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検索対象: 集英社ギャラリー「世界の文学」13 -ロシア1
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1. 集英社ギャラリー「世界の文学」13 -ロシア1

解説 プーシキン さんび いや、プーシキンへのこうした讚美は、ひとり口シア人だ ロシア文学の歴史のなかでのプーシキンの位置は、世界文 ロシア語を母国語として育ったドイツのロシ 学のなかでも、極めて独特なものがある。それは単に偉大なけに限らない 作家・詩人というだけでなく、ロシア文学そのものであるとア文学者エリャスペルグも次のような文章を書いている。 「プーシキンの詩は今日においても百年前と同じく新鮮であ いっても誇張ではないほどの、決定的な役割を演じているか みじん このような新鮮さ り若々しく、微塵も古色をおびていない らである。その秘密はツルゲーネフがいみじくも指摘してい るように、「ほかの国においては、一世紀以上も隔てられてはひとり造形美術にのみ対比すべきものを持っている。例え いた二つの仕事、すなわち、言語を設定し、文学を創造するば、ほかの作品といっしょに画廊にかけられているフェルメ : 」と同時に、エリャスペルグは次 ールの絵を見るように : という二つの仕事が、彼ひとりによって遂行された」ためで 、。「ところが、このプーシキン のような指摘も忘れていなし ある。あるいは、劇作家オストロフスキーの言によれば、 「ロシアの文学はプーシキンひとりのなかで〈まる一世紀分〉も、ロシア語に不案内なヨーロッパ人にとってはひとつのミ ュトスである。だれしもプーシキンがロシア人にとって、ド 成長した」ということなのである。 ィッ人にとってのゲーテよりも、イタリア人にとってのダン さらに、ソ連時代の文芸評論家ルナチャルスキーはこう語 テよりもいっそう重要であることを知り、それゆえに尊敬の っている。「プーシキンはロシアの春であった。プーシキン 念をこめて彼の名を呼びはするものの、その実、古代中国 はロシアの朝であった。プーシキンはロシアのアダムであっ 説た。イタリアでダンテとベトラルカが、フランスで十七世紀や近代インドの古典作家ほどにも彼を知ってはいないのであ 解 の巨匠たちが、ドイツでレッシングとシラーとゲーテがなしる : : : しかし、プーシキンの詩をさいわいにも原文で味わう ことのできるわれわれは、彼がただゴーゴリの書いているよ たそのことを、プーシキンはわれわれのためになしとげてく うに〈ロシア精神の唯一の顕現〉であるのみならす、またロ れたのである」 木村浩

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シアの一歴史家がある記念演説のなかで評したように〈ロシ近な存在となる。いや、プーシキン一代の傑作、ロシア文学 ア文学のビヨートル大帝〉であるのみならす、じつに世界最最高の古典といわれている『エヴゲーニイ・オネーギン』に おそ 大の文豪のひとりとして上記の文豪たちと同列におかれるべしても、いわゆる他の叙事詩とちがい、誤解を怖れすにいえ ン キきことを繰りかえし強調しなくてはならないのである。いや、ば、時に極めて散文にちかいニュアンスで書かれているため もちろん、 このよ , つなことはこれまでもいくらも聞かされているが、プに、 かなり理解しやすいといえるかもしれない シキンは依然としてミュトスである。このミュトスを現実厳密な意味でいえば、。フーシキンの魅力の大きな部分は、た しかに、皮独特のロシア衄の美しさにあることは否定できま に変するには手段はただひとっしかない。ただプーシキンだ これまで繰りかえしロシア人たちによって主張されつづ けを読むために、ロシア語を習うことだ。