なかった。さらに水濠が二つと、空濠が一つありーーそしてっ張る馬を必死に抑えながら、やすやすと三頭をかわした、 こま、ウロンスキイのすぐ目の前で流れるように軽 スタンドの向こう正面がゴールになっていた。スタート地点そして前しし わき はコース上ではなく、二百メートルほど脇へよったところで、央に尻を躍動させている、マホーチンの栗毛のグラジアート イ ルと、さらにその前方に、生きた空もないクゾヴレフを乗せ 幅二メートルほどの水をせきとめた その間に第一の障害 ス 小川があり、騎手は飛び越えても、浅瀬を渡ってもよいことた美しいディアナを残すだけとなった。 最初しばらくはウロンスキイはまだ自分をも、馬をもしつ になっていた 騎手たちは三度ほど並んだが、そのたびに誰かの馬がとびかりとらえていなかった。彼は第一の障害の小川に着くまで、 馬の動きをリードすることができなかった。 だして、また並び直さなければならなかった。老練なスター かんしやく グラジアートルとディアナは鼻を並べてト ー・こ ~ し、ほと ターのセストリン大佐がもう癇癪を起こしかけたが、四度 んど同時に、ばつばっと跳躍し、向こう岸へ飛び越えた。っ 目に、やっと『スタート ! 』の号令をかけた。騎手たちがい づいてフルー・フルーが、いっ踏み切ったのか気づかぬうち っせいにとびだした。 ひしょ - っ に、まるで飛翔するように、宙に浮いた、ところが、ウロン 騎手たちがスタート地点に並んだとき、すべての目と双眼 スキイがそれを感じたまさにその瞬間に、不意に、向こう岸 鏡が色とりどりの騎手たちのかたまりに向けられた。 でディアナと立ち上がろうともがいているクゾヴレフを、自 「出たそ ! スタートだ ! 」息づまるような静寂を破って、 分の馬のほとんど足の真下に見た ( クゾヴレフが跳躍したと そちこちから叫び声が起こった。 たんに手綱をはなしたので、馬は彼を乗せたまま頭からもん 立見席の群衆が、かたまり合って、あるいはばらばらに、 よく見える場所を求めてあわただしく移動しはじめた。最初どりうって倒れたのである ) 。こうしたこまかいことはあと で聞いたので、そのときのウロンスキイの目に映ったのは、 はかたまり合っていた騎手たちの集団が、しだいに伸びて、 フルー ・フルーの足が着くはずのところに、ディアナの頭か 川へ近 二、三頭ずつかたまり、あるいは一頭また一頭と、 づいていくのが見えた。観客たちには彼らがみな同時に走り足がきそうだということだけだった。ところがフルー・フル ーは、ころがり落ちた猫のように、空中で足と背中にぐいと 出したように思われたが、騎手たちにすれば、大きな意味を 力を入れ、倒れている馬をかわすと、そのまま疾走をつづけ もつ一、二秒の差があったのである。 フルー あまりにも神経質すぎて、気が立っていたフルー 「よし、 しいそ ! 』とウロンスキイは腹の中で叫んだ。 は、最初の一瞬を逃し、数頭の馬に先をとられた、しかし、 月川を突破すると、ウロンスキイは完全に馬を掌握した。 まだ川までいかぬうちに、ウロンスキイは手綱をぐいぐし弖 しり
みいだ ーディヤ・イワーノヴ う ? この心の友を見出したおかげで、いまでは子供の死んすることはとうていできなかった。リ だことを神に感謝しておりますのよ。これが信仰のあたえるナの朗読を聞いたり、自分にひたとあてられている、無邪気 - : つかっ なのか狡猾なのか判じかねる、美しいランドーの目を感じた 幸福というものですわ ! 」 「なるはどねえ、それはたしかに : りしているうちに、オプロンスキイは頭に一種特別の重さを : 」とオプロンスキイは、 いくらか自分をとりもどす時間をおばえはじめた。 これから朗読がはじまり、 きわめて多彩な考えが彼の頭の中でもつれ合っていた。 あたえられることを喜びながら、言った。