おも ポケットに突っ込んだままなのを想い起こした。今の今まで、代の外套を引き寄せ、頭からすつばりかぶった。睡魔と幻覚 今、服をがまたしても一気に押し寄せた。彼は意識を失った。 ポケットから出して隠すことすら考えなかった ! これはど , っし ものの五分も経っと、彼はまたしても跳ね起き、猛然と服 調べた時ですら、頭に浮かばなかったのだ ! たことだろう ? いきなりポケットの中味をつかみ出すと、のところへ飛んでいった。『よくも眠ったりできたもんだ、 わき かたつばしから、テーブルの上にほうり出した。全部ほうりまだ何もしていないのに ! やつばりそうだ、やつばり。腋 出すと、わざわざポケットを裏返して、まだ何か残っていなの下の輪つかがまだそのままだ ! 忘れちまった、こんな事 皮ま輪つかをむし いか確かめまでしたうえで、ひとまとめにして部屋の隅へ運さえ忘れちまった。立派な証拠なのに ! 』・イ。 りとると、手早く細かに引き裂いて、枕の下の下着の中へ突 んだ。そこに、いちばん隅の下のほうに、壁紙がはがれて、 っ込んだ。『こんなばろの切れはしがあったからって、絶対 裂けている所があった。すぐさま、彼はその壁紙の奥の穴の に嫌疑の種にはなりやしない。そうだろうな、そうだろう 中へ、品物をみな押し込みはじめた。『うまく入ったそ , な ! 』ーー部屋の真ん中に立って、そう繰り返すと、彼は頭 何もかも消えて失せろ、財布もな ! 』腰を上げ、前よりも突 き出した穴のあたりをばんやり見詰めながら、彼はうれしそが痛くなるほど緊張して、床からどこから、あらためて眺め カ突然、恐怖にかられて全身を震わせた。回した。まだ何か忘れているものがありはしないだろうか ? , つに考えた。、、ゝ、 『ああ、おれはいったいどうしたんだ ? 』絶望したように彼何もかも、記憶力も、いや、ただ物を考える力すらも自分を つぶや こんな隠見放してしまったにちがいないという思いが、たまらないほ は呟いた。『これで隠したことになるだろうか ? ど彼を苦しめた。『どうしたんだ、ほんとにもう始まったん し方があるだろうか ? 』 だろうか、ほんとうにもう刑罰がやってきたんだろうか ? たしかに、彼は品物のことは計算に入れていなかった。た ズボンから オしカ ! 』ド ) つき、し ほれ、見ろ、その通りじゃよ、 だ金があるだろうと、そればかりを考えていたので、あらか 切り取った房の切れはしが、部屋の真ん中に、誰の目にもす じめ隠す場所など用意しておかなかった。『それにしても、 ぐっくように、放り出されたままになっている。『いや、お いま、おれはなんでうれしくなったりしたんだ ? こんな隠 し方があるだろうか ? はんとにおれは理性に見放されちまれはいったいどうしたんだ , 』彼はまたしても途方にくれた 皮よぐったりとソファーに腰を下ろしたが、そように叫んだ。 罰ったんだ ! 』彳。 すると、異様な考えが頭に浮かんだ。もしかしたら、服全 罪のとたん、たまらない悪寒がまたしても襲いかかってきた。 す もしかしたら、血の 機械的に手をのばすと、すぐそばの椅子の上にあった冬物の体が血に染まっているのかもしれない、 外套、暖かくはあるがもうすっかりばろばろになった学生時しみだらけなのかもしれない、ただ自分の目には見えないだ
ドストエフスキ 38 なら、あとのことは何もかもーーー偏見であり、わざと作り出ことがあった。頭の下には小さな枕をあてがったが、頭がな された恐怖であるにすぎず、いっさいの障害は存在しない、 るべく高くなるように、ありったけの下着を、洗ったものも 一ということになる、当然そうあるべきだ , 汚れたものも一緒くたに、枕の下へ押し込む習わしだった。 ソファーの前に。小さなテー。フルが置いてあった。 