その労力はじゅう けてきたこの考え方は、決して誤りではないにしても、現実 ぶん酬いられるであろう : いすれにしても、プーシキンがロシアの国民詩人としての的には、逆に外国人にプーシキンを敬遠させてきたともいえ 栄誉を担って以来、ロシア民衆がプーシキンに寄せる熱狂ぶるのである。ロシアの文学に親しむ人びとが、もしプーシキ りは今日もなお少しもさめていない。それにしても、エリャンの文学を敬遠するとしたら、それこそ大きな不幸である。 スペルグも指摘しているように、一九〇年以上も昔に生まれ プーシキンの生い立ち た詩人が、今なおこれほど絶対的な人気を保っていることを、 プーシキン ( アレクサンドル・セルゲーヴィチ ) は、一七 非ロシア人は容易に理解することはできないだろう。なぜな 九九年五月二十六日 ( 新暦六月六日、現在、ソビエトではこ ら、ロシア語を母国語としない人びとにとっては永遠の謎だ からである。 の日を〈詩の日〉と定め、プーシキンの領地ミハイロフスコ 工に全国の詩人たちが集まって盛大な式典が行われている ) 、 だが、時にこのプーシキンをめぐる謎は、外国人にプーシ キン理解をはじめから放棄させてしまう要因にもなりかねなモスクワにおいて退役軍人セルゲイ・リヴォーヴィチと、ナ とら 従って、あまりにそのような先入観に捉われる必要はなデージダ・オーシポヴナとの間に生まれた。プーシキン家は 。むしろ、プーシキンの偉大さは、たとえ一一 = ロ語的な障害が古いロシア貴族の家柄であったが、詩人の父親の時代には昔 あるとはいえ、それを発見しようと努める者には、結局、あ日の面影はなく、彼は一時ペテル。フルグで軍務に服したのち、 る程度まで理解可能と考えるべきではなかろうか。まして散退役して金のかからぬモスクワへ移ったほどである。母親は 文で書かれた作品の場合、他の詩よりも遙かにわれわれに身有名な「ピヨートル大帝の黒人」すなわち、エチオピア人イ はる なぞ

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からも明らカたが、 、、「、その反面、この苦しい心的体験が創作に なきものにしたのは、『猟人日記』である。彼は一八四七年 専念させることになったことも事実であり、外国生活のおか一月、ネクラーソフ編集の「現代人」に「ホーリとカリーヌ げで、ロシアの現実を客観的に眺めるとともに、それをでき イチ」と題する短編を発表して、べリンスキーの激賞を得た。 フ ネるかぎり正しい観点から描くことができるようになったのでこれに自信を得た彼は、精力的に書き進め、一八五一年まで ゲある。 に同誌に二十二編の短編を発表した。一八五二年にこれが ッ 『猟人日記』と題されて、二分冊の単行本として刊行された。 詩から戯曲へ 一八八〇年の版にはさらに三編が書き加えられた。これは短 ツルゲーネフは詩人として文壇に出たが、その後べリンス編小説というよりは、独創的なスケッチというべきもので、 キーによって詩人として進むことを断念させられ、熱心な劇農奴制下のロシアの農民や地主の姿が、つまり人間の価値と 場の常連だったので、劇作に熱中した。彼はしゃれた小劇、尊厳をそなえながら、その身分ゆえにけだものと化した農奴 写実的な喜劇、微妙な心理をあっかった心理劇などを精力的たちと、性根は悪くないのだが、農奴に対する絶対的権力を に書いたが、風俗劇でも性格劇でもなく、時代に先んずる独 もつがゆえに堕落した地主たちの姿が、中部ロシアの果てし 創的なもので、ロシアの舞台に前例がなかったので、チェー なく広がる野原、畑、森、川、沼沢などの美しい自然を背景 ホフの戯曲が成功するまでは、批評家たちはその真価を十分 、理想化や誇張のない、 しすかに抑制された筆で、いささ に理解することができなかった。