『こりやいかん、 『マリイ・サーニナが、子供の死んだのを喜んでるって : 今日は何も頼まん方がよさそうだな』と彼は考えた。『ただ、 いま煙草を吸ったら、うまいだろうなあ : : : 救われるには、 みそをつけずに、うまくここを脱け出すことだ』 しかも、それにはどうすれ、ま、 「あなたはお退屈でしようね」とリーディヤ・イワーノヴナ信じさえすれ、よ、 坊主どもは知らんで、 リーディヤ・イワーノヴナ伯爵夫人が はランドーを見ながら、一一一一口った。「英衄をおわかりじゃな、 知ってるんだとさ : : : それにしても、どうしてこんなに頭が から。でも短いものですから」 「いや、わたしにはわかるでしよう」とランドーは例の微笑重いんだろう ? コニャックのせいかな、それともここで奇 妙な話ばかり聞かされたせいかな ? でもおれは、これまで を浮かべながら一一一一口うと、目をとじた。 カレーニンとリーディヤ・イワーノヴナは意味ありげに目何も不作法なことは言わなかったはすだ。でもやはり、もう この女に頼むわけにはいかんな。何でも、祈りを強制するつ を見交わした、そして朗読がはじまった。 て話だからな。そんなことをされちやかなわんな。愚の骨頂 だよ。しかしつまらんものを読んでやがるな、でも発音はな べズズーポフか。どうしてこ かなかきれいだ。ランドー ナ 一一オ。フロンスキイは、聞いたこともない奇妙な話を聞かせらんなやつがべズズーポフなんだ ? 』不意にオプロンスキイは したあご あくび へテル。フ欠伸がこらえきれなくなって、下顎が動きだすのを感じた。 レれて、頭がすっかり混乱してしまったのを感じた。。 ほおひげ ルグ生活の複雑さは、およそ興奮剤の作用を彼にあたえ、モ彼は頬髯をなでて、欠伸をごまかしながら、頭をひとっ振っ ナ こ。しかし、それにつづいて彼は、もう自分がうとうとして、 ンスクワ生活のよどみから引き出してくれた。しかし彼がこのオ しびきをかきそうになっているのを感じた。「眠ったようよ」 複雑さを好み、そして理解していたのは、親しい知人たちの 間にいたときだけで、このような縁のない人々の間では、彼と言ったリーディヤ・イワーノヴナ伯爵夫人の声に、彼はは は当惑し、頭がこんがらかってしまって、そのすべてを把握っと目がさめた。
ひ でいた、そして読書によって惹き起こされた自分の思考の歩去が許さないなんて、ばかげたことさ。もっとよくなるため に、もっとよく生きるために、奮起することだ : 彼はす 刀みを思い返していた。それは熱に関するチンダル ( ジに一・チン 〇ー九三。イギ ) の著書だった。彼は、実験の巧妙さを鼻にかけ こし頭を上げて、考えこんだ。主人がもどってきた喜びをま リスの科学者 イ る自己満足と、哲学的見解の不足の故に、チンダルを非難し だこなしきれすに、庭を走りまわって吠えていた老犬ラスカ ス たことを思い出した。すると不意に喜ばしい考えが浮かび出が、外気の匂いを身につけて、尾を振りながらとびこんでく てきた。『二年後にはうちの畜舎にホルスタインが二頭になると、主人のそばに寄り、手の下に鼻面を突っこんで、撫で るそ、それに。ハ ーワはまだ生きてるだろうしな。ベルクートてもらいたそうに、あわれつばく鼻を鳴らした。 め一つし の子の若い牝牛どもが十二頭いるし、見てくれにホルスタイ 「ロを利かないだけでね」とアガーフィヤ・ミハイロヴナは ン親子を三頭まぜておいたら、これはすごいそ , 』彳はまた言った。「犬だって : : : 主人が遠くからもどってきて、ふさ →軏圭日にかかた ぎこんでることくらい、ちゃんとわかってるんですよ」 『うん、なるはど、電気と熱は同じものか。しかし、問題解「どうしてばくがふさぎこんでるんだね ? 