これ以上だらしのない、乱雑な暮しをするのは難しいこと にちがいなかったが、い まのような精神状態にあるラスコー 翌日おそく、彼は不安な眠りから目を覚ましたが、眠りも リニコフにとっては、このほうがかえって気持がよいとさえ かめ 彼を元気にしてはくれなかった。苦々し、 しいらいらした、感じられた。彼は亀が甲羅の中にとじこもるように、すべて 意地の悪い気持で目を覚ますと、彼は悪の目で自分の小部の人間からきつばりと遠ざかってしまっていたので、彼の身 屋を見まわした。それは奥行き六歩ほどの、ちつばけな物置のまわりの世話をする義務があるため、時おりその部屋をの いらだ けいれん きのような部屋で、黄色つばい埃だらけの壁紙はいたるとこぞきこむ女中の顔さえ、彼にとっては激しい苛立ちと痙攣の ろで壁から剥がれ、なんともみじめな光景を呈していた。し種であった。何かひとっことにあまりにも心を集中しすぎた かも、天井の低いことといったら、少しでも背の高い者ならある種の偏執狂の人間に、そうしたことはよく見られるもの おかみ 気分が悪くなってしまい いっ天井に頭をぶつけはすまいかである。下宿の主婦はもう二週間まえから食事を出すのをや と、たえす気にかかるほどだった。家具もいかにも部屋にふめてしまっていたが、彼は食事なしに座り込んだまま、主婦 さわしかった。。 とれも足のぐらぐらする三脚の古い椅子と隅のところへ掛け合いに行こうとも思わなかった。主婦のとこ のほうの色塗りのテー。フル。テー。フルの上には何冊かのノー ろのたったひとりの女中であり、料理女でもあるナスターシ トと本が載っていたが、すっかり埃にまみれていることだけヤは、下宿人のそうした気分をいくらか喜んでいて、部屋の から見ても、もう長いこと誰の手もそれに触れていないこと片付けや掃除もすっかりやめてしま い、ただ週に一度ほど、 ほうき は明らかだった。それから最後に、不格好な大きなソファー 思い出したように箒を手にして姿を現わすだけだった。いま がひとつ、壁の部分をほとんど全部と部屋の幅の半分を占領彼を起こしたのもその彼女だったのである。 していた。これはかっては更紗張りだったのだが、 いまでは「起きなさいよ、なんだって寝てるのさ ! 」と彼女は頭の上 すっかりばろばろになり、ラスコーリニコフのべッドになつで叫んだ。「もう九時過ぎよ。お茶を持ってきてあげたの。 なかす ていた。彼はよくこのソファーの上に、着替えもせす、シー お茶、ほしくない ? さそお腹が空いたでしようね ? 」 ツも敷かず、着古した学生用の外套にくるまっただけで眠る下宿人は目をあけ、ぎくりと身ぶるいし、それからナスタ ほ′り 力いと一つ まくら
ああ、こうした事の一切に、彼はどれほど飽き果ててしまうるというのだろう ? 凶行ですら、ふたりのそれは同じ種 類のものではありえなかったはすである。あの男は、そのう ったことだろう ! んとう が、それにもかかわらず、彼はスヴィドリガイロフのもとえ、まことに不央だったし、明らかにとてつもなく淫蕩で、 ・ : つかつうそ まちがいなく狡猾な嘘つきだった、それに、もしかしたら、 キへ急いだ。してみれば、彼はあの男から何か新しいことを、 こついては、あん フ何か指針なり逃げ道なりを期待していたのではないだろうきわめて邪悪な人物なのかもしれない。彼し わら か ? 溺れる者は藁をもっかむではないか ! 運命が、あるな話までささやかれているではないか。なるほど、彼はカチ ス いは何か本能のようなものが、ふたりを結び付けようとしてエリーナ・イワーノヴナの子供達の面倒を見た、それは事実 いるのではないだろうか ? もしかしたら、これは単なる疲にちがいない。が、それも何のためなのか、どのようなわけ があるのか、誰し こ分ろう ? あの男はいつもいつも何かしら 労であり、絶望であるにすぎなかったのかもしれない もくろみ かしたら、必要なのはスヴィドリガイロフではなく、誰かほ下心や目論見を胸に秘めているのだ。 