ツルゲーネフの戯曲は、複 かの同情も嫌悪もあらわさず、誠実に写実的に描写されてい 雑な筋を用いずに、平凡な生活の中の平凡な人々を描いたもる。これまで人間あっかいされていなかった農奴を、心も頭 ので、諷刺を使わすに、 いきいきとした対話を用い、類型でも感情ももっ血のかよった人間として、はじめてロシア文学 はなく個人の微妙な性格描写を駆使した最初のロシアの戯曲に登場させたのである。ツルゲーネフの才能の大きな特質で で、今ではロシア近代劇の先駆者と認められているが、当時ある人生への誠実さと、磨き上げられた美しい音楽的な言葉 の批評家たちは劇に起伏が乏しすぎると非難した。世評に敏と、詩人と画家の目でとらえたすばらしい自然の描写が、こ 感なツルゲーネフは、劇作から散文に重点を移した。 の作品の芸術的価値を高めている。そして農奴制廃止論者の じよじトう 論文としてでなく、詩趣と抒情性の豊かな芸術作品として 描かれただけに、 この書はそれだけ強く社会に衝撃をあたえ た。当時の皇太子、のちのアレクサンドル二世がこの書を読 『猟人日記』 ツルゲーネフの文名を高め、ロシア文壇での地位をゆるぎ

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1131 年譜 後」を発表。 七月末ー八月、ロシアに帰り、ヤースナヤ・ポリャーナにトルスト ・一八七三年 ( 五十五歳 ) イを訪ねる。この一年間『散文詩』を書き進める。 この一年、長編『処女地』の執筆に没頭する。 ・一八七九年 ( 六十一歳 ) ・一八七四年 ( 五十六歳 ) 一月、ペテルプルグで『村の一月』を初演。二月ー三月、ロシアに ききん 三月、飢饉による難民救済のための文集「共同出資」に短編「生き帰る。モスクワとペテルプルグでツルゲーネフの祝賀会が開かれ、 こた たご遺体」を発表。四月、「ヨーロッパ報知」に中編『プーニンと若い世代から熱狂的な歓迎を受け、演説と自作の朗読でこれに応え ハブリン』を発表。ツルゲーネフ、フローベル、、、 コンクール、ゾラ、る。ロシア文学愛好者協会の名誉会員、ペテルプルグ芸術家会議の ドーデの「五人会食会」が始まる。この一年間『処女地』の制作を名誉会員に選ばれる。三月末、 、リに帰る。六月、オックスフォー つづける。 ド大学から法学博士号を贈られ、その式典に出席する。 ・一八七五年 ( 五十七歳 ) ・一八八〇年 ( 六十ニ歳 ) カーレスパード、 この一年をパ プジワールで送る。二月、。ハリ 二月ー七月、ロシアに滞在。三月、文学基金のための集りで短編 こレポレタージ にロシア図書室設立のための文学と音楽のマチネーに、ツルゲーネ「マリーナの泉」を朗読。四月、「ヨーロッパ報知」。丿 , 丿 フ、ウス。ヘンスキー、ポーリ ーヌ・ヴィアルドー夫人らが参加。五ュ『ベルガモンの発掘』を発表。六月、モスクワのプーシキン銅像 月、第二回のマチネーが開かれ、再びヴィアルドー夫人、ビーセム除幕式に参加。・ロシア文学愛好者協会の式典にプーシキンについて スキー等と参加。九月、プジワールの新居に移転。 の演説を行なう。七月、「ヨーロッパ報知」に「プーシキン銅像除 ・一八七六年 ( 五十八歳 ) 幕式典における、ロシア文学愛好者協会公開講演会の演説」を発表。 一月、「ヨーロッパ報知」に短編「時計」を発表。五月ー七月中旬、 ノ八一年 ( 六十三歳 ) ロシアに帰り、スパッスコェで『処女地』を完成。六月、ジョルジ 一月、新聞「秩序」に短編「古い肖像画」を発表。五月、ロシアに ュ・サンドの死を知り、「新時代」に「ジョルジュ・サンドにつし 帰り、八月末までスパッスコ工に滞在。これがスパッスコ工におけ て数言』を発表。 る最後の生活となる。十一月、「ヨーロッパ報知」にフロー・ヘルの ・一八七七年 ( 五十九歳 ) 思い出に捧げた短編「勝ち誇れる恋の歌」を発表。 