」 しいものか 決のために、一つの等式の中で量をおきかえても、 「わたしが見えないと思うのかね、旦那さま ? わたしだっ な ? そりやいかんよ。とすると、どうなるかな ? 自然界て旦那さま方のお気持がわかっていいころですよ。 小 ) き、いと のすべてのカの相互関係はひとりでに本能によって感じられきから旦那さま方の間で育ちましたからねえ。何でもありま からだ るものだ : ・ー」かーし ~ 俑車 ( お」よ、ヾ ーワの子が赤ぶちの牝牛にせんよ、旦那さま。身体が丈夫で、良心にやましいところが なることはもうまちがいない、そして牛の群れに、あの三頭なかったら、それが何よりですよ」 をまぜてやったら : : : さそ素晴らしいだろうな ! 妻と客た レーヴィンは、自分の考えを読まれたことに驚きながら、 : 妻が言う、わたしとコー ちを連れて牛の群れを見にゆく : じっと老乳母を見つめた。 スチャで、自分の赤ちゃんみたいに、この子牛の世話をして しかがです、もう一杯お茶をおもちしましようか ? 」と一一一一口 おりますのよ。すると客が一一 = ロう、どうしてこんなことにそれうと、彼女は茶わんをもって出ていった。 ほど興味がもてるんでしようね ? 夫が興味をもっことには、 ラスカはまだ彼の手の下に頭を突っこんでいた。彼が撫で 。あしもと 何でもわたし興味がありますのよ。だが、妻とは誰のことてやると、ラスカはすぐに彼の足許にまるくなり、突き出し あご だ ? 』ここで彼は、モスクワであったことを思い出した : たあと足の上に顎をのせた。そして、これでもう安心したし、 『でも、 しオ ( さらど , っしよ、つもないき・ : : おれの非じゃよ、。 満足だというしるしに、わすかに口を開けて、唇をびちゃび まきなお なあに、これからは新規播直しだ。生活が許さないとか、過ちゃ鳴らし、老いた歯のまわりに濡れた唇をぐあいよく落ち
ほどの階段を降りると、低い声で門番を呼んでみた。『やっそれはみな長続きはしなかった。ュスーポフ公園のそばを通 いないそ ! だが、どこかすぐ近くに、中庭にいるにるときには、広場という広場に高い噴水をつくったなら、あ 皮ままっしぐらたりの空気がどれほどさわやかになるだろうという考えに夢 ちがいない。戸が開けつばなしなんだから』彳。 に斧に駆け寄ると ( それは斧だった ) 、腰掛の下の二本の薪中になりかけたほどだった。しだいに彼は、夏の園を練兵場 ひろ にまで拡げ、さらにミハイロフスキー御苑とムロ併することに の間から引っ張りだし、その場で、外へ出るまえに、輪つか に差し込み、両手をポケットに突っ込んで、小屋を出た。誰したら、町にとってこのうえもなく有益な美しい眺めができ にも見られなかった ! 『考えに窮すれば、悪魔が助けてくあがるにちがいないと思い込みはじめた。それから、不意に、 なぜどこの大都会でも、人はただ必要にせまられてというだ れる ! 』奇妙な笑いを浮かべながら彼は思った。この偶然が けではなく、何かわざわざ好きこのんで、公園もなければ噴 彼を恐ろしく元気づけた。 水もなく、ただ不潔と悪臭とありとあらゆる醜悪さばかりが 彼は怪しまれないように、静かに、落ち着いた足どりで、 ゆっくりと歩いて行った。行き合う人間にあまり目を向けな充満している区域に住みつく傾向があるのだろうという疑問 こ足えられた。、、ゝ、 カそこで、いつもの乾草広場での散歩のこ いようにした。いや、なるべく人目に立つまいと、人の顔は とが頭に浮かび、たちまち、われに返った。『なんとくだら 一切見ないようにしたほどだった。ふと、帽子のことが頭に 学生ないことを』と彼は思った。『いや、いっそ、何も考えない 浮かんだ。『しまった ! おとといは金があったのに、・ のろ ま , つがしし ' ・』 帽に買い替えなかった ! 』呪いの言葉が心の底からこみあげ 『きっと、こん、なふ , つに、ー」日 てきた。 