ラインゴルト - みる会図書館


検索対象: 集英社ギャラリー「世界の文学」12 -ドイツ3・中欧・東欧・イタリア
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1. 集英社ギャラリー「世界の文学」12 -ドイツ3・中欧・東欧・イタリア

モラヴィア 938 情とを、どうしたら取り返せるかと悩んでいようなど、誰も考えているらしく、何かコーヒーか、リキュールでも取らな 田 5 いはしまま、 しかと聞いた。。 とうやら、出費のかかる接待を嫌々引き受け それまでうとうととしていて、そこではっとした。さっとさせられたけちん坊のように、ロ数が少なく、うかぬ様子で 飛び上がって、第一段階の計画を実行に移そうと、決心した。ある。もっとも本当の理由は、来なければと思っていること ラインゴルトのところへ出掛け、「よく考えて」の末に、結 は、察しがつく。そこで、結構ですと断わって、ふた言三言 局シナリオの話に協力できない。そう伝えることだ。この決儀礼的なことばを言って、早速本題に移った。 、いは、まるで希水をバケツでかぶったように、効果的だった。 「ばくがこんなに早く戻ってきたので、さそ驚かれたでしょ 眠気が吹っ飛んで、立ち上がり、別荘を出た。 明日オで う。考える時間はまる一日あったわけですが : こみち 半時間の後に、島めぐりの径をすたすた歩いて、ホテルの待っても無駄なような気がして : もっともよくよく亠方え す ロビーに入った。来意を告げて、椅子に腰をかけた。幾分神てのことです : : 。結珊をお伝えしょ , っと田 5 って」 経が昂ぶった熱つばい感じはあったが、いつになく頭が冴え 「ではどんな結論ですか ? 」 ているように思えた。しかもこれからやることが頭にちらっ 「今度の仕事、協力できません : : : 。要するに仕事を降りま うれ いて、嬉しくてたまらない。その嬉しさで余裕もでき、やれす」 やれ正しい道を歩きだしたと思う。ラインゴルトがロビーに ラインゴルトは、そんな私の一 = ロ明にも、さほど驚く気配を 姿を見せたのは、それから四、五分してで、彼はこんな時間見せない。明らかに返事を予想していたのであろう。でも、 の訪問で、何か不吉な知らせかと心配してか、意外なといっ 心の動揺は隠せないで、途端にロぶりが変わった。「モルテ ちんうつ たず た沈鬱な表情で姿を見せた。私は丁重に訊ねた。 ーニ君、二人っきりでとことん話し合ってみよう」 「ラインゴルトさん、お昼寝ではありませんか ? ・ :. 起 ~ こし 「でも、もう済んだことだと思うんです。今度の『オデュセ てしまいました」 ィア』のシナリオ、お引き受けできません」 「いや、いや」はっきり打ち消して、「寝てはいませんよ。 「だったら、理由を話してもらえませんか ? 」 私は昼寝をしないから : さあ、モルテーニ君、こちらへ 「内容の解釈が、あなたと意見が合わないんです」 、らっしゃい迎 ( ~ 余宀至にでも ( 打きましょ , つ」 「というと」それから意外なことを、ばつんと言った「君は 彼について、喫茶室に行った。時間のせいかがらんとして バッティスタと同意見なんだね」 いる。彼の方は、先ほど言い出した論議を先送りにしようと 思いがけない批判し こ、こちらも腹を立てた。ラインゴルト だれ

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モラヴィア 910 「説明して下さい」 「かりにおれが夫婦関係を扱う映画を作りたければ、現代小 す バッティスタはいくらか気を取り直して、また煙草を喫い、説を取り上げるね。ローマに腰を落ち着けて、パ リオーニ界 しゃべ ローマの高 喋り始めた。 ) の、べッドルームかリビングルームで撮影に入 級住宅街 「では君は、おれのオフィスで初めてラインゴルトと会ったるさ : わざわざホメロスの『オデュセイア』を煩わせる 時のことを覚えているかね : あのとき君は自分がス。ヘクまでもない。モルテーニ君どうかね、分かってくれたか タクル映画に向かないと、いった。そうじゃなかったかね ? 」ね ? 」 「そうかも知れません」 「ええ、分かりました」 「あの時ラインゴルトは君の気を引こうと、どんなことをい 「おれはね、夫婦間のことなど興味がない。