いない損害について報告したのだろう。ばくのいわゆる発プロンスキーに賭けている。もうあんたのものになっている 育不全やまだばくのダイヤモンドの声を、しごく自然な現象マツェラートに賭けるならねえ、もしも。それとも失礼だが、 と考えているマルクスは、舌の先を振り動かし、淡黄色の両マルクスにお賭けになるんなら、洗礼を受けたばっかりのマ ルクスといっしょにきなせえ。ロンドンさ行きましょ , つ、ア 手をこすっているだろう、とオスカルは考えた。 店の入口でばくの眼前に一つの光景が展開された。それはグネス奥様、あそこには仲間がいるし、たつぶり株券もある、 あんたが行こうと言いさえしたら、それともマルクスとじゃ ただちに、遠くからガラスを壊すことのできる歌の成功をい けいべっ シーギスムント・マルクスが いやだって一一一一口うんだったら、あんたは軽蔑してるからだ、そ っさい忘れさせるものだった。。 ししい。だけんど、心からお願い申しますよ、 ばくの母の前に跪いていたのである。そして、すべての縫いんなら軽蔑すれ、 ぐるみの動物、熊、猿、犬、さらに眼を開けたり閉じたりすポーランド郵便局にいる気違いのプロンスキーにはもう賭け る人形、同じく消防自動車、揺り木馬、また彼の店を守ってないでくだせえ、ドイツ人がくれば、ポーランド人はおしめ えだ ! 」 いる繰り人形が全部、彼といっしょに跪こ , っとしているよ , っ たくさんの可能なこと不可能なことを考えて心乱れた母は に思われた。彼は両手で母の両手を蔽い、手の甲に産毛のは 涙を流しかけた。ちょうどそのとき、マルクスは店の戸口の えた薄茶色のしみを見せて泣いていた。 まじめ ばくを見つけ、母の片手を離し、五本のものいう指でもって 母もその場の雰囲気にふさわしく真面目な眼つきをしてい ばくを指差した、「ど , っそ、ど , っそ、この子もロンドンさい た。「だめよ、マルクスさん」と彼女は言った、「このお店じ っしょに連れて行きましよう。王子様のようにたいせつにし ゃないところでして」 しかしマルクスはやめなかった。彼の話はばくの忘れるこてあげよう、王子様のようにな ! 」 こんがん いくらか微笑を浮べた。おそら そこで母もばくを見つめ、 とができぬ懇願するようで同時に厚かましい調子を帯びてい た、「もうプロンスキーとはやらねえでくだせえ、ポーランく彼女はガラスのなくなった市立劇場のロビーの窓のことを 鼓 太ドの郵便局にいるんだから、そいつあうまくねえ、言っとき考えていたか、約束の地、首都ロンドンのことで陽気になっ キ オーランドていたのだろう。ところが驚いたことに、彼女はかぶりを振 ますがね、あの人はポーランドと仲がいいんだ。。、 り、まるでダンスの申し込みを拒絶するみたいに、あっさり プに賭けないでくだせえ、賭けたいならドイツ人に賭けなさい、 と言った、「ありがとう、マルクスさん、だけどそうは行か 今日だめでも明日は景気が良くなるからね。またちょっぴり 悪くても、良くなる、それなのに、アグネス奥様は相変らずないわ、ほんとうにだめーープロンスキーのためなの」
グラス 540 高価なものに対して良いセンスの持ち主であったばくの母の因となる講和条約をでっちあげていた。・ ウイスワ河口一帯、 要求に応じてやった。そのころ日記をつけていたという話だつまり、ネールング河畔のフォーゲルザングからノーガトⅡ さんいっ 、残念ながら後に散佚してしまった。ばくの祖母は、若い に沿ってビーケルに至り、そこでヴィスワ河と合流してチャ ースまで 一一人の結びつきをーーーそれは親類同士の付き合いを越えたも トカウまでくだり、直角に左に曲ってシェーンフリ のであるといわざるをえないーーー・我慢していたらしい 行き、そこからザスコシンの森を迂回してオトミン湖に行き、 うのも、ヤン・。フロンスキーは戦後も少しのあいだトロイル マッテルン、ラムカウ、わが祖母のビッサウを過ぎ、クライ の狭い家に住んでいたからだ。彼は、マツェラートという男ンⅡカツツでバルト海に達するこの一帯は、自由国家に指定 の存在がもはや否定できなくなり、それを認めるに至ってやされ、国際連盟の管轄下に置かれた。。