そのうえ、もうひとつの考えが、この数日たえず頭にちら かの人間だったのであり、スヴィドリガイロフはただたまた ーリニコフの心を恐ろしく騒がせていた。もっ まそこに居合わせたにすぎなかったということなのかもしれつき、ラスコ ソーニヤだろうか ? が、何のためにいまソーニヤのとも、彼がなんとかその考えを頭から押しのけようと努力し たのも事実だった。それほど、それは苦しい考えだった , ところへ行くことがある ? またしても彼女の涙をねだるた いや、それに、彼にはソーニヤが恐ろしかった。他でもない、時折こんな考えが頭に浮かんだのである。スヴ イドリガイロフはたえす自分のまわりをうろついていた、い 彼女は厳然たる宣告、変更の余地なき決定だった。その場合 には道はふたつにひとっしかないーー彼女の道か、それとも、や、いまもうろついている。そのスヴィドリガイロフは彼の 彼の道か。とりわけいまこの瞬間、彼にはソーニヤと顔をムロ秘密を知ってしまった。スヴィドリガイロフはドウーニヤに わせる力がなかった。いや、それより、スヴィドリガイロフ対して目論見を抱いていた。それなら、いまでも抱いている いや、それに対しては、ほとんど確実に いったいあれは何者なののではないか ? を試みたほうがましではないか ? 然りと答えることができる。それなら、彼の秘密を知り、つ か、それを探ったはうが ? それに、実際のところ、もうか なり以前から、あの男が何のためか自分にとって必要な存在まりは彼に対して力を握ったスヴィドリガイロフが、そのカ をドウーニヤに対する武器として使用する気になったらどう となっているかのように思われることを、彼は内、い認めない よゝっこ。 だろう ? この考えは、時として、夢の中でさえ彼を苦しめたが、そ だが、それにしても、ふたりの間にいかなる共通点があり
べきだし、あとの連中はーーーその子供たちの教育と幸福に協あこれからは熊狩りとはおさらばだなーー妻君が出してくれ 力すべきだ。これがわたしの考えですよ。この二つの仕事をまい 混同したがる連中は、ごまんといますが、わたしはそういう レーヴィンは微笑した。妻が出してくれない情景を想像す のとはわけがちがいましてな」 ると、すっかり楽しくなって、彼は熊を見る喜びなど永久に 「きみが恋をしたとわかったら、ばくはとび上がって喜ぶ拒否してもよいと思った。 ぜ ! 」とレーヴィンは言った。「忘れずに、ばくを結婚式に 「でも、やはり残念だな、きみをぬきにしてこの二頭の熊を 呼んでくれよ」 しとめるなんて。ところで、ハピロワで最後にやったあの狩 「恋はも , っしてるよ」 りをおばえてるかい ? 今度のも素晴らしい狩りになるだろ 「ああ、烏賊にかい。実はね、兄さん」とレーヴィンは兄に , つな」とチコリフは一言った。 言った。「こいつはいま栄養に関する本を書いてるんだよ、 レーヴィンは、狩りをしなくてもどこかに何か素、晴らしい そして : : : 」 ことがあるはすだと一 = ロって、彼をがっかりさせたくなかった 「おい、まぜっかえすなよ ! 何の本だろうと、どうでもい ので、何も言わすに黙っていた。 くせに。問題は、ばくはたしかに烏賊を愛してるというこ 「独身生活と別れるこの置習ができたのも、理由があること とき、」 かもしれんな」とコズヌイシェフは言った。「どんなに幸福 「でもそれは、きみが妻を愛する妨げにはならんだろう」 であろうと、やはり自由が惜しまれるさ」 「烏賊の方はじゃましないだろうがな、妻の方がじゃまする 「さあ、白状したまえ、ゴーゴリの花婿 ( ーゴリの喜劇 、に、窓から逃げ出したい気持があるんだろう ? 」 「どうしてだい ? 」 「きっとあるさ、でも白状するものか ! 」とカタワソフは一一一一口 ナ 「まあ、いまにわかるさ。きみは農業経営や狩猟が好きだな って、大声で笑いだした。 レ しますぐトヴェーリ まあ、どんなことになるかな ! 