分かったね、モ ったかね」 ルテーニ ? ・『オデュセイア』は、故郷イタケーに帰る おば たん 「よく憶えていません」 道すがらの、オデュセウスの冒険譚なんだ。おれはそんなオ 「じゃあ、わしが記憶を甦らせてやろう。ラインゴルトはデュセウスの冒険映画が作りたい。 ・誤解のないようにい 心酉するな、と、つこ しオ : : : 。彼は心理映画を : : : オデュセウ っておくが、モルテーニ、俺はスペクタクル映画を望んでい スとベネロペイアとの夫婦関係の映画を製作するねらいだつるんだ。スペクタクル映画だ。いいかね、モル てな : ・ そうじゃなかったかな ? 」 あいづち もう一度びつくりした。これほど粗暴な風貌でありながら、 「ええ、心配は要りません」多少うんざりして相槌を打った。 外観より遙かに繊細な男である。 「スペクタクル映画が、できあがりますよ」 「ええ、何かそんな話、聞いたような気がします」と、うな バッティスタは、煙草を投げ捨てると、ふだんの声に戻っ すいた。 てだめを押すように言った。 「ところでだ。幸い台本はまだ手がつけられていない。ほか 「いや心配はしていない ともかく、おれが金を出してるん のこともまだ何も動いていない この際だから正直に話してだから : モルテーニ、おれがこんなことをいうのも、 おいた方がいいと思うが、おれの思う『オデュセイア』はオ先々不愉央な誤解を生まないためだ : 君たちは明朝から デュセウスとベネロペイアの夫婦関係じゃない」 仕事にかかるわけだから、君たちのためにも、このことをあ 私は黙っていた。バッティスタはひと息入れてから、ロをらかじめ話しておきたかった。モルテーニ、おれは君を信頼 しているし、 いうなれば、ラインゴルトに対するおれのスポ はる よみがえ ふつば、つ わい

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933 侮蔑 。バッティスタには、何も話すことはない。朝出発まぎわ なかったからだ : じじっエミリアの尊敬を取り戻すためう もっと簡単にすむは 、簡単な手紙を書いて置いておこう。理由は、自分とライ なら、自殺する必要などまったくない。 とうしたらいいか、それはラインゴルトが教えてくれンゴルトの意見が合わなかったこととでもしておこう。それ すだ。。 うそ ている オデュセウスは、ベネロペイアの愛を取り返すも嘘ではない。彼は察しのいい男だから、きっと分かるはず だし、それに彼とは、二度と会うこともない〉 ために、婚約者を殺したという。理屈から言えば、自分はバ いっか元の間道に出ていた。も しかし、われわ考え考えしているうちに、 ッティスタを殺害しなければならない : ひとけ う別荘の真下を過ぎて、今朝出がけに見た人気のない入江に れが生きる現代は、『オデュセイア』のような、暴力的で絶 とするとおれは、シナリオの仕事向かって、崩れやすい砂利道を駆け降りた。浜辺に着くと息 対的な時代ではない : を投げ出しラインゴルトとの関係を断ち、明日の朝ローマへがはずんでいた。ひと息しようと岩の上に立って、周囲を見 エミリアが、シナリオの仕事をやめるなと勧め渡した。狭い砂利の浜である。たった今山からころげ落ちた 発てばいし たのは、じつはおれを軽蔑し、おれらしい振る舞いに、軽蔑ような巨岩に、周囲はすっかり取り巻かれている。その入江 の裏づけを見ようとしたのではないか ? それなら、彼女のを閉じ込めるように、岬の二つの岩塊が、蒼い海面に屹立し まン ) 助言に耳を貸さず、ラインゴルトのいうオデュセウス的行動ている。澄んだ水面に、陽光が射しこんで、水底の真砂を明 るく浮き立たせている。ふと私の視線は、黒い岩の上に留ま に走るべきだった ! 〉 しんしよく かんべき ようやく完璧になった。そこまで、自分の状況をとことんった。浸蝕されて裂け目のできた岩は、半分ほどが砂と海 に埋もれている。岩陰に回って、かなり強くなった日射しを 希酷に、真剣に追求してきた。もはや、ラインゴルトの「よ 避けて、ごろんとしようかと、そんなことを思った。。こ く考えてみる」必要もない。今はすっきりした気分だった。 すぐ引き返して、不退転の決意を、監督に伝えようかと思っろに回ってみると、砂浜に女性がまる裸で仰向けになってい た。