、 オーランドは旧市・内に っと引っ越していった。その男は、ばくの母がオリーヴァ付自由港と弾薬庫のあるヴェスタープラッテを確保し、鉄道を 近のジルバー ハンマー野戦病院に補助看護婦として勤務して支配し、ヘヴェリウス広場に独自の郵便局を持っことになっ いた一九一八年の夏、母と知り合ったにちがいない。アルフた。 レート・マツェラートはラインラントの生まれで、大腿部を 自由国家の切手がハンザ同盟の船と紋章をあらわす赤と金 きれいに貫通されてそこの病院に入っていたのであるが、ラの華やかさを手紙に与えたのこ寸し、。、 し文ホーランド人はカジー インラント人特有の央活さからやがて看護婦みんなに好かれミエシュ大王とバトーリ 王の歴史を図柄にした陰気な紫色の るようになったーーー看護婦アグネスも例外ではなかった。彼光景の切手を貼った。 は、傷が治りかけると、あれこれの看護婦の腕にすがって廊ャン・プロンスキーはポーランドの郵便局に転勤した。彼 下をびよんびよん跳びながら、アグネス看護婦のいる炊事場の転勤は自発的に行なわれたものであり、彼がポーランド国 に手伝いにやってきた。彼女の丸い顔に看護婦の小さな帽子籍を選んだことも同様であった。多くの人びとの言うところ がよく似合ったからであり、また、彼はスープにさまざまな によれば、彼がポーランド国籍を得たのは、ばくの母の態度 感情をこめることのできる熱狂的なコックであったからだ。 に原因があったのである。一九二〇年、ピウスッキ元帥がワ 傷がすっかり治りきっても、アルフレート・マツェラート ルシャワ近郊で赤軍を撃破し、ヴィンツェント・プロンスキ とど はダンツイヒに留まり、そこですぐ紙の加工をかなり手びろ ーのような人びとは処女マリア様のお陰だと言い、戦争の専 門家たちはシコルスキ将軍やウェイガント将車の功績だとい くやっているラインラントの会社の代理店に仕事を見つけた。 きせき 戦争はすでにすっかり終っていた。人びとは将来の戦争の原うヴィスワ河畔の奇蹟が起こったあのポーランドの年に、ば
念なことにばくはそれを握ることができなかった、というのとを許してもらえなかった。オスカルはポーランド人ではな かったし、シュテファンととくに仲良くしていたわけでもな はそのとき、茂みの中で叫び声が聞こえたからなのである。 カウアー小母さんは裾をひるがえして立ちあがると、赤い毛かオカ っこ。ゝ、皮といっしょにやめることにした。やがて復活祭 ス 广糸を引き寄せて、編んだ綱を手にしたまま表情をこわばらせになり、簡単な検査が行なわれた。ホラツツ博士は広い角ぶ て、茂みの叫び声のほうへ歩いて行った。ばくは、彼女と、 ちの眼鏡のうしろで、差支えないことを認め、「オスカル君 もうすぐもっと赤く見えるはすの毛糸の後について行った。 は差支えない」との所見を公にした。 シュテファンの鼻からひどく血が出ていた。ロタールという復活祭のあと同じように、シュテファンのことをポーラン かんげん 名の縮れ毛でこめかみに青い静脈の浮き出た子が、頼りなく ト国民学校へ入れようと思ったヤン・。フロンスキーは、諫言 て見るからに哀れつばい子供の胸の上にうずくまって、まるを聞き入れず、ばくの母とマツェラートに何度もこう繰り返 でシュテファンの鼻をへこまそうとするみたいに殴りつけてした。自分はポーランド官庁の役人である、ポーランド郵便 局にきちんと勤めているからポーランド国家はきちんきちん 「ボラック ( んの」」ト ) 」とその子は殴りながら吐き捨てるよと給料を払ってくれるのだ。つまり自分はポーランド人であ , つに一一一一口った。「ボラック ! 」。五分後にカウアー小母さんがふり、ヘートヴィヒも申明が受け付けられればポーランド人に たたびばくたちを淡青色の引き具につないだとき ばくだ なるのだ。