」 へ 「何だ、窓が開いてるのか : カ めすぐま 「そう、今日アルヒー。フが来て、言ってたけど、プルードノ逃げ出そうじゃないカ 牛熊が一頭いるんだ、穴がわかっ ナ おおしか ンエには大鹿がわんさと集まってるし、熊も二頭見たそうだてるんだよ。ほんとに、出かけようや、五時ので ! あっち よ」とチリコフは一言った。 は勝手に騒がせるさ」と笑いながら、チリコフは言った。 「でも、正直のところ」とレーヴィンはにやにやしながら、 「まあ、ばくにかまわずせいぜい獲ってくれよ」 「たしかにそのとおりだ」とコズヌイシェフは言った。「ま言った。「自由を惜しむ気持を自分の心の中に見つけること
トルストイ 1348 みこころ 「じやどうしてキリーロフはやってるんだい ? 」 フォカーヌイチは魂のために、正直に、神さまの御意どおり に生きている、という一一一一口葉を聞いたとたんに、漠然とはして ハの野郎は ( 百姓はさげすむように屋敷番をこう いるが深い意味をもっ思想が、どこかとざされていたところ 呼んだ ) 、コンスタンチン・ドミートリチ、払えねえわけが から、不意にどっと噴出し、目くるめくばかりの光を放ちな ありませんや ! しばりあげて、骨までしゃぶるってやつだ。 キリスト信者だって容赦するこっちゃねえ。だがフォカーヌがら、たえす一つの目的を目ざして頭の中でぐるぐるまわり イチじさま ( 彼はプラトン老人をこう呼んだ ) に、人間の生出したような気がした。 皮をはぐようなあこぎなまねができますかね ? 貸しになっ たり、まけてやったりで、しばりとったりなどできやしねえ。 やつばし同じ人間だものねえ」 レーヴィンは、自分の考えにというよりも ( 彼はまだそれ 「でも、どうしてまけてやったりなどするんだろう ? 」 「そりや、まあ、人はさまざまだからですよ。自分の欲ばかを分析することができなかった ) 、これまで一度も経験した おおまた の野郎みてえに、 ことのない精神状態に、耳を傾けながら、街道を大股に歩い り考えて生きてるやっ、まあ、ミチューハ 自分の腹ばかり肥やしてるやつもいますが、フォカーヌイチて行った。 ようせつ はーー正直なじいさんですよ。あのじいさまは魂のために生百姓の言った一一 = ロ葉が、レーヴィンの心の中に電気熔接のス ークのような作用を起こし、片時も彼の頭を去らなかった、 きてるんですよ。神さまを忘れねえ」 断片的な考えを、不意に変形させ、 魂のために生きている ! それはど無数のばらばらな、弱い、 「神さまを忘れない , 一つに結合させてしまったのである。これらの考えは、彼自 , つい , っことだね ? 」とレーヴィンはほとんど・眦・ぶよ , つに一一一一口っ 身も気づかなかったが、土地を貸す話をしている間も、彼の 「わかりきったことじゃありませんか、正直に、神さまの御頭の中にあったのだった。 彼は自分の心の中に何か新しいものを感じていた、そして 意どおりに生きることですよ。そりや人はさまざまですか だんな らね。例えば旦那にしても、やはり人を泣かせるようなことそれが何であるかまだ知らずに、この新しいものの感触を楽 しんでいた。 はなさらねえし : 、神のために生きる。どんな神 「そ , つか、そ , つだったのか、じゃ、さよなら ! 」レーヴィン 『自分の欲のためにではなく は興奮のあまり息をつまらせながら、こう一一一一口うと、くるりとのために ? それにしても、あの百姓が言ったことよりもば かげたことが、言えるものだろうか ? あの百姓は、自分の 背を向けて、ステッキをとり、急いで家の方へ歩きだした。 ご一ろ み
