365 罪と罰 やじうま ドアのところには、野次馬が何人か集まった。中には、部 「アリヨーナ・イワーノヴナと、妹さんのリザヴェータ・イ 屋まで入り込もうとする者さえあった。こうしたことが何も おの ワーノヴナを、私が : : 殺しました : : : 斧で。目の前が真暗 かも、ほんの一瞬のまに生じたのである。 ・ : なんだ になってしまって : : : 」突然、そう付け加えると、彼はまた 「連れて行け、まだ早い ! 呼ぶまで待つんだ , めんくら って、こんなに早く連れて来たんだ ? 」すっかり面喰ったらしても黙り込んでしまった。相変らず、ひざますいたままだ しいポルフィーリイ・ベトローヴィチは、なんともいまいま つぶや ポルフィーリイ・ベトローヴィチはしばらくのあいだ、突 しくてたまらないといった口調で呟いた。けれども、ニコラ 突然、また っ立ったまま考え込んでしまった様子だったが、 イは、突然、その場にひざますいてしまった。 「おい、どうしたんだ ? 」ポルフィーリイはびつくりして叫しても、はっとわれに返ると、手をひと振りして、呼ばれも んだ。 しないのに集まった証人どもを追い払った。皆たちまち姿を 私は人殺しで消し、ドアが閉じられた。それから、彼は、部屋の片隅に立 「亜つ、こギ、いました ! 非をノ犯しました ! リニコフ くらかあえいではいたも って、異様な顔でニコライを見詰めているラスコー す ! 」突然、ニコライが言った。い に目をやると、その方へ歩み寄ろうとしかけたが、突然、足 のの、かなり大きな声だった。 あぜん 十秒はど、沈黙が続いた。誰もがただ唖然としてしまった。をとめ、彼をちらりと眺めるなり、すぐ視線をニコライのほ 看守さえ思わずたじろいで、もうニコライを追おうとせす、うへ移し、それからまたラスコーリニコフを眺め、それから またニコライを眺めた。そして、突然、もう無我夢中になっ 機械的に、ドアのところまで退くと、そのまま動かなくなっ てしまった。 てしまったかのように、ふたたびニコライのもとへ突進した。 「なんでお前は目の前が真暗になったなんて、先走ったこと 「いったい何のことだ ? 」じきにわれに返ったポルフィーリ しゃべ を喋るんだ ? 」はとんど憎悪さえ感じられる声で、ポルフィ イが、大声で叫んだ。 ーリイは叫んだ。「まだ聞いちゃおらんそ、目の前が真暗に 「私は : ・・ : 人殺しです : : : 」こころもち間をおいて、ニコラ なったかどうかなんて : : : さあ、一一一一口うんだ。お前が殺したん イが繰り返した。 「なんで : ・・ : お前が : : ・なんで : : : 誰を殺した ? 」 ろうばい 「私は人殺しです : ・・ : 供述いたします : : : 」ニコライが言っ ポルフィーリイ・ベトローヴィチは、明らかに、良狽して 「ええい、畜生 ! なんで殺した ? 」 ニコライは、またしても、ほんのこころもちほど間をおい
そう証一一一一口した。 へ連れて行ってやってほしいと説得するのだった。 「声を掛けたのは本当だ。三度、大きな声で叫んだんだ ! 」 「ほら、あそこですよ、三軒おいたその先の家」彼はしきり もうひとりの声が応じた。 に気をもんだ。「コーゼルの家、ドイツ人の、お金持ちのね 「きっかり三度だ、みんな聞いたぜ ! 」三人めが叫んだ。 : この人はいま、きっと、酔っぱらって家へ帰るところだ もっとも、馭者はそれほどたいしてしおれてもいなければ、 ったにちがいない、僕はこの人を知ってるんです : : : ひどい 震えあがってもいなかった。見たところ、この馬車は裕福な呑んべえなんでね : : : 家には家族がいる。奥さんと、ちっち 名士の物で、これから、その持ち主を迎えに行くところだっ ゃな子供たちと、娘もひとりいます。