められた名だ。けれども「トーニ るよ , つに ) ・、てつ一一一一口った。 オ」となるといささか外国ふうで特殊なのだ。実際、ばくに 「ばくがきみを姓で呼ぶのはね、きみの名があんまり変っては、望むと望まざるとにかかわらず、あらゆる点ですこし特 : トーニオなんて、殊なところがある。ばくは孤独で、ちゃんとしたふつうのひ いるからさ、亜 5 いけど、ばくは嫌いだね : オ、かもっともそれはきみのせいじゃ 名になってないじゃよ、 とびとから排除される。ばくはけっして緑色の馬車に乗った ジプシーなどではなくて、クレーガー一家の、クレーガー領 : どうしてハンスは、第三者が加わ 「いや、その名はきっととても外国ふうな響をもっていて、事の息子だというのに : 特殊だから、そうつけられたんだよ : : 」とインマータールるとばくと付八ロっているのをきまりわるがるのに、ふたりき が言って、かばうつもりのような様子をした。 りのときにはばくをトーニオと呼ぶのだろう。時折、彼はば トーニオのロはふるえた。彼は気をとりなおして言った。 に近い存在になり、ばくのものになる。それは確かだ。ど 「そう、たしかにばかげた名だね。ばくはたとえばハインリ トーニオ、と一一一一口っ んなふうにして侯爵は王様を裏切ったの、 て、ばくと腕を組んだではないか。けれどもそのときインマ ヒとかヴィルヘルムという名だったらよかったと思うんだ、 ータールが来るとほっとしたよ、つに自 5 をついて、ばくから離 ガほんとうだよ。ばくのお母さんの兄弟にアントニオというひ レ とがいてね、そのひとにちなんでばくの名がつけられたんだ。れて行き、必要もないのにばくにばくの外国ふうの呼名を非 ク ばくのお母さんは海のむこうのひとだからね : : : 」 難したのだ。こんなことすべてを見抜かすにいられないとい オ ハンス・ ハンゼンは そして彼はロを噤んで、ふたりに馬や革具の話をさせておうのは、なんて苦しいことだろう ! 子 / ノ、 ノスはインマータールと腕を組んで、「ドン・カルふたりきりでいるときにはほんとうにすこしはばくを好きに ロス』ならけっして彼に目覚めさせることがないような雄弁なってくれる。トーニオはそれを知っていた。けれども第三 をふるっていた : : 泣きたいような衝動が時折、喉元にこみ者が加わると、それを恥じて、ばくを犠牲にしてしまう。彼

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295 トーニオ・クレーガー 「わたしはこ , っ思 , つの。 わたしはあなたのお話を始めかのです。逐電するのです。逃亡するのです」 ら終りまで注意して聞きました、トーニオ・クレーガー。そ「いったいどうなさったの小父さま、またイタリアへ行幸遊 れできようの午後おっしやったすべてにあてはまる答をしてばすおつもり ? 」 「まさか。イタリアなんか行きはしませんよ。イタリアなん あげたいの。それがあなたをあんなに苛立たせた問題の解答 ナ、べっ にもなるのですわ。 ししですか ? その解答はね、そこにそてばくには軽蔑したくなるほどどうでもいいのです。イタリ 」も , っとっ すわ うして坐っていらっしやるあなたは、そのままでそっくりひアこそわが故郷と妄想していたのはむかしのことです。芸術 でしよう ? それにビロードのように青い空、熱いワイン、 とりの市民だ、というのです」 甘美な官能性でしよう : : : 要するに、ばくはそんなものは嫌 「ばくがですか ? 」と彼はたずねて、すこしうなだれた。 べレツツア いなのです。要らないのです。そんな美はみなばくをいら 「すこし厳しすぎたようね。それはそのはずです。ですから いらさせるのです。それにあの国の動物のように黒い目をし この判決をすこし軽くしてあげましよう。わたしにはそれが できるのですから。あなたは迷路に踏み入った市民なのです、た、おそろしく元気のいい人間たちもばくは好きじゃありま め トーニオ・クレーガー 道に迷ったひとりの市民なのでせん。ラテン人種の眼には良心がありません : くはこれからちょっとデンマークへ行くのです」 「デンマークへ ? 」 沈黙。やがて彼はきつばりと立ち上がって、帽子とス しいことがあると田 5 っていますよ。ばく 「そうです。きっと、 テッキを手にとった。 は若い頃すっと国境の近くに住んでいたのですが、たまたま 「ありがと , つ、リザヴェータ・イヴァーノヴナ。これでばく いちども行ったことがないのです。それでもばくはあの国を は安心して家に帰ることができます。ばくは片づけられまし むかしからよく知っていて、愛しているのです。この北方的 傾向をばくはきっと父からうけついだと思います。母は、よ にごとにも無関、いではなかったかぎりで言えば、ほんとうは べレツツア やはり美のほうが好きでしたからね。ところで、あの国で 書かれる本のことを、あの深遠な、純粋でユーモラスな本の 秋が近づいた頃、トーニオ・クレーガーがリザヴェータ・ リザヴェータ、 ば / 、にとってめ ことを考えてください、 イヴァーノヴナに一 = ロった。 ばくは好きですね。それからスカンデ 「ばくは旅行に出ますよ、リザヴェータ。新な空気を吸うれ以上のものはない ころ