一頭が足の鎖 「かまわすまっすぐ行きなされ、沼にぶつかるでな。ゅんべ足を結わかれた三頭の馬が歩きまわっていた。 わき をがちゃがちゃ鳴らした。ラスカはレーヴィンの脇について 立うちの若い衆が馬を追ってったとこだで」 したが、前に出たがって、しきりに主人の顔をうかがった ラスカは先に立って小道を元気に走りだした。レーヴィン トはたえず空を気にしながら、軽央な足どりでそのあとを追っ眠っている百姓たちのそばを通りぬけて、最初の沼地に出た ス レ ところで、レーヴィンは撃発装置を点検して、犬を放してや た。彼は太陽がのばらないうちに、紹に着きたかった。だ ) ま くりげ った。三頭のうちの、よく肥えた栗毛の三歳駒が、犬を見て、 太陽はぐすぐすしてはいなかった。納屋を出たときは、まだ はなあらし しつば とびすさり、尻尾を上げて、鼻嵐を吹いた。あとの馬もび 、まはも , っ・水銀のかたまりのよ , つに、 明るく輝いていた月が、し つくりして、結わかれた足で水をはね、濃い泥からぬきとる 鈍く光っているだけだった。さっきまではいやでも目につい ひづめ たた 蹄で手を叩くような音を立てながら、沼から躍り出た。ラ 、まではもう捜さなければならなか た地平線上の朝焼けが、し あざけ はんてん った。先はどまでの遠い野のおばろな斑点がもうはっきりとスカは立ちどまり、嘲るような目で馬どもを見ると、指示を仰 見えるようになった。それは裸麦の禾堆だった。もう雄株をぐようにレーヴィンを振り返った。レーヴィンはラスカの頭 選り抜かれた、香りの強い、高くのびた麻の葉におりた朝露を撫でてやり、はじめてもよいという合図のロ笛を鳴らした。 ラスカは足もとのやわらかし、冫土し 、召也こ気を配りながら、楽し が、日光が差さないのでまだ見えないが、レーヴィンの足や ジャンバーを腰の上あたりまで濡らした。澄みきった朝のしそうに走りだした。 みつばち 、冫レ馬けこむと、ラスカはすぐに、草の根や、水草や、褐 ずけさの中では、どんな小さな物音も聞こえた。蜜蜂が銃弾 ばふんにお みみもと のような唸りを立ててレーヴィンの耳許をかすめて行った。色の濁り水などの嗅ぎなれた匂いや、場ちがいの馬糞の臭い にまじって、あたり一帯にただよっている野鳥の匂いを嗅ぎ 目をこらすと、さらに一匹、二匹と飛んでゆくのが見えた。 、ようほうじよう つけた。それは何よりもラスカを興奮させる、あのもっとも それらはみな養蜂場の編垣の中から飛び出てきて、麻畑の ふき 匂いの強い野鳥の匂いだった。そこここの苔や蕗の茂みに、 上を沼の方に消えて行った。小道はまっすぐに紹に通じてい との方向に強くなり、どの方向 この匂いが特に強かったが、。 た。沼は、水面から立ちのばる霧で、それと知ることができ に弱くなってゆくか、決めるわけにはいかなかった。その方 た。霧は、あるいは濃く、あるいは薄く、沼の上を這ってい すげ たので、菅や柳の茂みが、まるで小さな島々のように、その向を見つけるためには、風下にもっと離れる必要があった。 中でゆれていた。沼のほとりに道がっきるあたりに、夜の放ラスカは自分の足の動きを感じないほどに、各跳躍ごとに必 力いと、つ 牧に出ていた子供や百姓たちがごろごろねころび、外套をか要に出会えばとまれるような、緊張しきった疾走で、東から ぶって夜明け前の一眠りをしていた。少しはなれたところに、吹いてくる夜明け前のそよ風を背に受けて右の方へしばらく よ カ
燃えた彼の目は、彼女だけがもつあの独特の歩き方と、なだ らかな肩の線と、頭のポーズをしつかととらえた、するとと 「昨日は言いませんでしたけど」と彼女は苦しそうに早い自 5 皮ま、弾むをしながら、一一一一口いだした。「アレクセイ・アレクサンドロヴ たんに、電流のようなものが彼の全身を走った。彳。 ような足の動きから、呼吸のたびの肺の動きまで、自分のすイチと別荘へもどる途中、すっかり打ち明けてしまいました べてを、新たな力で感じた、そして何かが彼の唇をくすぐりの : : : あなたの妻でいることはできない、 と一一 = ロって、それか はじめた。 ら : : : すっかり話してしまいましたの」 彼の前まで来ると、彼女は強く彼の手をにぎりしめた。 