一月ー二月、「ヨーロッパ報知」に長編『処女地』を連載。四月ー 、八ニ年 ( 六十四歳 ) 五月、「ヨーロツ。、匱 ノ幸知」にフローベル作、ツルゲーネフ訳の『ジ 一月、「ヨーロツ。、 / 報知」に短編「向う見す」を発表。三月、脊椎 ュリアン聖人伝』と『エロディアス』を掲載。フローベル、ドーデ、ガンが発病。九月、中編『クララ・ミリッチ』を脱稿。十二月、 バッサンと交流を強める。 「ヨーロツ。ハ報知」に『散文詩』を発表。 ・一八七八年 ( 六十歳 ) 、八三年 ( 六十四歳 ) 五月、トルストイから和解の手紙を受け、返事を送る。友情復活。一月、「ヨーロッパ報知」に中編『クララ・ミリッチ』を発表。五 せきつい

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1190 AJ1eKcaHÅP C. flY111KHH アレクサントル・ ーシキン 『罪と罰』のラスコーリニコフに発展させられたと説く批評家もいる。 『べールキン物語』 fl()BeCT ミ beJIKHHa 一 834 正式な題名は、『故イワン・。へトロー 「吹雪」を一番はじめにした。初版は一おけるリアリズムが始まった」と称して ヴィチ・べールキンの物語』である。初八 三一年に刊行されたが、このときはプ いるのも当然である。つまり、作者は当 めに「刊行者より」と題する序文があり、 ーシキンの名を伏せており、正式にプー時のロシアのあらゆる階層の人びとの生 < ・とのみ署名した刊行者による原作シキンの作品として発表されたのは三四活を、極めて正確に、 かっ透徹したまな 者・ヘールキンの紹介 ( 知人の手紙の形式年である。全五編から成り、それそれ独ざしで描いており、これは当時の文学と による ) がついている。つまり、作者プ立した作品であり、いすれも短編作家プしては画期的なことであった。作者自身 ーシキンはこの短編集に自分の名を冠す シキンのあざやかな手腕をうかがうに もこの点について大いに自信があったら 「、、ヘールキンがなにものであろう ることなく、あたかも第一二者の創作のよ足る佳品である。特に「駅長」は、娘をしく、 うな体裁をとっている。もちろん、これ青年士官に奪われた一駅長のあわれな姿と、物語はこのように書かなければなら はまぎれもなくプーシキンの創作であり、を、「小さな人間」に寄せる暖かい愛情ない。単純に、簡潔に、そして明白に」 かっロシアにおける散文芸術のはなばなをもって描いた一編で、ゴーゴリの『外と友人との対話で語っている。また、そ しい出発を飾る記念碑的な作品といえよ套』とともに、ロシア文学におけるこのの見事な散文の美しさについては、レ う。この作品は一八三〇年秋、作者三十種の物語の最初の種子と認められている。フ・トルストイも「どのような作家もこ 歳のとき、ポルジノ村で書かれた五編のこのほか「吹雪」「百姓令嬢」においての「べールキン物語』を研究しなければ かんおけ 短編で、「棺桶屋」は九月九日、「駅長」は領地の生活を、「その一発」では軍隊ならない」とまていっている。いすれに は九月十四日、「百姓令嬢」は九月二十の生活を、極めてリアルに描きだしてい しても、ロシア文学における散文芸術の 日、「その一発」は十月十二日、十四日、 る。この短編集はその現実的な「散文一つの頂点を示すこの作品は、その後の 「吹雪」は十月二十日に、それそれ執筆的」な内容に、その一一一一口語形式が完全に一 ロシア文学に極めて大きな影響を与えて された。初めはこの執筆順に配列する予致している点、それまでのロシア文学 定であったが、印刷する直前に、作者は には見られなかったものであり、ゴーリ ( 木村浩編 ) その順序をかえ、「その一発」およびキーがこの作品によって「ロシア文学に