病院へ連れていくまえ もちろん たらしい。勿論、警官たちはそこのところをどうしたらうま に、とにかく家へ、あそこにはきっと医者も住んでますよ , く処理できるか、少なからず苦慮していたわけである。踏み僕が払いますから、ちゃんと払いますからね , ・ : なんたっ にじられた男を所轄の署か病院へ運ばなければならなかったて、身内の看護をうけるのがいちばん。すぐに手当てをして が、彼の名を知っている者はひとりもいなかった。 もらえる、さもないと、病院へ着くまえに死んじゃいますか ラスコーリニコフは人垣を押しのけて、さらに近づいた らね : : : 」 突然、角灯がこの不幸な男の顔をあざやかに照らし出した。 彼は人目につかぬよう、そっと、巡査の手にいくばくかの 知っている顔だった。 金を握らせさえした。もっとも、事は明白であり、合法的で 「僕はこの人を知っている、知ってますよ ! 」彼は人々をかあった。いすれにせよ、そうしたほうが早く手当てを受けら きわけて、一番前に出ながら叫んだ。「この人は役人です、れるはすだった。踏みにじられた男はかつぎあげられ、運ば 退職した、九等官で、マルメラードフっていうんです ! これていった。手助けをしてくれる者たちが現われたのである。 こに、すぐ近くに、コーゼルの家に住んでる : : : 医者をすぐコーゼルの家までは三十歩ほどだった。ラスコーリニコフは 呼んで下さい , 業が払いますよ、ほら ! 」そう一一 = ロうと、彼麦ろにしたがい、、冫 . 、冫 主意朶く順を支えながら、道を教えた。 はポケットから金を引っ張り出して、巡査に見せた。彼はと 「こっち、こっち ! 階段は、頭を上にして運ばなけりやい てつもなく興奮していた。 けない。向きを変えて下さい : : そ、つ、そ , っ ! 業が払 . いま つぶや 一言 巡査たちは馬に踏まれた男の身一兀が分ったので喜んだ。ラすからね、僕がお礼はします」彼は呟くように言った。 と 罪スコーリニコフは自分の名を明かしたばかりか、住所も告げ カチェリーナ・イワーノヴナはすこしでも暇な時間があれ たうえで、それこそまるで自分の生みの父親のことのように ば何時もそうするように、今も両手をしつかりと胸に組んで、 せき 懸命になって、意識を失ったマルメラードフを一刻も早く家ひとりごとを言ったり、咳をしたりしながら、狭くるしい部
「兄さん、兄さん、、つこ、、 しオしなんてことを言うの、そん「でも、それはちがうわ、まるでちがうわ ! 兄さん、そん だって、兄さんは血を流したのよ ! 」 ドウーニヤは必な、なんてことを一一 = ロうの ! 」 死になって叫んだ。 「なるほど ! 形式がちがったというわけか、美学的見地か キ「隹も彼もが流している血をね」彳し 皮よまとんど逆上したかのら言って、よい形式ではなかったというわけか ! でも、僕 フように叫んだ。「この世界で滝のように流されているし、こ にはなんとしても理解できないよ。なぜ正規の包囲攻撃を行 れまでも絶えす流されてきた血、人々がシャンパンのように なって、爆弾で人間を殺すほうがより尊ぶべき形式なんだろ ス 流し、そのことゆえにカピトルの丘で栄冠を授けられ、後に う ? 美学に対する恐れは無力の最初の徴候なんだ , は人類の恩人と呼ばれることになったその血をね。お前もものことをいまほどはっきり自覚したことは一度もない、たた う少し目をこらして、よく見てごらん ! この僕だって人々の一度もない。だから、いまこそ、これまでのいつにもまし に善をなしたかったんだし、何百、何千という善行をなしえて、僕の罪なるものが理解できないんだ ! 僕がいまほどカ たかもしれないんだ。あのひとつの愚行の代りにね。