彼は、そうすることによって彼女の立場の苦しさをやわら からだ 「呼び出したりして、怒っておりません ? わたしどうしてげてやりたいと願うかのように、無意識に身体をそちらへ傾 もお会いしたかったものですから」と彼女は言った。ヴェ けながら、聞いていた。ところが、彼女がこう言ったとたん ル越しに見える、真剣な、きびしい唇の線が、い っぺんに彼に、彼はさっと姿勢を正した、そしてその顔には誇らしげな、 の気分を変えてしまった。 厳粛な表情があらわれた。 「ばくが、怒るなんて ? でも、どうして、こんなところ 「そうです、そうですとも、その方がいいのです。千倍もい いのです ! それがどれほど辛かったか、 「どこでも同じことですわ」と彼の手に手を重ねながら、彼すよ」と彼は言った。 女は言った。「まいりましよう、お話ししておきたいことが だが彼女は、彼の一一一口葉を聞いてはいなかった。彼女は顔の ありますの」 表情から彼の考えを読みとろうとしていた。その表情が、最 彼は、何かが起こったことを、そしてこのあいびきが楽し初にウロンスキイの頭にひらめいた考え。・・・・・ーこれで決闘は避 いものにはなりそうもないことを、さとった。彼女の前に出けられぬという考えから来たものであることを、彼女は知る ニると、彼は自分の意志をもたなかった。彼女の不安の理由も ことができなかった。決闘という考えは、一度も彼女の頭に レわからぬうちに、もうその同じ不安がひとりでに自分にもっ浮かんだことがなかった、だからこの一瞬の厳粛な表情を、 カ たわってくるのを、彼は感じた。 彼女は別なふうに解釈した。 ン「何があったんです ? 何が ? 」と彼は肘で彼女の手をしめ夫の手紙を読んだときから、彼女は、もう心の奥底では、 さや ア つけ、何を思い悩んでいるのか、その顔から読みとろうと努すべては元の鞘におさまるだろうし、自分の地位を無視して、 もと めながら、訊ねた。 子供を棄てて愛人の許へ走ることなど、自分にはできそうも 彼女は黙って数歩歩いて、決心を固めると、急に立ちどま ないと思っていた。べッチイのところで過ごしたひとときが、 ひじ
「だけど、あなた、いったいほんとうにあなたの頭レし の正常な地上的秩序が乱れると、すぐさま、他の世界の可能 性が現われはじめ、病気が重くなればなるほど、他の世界とんなものよりはもっと慰めになるものが、もっと正義にかな の接触もますます密になり、やがて、その人間が完全に死ねうものが、何ひとっ浮かばないんですか ? 」病的な感情を帯 キば、もうすっかり他の世界へ移行してしまう』私はこのことびた声で、ラスコーリニコフは叫んだ。 「もっと正義にかなうもの ? でも、分るものですか。もし フを、もう久しい以前から考察していたのです。もし来世を信 トじるなら、この考えを信じることもできるはずです」 かしたら、これこそが正義にかなうものかもしれないじゃあ ス りませんか。それに、私はなにがなんでも、無理矢理にでも、 「僕は来世を信じてはいません」ラスコーリニコフが言った。 スヴィドリガイロフはじっと座ったまま、物思いに沈んでそういうことにしてしまいたいくらいなんです ! 」なにか曖 しまった。 昧なほほえみを浮かべながら、スヴィドリガイロフが答えた。 く・も 「でも、どうでしよう、そこには蜘蛛か、さもなくとも、何 この醜悪な答を聞いた瞬間、何やら氷のように冷たいもの かそういったたぐいのものしかいないとしたら」突然、彼は が、ラスコーリニコフの体を包んだ。スヴィドリガイロフは 一一一一口った。 頭を上げ、じっと彼の顔を見詰めていたが、突然、大きな声 で笑った。 『こいつ、気違いだ』ー・ーちらりと、そんな考えがラスコー 「いや、それにしても、考えてみればおかしな話ですな」と リニコフの頭に浮かんだ。 「まあ、私たちはいつも考えているじゃありませんか。