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原卓也 チェーホフ ろい、心のやさしい女性であった。のちにチェーホフは、 少年時代 「才能は父から、心は母から譲り受けた」と語っているが、 南ロシアのアゾフ海にのそんでタガンローグという港町が父の。ハーヴェルは無学な商人であったにもかかわらず、バイ ある。現在では人口二十万程度で、チェーホフの生地というオリンをひいたり、聖像画を描いたりする、なかなかの才人 以外には特に際立った点もない小さな工場町であるタガンロであったようだ。たしかに、七人兄弟のうち ( チェーホフは ーグも、十九世紀半ばには南ロシアから外国へ積み出される三男 ) 、わすか二歳で死んだ末娘のエヴゲーニヤは別として、 全貨物の四十バーセントを扱う、かなり栄えた町であったと長男アレクサンドルと五男ミハイルが作家に、二男ニコライ が画家、四男イワンと、妹マリヤが教師にと、それぞれイン アントン・ テリゲンツィヤの道を歩んだことま、、、 。し力に雑階級人が文化 ーヴロウイチ・チェーホフはこの町で一八六 〇年一月十七日に生まれた。一八五六年、クリミャ戦争に敗の主要な担い手となった十九世紀後半のロシアとはいえ、や れたロシアが、自国の後進性をあらためて認識しなおし、アはり当時の零細な商人の家庭としてはめずらしいことと言っ レクサンドル二世の下でさまざまな国内の改革を行なおうとてよい 父はロシア・ナロードの典型のような男で、家庭にあって していた時代であった。ロシアの専制政治の基盤であった農 は徹底した専制君主であり、きわめて信、い深かった。そのた 奴制が廃止されたのは、チェーホフの生まれた翌年である。 たた め、朝早くから子供たちを叩き起こして聖歌の練習をさせ、 兇チェーホフの祖父はこっこっと貯めこんだ金で解放令以前 むち 解 少しでも間違えようものなら鞭で殴りつけた。「僕には少年 に自由の身分を買いとったもと農奴であり、父親のバーヴェ ーヴェルがロやかましい厳時代がなかった」と、チェーホフはのちに述べているほどで ルは食料雑貨店を営んでいた。パ 格な父親であったのと対照的に、母親のエヴゲーニヤは涙もある。 解説

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レスコフ 文学者としてのレスコフの生涯には常に悪評がっきまとっ 作家の父親セミョーンはオリヨール県レスキ村 ( ここから ていたが、亡くなると同時に悪評は名声に変わり、彼の作品 レスコフという姓がつくられた ) の司祭の子であった。オリ が教科書に採用されるようになった。その後レスコフの評価 ヨール地方はモスクワの南、中央ロシア台地の真中に位置す は高まる一方で、今ではロシア文学史の教科書の中でかならる農業地帯で、十九世紀にはツルゲーネフやチュッチェフ、 す彼のために一章がさかれている。彼の前に立つのはドスト二十世紀にはアンドレーエフや・フーニンなどのすぐれた作家 エフスキーであり、あとにつづくのはトルストイである を輩出した土地柄である。村の教区司祭は普通世襲制であっ ソビエトの最近の伝記作家アンニンスキイはこのように述べ たが、セミョーンはセーフスク神学校を卒業後なぜか僧職に ている。レスコフがこのようにますます重んじられているの つくことをこばみ、ほとんど無一文で県都オリヨールに出た。 は、彼がロシア社会のさまざまな階層の生活を題材として口 はじめは方々の貴族の家庭教師をして暮らしたが、まもなく シア人の最もロシア人らしい性格を色彩ゆたかに描き出した地方裁判所の書記となった。その後カフカースに転勤したこ からであった。 ともあったが、 奉職十六年にして十四の官等のうち八等官と なった。やっと世襲貴族を名のれることになったのである。 諸身分の血筋 一方、作家の母親マリヤは貴族の血をひいていた。