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くんせい 超地上的な浄化と輝きに満たされているのを見た。名状しが 二度目の朝食のとき ( 食卓には冷たい料理、燻製や塩漬や Ⅷたくやさしい匂やかなバラ色の光が部屋全体を満たし、壁と蒸焼などが一杯に盛られていた ) トーニオ・クレーガーはな ン家具を金色に染め紗のカーテンをおだやかなバラ色に燃え立 にが起ったのかたずねてみた。 マ たせている : : : トーニオ・クレーガーはしばらくのあいだ、 「お客ですよ」と魚商人が言った。「ヘルセンゲールから来 なにが起ったのか理解できなかった。しかしガラス扉の前に たハイキングとダンスの客たちです ! 実際やりきれません 立って外を眺めたとき、それは昇りつつある太陽のせいであな。今夜はとても眠れないでしよう ! ダンスが始まるでし ることがわかった。 ようからね。ダンスと音楽が。きっとそれがながくつづくで しんばく 数日間は、曇って雨がちだった。それがいまは張り切った しようからね。一族の親睦会とか、ダンスパーティをかねた 水色の絹のような空が海と陸の上にきらめきながら澄み切っ ピクニックとか、つまり会費制の集会といったようなもので、 て拡がり、とりかこむ赤と金の雲を透してかがやきながら、 この晴天を楽しんでいるのですな。船や馬車でやって来て、 きらきらとさざ波立っ海の上に壮麗に日輪が昇って来る。海いま朝食を摂っているところです。しばらくすると陸のほう はその下でおののきながら燃えるようにみえる : : : こうしてをもっと先まででかけますが、夕方になるとまた帰って来て、 この日が始まった。トーニオ・クレーガーは混乱しながらもそれからはホールでダンスの楽しみが始まるわけです。まっ だれ 幸福な気持で服を着て、下のヴェランダで誰よりも早く朝食たくいやになりますな。われわれは一睡もできないでしよう を済ますと、 小さな木造の水浴小屋から海峡に向ってすこし ばかり泳いで、それから渚づたいに何時間も歩いた。帰って しい気分転換になるじゃありませんか」とトーニ 来たとき、数台の乗合馬車がホテルの前に止っていて、食堂オ・クレーガーは言った。 から見ると、ピア / が置いてある隣りの社交室にも、ヴェラ それからはしばらくのあいだ誰もなにも一言わなかった。女 そろ ンダにも、その前にあるテラスにも、大勢のひとびと 主人は赤い指を揃え、魚商人は呼吸をすこし楽にするために あな 市民ふうな服装をしたひとびとがいくつもの円テー。フルを囲右の鼻の孔から息を吹き出し、アメリカ人たちは湯を呑んで んで、にぎやかに話しあいながら、ビールを飲んだり、バタはまずそうな顔をした。 ハンス・ ハンゼンと ハンを食べたりしているのが見えた。それはあらゆる種すると突然こういうことが起った 類の家族たち、中年のひとびとや若いひとびとで、子供さえインゲポルク・ホルムが食堂を通って行ったのである。 数人まじっていた。 トーニオ・クレーガーは水浴と足早な散歩のあとの快い疲

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たのである。いちどある観念連合によって彼はちらとむかし通用口に出て、そこからはひとつも部屋を横切らすにガラス の知人を思い出した。作家のアーダルベルトである。アーダ張りのヴェランダに達することができる。彼はこの道をとっ たど ルベルトは自分の欲するものを知っていて、春風を避けて喫て、まるで禁断の道を辿るようにそっと足音をしのばせなが くらやみ マ このば 茶店に行ったのだった。トーニオ・クレーガーは彼に対してら、暗闇のなかを用心深く手探りで進んで行った 肩をそびやかした : かげたしかししあわせに心をゆする音楽に抵抗し難くひきっ 昼食はふだんより早く済まされた。そしてタ食もいつもよ けられながら。音楽の響はもうはっきりとあからさまに彼の り早くピアノ室でとられた。食堂ではもうダンスパ ーティの耳に迫って来た。 ひとけ 準備が始まっていたからである。こんなふうにお祭り気分で ヴェランダには人気がなく、明りも灯いていなかった。し すべてが不規則になってしまった。それからもう暗くなってか し、まぶしい反射器のついた大きな石油ランプが二つ明る トーニオ・クレーガーが自分の部屋に坐っていると、また国く輝いているホールに通じるドアは開かれていた。そのドア 道と家のなかが騒がしくなりだした。ハ イキングの連中が帰のところへ彼はそっと近づいて行った。そしてこの暗闇のな って来たのである。そればかりでなく、ヘルセンゲールの方かに立って、誰にも気づかれすに明るいところで踊っている 角から自転車やバスで新しい客たちも到着した。そしてもうひとびとを盗み見ることができるという、盗人めいた享楽に 階下では、ヴァイオリンの調子を合せたり、クラリネットが彼の肌はこそばゆくなった。 鼻声のような音色の練習をやったりしているのが聞えた : すばやく、むさばるように、彼は自分が求めている二人の すべてはやがて華やかなダンス。ハーティが始まることを約 ほうへ視線を送った : うたげ 束していた。 始まってから半時間ほどしかたたないのに宴の楽しさはも やがて小さなオーケストラが行進曲を奏し始めた。それは う充分に花咲いていた。しかしなにしろみんな一日中いっし タンスはポロネ 低くしかしたしかな拍子で響き上って来た。・ ょに、気がねなく仲間同士で幸福に過して、すでに熱した活 ーズで始まったのである。トーニオ・クレーガーはなおしば気のある気分でここへやって来たのだから無理もないのであ らくのあいだじっとそれに耳を傾けていた。しかし行進曲のる。すこし前へ出ればトーニオ・クレーガーはピアノ室を見 子がワルツの拍子に移ったのを聞くと、立ち上がって、音渡すことができたが、そこでは中年の紳士が数人、葉巻をく もなく部屋をすべり出た。 ゆらせたり、酒を飲んだりしながら、カルタ遊びに集ってい その部屋のある廊下から行くと、横階段を通ってホテルのた。他のひとびとは、広間でそれそれの夫人といっしょに、