永遠彼は叫んだ。「つい三十分ほど前までは、ふたりとも相手の かたき というものは、理解することの不可能な観念だ、それは何か顔も知らなかったのです。いまでもお互いに敵同士だと思っ っている。ふたりの間には未解決の問題がある。それが、問題 とてつもなく大きなもの、とてつもなく大きなものだ , て。でも、どうして、なにがなんでも、とてつもなく大きな なんぞほっぱり出して、こんな文学談をおつばじめてしまっ ものでなければならないんです ? ひょっとして、そうした たじゃありませんか ! やつばり私の申し上げた通りでしょ むじな う、われわれは同じ穴の狢だって ? 」 すべてのもののかわりに、そう、ひとっ想像してみて下さい、 「まことに申しわけありませんが」苛立たしげな声で、ラス そこには小さな部屋がひとつあるだけかもしれない、ちょう すす ど田舎の風呂場みたいなやつで、煤だらけで、どの隅にも蜘コーリニコフがふたたび言った。「なぜわざわざこんなとこ ろへお越し下さったのか、その理由を一刻も早くご説明願え 蛛がいる、で、それこそが永遠に他ならない、 そういったようなものが、ときおり、目の前にばんやり見えませんか : : : その : : : その : : : 僕は急いでいるのです。暇が ありません、外出したいので : : : 」 るような気がするんです」 と。じつは、
「その時、僕は見抜いたんだ、ソーニヤ」感激に震える声で、は ! ああ、神様 ! 何ひとつ、何ひとつ、このひとには分 つか 彼は続けた。「カはただ、敢えて身をかがめて、それを掴みらないにちがいありません ! 」 とろうとする者にのみ与えられるのだ、とね。肝心なことは 「お黙り、ソーニヤ、ひやかしてなんかいないよ、まるでち キただひとつ、ひとつだけ、つまり、敢えてなしさえすればい がう。悪魔に引きすられたことぐらい、自分でも分っている しつよ・つ フいんだ ! その時、僕の頭にひとつの考えが生まれた、生まんだから。お黙り、ソーニヤ、お黙り ! 」陰鬱に、執拗に れてはじめて。僕以前し。 こま、これまで誰ひとり、ただの一度彼は繰り返した。「僕には何もかも分っているんだ。そんな 誰ひとりとしてね ! ドとして考えついたことのない考えがー ことは何もかも、考えに考えたよ、繰り返し繰り返し自分に 僕には、突然、白日のごとく明らかになった。こうした愚劣ささやいて聞かせたよ、暗闇の中に横たわっていた時にね しつば 事のわきを通りながら、これまで誰ひとりとして、その尻尾 : そんなことは何もかも、どんな細かなところまでも、自 をつかまえて、あっさり悪魔のところへ投げつけてやるとい 分で自分と議論し抜いたんだ、だから、何もかも分っている、 う、それだけのことをする勇気すらなかったし、 いまもない何もかも ! で、あの時、そんなお喋りにはほんとにうんざ とは、何とおかしなことだろう ! 僕は : : : 僕は、敢えて勇りした、ほんとにもううんざりしちまった , 僕は何もかも 気を出したくなって、それで、殺した : : : 敢えて勇気を出し忘れ果てて、それから、新しく始めたいと思ったんだよ、ソ たかっただけなんだよ、ソーニヤ、それが理由のすべて ーニヤ、お喋りはやめたくなったんだ ! いったいお前は、 僕が馬鹿丸出しに、何の考えもなく、あそこへ出掛けたとで 「ああ、お黙りなさい、お黙りなさい ! 」両手を打ち鳴らし も思っているのかい ? 僕は賢い人間として出掛けていった、 て、ソーニヤが叫んだ。「あなたは神様から離れてしまったそして、そのことが僕を破滅させたんだ ! いったいお前は、 のです、だから、神様はあなたを懲らしめたのです、悪魔の僕が知らなかったとでも思っているのかい ? たとえば、お 手にお渡しになったのです ! れには力を持っ権利があるのかなんて、そんなことを僕が自 くらやみ ただ 「そう一一一一口えば、ソーニヤ、それは僕が暗闇の中に横たわって分に向かって聞きはじめたからには、問い質しはじめたから いて、ああしたことが何もかも頭に浮かんできたときのこと には、つまりは、僕には力を持っ権利などないのだというこ だね。