もっと レスコフ以前のロシアの作家ははとんどが貴族だった。貴も貴族とはいえ財産はなく、彼女の父は一八一二年のナポレ ラズノチーネッ 説族身分以外の出身者は「雑階級人」と呼ばれた。十九世紀のオン侵入に先立ってモスクワを退去して以来オリヨール県の 解 中葉以後、ロシア社会にはこの雑階級人インテリゲンツィア大地主ストラーホフ家の執事をしていた。マリヤは十七歳の がめざましい勢いで進出した。レスコフ自身は貴族に属した とき、かってストラーホフ家で家庭教師をしていた役人のセ が、内実から言えば典型的な雑階級人といってよかった。 ミョーンと結婚したのである。このとき夫は四十一歳だった。 解説 中村喜和

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塾 0 日 1067 解説 プラギム、またの名をア。フラム・ベトローヴィチ・ガンニバ 同家に仕えていた乳母のアリーナ・ロジオーノヴナは解放農 しゃべ ルの孫娘であった。父親がペテルプルグ社交界で青春をすご奴あがりで、民衆の生きたロシア語を喋り、尽きることのな していたころ、ナデージダを見染めて結婚したのである。プ いロシアの民話や民謡を熟知していたことである。早熟な詩 ーシキンには姉のオリガと弟のレフという二人の姉弟があつ人は幼時から父親の書斎にもぐりこんで、ラシーヌ、モリエ たが、両親は子供たちの養育にははとんど関心を示さす、す ヴォルテール、ラ・フォンテーヌ、バルニ、ルソーな べては家庭教師まかせであった。もっとも祖母のマリヤ・アどのフランスの古典をはじめ、デルジャーヴィン、カラムジ かわい レクセーエヴナは子供たちを可愛がってくれ、幼い詩人に最ン、フォンヴィージン、 ーチュシコフなどロシア詩人たち 初のロシア語の読み書きを教えてくれた。当時、貴族の家庭の作品を読み耽った。 の日常語はフランス語がふつうであった。プーシキンがはじ 八一一年の夏、十二歳になった少年プーシキンは、ペテ リツェイ めて八歳のときに書いた詩もフランス語である。ロシアの詩 ル。フルグ郊外のツアールスコエ・セローに開校された学習院 聖のはじめての詩がフランス語であったというのも皮肉なこ に入学した。合格者三十名のうち十四番の成績だったという。 とだが、 これは当時の貴族生活を考えれば、当然のことだっプーシキンはここで六年間の実り多い学生生活を送り、プー たのである。ただ少年プーシキンにとって幸いだったことに、 シチン、デリヴィク、キューヘリべッケルなど生涯の友人た リヴォーヴィチ ~ 」中 / 母ナデージダ・ 下 / パフチサライの宮殿 のプーシキン

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ヴェルレーヌ『言葉なき恋歌』 ( 七四 ) 明治維新 ( 六八 ) ドストエフスキー『白痴』 スエズ運河開通 ( 六九 ) マラルメ『半獣神の午後』 ( 七六 ) 一八六九 Z ・ミハイロフスキー『進歩とは何か』、サルトウイコフⅡシ 普仏戦争 ( 七〇 ) チェドリン『ある町の歴史』 ( ー七〇 ) ゾラ『居酒屋』 ( 七七 ) 一八七一ダニレフスキー『ロシアとヨーロツ。、、。 ハリ・コミューン ( 七一 ) / 』トストエフスキー イプセン「人形の家』 ( 七九 ) パッサン「女の一生』、ニーチェ「資本論」露訳 ( 七二 ) 『悪霊』 ( ー七一 l) 、 Z ・ネクラーソフ『ロシアの女たち』、・ 『ツアラトウストラ』 ( 八三 ) ナロードニキ運動の始まり ( 七四 ) オストロフスキー『森林』 トウェイン『ハックルペリー・フィン 一八七三レスコフ『封印された天使』、『魅せられた遍歴者』 ロシアで「土地と自由」団結成 ( 七 一八七五・トルストイ「アンナ・カレーニナ』 ( ー七七 ) 、サルトウイの冒険』 ( 八五 ) コフいシチェドリン『ゴロヴリョフ家の人々』 ( ー八〇 ) 、ドス二葉亭四迷『浮雲』 ( 八七ー ( 八露土戦争 ( 七七ー七八 ) ストリンドベリ『令嬢ジュリー トエフスキー『未成年』 アレクサンドル二世、「人民の意志」 一八七八 > ・ソロヴィョフ『神人論』 派に暗殺される ( 八一 ) ハウブトマン『日の出前』 ( 八九 ) 一八七九ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟』 ( ー八〇 ) ハハ三ガルシン『赤い花』、プレハ ーノフ『社会主義と政治闘争』、フ ーディ『テス』、ワイルド『ドリア独墺伊三国同盟 ( 八二 ) ン・グレイの肖像』 ( 九一 ) エート『タベの灯』 ( ー九一 ) ルナール『にんじん』 ( 九四 ) 一八八五コロレンコ『マカールの夢』 シェンケヴィチ「クオ・ヴァディス チェーホフ『曠野』 ( 九六 ) 一八八九»-; ・トルストイ『復活』 ( ー九九 ) 、チェーホフ『退屈な話』 ロスタン『シラノ・ド・・ヘルジュラッロシアで大飢饉。シベリア鉄道の起工。 一八九〇・トルストイ『クロイツェル・ソナタ』 大津事件 ( 九一 ) 。露仏同盟 ( 九一ー 一八九三メレシコフスキー『現代ロシア文学の衰退の原因と新しい潮流ク』 ( 九七 ) コンラッド『ロード・ジム」 ( 一九〇九四 ) しっして』 ロシア、ニコライ二世即位 ( 九四 ) 。 〇 ) 一八九四プリューソフ『ロシア象徴主義者』 ( ー九五 ) キップリング「キム」、・マン〕。プ日清戦争 ( 九四ー九五 ) 一八九六チェーホフ『中二階のある家』、『かもめ』、メレシコフスキー ッデン。フローク家の人々』 ( 〇一 ) ロシア社会民主労働党創立。モスクワ 「キリストと反キリスト』 ( ー〇五 ) ロマン・ロラン「ジャン・クリスト芸術座創立 ( 九八 ) 表一八九九チェーホフ『犬を連れた奥さん』 義和団の乱を契機にロシア、満州に進 、ヾリモントフ』 ( 〇四ー一二 ) 史一九〇〇チェーホフ『ワーニヤ伯父さん』、『三人姉妹』ノ 学 出 ( 一九〇〇 ) ヘッセ『車輪の下』 ( 〇六 ) 「燃える建物』、ペールイ〔。交響曲」 ( ー〇八 ) 文 エスエル党結成 ( 〇一 ) ジッド『狭き門』 ( 〇九 ) 一九〇一ゴーリキー『海燕の歌』、『どん底』、シェストフ「ドストエフ ア シ 日英同盟 ( 〇二 ) リルケ〕。マルテの手記」 ( 一〇 ) スキーとニーチェ』 ロ 一九〇ニアンドレーエフ『霧の中』、メレシコフスキー『トルストイと夏目漱石『 - それから」、ホフマンスタロシア社会民主党、ポリシエヴィキと メンシエヴィキに分裂 ( 〇三 ) ール『バラの騎士』 ( 一一 ) ドストエフスキー』 日露戦争 ( 〇四、・・〇五 ) < ・フランス一「神々は渇く』 ( 一 一九〇三チェーホフ『桜の園』 プルースト〔。失われた時を求めて・第ロシア、第一次革命 ( 〇五 ) 一九〇四プローク『麗しい貴婦人の歌』

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99 エヴゲーニイ・オネーギン 三一一下皿占いの歌聖誕節から主顕節 ( 一月六日 ) にかけてのクリスマ ス・シーズンに女たちが占いをしながら歌うもの。女たちは自分の装身 具 ( 指輪その他 ) を水をいれた深皿にいれ、それにおおいをかぶせてか ら、皿占いの歌をうたい、歌がひとっ歌い終わるごとになかの装身具を 取りだす。そのときその持ち主が歌われたばかりの歌の意味によって自 分の運命を占うのである。 三一一下クワスライ麦と麦芽から作るロシア独特の清涼飲料。とくに夏 期は冷たいクワスが好まれる。 かわいそうなヨー 三 = 下「 Poor Yorick! 」シェークス。