エミリアだった。 た。でもその後で〈これ以上「考えてみる」必要がないのな 正直いって、その女がエミリアだと、すぐ分かったわけで ら、何も慌てて物事を解決することはない。逆上していたよ むぎわらばう 大きな麦藁帽で顔が隠れていた。見も知らぬ水浴の うに、妙な誤解を招くのは困る〉内心そう思い返す。〈すっ もと かり気持ちが落ち着いてから、午後にでもラインゴルトの許女性を前にしてとっさに引き返そうとした。だが何げなく、 に出向き、決意を明らかにしよう。やはり平静な気持ちで、砂利の上に伸びた女の腕から手へと、視線が移ったとき、女 リング 帰宅後に妻にスーツケースの帰り支度でも始めるようにいおの人差し指の指輪に目がいった。オパールと金とでできた小 あお

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かなりわれわれとは違のは、おれはホメロスの『オデュセイア』になるべく近い映 おきたいと思ったのは、あいつには、 ところで、ホメロスは『オ う印象をもっからだ。モルテーニ、おれは君を信頼している。画を製作したいと思ってる : た 。彼はね、読者を もっとも、生憎おれは出発を急がねばならないが。で、発っデュセイア』で、何を語ろうとしたか : 絶えずはらはらさせる冒険物語を語ろうとしたのだ : まえに二つ三つ頼みがある」 わゆる『スペクタクル物』だ。ホメロスのねらいは、そこに 「何なりと」私は冷淡に言った。 あった。だから、君らはホメロスに忠実であって欲しい 「ラインゴルトについては、われわれが映画論を交わしてい あらし る間、彼がおれの意見に同調したり無視したりする、そんなホメロスは『オデュセイア』に、巨人、奇跡、嵐、魔女、怪 折りに観察したことがあった : : : 。彼の態度をうのみにする物を登場させた。おれもこの映画のなかに、巨人に奇跡、嵐 モルテとか魔女、怪物などを使ってみたい」 には、おれもあまりに経験を積んでいるからな : 「じゃあ使ってみましよう」私はややあっけにとられて、答 ーニ、君たち文化人は誰もが皆、おれのような製作者を多か れ少なかれ実業家と見ている、それだけの者だと考えている。えた。 「そ , っ使ってみましょ , っ ? 使ってみオ ( しょ , つか ! 」と、こ モルテーニ、君もそう思っている まあ隠さなくたっていし ゝ、ヾッティスタはいきり立って喚いた じっさいそのとのほカ / だろうし、ラインゴルトはむろんそうだ : 「君は恐らくおれを馬鹿にしているんだろう ? モルテーニ、 例によってラインゴ 見方は、ある意味では当っている : 、おれは馬鹿じゃないんだ」彼は声を荒げて、私を睨ん ルトは、何かにつけて消極的態度に立って、おれを眠らせて めぎと おれも目敏い男でね。だ。その剣幕にどぎもをぬかれた。驚きと共に、この日一日 おこうとでも考えるのだろう。だが、、 じゅう、車を走らせ、ナポリからカプリに渡り、カプリ島に モルテーニ君、なかなか目が冴えていてね」 からだ いうんで上陸してからも、私ならばとうぜん身体を休めたいと思うの 「では結局、あなたはラインゴルトを信じないと、 に休息もせず、ラインゴルトの考えを批判してかかるバッテ すね」 あき 。まあイスタの、エネルギーにただ呆れた。私は意気消沈して言っ 「信じているところと、そうでないところがある : 蔑技術者として、専門家としてのあの男は信用している。だが ドイツ人としてのあれを信用しない。われわれとは世「でもどうして、ばくが馬鹿にしてるなんて、考えるのです そこでだ」煙草を灰皿か ? 」 界を異にする人間ということだ : 「モルテーニ、君たち二人の、その態度だよ」 に置き、まじまじと私の顔を見つめて、「今はっきりしたい あいにく わめ