いや、と確信に満ちていたことは、これまでにただの一度もないん あれは愚行でさえない、ただの不手際な行為というにすぎな た、ただの一度も , あおじろ いんだ。なにしろ、あの思想全体は、失敗に終ってしまった彼の蒼白い、やつれ切った顔に、一瞬、紅が差したはどだ いまそう見えるほど愚劣なものじゃ決してなかったんだから った。けれども、この最後の叫びを上げたとき、彼の視線は ・ ( 失敗すれば、なんだって愚劣に見えるものさ ! ) あのふとドウーニヤの目と合った。そして、その彼女のまなざし 愚行によって、僕は独立独歩の立場に立ちたかっただけなんに、自分ゆえのあまりにも深く、あまりにも大きな苦しみを だ。最初の一歩を踏み出し、資金を獲得したかっただけなん認めて、彼は思わずわれに返った。なんと言っても、自分は だ。そうすれば、一切が帳消しになるはずだった。なにしろ、このふたりのあわれな女達を不幸にしてしまったのだと、彼 そんな愚行にくらべて、測り知れないほど大きな利益をもた は感じたのである。なんと言っても、この自分が原因なのだ らすことになったはずだからね : : : でも僕は、僕は、最初の 、ドウーニヤ , 「、か , わ、い - し 一歩さえも持ちこたえることができなかった。なぜって、僕 もし僕に罪があるのなら、許して がーー。卑劣漢だからさ ! 要するに、そういうことなのさ , おくれ ( もっとも、罪があるなら、許すことなどできないけ それでも、やつばり、僕はお前達の目で見ることはしないよ。 どね ) 。さよなら ! 議論するのはよそう , ・も , っ ( 打ど、・時・戸ー もし成功さえしていれば、僕は栄冠を授けられただろうに、 だ、ほんとに、もう時間なんだ。ついて来ないでおくれ、お それが、こうして、罠にはまってしまった ! 」 願いだから、まだ寄らなきゃならないところがあるんだ : わな
またしても、一分ほど、ふたりはじっと見詰め合った。と うとう、スヴィドリガイロフの顔が一変した。ラスコーリニ コフが脅しに乗らないのを見極めると、彼は、突然、このう キ ラスコ ーリニコフは彼のあとについて歩き出した。 えもなく陽気な、愛想よい表情を浮かべた ス フ 「こりやど、つい、つことです・・ ! 」スヴィドリガイロフはくるり 「どうも、とんでもない人だなー 私はですね、わざとあな 工 もち トと振り返って、叫んだ。 たの事件のことはロに出さないようにしていたんですよ。勿 ろん 「つまり、いまはあなたから離れないということです」 論、好奇心に責め立てられてはいましたがね。なにしろ、幻 「なーんですと ! 」 想的な事件ですから。せつかく、次の機会までお預けにして ふたりは立ち止り、そのまま、一分ほど、互いに相手の腹おこうと思ったのに、まったく、あなたという人は、死人ま をさぐろうとするかのように、じっと見詰め合った。 で怒らせることがおできになるんですな : : : まあ、一緒にま 「あなたの酔っ払い半分の話から」ラスコーリニコフは鋭く いりましよう。ただ、お断わりしておきますが、私は金を取 りにちょっと家へ寄るだけですよ。それから、戸締りをして、 斬り込んだ。「僕ははっきりと断定したんです。あなたが妹 もくろみ に対する卑劣このうえもない目論見を捨てていないばかりか、馬車をやとって、島のほうへ行くんです。夜おそくまでね。 いったい、あなた、。 とこまでついていらっしやるんです ? 」 前にもましてそれに熱中しているとね。今朝、妹が何やら手 「とにかく、あの家まで行きます。いや、あなたのお住まい 紙を受け取ったことも僕は知っているんです。それに、あな : かりに、あなたが、 た、さっきもすっとそわそわしていた : じゃなく、ソフィヤ・セミョーノヴナのところへね。