おまけに、シュテファンのような利ロで普通の才 けは自由に走り、赤い毛糸をぐるぐる巻いたーーー彼女はばく 能を持った子は両親の家でドイツ語を学べる、そしてオスカ ためいき たち全員に向って、ふつう供犠と聖変化のあいだに唱えるおル君についてだがーー彼はオスカルと言うとき、少し溜息を 祈りを唱えてくれた、「深くへりくだり、痛悔の心をもってもらすのだったーーーオスカルはシュテファンと同じ六歳だが、 まだちゃんとしゃべれない、年の割りにすいぶん遅れている、 それからエルプス山をおり、、グーテンベルク記念碑の前成長のことをいっているのだ、だが試しにやってみたらいい、 で止まった。めそめそ泣きながらハンカチを鼻に押し当てて義務教育は義務教育だからーー学校当局が反対しなければの いるシュテファンを長い指で指差しながら、彼女はやさしく = = ロたがと こう教えてくれた、「あの子が小さなポーランド人なのは、 学校当局は疑念を表明し、医師の証明書を要求した。ホラ けっしてあの子の責任じゃないのよ」。シュテファンはカウッツはばくを健康な少年だと言ってくれた、成長は三歳児と アー小母さんの勧めにもかかわらず、二度と幼稚園に行くこ同じだが、ちゃんとしゃべれないにしても、精神的には五歳
類をもって、最高権威にも相談しに行ったのだから間違いな って、騎兵の大群を地の果てから呼びだしたのかもしれませ ひづめとどろ けつきよく彼らのいやな義務を遂行するだけの話なのだ、ん。蹄が轟き、鼻荒く、拍車は音高く、馬はいななき、し わたくしたちは退去するのが得策であろう、と。 つ、しつ、それのかけ声 : : : といったようなものは皆無です。 いななきも、しつ、しつ、 ラわたくしたちは退去しませんでした。それどころかマツェ蹄の轟きも、鼻息も、拍車の音も、 けんじゅう ラート氏は、緑帽たちがマントを開いて自動拳銃を抜きだしそれのかけ声もなに一つとして聞こえず、ゲレスハイムの背 すべ たとみるや、彼の太鼓を構えたのですーーーその瞬間に、満月後の取り入れをすませた畑の上を音もなく辷って行くのです。 そうきへい し、いがちょっとへこんだところのある月が雲間を破り、雲しかも、それこそまぎれもなくボーランド槍騎兵中隊でした。 の縁をまるで缶詰のぎざぎざの縁のように金属的に光らせま というのは、マツェラート氏の太鼓の色と同じく、赤白まだ したーーそして、似ているがこちらは完全無欠のプリキの上らの三角旗が槍の先に垂れておりましたから。いや、垂れて ばち で、マツェラート氏は撥を合わせ始めました。死にものぐる いたのではなく、泳いでいたのです。旗ばかりではありませ とこかで断い いでやりました。耳なれないリズムでしたが、。 ん、騎兵隊全体が、月の光の下で泳いでおりました。月から たことがあるような気もしました。しばしば繰り返し、 O とやってきたのかもしれません。わたくしたちの菜園のほうへ、 いう文字が丸い形をつくりました。失われた、まだ失われな左旋回して泳いでまいりました。肉もなく、血も通っていな おも 、まだ失われない、 まだポーランドは失われていない , いようでした。それでも泳いでまいりました。組み立てた玩 ちゃ しかし、それはもうあの可哀そうなヴィクトルの声になって具にも似て、幽霊みたいに近づいてきました。ひょっとした ひも 彼はマツェラート氏の太鼓に合わせて歌詞を歌うら、マツェラート氏の看護人が紐を結んで作るあの作品に比 ことができたのです。まだポーランドは失われていない、わ較しうるかもしれません。ポーランド騎兵隊が結ばれたので れらが生きているかぎりは。そしてあの緑帽たちにも、このす。音もなく、しかも蹄を轟かせて、肉もなく血もなく、し 丿ズムはお馴染みのもののようでした。その証拠に、彼らは かもポーランド流に奔放に、わたくしたちを目がけてくるの 月光に浮き出た手中の鉄片の背後で、身体をこわばらせたのです。わたくしたちは思わず地に伏して、月とポーランド騎 です。マツェラート氏と可哀そうなヴィクトルが、わたくし兵隊の進撃を耐え忍びました。わたくしの母の菜園の上にも、 の母の菜園の上に響き渡らせたあのマーチが、ポーランド騎他のすべての入念に手入れしてある菜園の上にも、彼らは襲 兵隊を出現させたからです。月の後援のたまものかもしれま来しました。しかしどの菜園も荒らしたりはせず、ただ可哀 せん。太鼓と月と近眼のヴィクトルの破れ声がい っしょになそうなヴィクトルと、それからついでに二人の刑吏をも連行 やり