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返ってきた。 屈託のない声で彼は答えた。 、つ力し 「外向的ですね : : : 。外向的。モルテーニ、君は地中海民族「わしらは道を迂回してたんだ : 。現在わしが別荘を建て らしく外向型の人間で、内向的な物の見方ができないようだ。ているローマ近郊の土地を、夫人にご案内しようと思って ア しやだんき もちろん悪いことではないが、しかし : 。わたしは内向型 それに二度ほど踏切りで遮断機に出くわして」 で、君は外向型・ : だからこそ、私は君に目をつけたわけ それからラインゴルトを見て聞いた。 モ だ。内向的生格の私と外向的陸格の君とが、うまくバランス 「順調に行ったかね、ラインゴルト ? 『オデュセイア』の を保ってやっていこうと考えた : 。きっとわれわれの協力話題は出たかね ? 」 関係は、びつくりするほど , つまくいくと思いますよ」 「ええ順調ですが」木綿の帽子の庇が影になって、その奥か 私は危うく反論しかけていた。その身勝手な鈍感さにまたら電文の朗読のようなラインゴルトの声が答えた。バッティ はんばっ もやいらいらしてきたが、反撥すればもう一度この男を怒らスタの到着で明らかに迷惑している気配だ。まだ私との議論 せるのではと思う。その時である。とっぜん背後で、ひどくをきっと続けたかったのだろう。 はっきりした声が聞こえた。 「挈、り - や しい」うち解けた様子で、バッティスタは私たち二 「ラインゴルトにモルテーニ、 : 君たちそこで何をしてる人と腕を組み、並んで歩いて、やや向こうのエミリアがいた のかね。浜辺の涼みかな ? 」 砂丘の方へ連れ立って行く。 こび 振り向くと、朝の強い日射しに縁取られて、小高い砂丘に 「さてさて」鼻もちならない女性への媚でこう言い足した。 二つの人影があった。バッティスタとエミリアである。彼は、 「若奥さん、あなたからお決め頂きましようか : : : 。食事は 挨拶代わりに手を振り、急ぎ足でこちらに降りてきた。エミナポリにしますか、フォルミアにしますか ? ・ : ご自由にお リアは俯き加減に、ゆっくりと後を従いてくる。どこから見選び下さい」 てもバッティスタの態度には、平素よりも一段と自信と快活 エミリアはびくっとして、「あなた方でお決めになって さが溢れている。一方エミリアの方は、不満と困惑、 ししを ^. わたくしのことだったら、どちらでも構いません」 れぬ嫌気が漂う。 「おや何をおっしやる ? こうしたことは女性に決めて頂か 意外に思って、即座に声をかけた。 ねば」 「あなたの方がもうすっと先に行ったと思っていました : 「じゃあナポリで取りましよう。ムフは頂きたくないんです」 フォルミア辺か、もっと先かって」 「それがいし ナポリは : トマトスープの魚料理 : うつむ っ ひさし

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939 侮蔑 しゃべ に同調したことが、そのままバッティスタと同じ意見になる喋れというので、ばくもいわせてもらいます。ホメロスの 原作には、大いに魅力を感じますが、あなたのホメロスには、 などとは、夢にも思わなかった。 むかっきます」 「バッティスタがどうして関系するんです ? ばくは、バッ でも 皮ま、今度は本気で怒り出した。 「モルテーニ ! 」彳。 ティスタ氏とだって、全然意見は合わないんです : 「そうです。むかむかするんです ! 」私も負けすに言い続け 率直にいわせてもらえば、ラインゴルトさん、お二人のどち た。「あなたの考えではホメロスの英雄がちつばけなつまら らか一人に決めろといわれれば、バッティスタの意見に味方 し、ます - よ : ない者になっている。作者が創ったとおりに再現することは、 ラインゴルトさんには済まないのですが、ば わいしよう くとしては、ホメロス作の『オデュセイア』を作らせて頂くわたしたちにできないとかいって。そうした組織的な矮 化の作業がむかっくんです。どうあってもばくは協力できま か、あるいはまったく手をつけないか、二者択一しかありま せん」 せん」 「モルテーニ、ちょっと待てよ : 「総天然色の仮装舞踏会だね。ヌードにキングコング、スト 「あなた、ジェームス・ジョイスの『ュリシーズ』読みまし リップダンス、。フラジャー ポール紙のモンスター、それと たか ? 」相手の言葉を憤然と遮って、「ジョイスご存知でし ミニチュアのセットか ? 」 「とんでもない。そんなこといいやしません。ホメロスの原ようね」 「『オデュセイア』関係のものなら、ひととおり読んでるさ」 作です」 「だがね、ホメロスの原作なら、わたしのがそうだよ」彼はひどく気に障ったのがロぶりに出る。