葬式に わ その片手間に、花嫁とやらを掘り出したのが事実だとしても、出られなかったお詫びに」 「そりやご自由ですが、ただ、ソフィヤ・セミョーノヴナは そんな事はなんの意味もありやしない。僕は自分の目で確か めたいんです : : : 」 留守ですよ。子供達をみんな連れて、あるご婦人に会いに行 ラスコーリニコフは自分がいまいったい何を望んでいるの ったのです。私の古くからの知り合いで、いくつかの孤児院 の監督をしている、もうお年を召した名流婦人ですがね。私 か、いったい何を自分の目で確かめたいと思っているのか、 自分自身でもはっきりとは分らなかった。 は、カチェリーナ・イワーノヴナの三人のおちびさん達の養 「なるほど、そ , つい , っことですか , なんなら、いますぐ巡育料を納めたばかりか、孤児院のほうへも寄付をして、その 査を呼びましようか ? 」 ご婦人をすっかり喜ばせたうえで、ソフィヤ・セミョーノヴ 「勝手に呼びなさいよ ! 」 ナの身の上話をご披露に及んだわけです。それこそ一部始終、
つぶや : ほっといてほしいんだ ! ひとりきでそう呟くと、彼は部屋を出てしまった。 、愛してるんだよ : ドウーニヤが金切声を りにしといてほしいんだ ! 僕は、もっと前に、そう決めた「情知らず、意地悪、エゴイスト ! 」 んだ : : : そうはっきり決めたんだ : : : 僕の身に何が起ころうあげた。 「彼は気が狂ってるんですよ、情知らずじゃない ! 気が狂っ キと、この身が滅びようと、そうならずにすもうと、とにかく いったい、それが分らないんですか ? たっ フひとり - でいたし 僕のことは、きれいさつばり忘れて。そのているんですー : 」ラズーミヒンは たら、あなたのほうこそ情知らすだ ! トほうがいいんだ : : : 僕の消自 5 をさぐったりしちゃいけよ、。 ス 必要なときには、僕のほうから来るか、さもなきや : : : ふた彼女の手をかたく握りしめ、その耳もとに口を寄せると、熱 した声でそうささやいた。 りを呼ぶよ。もしかしたら、何もかも、よみがえるのかもし : でも、いまは、もし僕を愛していてくれるのな 「すぐ戻って来ます ! 」まるで死人のような顔をしているプ れない ! 丿ヘーリヤ・アレクサンドロヴナに向かってそう叫ぶと、彼 ら、僕をあきらめて : : : さもないと、僕はふたりをむよう になるかもしれない、そんな気がするんだ : : さようなは部屋の外へ走り出た。 ラスコーリニコフは廊下の端で、彼を待ち受けていた。 「ああ、神様 ! 」プリへーリヤ・アレクサンドロヴナが叫ん「君が駆け出して来るのは分っていたんだ」彼は言った。 「ふたりのところへ戻って、一緒にいてやってくれ : : : あし : もしかしたら、・米る・ : : ・も いや、いつも。僕は : 母も、妹も、激しい驚愕に捉えられてしまった。ラズーミ しできたら。き、よなら ! 」 ヒンも同じだった。 「ロージャ、ロージャー そのまま、手を差し伸べようともせす、彼は歩き出した。 仲直りしておくれ、もと通りに 「おい、どこへ行くんだ ? どうしたんだ ? なろうよ ! 」あわれな母が叫んだ。 彼はゆっくりとドアのほうを向き、ゆっくりと部屋から出うしたっていうんだ ? ほんとに、こんなことって、あるだ つつ , つか , : 」途方に暮れ果てたように、ラズーミヒンが呟 て行こうとした。ドウーニヤが追いすがった。 「兄さん ! お母さんに、なんてことをするの ! 」怒りに燃 ラスコーリニコフは、もう一度、立ち止った。 えるまなざしを兄にそそぎながら、彼女がささやいた。 「これが本当に最後だよ。もう決して、僕のことは何も聞か 彼はつらそうに妹を見た。 「なんでもない、また来るよ、ちょいちょい来るよ ! 」何をないでほしい。僕には君に答えるべきことなんか何ひとつな いんだから : : : 僕のところへは来ないでくれ。もしかしたら、 言いたいのか自分でもはっきり分らないかのように、低い声 とら