用場へ引かれて行く者達の思いは、 何気なく、一軒の店を横目でのそくと、壁の時計がもう七途中で出会うすべてのものにまといつくにちがいない』そん が同時な考えが頭にひらめいた。だが、稲妻のようにひらめいただ 時十分を指していた。急がなければならなかった。、ゝ、 けだった。皮は自らあわててこの考えを払いのけた : に、回り道をして、反対側から目指す家へ近づく必要もあっ もうすぐだ。建物が見える、門が見える。突然、どこかで、 以前、こうしたことを頭に思い描いてみた折には、ひどく時計がひとっ鳴った。『なんだ、もう七時半になるのか ? 罰恐ろしいだろうと考えたこともあった。ところが、今はあまそんなはずはない、きっと進んでいるんだ ! 』 レ」 、門はまたしても無事に通ることができた。それ 幸運にも 罪り恐ろしくなかった。いや、まるで恐ろしくなどないといっ ばかりか、ちょうどその瞬間、まるでわざとのように、山の てもよかった。今この瞬間、彼の頭にはまるで今の自分とは ような乾草を積んだ馬車が、ひと足先に門へ入っていったの 関係のない考えばかりが浮かんでくるのだった。もっとも、 まき
道に立っ : : さあ、つまり、これで全部なのさ・ いや、勿落ち着きのないほほえみが、唇のあたりをさまよっていた。 論、婆さんを殺したのはーー・ーそりや、まずいことをしたにはそのひどい興奮ぶりのかげから、すでに恐ろしい無力感が顔 ちがいない・ : でも、もう沢山だ ! 」 をのそかせていた。彼がどれほど苦しんでいるか、ソーニヤ キ何やらカ無げに、ようやくこの最後の結論までたどりつく にはよく理解できた。彼女も、やはり、頭がくらくらしはじ フと、彼は頭を垂れてしまった。 めた。それにしても、彼のこの話しぶりの奇妙なこと、何か ト「ああ、それはちがうわ、ちがうわ」ソーニヤは悲しげに叫分るような気がするけれど、でも : 『でもス "A をつして ! んだ。「そんなことがあるものですか : え、それは、 どうして ! ああ、神様 ! 』絶望のあまり、彼女は手をもみ そうじゃない、そうじゃないわ ! 」 : でも、 「お前の目には、そうじゃないと見えるんだね , いまのはちがうんだ ! 」突然、頭をあげ 僕は誠実に語ったんだよ、真実を ! 」 て、彼はまたしても話しはじめた。唐突な思考の転換が生じ、 「でも、そんな真実なんて、いったい何なんです ! ああ、それが彼を驚かせ、彼にふたたび活気を与えたかのようだっ 神様 ! 」 こ。「いまのはちがうんだ , いや、それより、こう考えて しらみ 「僕はただの虱を殺しただけじゃよ、ゝ、 オしカソーニヤ、無益で、みてもらったほうがいし ( そうだ、ほんとうにそのほうがい 一つめば けがらわしくて、有害な」 ! ) 、こう考えてみておくれ、僕は自惚れが強くて、ねた ふくしゅ、つ 「そんな ! 人間が虱だなんて ! 」 み深くて、意地悪で、けがらわしくて、復讐心に富んでいて、 「いや、そりや、僕だって知ってるよ、虱じゃないことぐらそのうえ : : : おまけに、。 とうやら狂気の傾きがある、とね しは」奇妙な目で彼女を見ながら、彼は答えた。「いや、僕 ( もうこうなったら、何もかもひとつにひっくるめちまえ , うそ は嘘をついているんだよ、ソーニヤ」彳。けカえるように 狂気のことは前にも人が言っていたよ。僕は気づいていたん 言った。「もうすっと前から、嘘をついているんだ : だ ! ) 。ほら、さっきは、大学が続けられなくなったと言っ のは何もかもちがう。お前の一言葉は正しいよ。まるきり、ま たろう。ところが、もしかしたら、続けられたかもしれない るきり、まるきり別の理由があるんだから、これには , んだ。学校へ納める金くらいは、おふくろが送ってくれたろ 僕はもう長いこと誰とも話をしなかった、ソーニヤ : : : ああ、うし、靴だとか着る物だとかバンだとか、そんなものの費用 とっても頭が痛い」 くらいなら、自分で稼げたはずだ。たしかに、稼げたとも , 彼の目は熱病やみのそれのように燃えていた。もうほとん家庭教師のロがあちこちにあって、五十カペイカすつにはな ど熱に浮かされていると言ってもおかしくはないほどだった。 ったんだから。ラズーミヒンだって働いてるじゃないか , かせ