「だが、君は : 「それならいいんです」私は憤りにまかせて話を止めない そこで身を乗り出して自信たつぶりに言った。「モルテーニ 「ジョイスだって、『オデュセイア』を近代的に解釈しました 君、わたしのがそれさ」 。だが、彼の近代化の作業は、つまりですね、低俗化、 急にこの男を馬鹿にしてやりたい衝動 理由はなかったが、 ばうとく に駆られた。彼の取ってつけた愛想笑い、権威主義の石頭、矮小化、冒漬化の作業は、ラインゴルトさん、あなたのより 彼によれば、オデュセウ もかなり先を行っていますよ : 心理分析しかない血のめぐりの悪さ、それがもうどうにもな スは妻に浮気された夫で、オナニーの常習者、ぐうたら者、 らない。かっとなって一言った。 アイオロスは新聞 しいや、ラインゴルトさん、ホメロスの「オデュセイア』夢想家、無能力者になってしまった : めいかし あなたがむりにでも編集者になり、冥界の下降を、飲み友達の葬式にしてしまっ は、あなたのいうのとは違います : さえぎ

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陽気に派手な笑いを浮かべて、ラインゴルトは結びのこと たと ばをいった。私をベネロペイアに喩えたことで、己れの機知 ひゅ に脱に入っていた。私ときたら、この比喩が無性にたまらな あお ラインゴルトとは一時間しか居なかった。その間すっと 怒りのあまり顔が蒼くなっていた。音声も変化していた。 「あなたのおっしやる文明とは、妻にい、 し寄る奴に、夫が寛『オデュセイア』の議論が続いていたわけだ。それで、彼の , っところ 容な態度を示すことであるのなら、お説のとおり、ばくも末説を受け入れるか否か、その結論をどう出すか、い の「よく考える」のに、まる一日の時間の余裕があった。本 開人ですよ」 当のことを一一一一口うと、ホテルを出てから頭に浮かんだのは、ラ このことばにも彼は顔色ひとっ変えない 驚いたことに、 「まあ待ちたまえ」と、そう手で制しながら、「モルテーニインゴルトの見解について考えてみることではなかった。 まるでベネロ。ヘイ 意をさつばり捨てて、素晴らしい一日をど , っエン そんな記 君、今朝の君は少しも論理的でない : アだ。じゃあこうしよう。君はこれから海水浴にでも行って、ジョイしようか、そんなことだった。 たま 一方ラインゴルトの解釈には、ただ映画の仕事の枠で収ま よく考えてみ給え。そして明朝、またここに寄って、考えた らない、何かがあった。それが何か、そのときの私にはまだ 結果でも話してくれないか ? それでは、、、 はっきりしなかった。だが自分自身の異常な反応から、うす 私はひどく慌てて答えた。 「ええそうですね : でもばくの意見は、先すとても変わうす感じるところはあった。だからこそどうしても、「よく 考えてみる」必要がある。 らないと思います」 その日の朝出掛けに、ちらっと別荘の真下に静かな入江の 「まあ考えてくれ」と、ラインゴルトは立ち上がって、そう あるのを眺めていた。それを思い出して、その小さな入江に 繰り返しながら手をさし伸べた。 私も立ち上がった。彼は晴ればれした表清で、また付け加行く気になった。あそこだったら、監督の助言のように「よ えた。 く考えてみる」こともできそうだし、いや気分しだいで、何 「よく考えれば、明日にでもなれば、きっとわたしの説に同も考えずばうっとして、海水浴でもすればいし 侮 こうして、いつもの島めぐりの遊歩道を歩いていた。時間 意してくれると思 , つよ」 こみち 「そうは思いません」返事をしてその場を離れた。並木道をが早いせいか、林間の径は人影がまばらだ。静寂のなか、子 かわい 供が数人、石畳みをはだしで、可愛い歓声を上げている。ま 抜けてホテルへ向かった。