でー ) よ ? ・ 「ああ、ああ : : : 」 「だから ? 」 「じゃあ、いないんですね ? おかしいな。だいいち、全く ばあ 「ほんとにまだ分らないんですか ? つまり、誰かひとりは 一馬鹿げてる。あの婆さんがどこへ行くんです ? 用事がある スんですがね ! 」 中にいるんです。ふたりとも出掛けたのなら、外から鍵をか 、。まら、司、て けるはすで、中から掛け金を差すはずはなし 工「そりや、あんた、私だって用事ですよ ! 」 ごらんなさい、がちゃがちゃいってるでしよう ? 内側から ス「でも、どうしましよう ? まあ、帰りますか。畜生め ! 掛け金を差し込むためには、中にいなけりゃならない、分り 金を借りようと思ったのにさ ! 」青年は叫んだ。 ます・か ? とい , っことはっまり、山・・にいるのに、開けよ , っと 「むろん、帰るしかない。だが、なんで約束したんだろう ? しないんだ ! 」 あの婆あ、自分で時間を決めたんですからな。わざわざ回り 「こりや、まあ , いや、全くその通りですな ! 」コッホは 道したのに。それにしても、どこをほっついてるのかな ? さつばり分らん。年がら年じゅう部屋にとじこもって、足が驚いて叫んだ。「だが、やつら、中で何してるんだろう ! 」 痛いとかなんとか、しぶい顔をしていたくせに、急にお散歩彼は猛烈な勢いでドアを引っ張りはじめた。 「待ってください ! 」またしても青年が叫んだ。「引っ張ら かね ! 」 ないで ! こいつは、何かあったんですよ : 、ノら 2 らし 「門釆田に聞いてみましょ , つか ? 」 となると、ふた 開けよ , っとし、ない ても、引っ張っても 「何を ? 」 りとも気でも失ったのか、さもなきや・ 「どこへ行ったのか、いっ帰るのか」 : だが、どこへ 「何なんです ? 」 「そうさね・ : , : 畜生 : : : 聞いてみますかな : しいですか、門番を呼びに行きましよう。門番に起 も出掛けるはすはないんだがなあ : ・・ : 」そう一一一一口うと、彼はも こき、せたほ , つがしし」 う一度、ドアの把手を引っ張った。「畜生、どうしようもな 「そうしましよう ! 」ふたりは下へ降りはじめた。 何きますか ! 」 「ちょっと待って ! あなたはここに残ってください、イカ 「待ってください ! 」突然、青年が叫んだ。「ほら、見てご ひとっ走りして、門番を呼んできますから」 らんなさい、引っ張るとドアが動くでしよう ? 」 「なぜ残るんです ? 」 「だから ? 」 「つまり、鍵がかかってるんじゃない、掛け金を差し込んで「何が起こるか分りませんから。ね ? 「それもそうですな : あるだけなんですよ。ほら、掛け金ががちゃがちゃいってる
客を優遇する主人として、馬車のそばに残った。 くにつれて、しだいに真剣味を加えてきた。沼地にすむ小鳥 馬車がとまると、クラークはとび下りざま、まっすぐに土が、一瞬、ラスカの注意をそらしただけだった。ラスカは小 の盛り上がってるあたりを目ざしてとんで行った。ウエスロ丘のまえで一まわりした、そしてもう一度まわりかけて、不 からだ イ フスキイが真っ先に犬を追って駆けだした。そして、オプロ 意にびくりと身体をふるわせ、そのままじっと動かなくなっ ルンスキイがまだそばに行かぬうちに、田鴫が一羽飛び立った。 ウエスロフスキイが射ったが、 狙いがはすれ、田鴫は刈り残「来い、来い、スチーワ ! 」とレーヴィンは胸の動悸がしだ されていた草場に舞い下りた。この獲物はウエスロフスキイ 、にはげしくなってくるのを感じながら、叫んだ。