。ししが』ところがそれから現在の問 お腹をわるくしなけれ、 とって容易ならぬ金額であることを、レーヴィンは知ってい た。ひじように苦しい状態にあったドリイの経済事情が、レ題が近い将来の問題に替わりはじめた。彼女は、モスクワで この冬は新しい住居を借り、客間の家具を取り替えなければ ーヴィンには自分のことのように感じられたのだった。 ドリイはレーヴィンのすすめにしたがって夜明け前に出発ならぬことや、上の娘にも毛皮外套をこしらえてやらなけれ した。道はよかったし、馬車は揺れないし、馬どもは軽央に ばならぬことなどを考えた。つづいて、もっと遠い将来の問 走り、御者台には、御者のほかに、レーヴィンが道中の安全題が彼女の頭に浮かんできた。子供たちをどのようにして世 のためにつけてくれた事務員が、従僕のかわりにすわってい の中に出してやったらよいか。『女の子たちはまだいいけど』 た。ドリイはうとうとしていて、もう馬を替えなければなら と彼女は考えた。『男の子は ? 』 はたごや 『いまならグリーシャの勉強を見てやれるから、 ぬ旅籠屋の近くまで来たころに、やっと目をさました。 レーヴィンがスヴィヤジスキイの屋敷を訪ねる途中に立ちそれだって、いまのところお腹に子供がいなくて、暇がある 寄ったあの裕福な百姓の家で、お茶を飲み、女どもと子供のからこそできるんだわ。スチーワは、むろん、あてにならな 話をしたり、主人の老百姓がしきりにほめるウロンスキイ伯 いし。だからわたしが、善良な人々の力を借りて、子供たち 爵の話を聞いたりして、一休みしてから、ドリイは十時にそを世の中に出してやらなければ。でも、もしまた身ごもった りなどしたら : : : 』すると彼女の頭に、女にはお産の苦しみ こを出発した。家では彼女は、子供たちのことで頭がいつば のろ いで、一度もゆっくり考えてみるひまがなかった。そのかわという呪わしい役目をになわされていると、世間では言われ り、この四時間にわたる馬車の旅の間に、 いままで抑えられているが、あれはまちがいだという考えが浮かんできた。 『お産は何でもないけど、育てるのが苦しいんだわ』彼女は ていたさまざまな考えが、一時に彼女の頭の中に湧き出てき て、彼女はこれまで生きてきた自分の生活を、かってなかっ最後に妊娠したときのことや、その赤ちゃんの死んだことを ナ たほど真剣に、あらゆる面から考え直してみた。彼女は自分思い出して、こう考えた。すると旅籠屋で若い嫁と交わした レでも自分の考えがふしぎだった。最初に彼女が考えたのは子会話が思い出されてきた。子供がいるかという問いに 供たちのことだった。公爵夫人と、特にキティが ( 彼女は妹器量よしの嫁はほがらかにこう答えたのだった。 ンのキティの方をむしろあてにしていた ) 、子供たちの面倒を「女の子が一人いたんですが、神さまがお召しくださいまし ア 見ることを約束してくれたが、それでもやはり彼女は不安だて、斎戒期に野辺送りをすませたんですよ」 った。『マーシャがまたおいたをはじめなけれ、ま、 しししが、グ「まあ、かわいそうに、ほんとに惜しいことをしましたわね リーシャが馬に蹴られたりしないかしら、リリイがあれ以上え ? 」とドリイは言った。