主要登場人物 グスタフ・フォン・アシェンバハ ィアで見かけた美少年のために自己の尊厳を失う。ヤシュー 五十歳にして貴族に列せられた、一国を代表すタジオ ポーランド・八らし い、がっしりした若者。タジ かんべき る模範的作家。強固な倫理的性格をそなえた人物 ポーランド人の完璧な美少年。その神のようなオの第一の家来で友人。 であるが、内面に空洞をかかえていて、ヴェネッ美しさでアシェン・ハハをとりこにする。 ジ少姉姉姉 魂を奪われる 家庭教師 アシェンバハ
もすでにまた痒くなり、稲むらのあるあたりでー、ーこれも一死傷者数を引用し、いわゆるポーランド戦役を、まったく無 幅の絵になる , ーー馬を巡らし、スペインでドンキホーテと呼味乾燥に思いださせる統計をここにだすならば、このことは ばれる騎士のうしろに集合する、しかし彼は。ハンキホートとおそらくもっと正しいであろう。しかし要求に応じて、ばく いう名の悲しく高貴な姿をした生粋のポーランド人で、彼にはここに * 印をつけ、脚注を用意し、詩は詩でそのままにし 従う槍騎兵全員の手に馬上からキスを与える、そこで彼らはておくことも許されよう。 九月二十日ごろまで、ばくは病院のヘ ・ツドに ~ 授ながら、イ 今や繰り返し死の手にーー・まるで貴婦人の手であるかのよう ェシュケンタールとオリーヴァの森の高みに砲列を敷いた砲 にーーー優雅にキスを与える。しかし彼らはその前に集合を終 というのは雰囲気が彼らの予兵隊の砲声を聞いた。それから最後の抵抗の拠点であったへ っている、タ焼けを背にし ノザ同盟のダンツイヒ自由市は、その 備軍の役をしてくれるのだ 前方にはドイツの戦車がいる、ラ半島が降服した。ハ、 ボーレンとハレヾツ、 煉瓦のゴシックと大ドイツ帝国との併合を祝うことができ、 ノのクルップエ場の種馬場から生まれた おすうま 牡馬がいる、もっと高貴なものに乗る人はけっしていなかつあの疲れることなく黒のメルセデスに立って、ほとんど間断 あいさっ た。しかし半分スペインで半分ポーランドの、柄にもなく死なく腕を直角にあげて挨拶する帝国宰相アドルフ・ヒトラー を思いつめたあの騎士はーーー天賦の才に恵まれたバンキホー 総統のあの青い眼を喚声をあげながら見ることができた。そ ト、あまりに恵まれすぎているーーー白と赤の小旗のついた槍の眼はヤン・プロンスキーの青い眼と一つの成功、つまり女 に対する成功を共有していた。 を構え、手にキスをするよう勧め、そして、タ焼けが屋根の くちばし 上の白と赤のこうのとりのようにかちかち嘴を鳴らし、桜十月のなかばごろにオスカルは市立病院から解放された。 桃が種子を吐きだしていると叫ぶ、彼は騎兵隊に向って叫ぶ、看護婦たちと別れることはばくにはつらかった。一人の看護 「諸君、高貴な馬上のポーランド人よ、あれは鋼鉄の戦車で婦がーー彼女はベルニかエルニという名前だったと思う はない、あれは風車にすぎない、羊にすぎない、手にキスすそのエルニかべルニ看護婦がばくの二つの太鼓、つまり、ば 鼓 るよう諸君に勧める ! 」 くを罪人にした壊れた太鼓と、ポーランド郵便局を防衛する の わきばら キ かくして騎兵中隊は灰緑色の鋼鉄の脇腹に向って馬を駆り、あいだにばくが手に入れた無傷の太鼓をわたしてくれたとき、 ばくは、この数週間太鼓のことを考えていなかった、ばくに タ焼けにもっと赤味がかった輝きを与えたーーオスカルが、 刀このように脚韻をふみ、同様に、 この野戦を詩的に描写するとってこの世はプリキの太鼓以外にまだ看護婦というものが のを許してもらえるだろう。もしばくがポーランド騎兵隊の存在していた、ということを意識した。