そのとた にまかせられた。クラークがまたその田鴫を見つけて、そのんに、まるで彼の緊張した耳の中の何かの滑り弁が開いたよ 場所を教えた。ウエスロフスキイはそれを射止めて、馬車の うに、あらゆる音が、距離感を失って、乱雑に、しかしはっ ところへもどってきた。 きりと、彼の鼓膜を打ちはじめた。彼はオ。フロンスキイの足 「今度はあなたが行ってらっしや、 ばくが馬の番をしてま音を聞いて、遠い馬蹄の音と思ったり、自分の踏んづけた小 すから」と彼は一一 = ロった。 さな丘の端が草の根をつけたままくすれ落ちるかすかな音を、 しっと レーヴィンは狩猟家特有の嫉妬にとらわれはじめていたと田鴫の飛び立っ音と聞きちがえたりした。背後のあまり遠く たた ころだった。彼はウエスロフスキイに手綱をわたすと、沼のないところでばしやっと水面を叩いたような音も聞こえたが、 方へ向かった。 彼にはそれが何の音かわからなかった。 もう先ほどから悲しげにくんくん鳴いて、しきりに不公平足場を選びながら、彼は犬の方へ近づいて行った。 を訴えていたラスカは、レーヴィンのよく知っている有望な 「かか、れ ' ・」 小丘を目ざして、まっしぐらにとんで行った。そこはまだク犬の足もとから、田鴫ではなく、山鴫が、さっと飛び立っ ねら ラークに荒らされていなかった。 た。レーヴィンは銃を構えた、そして狙いをつけたとたんに、 どうして犬をとめないんだ ? 」とオプロンスキイは例の水面を叩くような音が強まりながら、近づいてきた、そ 叫んだ。 して何やら奇妙な大声で叫び立てているウエスロフスキイの 「やつはおどろかすようなへまはしないよ」とレーヴィンは声が、それに加わった。レーヴィンは山鴫をうしろから狙う うれ 愛犬の姿を嬉しそうに見やり、急いでそのあとを追いながら、格好になったが、かまわずに発射した。 答えた。 当たらなかったのを見とどけてから、レーヴィンは振り返 獲物をさがすラスカの態度は、見おばえのある小丘に近づ った、すると二輪車を引いた馬が道の上にではなく、沼地に ねら どうき
まうような種類の人間ではないことに、すぐに気づいた。す一枚ずっという有様なのに、カチェリーナ・イワーノヴナは まくら ぐさま、彼女の手で不幸な男の頭の下に枕があてがわれた。汚れたものなどなんとも我慢ができないという性分で、夜の だれも、そんな事に考えがまわらなかったのである。カチェ夜中に自分を苦しめ、みんなが眠っているあいだに洗濯をし キ丿 って、張り渡した紐に洗ったものをつるしておき、朝までには ーナ・イワーノヴナは夫の服を脱がせ、傷を調べにかか ス フた。せいてはいたものの、取り乱したりはせす、自分のこと乾いてさつばりした下着を皆に用意するという、カにあまる トなど忘れ果て、震える唇をきゅっとかみしめ、いまにも胸か苦役を自ら進んで引き受けるほうが、家の中に汚れ物を見る ーリニコフの求めに よりはましなのであった。彼女はラスコ ドらほとばしり出ようとする叫びをじっと押し殺していた。 ラスコーリニコフはその間に、居合わせた男のひとりを口応じて水を運ばうと、たらいに手をかけはしたものの、その 説き落して、医者までひとっ走りしてもらうことに成功した。重さにあやうく倒れそうになってしまった。けれども、ラス コーリニコフはそのあいだにタオルを探し出して、水にひた 医者は一軒おいた隣に住んでいることが分った。 「いま医者を呼びに行ってもらいましたからね」と彼はカチし、血まみれのマルメラードフの顔をぬぐいはじめた。カチ エリーナ・イワーノヴナはそのかたわらに立ち、両手で胸を エリーナ・イワーノヴナに何度も言って聞かせた。「心配な 、こ。皮女のほうこ さらないで下さい僕が払いますから。水はありませんか ? 