ヒアの『ハムレット』第五幕第一場 されこうべ せりふ において、ハムレットが道化師ヨーリックの髑髏にむかっていう科白。 しっ一い 三三上オチャコフ占領記念の勲章モルダヴィアにあったトルコの要塞。 一七八八年、ロシア軍によって占領され、一七九二年からロシア領とな った。その占領記念のための勲章。 三四上マルフィラートル一七三三ー六七。フランスの詩人。『ナルシ ス、またはヴェニュスの島』 ( 一七六八 ) の一節。「彼女」とはギリシア ・よ・フせい 神話の妖精エーコーをさす。 三五上スヴェトラーナ詩人ジュコフスキイ ( 一七八三 ー一八五一 l) の 有名な・ハラード『スヴェトラーナ』の女主人公。 三六上ジュリー・ヴォルマルの恋人ルソーの小説『新エロイーズ』の 女主人公ジュリー ・デタンジュの少女時代の家庭教師サン・プルーをさ す。 三六上マレク・アデルフランスの女流作家ソフィ・コタン ( 一七七三 ー一八〇七 ) の小説『マティルド』 ( 一八〇五 ) の主人公。第三回十字 軍時代のサラセン人の将軍で、イギリスのマティルド王女と恋におちた。 ・ユリアーナー・フ 三六上ド・リナールドイツの女流作家バルバラー オン・クリューデネル男爵夫人 ( 一七六四ー一八二四 ) がフランス語で またはギュスターヴ・ド・リナールよりエル 書いた小説『ヴァレリー ネス・ド・への書簡』 ( 一八〇三 ) の主人公。 三六上デルフィーヌフランスの女流作家スタール夫人 ( 一七六六 八一七 ) の『デルフィーヌ』の女主人公。 三六下ヴァンパイアバイロンの主治医ジョン・ウィリアム・ポリドー クリスマス リが・ハイロンの名前で発表した小説『ヴァンパイア』 ( 一八一九 ) の主 人公。ピヨートル・レーエフスキイによって一八二八年にロシア語に翻 訳された。 バート・マテュ 三六下メルモートアイルランドの医師チャールズ・ロ リン ( 一七八二 ー一八二四 ) の小説『放浪者メルモス』 ( 一八二〇 ) の 主人公。メルモートはそのフランス語風の発音。 ちょうしよう 三六下永遠のユダヤ人キリストが十字架にかかるまえに彼を嘲笑し た罪によって、キリストの再臨のときまでこの世を放浪する運命となっ た伝説的な人物。アハスヴェルその他の名前でいろいろな文献に登場す る。プーシキンがここで念頭においているのはイギリスの作家マシウ・ ルイース ( 一七七五ー一、 八 ) の小説『アムプロジオ、または修道 僧』 ( 一七九五 ) であり、十九世紀初頭にロシア語に翻訳されている。 三六下ズボガルフランスの作家シャルル・ノディエ ( 一七八〇ー一 四四 ) の小説「ジャン・ズボガル』 ( 一 八 ) の主人公。 夭上お下げを編んでもらい昔、ロシアでは婦人は結婚すると髪を二 本に編んで頭にまく風習があり、娘は結婚式のまえにいままでのお下げ を編むことになっていた。 とこしえ 三〈下「永久に希望を捨てよ」ダンテの「神曲』地獄篇第三歌の九節に 「われをすぎんとするものはすべての希望を捨てよ」とある。 三九下「善意の人」ロシアの詩人イズマイロフ ( 一七七九ー一 が編集していた月刊誌 ( 後に週刊となった ) の名前 四 0 上ポグダノーヴィチ一七四三ー一八〇三。ロシアの詩人。ラ・フ オンテーヌの『プシケとキュピドンの恋』を翻案した『ドウーシェン カ』 ( 一七七五ー七八 ) が有名。 四 0 下「響宴」と悩ましい憂愁の詩人プーシキンの友人だった詩人・ハ ラトウインスキイ ( 一八〇〇ー四四 ) をさす。 四 0 下「魔弾の射手」ウェーバー 八二六 ) の有名なオペ ラの序曲をさす。当時、ロシアで流行していた。 四五下ネッケル一七三二 ー一八〇四。フランスの財政家で、スタール 夫人 ( 一七六六 ー一八一七 ) の父。この一一一一口葉はスタール夫人の『フラン ス革命の主要な諸事件に関する考察』 ( 一 、八 ) の第二部にある。