伯父の名前が出たのをしおに、マルクスはさっと立ちあがの店を探して、ある九月の日と一つ一つの姿を模写するとき、 り、まるで飛び出しナイフみたいにビンと背筋を伸ばして言彼はまた同時に、。、 ホーランド人の国も探さなければならない った、「マルクスを許してくだせえ、あの男のためにだめだのだ。なにを手がかりに ? 彼は太鼓の撥で探す。彼はポー ス ろうってことは、すぐに考えたことだ」 ランド人の国を、また彼の魂で探すのか ? すべての器官を ばくたちが兵器廠通りの店を出たとき、まだ閉店の時間で働かせて彼は探す、しかし魂は器官ではない。 もないというのに、玩具屋は外から店を閉め、五番線の停留 そしてばくは、失われてしまいまだ失われていないポーラ 所へばくたちを送ってきた。市立劇場の正面にはまだ通行人ンド人の国を探す。はかの人たちは言う、おおかた失われた、 こわ と数人の警官が立っていた。だがばくは恐くはなかった、・ 力すでに失われた、ふたたび失われた。この国でひとはポーラ らしんぎ ラスに対するばくの成功のことなんか、ほとんどもう気にし ンド人の国をふたたび、クレジットで、ライカで、羅針儀で、 ていなかった。マルクスはばくの上に身体をかがめて、ばく レーダーで、魔法の杖で、使節で、ヒューマニズムで、野党 ) き、や いー ) 、よ、つ たちによりも自分に聞かせるようにこう囁いた、「この子に 党首で、防虫剤を入れてしまっておいた県人会の衣裳で探し はなにができないんだろうね、オスカル。太鼓は叩く、劇場ている。この国でひとはポーランド人の国を魂で探している ふくしゅこっ の前で騒ぎは起こす」 なかばショパンで、なかば心の中の復讐でーー・ポーラン ガラスの破片を見て不安になり始めた母を、彼は手を動か トの第一次から第四次までの分割を非難し、第五次分割を計 してなだめた。そして電車がきて、ばくたちが連結車に足を画している、フランス航空でワルシャワに飛び、かってゲッ あわ かけたとき、彼はもう一度、たまたま耳にする人があるのをトーのあった場所で憐れみながら花輪を捧げる、そしてここ 恐れるように低い声で懇願した、「どうか、あんたが手に入 からポーランド人の国をロケットで探すだろう。その間にば れたマツェラートの所にすっといなせえ、もうポーランドに くはポーランドを太鼓で探し、そしてこう太鼓を叩く、失わ は賭けないでくだせえ」 れた、まだ失われない、すでにふたたび失われた、だれのた オスカルが今日、鉄製のべッ に寝たり起きたりして、どめに失われた、おおかた失われた、すでに失われた、ボラ んな姿勢でも太鼓を叩きながら、兵器廠通り、シュトック塔 ンドは失われた、すべては失われた、まだポーランドは失わ と。 の牢屋の壁に書かれた下手な字、シュトック塔それ自体、油れていない、 をさした拷問器具、市立劇場の列柱のかげの三つのロビーの 窓、そしてふたたび兵器廠通りとジーギスムント・マルクス っえ
定の間隔をおいて彼は大声で恥も外聞もなく叫んだ、彼は腹階にたどりついたとき、ばくの予感が的中したことを知った、 を射抜かれていたのである。 つまり、負傷者を、あの窓のない、それゆえに安全な、郵便 オスカルがもう一度、彼の探す人物をなんとか見つけよう発送用の倉庫に運びこんだのである。そもそもあの部屋は、 ス ラ として、砂袋のかげに並んだ男たちを検閲しようとしたとき、 ばくが自分のために予約しておいたものなのに。それに彼ら りゅうだん たまたま二発の榴弾が、 ほとんど同時に正面玄関の上と横は、あの部屋にはマットレスがなかったから、郵便籠が、少 で炸裂し、窓口の並んだホールをゆるがせた。玄関の前に引 矢しが、負傷者のための柔らかいマットレス代りになると きすってきておかれた戸棚は飛びあがり、綴じられた書類の考えた。ばくは、配達不能の郵便物でいつばいの車付き洗濯 籠の一つにばくの太鼓を下宿させたことを後悔した。この引 束をばらばらにした。そして書類の束はほんとうに舞いあが り、正規の拠り所を失い、タイル張りの床の上に着陸し、滑き裂かれ、穴の開いた配達人と窓口係の血が十も二十も重ね 走しながら、実用的な簿記という意味では、けっして互いに られた紙の束を通って滲みこみ、これまで色といえばニスを 知り合いになることを許されなかった伝票と触れ合い、それ塗られることしか知らぬばくの。