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ークスマンになって欲しいんだ。『オデュセイア』は詩情のろう気疲れが予感できるようであった。 心のなかで思う。〈なぜこんなことをやるのか ? こんな ある作品だ。だからこそ、昔も今も人に喜ばれてきている。 その辺りを、君は何かにつけてラインゴルトに印象づけて欲やっかいな苦労をなぜ背負いこんだのか ? 私とラインゴル おれは、こうした詩情が映画に十分に活かされるトの間で、やがて意見の衝突が起こるだろう。それを無視し あるがままにだ」 ても、私とバッティスタとの間にもいずれは、激論や避けら ことを希っているんだ : じじつ、れない妥協が起きるだろう。あるいはまた、本気でもないア 彼がすでに落ち着きを取り戻したのが分かった。、 の ルバイトの仕事に対して、自分の名前が載る嫌な目に遭うこ スペクタクル映画の要望についての話はそこで打ち切り、詩 オ言い換えれば、興行成績という世間的なともあるだろう。そんなものをなぜ ? なぜこうまでするの 情の話題に入っこ。 か ? 〉 底辺を襲撃した後で、芸術と心の大空に舞い戻ったわけだ。 こみち ほんの先ほど、山の径でファラリオーニの奇岩を眺めて、 苦渋の表情を見せていた。 私は微笑を浮かべようとしたが、 ホメロスのあれほど魅力的に思えたカプリ滞在が、今になると、まこと 「バッティスタさん、ご心配は要りません : ポエジーは生かします : まあ少なくともわたしたちが発に煩わしい色彩で、くすんで見えた。できそうもない迷惑な ゅううつ 職務を任された憂鬱さで。私の純文学作家の志望と、まった 見できる詩情はすべて」 く異質なプロデューサーの要望との間で、どうやって妥協点 「そりや結構。大いに結構。じゃあこの話は打ち切ろう」 を見出すのか。 バッティスタは一つ伸びをすると、椅子から立ち上がり、 今さらのように思い知らされるのは、主人は彼で、その使 腕時計を見た。夕食になるので手を洗ってくるととっぜん言 用人が私ということだ。しかも使用人は、どんなことがあっ い残して、部屋を出た。一人私は後レ こ残された。 最初は自分の部屋に入って、食事のために服装でも更えよても、主人に背くことは許されない。主人の横暴を逃れよう , つかと田 5 った。だ こ。 : バッティスタとの議論のせいか、興奮とどれほど悪知恵やらお追従を働かせてみても、そうした手 くら が冷めやらず、ばんやりとしていた。なかば無意識に、広間。 殳ま、全面的な服従と較べて、さらに卑屈なものであろう。 こ、バッティスタから話を聞要するに、契約書にサインした時から私は、悪魔に魂を売っ のあちこちを歩き回った。現実し 侮いても、今度の仕事の難しさが改めて知らされた。ただ物質てしまったのである。すべての悪魔がそうであるように、 やっ 的な利益を考えて、やや軽率に引き受けてしまったのではなの悪魔も、無理難題を持ちかける、せち辛い奴だ。そのうえ、 バッティスタときたら、きつばりと真剣な顔で、 いか ? そして早くも、シナリオ制作の完成後に味わうであ ねが

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モラヴィア 906 えずに言った。 めく海。それがしつくり似合う、時と所を超えた美人の面影 「エミリア、さあ行きなさし 、。バッティスタさんの気持ちもである。けれどその美しさには、どことなく、気の進まぬう ほほ - ス 汲んであげたら ? おっしやるとおりだ」微笑んでこう言い ちしおれた風情がある。 足した。「ラインゴルトさんと一緒では、映画の話題しか出妻の後ろ姿を眺めているうちに、こんな気持ちに見舞われ やしない」 た。〈馬鹿だな。あれはおれと二人きりになりたかったのに、 「まったくだ」と 、バッティスタはしたり顔でうなすいた。おれと話をし、事情を説明し打ち明けようとしていたのに ひじ しいたかったんだ。なのに それから、エミリアの腕を高く肘で抱きかかえて、 恐らくおれを愛していると、 「さあ奥さん。意地悪をしないで、必ず人さまが歩くぐらい おれは、バッティスタとの同乗を無理強いして ! 〉そう思う のスピードで走りますそ」 と痛恨の思いが鋭くこみあげ、慌てて呼び戻そうと手を挙げ その瞬司、 ドしいようのない視線を妻が送ったのに気づいた。 たたがことはあまりにも遅い妻はすでにバッティスタの それからゆっくりと、 車中の人で、バッティスタは隣にいた。しかもラインゴルト 「あなたがそういうのなら」と彼女は言い捨て、いきなりあがこちらの方に近づいてきた。とうとう私も車に乗り込む羽 せつな る決断を下したように、こちらに背を向けると、 目になり、ラインゴルトが隣席についた。