ら。忙しいんでね」 ( 部屋はひどく息苦しいのに、窓はみな閉めきってあった ) 、 こんなことは言うつもりもなかったのに、一一 = ロ葉がひとりで老婆は、数秒のあいだ、 全く彼を打ち棄てて、彼に背中を向 、力いレ」、つ おの に口をついて出た。 けてしまった。彼は外套のボタンをはすし、斧を輪つかから 引き抜いたが、外套の外へはまだ出さす、その内側に隠した ス老婆は落ち着きを取りもどした。それに、客のてきばきし まま、右手でそれをおさえていた。手にはまるで力がなく、 工た口調が彼女を元気づけたらしかった。 したい、なんだって、あんた、そんなに出しぬけに : 一瞬ごとに感覚が失せ、こわばっていくのが自分で分った。 ス それはなんですね ? 」質草を見ながら、彼女はたすねた。 斧が手を離れて、いまにも落ちてしまうのではないかと、不 「銀のシガレットケースですよ。このまえ話したじゃありま安だった : : : 突然、頭がくらくらっとした。 せんか」 「ほんとに、なんだって、こんなに巻きつけたんだろう ! 」 彼女は手を伸ばした。 老婆は苛立たしげにそう叫ぶと、彼のはうへ身を動かしかけ 「まあ、あんた、なんでそんな青い顔をしているの ? ほら、 手も震えてるよ ! 水にでもっかってたのかね ? 」 もう一瞬の猶予もならなかった。彼は斧を取り出し、両手 「熱ですよ」彳。 皮ま吐き出すように答えた。「いやでも青くなでそれを振り上げると、無感覚に近い状態で、ほとんど無造 るでしょ : : : 何も食べる物がないんだから」かろうじて言葉作に、ほとんど機械的に、脳天めがけて振りおろした。その を押し出すようにして、彼はそう付け加えた。またしても、瞬間、まるで力がない感じだった。が、ひとたび斧を振りお カこれはいかにももっともらし、 力が抜けそうになった。、、ゝ、 ろすや、身内にたちまち力が生まれた。 答えだった。老婆は質草を手に取った。 老婆は、いつもの通り、頭に何もかぶっていなかった。白 「これはなんですね ? 」もう一度、じっとラスコーリニコフ髪まじりの、まばらな。フロンドの髪は、例によって油がべっ ねずみ の顔を見詰め、質草の重さを手ではかりながら、老婆がたすとり塗りたくられ、鼠のしつばのように編まれたその先端は、 ねた 角製の櫛でとめられているのが、頭の後ろに突き出していた。 「質草 : : : シガレットケースですよ : : : 銀の : : : 見てくださ背が低かったせいもあって、斧は脳天に命中した。老婆は一 声、叫びを上げたが、 それも、弱々しいものだった。それか 「でも、なんだか銀じゃないみたいだけど : : : おやまあ、こ ら、両手をかろうじて頭のほうへ上げたものの、突然、床に んなに縛って」 くすおれた。片手には、まだ『質草』を握りしめていた。っ ひも 紐をほどこうと、明りのさす窓のほうへ向きを変えたのでづけて、彼は斧の峰で、脳天ばかりをもう一度、それから、 ゅうよ
ゅうもん するというのだ ? 禁じるのかね ? だがお前に何の権利が ったのだった。現在のこうした憂悶はすべて、もうとうの昔 あるというんだ ? その権利を持っために、お前はあのふた に彼の心に芽生え、成長し、蓄積されたのであり、それが最 一りに何を約束することができるんだ ? 大学を出て就職した近になって成熟し、凝縮されて、恐ろしく、狂暴で、幻想的 いやおう スら、自分の運命のすべてを、将来のすべてをふたりに捧げるな問題のかたちをとるにいたり、否応なしにその解決を迫っ 工というのかね ? そんなことは聞きあきたよ。それは当てにて、彼の心と頭を脳ませ、疲弊させてしまった。そしていま、 オしか。それより、今どうするんだ ? 母の手紙が、突然、あたかも雷のように彼を打ったのである。 スならぬ未来の話じゃよ、 なにしろ、現に今、何かしなければならないんだからな。