フリキに色をつけはしない。こ ) ) 、つま を蔽った。、 残りの窓ガラスが飛び散り、大きい格間や小さい ろうか ? ばくの太鼓はポーランドの血といかなる係わり合 いがあったのか , 彼らは彼らの書類と吸い取り紙をその液 格間の装飾が壁や天井から落ちたことはいうまでもない。さ せつこう つば らに一人の負傷者が石膏と石灰の雲の中を通って部屋の中央体で色づければいいのだ ! 彼らはそのインク壺から青を流 に引きずられて行った。しかしそのとき鉄兜のミション博士して、その後に赤を入れればいいのだ ! 彼らは自分のハン のり から命令がくだって、人びとは階段を二階へ昇って行った。 カチや糊のきいた白いワイシャツを半分赤く染めてポーラン オスカルも一段一段あえぎながら昇って行く郵便局員とい ド国旗にすればいいのだ ! つまり問題はポーランドなので っしょに、男たちの後を追った。彼を呼びもどす人ま、よゝ 。しオカあって、ばくの太鼓と関係はないのだ ! ポーランドが負け ったし、質問する人もいなかった。あるいはついさきほどミて白と赤を失うことが彼らにとってたとえ重大であっても、 ションはばくを殴る必要があると思ったのだろうが、今度は ばくの太鼓も、塗りたての色のために怪しいものと思われて、 無骨な男の手で平手打ちを食わせる人もいなかった。もっと同じように消えて行かねばならなかったのか ? オし、たいせつなのはばく ポーランドなど知ったことじゃよ、 もオスカルは、郵便局を防衛する大人の股のあいだに入らな のゆがんだプリキなのだ、という考えがしだいにばくの心の いように苦労はしたのである。 ばくはゆっくりと階段を昇って行く男たちの後について二中に定着した。ャンがばくを郵便局におびき入れたのは、そ また
につくまでは、なんの邪魔も入らなかった。オリーヴァの女チザンくずれやポーランド青年団が出没して、野原の真ん中 性二人と数人の子供たちとラングフールの初老の紳士が、ツで、列車を再三にわたって止めたからである。若者たちは車 オポトを通過するまで泣いていたという。一方、尼僧たちは輛の引き戸をあけて新鮮な空気を少々中へ入れ、その代りに、 濁った空気と旅行荷物の一部を車外へ持ちだした。若者たち お祈りに没頭していたということだ。 がマツェラート氏の車輛を占拠するたびごとに、四人の尼僧 グディニアで列車は五時間停車した。六人の子供をつれた しやりよう たちは立ちあがり、僧衣に吊している十字架を高くかかげた 女二人がこの車輛に割り当てられてきた。社会民主党員は この四つの十字架はこの若者たちに大いに感銘を与えた。彼 これに抗議したとのことだ。彼は病気であり、戦前からの社 らは旅行者のリュックサックやトランクを線路の上に投げだ 会民主党員として、特別待遇を要求したのである。しかし、 この輸送の指揮をしていたポーランド将校は、社会民主党員す前に十字を切った。 社会民主党員は、若者たちに一枚の紙を差出した。それは、 が席を空けようとしないのをみると、これに平手打ちをくわ りゅうちょう まだダンツイヒまたはグダニスクにいるとき、ポーランド当 せた。そして、きわめて流暢なドイツ語で言いきかせた、 っこうに知局からもらったもので、彼が三一年から三七年まで、社会民 自分は社会民主党員なるものがなんであるか、い こ滞在させら主党の納税党員だったことを証明した紙片であった。しかし、 らぬ。自分は戦時中、ドイツのいろいろな場所レ、 若者たちは十字を切らないで、彼の手からその紙片をひった れたが、 そのあいだ、「社会民主党員」などという言葉は一 AJO くり、彼の二つのトランクと彼の妻のリュックサックを奪っ 胃病もちの社会民主党員 度も耳にしたことがない、 た。そればかりか社会民主党員が下に敷いて寝ていたあの上 はもはやそのポーランド将校に、ドイツ社会民主党の意義と ーまでも、新鮮なポンメルン 本質と歴史を説明するまでに至らなかった、その将校は車輛品な大きな市松模様の冬オー の空気の中へ運びだしてしまった。 