押えるようにして、苦しげに自 5 をついでしオ彳 : ナプキンか、タオルか、なんでもいい、早くください そ助けを必要としていたのである。ラスコーリニコフは、踏 : 怪我をなさっただけで、死んでみにじられたマルメラードフをここへ運ぶように説き伏せた 傷の様子がまだ分らない : +6 、よ、 まちがいありませんとも : : : 医者は何て言うでしのは、自分の失敗だったかもしれないと思いはじめた。巡査 もやはり当惑顔でその場にたたすんでいた。 よ , つ、ね ? ・」 「。ホーリヤ ! 」とカチェリーナ・イワーノヴナが叫んだ。 カチェリーナ・イワーノヴナは窓のところへ飛んでいった。 その片隅にある押しつぶされたような椅子の上に、水を入れ「ソーニヤ姉さんのところへ行っておくれ、大急ぎでね。も た大きな素焼きのたらいが置いてあった。この水は夜のうちし家にいなくても、やつばり、お父さんが馬車にひかれたか ことづて に子供たちゃ夫の下着を洗濯するために用意されていたものら、すぐここへ来るようにつて一一 = ロ伝を頼むのよ : : : 帰って来 たらすぐにつてね。一刻も早く行っておくれ、ポーリヤ , で、この夜中の洗濯を、カチェリーナ・イワーノヴナは少な ずきん くとも週に二回、時にはそれ以上も、自分の手で行なう習わさ、この頭巾をかぶって ! 」 「いっちよけんめいに、はしってね ! 」椅子に座っている男 しになっていた。なにしろ、いまでは着替えのための下着な どほとんど全くなくなってしまい、家族ひとりにつきわすかの子が叫んだ。叫んだかと思うと、またしてもこれまでと同 ひも
な : : : 何だ ? 」彳。 皮ま荷車のそばから何やら叫んでいる若者のイとアンナ、二輪馬車に乗った公爵令嬢ワルワーラとスヴィ 方を振り向いた。「あ、そうか ! さっき麦刈機を見にゆくヤジスキイの一行だった。彼らは散策を兼ねて、新しく備え とかで、馬でここを通られたつけ。でも、いま時分は、きっ つけた麦刈機の活動状況を見に出て来たのだった。 なみあし ともどってらっしやるで。で、あなたさまはどちらから 幌馬車が止まると、騎手たちは常歩に移った。先頭にアン ナとウエスロフスキイが馬首を並べていた。アンナは、たて がみを刈りこみ、尾を短く結んだ、背の高くないがっしりし 「遠くの者だよ」と御者は御者台にのばりながら、言った。 「じゃ、もう近いんだな ? 」 たイギリス種の馬に乗り、しずかな常歩で進んで来た。山高 「だから、すぐそこだと言ってるでねえか。あの丘を越えた 帽子の下から黒髪がこばれている美しい頭、ふくよかな肩、 : 」と泥除けを手でなでながら、百姓は言った。 黒い乗馬服につつまれた細い腰、それに落ち着いた優雅な乗 健康そうなずんぐりした若者もそばに来た 馬姿全体が、ドリイをびつくりさせた。 「どうだね、取入れの仕事でもねえかね ? 」 最初ドリイには、アンナが馬に乗っているのが不作法なよ 「わたしにはわからないわ、じいさん」 うに田 5 われた。女が馬に乗るなどということは、ドリイの考 きようたい いいな、左へ折れて、まっすぐ行きや突きあたるえでは、若いおきゃんな娘の嬌態と結びついていたし、そ で」と百姓はもっと話をしたいらしく、しぶしぶ馬車を放しれはアンナの立場に適わしくないものに思われたのだった。 ながら、言った。 ところが、近づいて来たのをよく観察すると、ドリイはたち 御者は馬を進めた、だが馬車が角を曲がりかけたとたんに、 まちアンナの乗馬を認める気持になった。その優雅さにもか 百姓たちが叫びたてた。 かわらず、アンナのポーズも、服装も、動作も、すべてがす 「待ちなせえ ! おー 止まれ工 ! 」と二つの声が叫んこしも飾らず、落ち着いていて、気品があり、これより自然 ナ なものはありえないように思われたからである。 