その刹男ノ はるかなた 「じゃあ、ご一緒します」 イスタの車がわれわれの車を抜くと、猛スビードで遙か彼方 バッティスタは彼女の腕をじっとっかんで、逃げ出されるに小さく消えて行った。 ゅううつ のでも恐れるかのように、並んで歩き始めた。私は車の横で ラインゴルトは、私の胸中の行き場のない憂鬱を察してい じっと立って、エミリアとバッティスタの遠ざかる後ろ姿を、たようだ。そのせいか、気になっていた『オデュセイア』の もじもじと眺めていた。 論議を蒸し返すこともせず、帽子を目深くかぶって、シート ずんぐりした背の低いバッティスタと並んで、しぶしぶ気 にうすくまって寝こんだ。私は無言で、パワーの劣る小型車 が重そうに妻は歩いている。それでいてその歩き方には、不の、それでもフルスピードで走った。その間に、不機嫌はど あや 思議に肉感的な妖しさが漂う。私の目には、その場の彼女が うにも我慢ができないぐらい、殺気立っていた。ハイウェイ とてもきれいに映った。それは、キンキンした声で物欲しげ はそこでは海岸から遠ざかっていた。日射しを浴び、たわわ にいうバッティスタの、プルジョワ風の「若奥さん」ではなな黄金色の田畑にさしかかっていた。こんな機会でなかった きら 。その後ろ姿を逆光線で浮き彫りにしている明るい空と煌なら、どんなにかその眺めは楽しかったであろう。時折り生

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ニールがアイスキュロスの存在の前で、あまりおどおどし過「でもわたしにはとてもよくできているように見えますが」 よこやり ぎたからだ。彼が、オレステスの神話を精神分析学的に解釈と反撥した。ラインゴルトは私の横槍など耳も貸さぬといし したが、テーマが大きいために できると考えたのは、正し、 たげに続けた。 おくびよう 「われわれはオニールが『オレスティア』で作ろうとねらっ 臆病になって、神話の字義的なやき直しをやってしまった まじめ たもの、あるいはねらって作れなかったもの、それを『オデ 横罫のノートを使って真面目な学生さんが、問題をき 解剖で人体を切り開くのと れいに整理するようなものだ。モルテーニ君、罫紙が透けてユセイア』で製作するのだ : 見えるんだよ」 同様に、中を開いて構造を調べ、分解し、われわれの現代的 彼は自分のオニール評論にいかにも満足げに笑った。はやな要望に従って作りかえるのだ」 さて、ラインゴルトの話の結末はどうなるのか、そう内心 車は海岸からそう遠くないローマの平野部にかかっていた。 きぎ つぶや 茂った樹々が時折り点在する丘は、小麦畑が黄ばんで実ってで呟いてみた。で、出まかせに私はいった。 だれ 「『オデュセイア』の構造は誰でもよく知っているように、 いる。その低い丘を車は縫うように走る。 私の見込みでは、私たちの車はバッティスタからかなり遅一方には家と家族と祖国に対する郷愁があり、他方では、そ もと うした祖国や家があり、また家族の許への速かな帰国を妨害 れている。直線コースでも曲がり角でも、行く手の道路に、 一台の車の影も見えない。恐らくノ 、ヾッティスタは、時速百する幾多の障害があります。その二つのものの矛盾でしよう いつの時代の戦争の捕虜にしても、戦いが終わって、 キロ以上で飛ばしていて、今頃約五十キロ先を走っている頃 何らかの理由で遠い故国を遠く離れて抑留され、やがて帰還 する、そんな兵士なら多少とも小さなオデュセウスでありま ラインゴルトが話題をむし返した。 「もしもオニールがギリシア神話というものを、最新の心理せんか ? 」 ラインゴルトは、クックと鶏の啼き声に似た忍び笑いをし 学の見解に基づいて、現代的にいかに解釈すべきかを、本当 っ ) 0 に理解していたのなら、彼はその内容をあまりにも忠実に尊 モルテーニ君、事 「思ったとおりだ。帰還兵に捕虜か : 蔑重すべきでなく、それを一度投げ出して、切開手術をしてか ら、復元させるべきであった : ところが彼はそれをしな実は大違いだよ。君はね、うわべだけを、現象面だけを見て いる。そうなら 、バッティスタのお望みどおりで、『オデュ かった。彼の『喪服の似合うエレクトラ』はひどく煩わしく セイア』は、本当に活劇調の『超大作』映画になりかねない、 て感情がない : 。学校の宿題でしかない」 ころ はんばっ