そ いまや、問題が解決できないものであるなどということをた れが分っているのかね ? ところが、お前は、今、何をしてだあれこれ考えて、受身に脳んだり苦しんだりしているべき いるのだ ? あのふたりから巻きあげているんじゃないか。 ではなく、なんとしても何事かをなさねばならないことは明 その金も、百ルー。フリの年金や、スヴィドリガイロフ家でのらかである。それもいますぐ、できるだけ早く。なにがなん かた 勤めを抵当にふたりが手に入れたものだ ! スヴィドリガイでも、とにもかくにも、何事かを決行しなければならない、 さもなければ : ロフ家やアファナーシイ・イワーノヴィチ・ヴァフルーシン のような連中から、ふたりをどうやって守るつもりなのかね、『さもなければ、人生を完全に拒否するんだ ! 』彼は突然、 未来の百万長者殿、ふたりの運命をつかさどるゼウスの神われを忘れたように叫んだ。『あるがままの運命をおとなし 様 ? 十年もしたらというのかね ? だが十年もしたら、おく、永遠に受け入れて、行動し、生き、愛する、一切の権利 めしい ふくろは襟巻の内職のために、いや、たぶん涙のために盲にを拒否し、自分の中にあるすべてのものを圧殺してしまうん なってしまうだろうよ。栄養失調でやせおとろえてしまうだ ろうよ。それに、妹は ? そうとも、十年たったら、いや、 『お分りになりますか、あなた、お分りになりますか、あな とはゾ」 , つい、つ その十年のあいだに、 妹がどうなってしまうか、考えてもみた、もうどこへもこれ以上行くべき所がない、 るがいい。分ったかね ? 』 意味か ? 』ーー突然、昨日のマルメラードフの質問が彼の頭 彼は一種の快感さえ覚えながら、こうした数々の質問で自に浮かんだ。『人間だれしも、せめてどこかしら、行くこと ぐろ、つ 分を苦しめ、愚弄した。もっとも、こうした疑問はみないまのできる所がなきゃあなりませんからなあ : : : 』 突然、彼はぎくりとした。ひとつの、これもやはり昨日の 唐突に生じた、目新しいものではなく、もうずっと以前から 心の中でうずいていた古い問題だった。もう久しい以前から、考えが、彼の頭をかすめて通ったのである。だが、彼がぎく こうした問題は彼を脳ましはじめ、その心を引き裂いてしまりとしたのはその考えが頭をかすめたからではなかった。そ き工こ
目的がまったく無価値なものであったことを、感じざるをえろしするということに、頭がまわらないために、いちいちカ 囲なかったことである。本当のところは、闘争はどこにあった まかせに向きを変えるので、馬を疲れさせ、耕地を台なしに はしたがね のか ? 彼はどんな小さな端金も守ろうとしたし ( またそしてしまったからだ。そして安心してまかせておいてくれと イ うせざるをえなかった、というのは少しでも力をゆるめれば、 頼むのだった。ト麦 / 畑が馬に踏み荒された。というのも、百 ス だれ 農民たちに支払う金が足りなくなるにちがいないからだ ) 、姓は誰も夜回りに立ちたがらなかったからで、そんなことは 百姓たちは、急かすに楽しく、つまりこれまでの習慣どおり してはいかんと言ってあるのに、百姓たちは交替で夜の見張 に働くことを固守した。彼の要求は、一人一人の百姓ができ りに立っことを決めて、そのためにワーニカは昼じゅう働い みの まぐわ るだけたくさん働き、しかもばんやりせずに、箕や、耙や、たのに、夜回りの番にあたり、眠りこけてしまって、自分の 脱穀機などをこわさないように気をつけ、よく考えて仕事をしくじりを後毎し、「どうともご存分に」などとしょげかえ してくれることであった。ところが農民たちは、休憩をしたるのだった。水飲場のないクロー ハの草場に放したために、 のん ごたごた考えずに、つまらぬことを忘れて、暢良質の子牛三頭に食べ過ぎの症状を起こさせておきながら、 気に、できるだけ楽しく働くことを望んだ。