レ御者は馬を止めた。 アンナと並んで、スコットランド帽のリポンをなびかせた 「旦那方が来なさるよオ , ほらあそこだ ! 」と百姓は叫んウエスロフスキイが、ふとい両足を前方に突き出し、われな ナ かすげ ン だ。「見なせえ、あんなに大勢で ! 」と四人の騎手と二輪馬がらわが姿に感じ入った様子で、はやり立っ騎兵隊の糖毛の ア 車の二人の一行が道を進んで来るのを指さしながら、百姓は馬を進めてきた。ドリイは彼に気づくと、おかしさに思わす 言った。 笑いが出るのをおさえることができなかった。二人のあとに それは馬に乗ったウロンスキイと調教師、ウエスロフスキウロンスキイがつづいた。彼の馬は黒栗毛のサラ。フレッドで、 ら :
びん 手ごたえがありそうに思われるオ。フロンスキイの銃声 いウォトカの壜を上げながら、叫んだ。 「〈何と一言ってるんですか ? 〉」とウエスロフスキイはフラン がひびきわたり、しかもそのたびにと言っていいほど、「ク ラーク、クラーク、一打け ! 」という声が聞こえた。 ス語できいた。 イ これがますますレーヴィンをいらいらさせた。山鴫はたえ 「ウォトカを飲まんかと、呼んでるんですよ。きっと、草場 ス ず菅の茂みの上空をぐるぐる舞っていた。翼が湿地のぬかるを分けてたんですよ。ばくは呼ばれようかな」とレーヴィン ひ みを叩く音や、上空の鳴き声が、四方八方からたえまなしに は、ウエスロフスキイがウォトカに惹かれて、百姓たちのと 聞こえていた。先に飛び立ち、上空をまわっていた山鴫が、 ころへ行くことを期待しながら、いくらかずるい気持で言っ 狩猟家たちのまえに舞い下りはじめた。先ほどは二羽だった 大鷹が、いまは何十羽もかん高い鳴き声を立てながら沼の上「どうしてごちそうするんでしよう ? 」 空に輪を描いていた。 「よに、浮かれてるんですよ。ほんとに、行ってごらんなさ おもしろいですよ」 沼の大半をまわったところで、レーヴィンとウエスロフス あぜみち 「〈行きましようよ、おもしろそうですね〉」 キイは、踏み固められた畦道と刈り取られた列が、長いはっ きりした縞となって菅の茂みまでつづいている、百姓たちの 第打ってらっしゃい、 ~ 打ってらっしや、 、水車小舎への道は すぐわかりますよ ! 」とレーヴィンは叫んだ、そして振り向 草場に出た。草場の半分はもう刈入れが終わっていた。 くと、ウエスロフスキイが銃をもった手をだらりと垂れ、 刈入れのすんでいない草場では、刈り跡ほどの獲物を見つ からだ カカ けることは、ほとんど期待できなかったが、それでもレーヴ身体をまえに屈め、疲れた足をもつれさせながら、沼地を出 インはオプロンスキイと落ち合う約束をしていたので、刈入て百姓たちの方に歩きだしたのが見えたので、ほっとした。 れのすんだところもすまないところもかまわすに、連れとい 「おめえさんも来なよ ! 」と百姓の一人がレーヴィンに叫ん こわ っしょに進んで行った。 だ。「恐がるこたねえ ! ピロシキでもつまみなよ ! 」 し、狩りの旦那方 ! 」と馬を解いた荷馬車のそばにす レーヴィンはウォトカを一杯やってバンを食べたい気持が、 わっていた百姓たちの一人が叫んだ。「こっちへ来て小昼をひどく強かった。彼は疲れていたし、もつれだした足を泥か やらんかね ! 一杯やりなせえや ! 」 ら抜きとるのがやっとなのを感じていたので、一瞬まよった。 レーヴィンは振り向いた。 だがそのとき、犬が獲物発見の姿勢をとった。とたんに疲れ 「来なせえ、遠慮はいらねえ ! 」と真っ赤な顔をした陽気な がすっかりふっとんでしまい、彼は軽央な足どりで湿地を犬 ひげづら 鬚面の百姓が、白い歯を見せ、太陽にきらきら光る緑色つばの方に歩きだした。足もとから山鴫が一羽飛び立った。彼は