を出て戸を閉じ、外から錠をおろしてしまったからである。 わら すわ しかし、オスカル・マツェラート氏の主張によれば少なく わたしは書くのを忘れていたが、みんな藁の上に坐るか、 太 とも氏は、この若者たちから規律正しくて好ましいという印 寝るかしていたのである。列車が午後おそく発車したとき、 の キ 数人の女たちが叫んだ、「わたしたち、またダンツイヒのほ象を受けた由である。氏はこれを若者たちのリーダーの影響 し . し、したった。列車にあるとしている。このリーダーは弱冠十六歳ながら、すで うへもどって行くわ」しかし、これま思、違 にひとかどの人物であった、この人物に接してマツェラート は入れ換えをしただけで、それからまた西方のシュトルプへ ちりはら・ 氏は、悲喜こもごもの思いで塵払い団の頭領であった、あの 向って走りだした。シュトルプまで四日間もかかったノ丿 つる
ように要求した。男女共用海水浴場のたくさんの眼に、あま母は同じようにこんな毛皮のケープを、午後だけでも借りた ぶりよう あらわ かったのだろう。ポーランド貴族の無聊は今や極限に達した りに露な姿をさらしたくなかったから、ばくはおちんこを太 はらば 鼓で隠し、後で砂浜に出たときは腹這いになり、誘いかけてので、借りが大きくなるにもかかわらず、もはやフランス語 スノビズム くるバルト海の水なんかには入ろうとせす、砂の中に恥ずかをしゃべらず、まったくの紳士気どりまるだしで、もっとも だちょう しさを蔵って、もつばら追われた駝鳥みたいに眼つぶり政策普通のポーランド語をしゃべっているのだと、ヤンは主張し を取ろうと思った。マツェラートもャン・。フロンスキーもそた。 こつけい これ以上「ひとで」に腰をおちつけ、我慢してポーランド ろそろ腹が出始めていて、滑稽で、ほとんど気の毒なほどみ じめに見えたから、その日の午後遅く浴室に行き、みんなが貴族の青いサングラスと菫色の爪を見ていることはできなか った。ケーキで腹がいつばいになった母は、少し動きましょ 日焼けした皮膚にクリームを塗り、ニヴェア油を塗ってふた うと一一 = ロった。ばくたちは温泉公園に行き、ばくはロバに乗り、 たび日曜日の背広に着がえたとき、ばくは愉央でならなかっ もう一度写真を撮られるためにじっとしていなければならな 「ひとで」でのコーヒーとお菓子。母は五層のケーキを三分かった。金魚と白鳥ーー・ーなぜ自然はほかのものを思いっかな いのだろうーーーそしてふたたび、淡水を価値あるものにする の一注文しようとした。マツェラートは反対し、ヤンは賛成 でも反対でもなかった。母は注文し、マツェラートにひとか金魚と白鳥。 けら与え、ヤンには食べさせてやり、二人の男を満足させて人が一一 = ロうように別に囁きもしなかったきれいに刈られた水 松のあいだで、ばくたちはフォルメラ兄弟に出会った。カジ から、甘すぎるケーキをひとさじひとさじ胃袋の中に押しこ ノの照明技師フォルメラ、森のオペラの照明をやっているフ んだ。 ああ、聖なるクリームよ、おまえ、粉砂糖をまぶした晴れォルメラである。弟のフォルメラは最初にいつも、照明と、 鼓から曇りに変る日曜の午後よ ! ポーランドの貴族たちが青う職業柄耳にする冗談をなんでもかんでも言わすにはいられ 太 いサングラスをかけ、濃いレモン水を前に坐っていたが、そない男だった。兄のフォルメラはその冗談を知っていたが、 すみれいろ れに手を触れようともしなかった。婦人たちは菫色の指のそれでも兄弟愛から、それにつられて適当なところで笑った。 爪をもてあそび、海風が、彼女らが夏のあいだときどき借り笑うと、三本しかはめていない弟よりも一本多い金歯が露に むしょ だす毛皮のケープの虫除けの匂いをばくたちのほうへ送ってなった。みんなはシュプリンガーのところへジンを飲みに行 った。母はクーアフュルストのほうが好きだった。それから、 よこした。マツェラートにはそれが仰々しいことに思われた。 つめ にお