あれは、つまり、悪魔が僕をまどわしていたわけだ ? とぐらい。あるいはまた、人間は虱なのかなんて、そんな質 ねえ ? 」 問を僕が自分に出したからには、つまりは、僕にとってはも 「お黙りなさい , ひやかさないで下さい、ああ、神様の冒 う人間は虱じゃない、人間が虱であるのは、そんなことなど 漬者、何ひとつ、何ひとっ分っていないんです、あなたに まるで頭に浮かべもせず、何の疑問もなしにさっさと出掛け
「ああ : : : あなたでしたか ? 」ラスコーリニコフはとてつも も決まったんだから」とプリへーリヤ・アレクサンドロヴナ なく驚いてそう言ったが、突然、自分のほうもどぎまぎして が一一一一口った。「そ , つい , っことにし、ましょ , つよ。あたしもか , んっ て気が楽になったわ。お芝居をしたり、嘘をついたりは厭でしまった。 : ピ彼は母と妺とがノ 、ゝ、レージンの手紙を通して、どこやらの キね。何もかも本当のことを一言ってしまったほうがいし : 『一打状はなはだもってかんばしからざる』娘のことをいくら フヨートル・。へトローヴィチが怒ろうと、怒るまいとね ! 」 工 かは知っているという事実をすぐ頭に思い浮かべた。つい今 ス しがた、彼はルージンの中傷に抗議し、その娘をはじめて見 たばかりだと言ったところなのに、突然、他ならぬその娘が おくびよう その瞬間、ドアが静かに開いて、あたりを臆病そうに見入って来たのである。そればかりか、自分がその『行状はな だれ はだもってかんばしから、る』とい , つ一一一豆果に対しては、いき、 回しながら、ひとりの娘が部屋へ入ってきた。誰もが驚きと おも さかの抗議も申し立てなかったことをも、彼は想い起こした。 好奇心をその顔に浮かべて、娘のほうを振り向いた。それは ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワだった。ラスコそうしたことが何もかも、一瞬のうちに、ばんやりと、彼の ーリニコフは、最初の一瞬、それが誰か分らなかった。昨日、頭をかすめて通ったのである。けれども、もう少し注意深く 彼ははじめて彼女を見たけれども、あのような時、あのよう目をこらした彼は、突然、この卑しめられたものが、もうど な状況、しかもあのような身の装いだったので、彼の記憶にれほどまでに卑しめられているのかに気がついた。突然、彼 はあわれを感じた。彼女が恐ろしさのあまりいまにも逃げ出 は、まるきりことなった顔が刻み込まれていたのである。 いや、貧しい装いの娘で、まそうとしかけたときーー彼の心の中で、何かがくるりと転回 ま見ると、それはつつましい したかのようだった。 だ年端の行かない少女という趣さえあった。つつましやかな、 おび 「あまり思い掛けなかったものですから」目で彼女を引きと 品のよい物腰の、明るいけれども、どこか物に法えたような 顔をした娘だった。たいそう粗末な普段着を身にまとい、頭めながら、彼はあわてて話しかけた。「どうそお掛けになっ には古ばけた、流行おくれの帽子をかぶっていた。ただ手にて下さい。きっと、カチェリーナ・イワーノヴナのお使いで ここじゃなく、・回 , つの いらしたのでしよう。ごめんなさい は、昨日と同じように、日傘を下げていた。思いがけす、部 ほうへ、さあ、そこへどうそ・ : : ・」 屋が人で一杯なのを見ると、彼女は当惑を通りこして、ただ ソーニヤが入って来たとき、ラスコーリニコフの部屋にあ もう度を失ってしまい、幼い子供のように法えあがって、そ す る三つの椅子のひとつに腰を下ろして、ドアのすぐ横にいた のまま引き返しそうなそぶりさえ見せた