この夏レーヴィ クローバで腹を破裂させたことを、どうしても認めようとせ 、 ' 皮ま乾草にするクロー すに、慰め顔で、隣村では三日間で百十二頭もくたばっちめ ンは何をするにもそれに気づした。彳。 を刈ろうと思って、雑草やよもぎが茂っている、種子用にはえましたよ、などと一言うのだった。こうしたことはみな、レ ところ 向かぬ悪い草場を選んで、百姓たちを差し向けた ーヴィンなり、レーヴィンの経営なりに損害をあたえてやろ うという下心が誰かにあって、なされたのではなかった。そ が種子用のいい草場を次々と刈ってしまい、管理人の言いっ けなのでと、言訳をしながら、これなら極上の乾草ができまれどころか、彼は自分がみんなに好かれていて、気さくな旦 すよ、と彼を慰める始末なのだ。しかし彼には、こういうこ 那 ( これは最高の褒め一一 = ロ葉だが ) と考えられていることを知 とになったのは、このいい草場の方が刈り易いからだという っていた。それでもこんな結果になってしまうのは、単に百 ことが、わかっていた。また、乾草乾燥機を使わせると、は姓たちが楽しく暢気に働きたいからで、彼の利害が百姓たち には縁のない不可解なものであったばかりか、彼らのきわめ じめの何列かに使っただけで、こわしてしまった。頭の上で ぐるぐるまわる翼をながめながら、運転台にすわっているのて公正な利害と宿命的に相反していたからだった。もうかな 「心配なさらねえでくだせりまえからレーヴィンは経営に対する自分の態度に不満を感 が退屈だからだ。そのあげくが、 じていた。彼は、自分のポートが漏りはじめているのに、故 えな、女どもがさっさと乾しますで」とけろりと一言ってのけ るのだった。犂も役に立たないことがわかった。刃を上げ下意に自分を欺きながら、その水漏れの箇所を見つけようとも
れて、もう色もあせている。前もって知っている人間でなけ まち絶望に変った。『駄目だ、手におえない : : 』両足が震 りや、何も分るはずがない。つまりは、ナスターシャも、あえた。『つまり、こわいんだ』彼は呟いた。頭がくらくらし、 一の距離からじゃ何も気づかなかったということだ。ああ助か熱のためにずきずきするほど痛かった。『これは策略なん スった ! 』それから、震える手で呼出状の封を切り、読みはじ だ ! 策略でおれをおびきよせておいて、一挙におとし入れ 工めた。長いことかかって、やっと意味が分った。それは本日ようという算段なんだ』階段ロへ出てからも、彼はひとりご とを言いつづけた。『いまいましい、おれはまるで熱に浮か ス九時三十分、区の警察署へ出頭されたしという、ありきたり されてるみたいじゃないカ の呼出状だった。 : これじゃ、何か馬鹿なことを 『それにしても、 いったいこれは何のことだろう ? おれの言いかねないそ : : : 』 ほうは警察なんかには、それこそ何のかかわりもないのに ! 階段を降りながら、彼は品物をみな壁紙の奥の穴の中に入 それも、選りによって今日とは ? 』彼は不審の念に苦しみなれつばなしにしてきたことを想い起こした。『まてよ、ひょ ねら がらそう思った。『ああ、神様、もう一刻も早く片付きますっとしたら、わざと留守を狙ってここを捜索するかもしれな , よ , つに ! 』いきなり、ひざますいて祈ろうとしかけたが、そ いそ』そう思って、足をとめたが、突然、あまりにも深い絶 のとたんに、思わす笑ってしまったーー祈りをではなく、自望と、また、こんな言い方が許されるなら、破滅へのシニズ 分を笑ったのである。彼はせかせかと身支度をはじめた。 ムとでもいったものに襲われ、手をひと振りすると、そのま ど , つで 7 もいし ま歩き出した。 『破滅するなら破滅するがいい 靴下も はいてやれ ! 』突然、そんな考えが頭に浮かんだ。『もっと 「とにかく、一刻も早く片付いてくれ , 埃にまみれて、血の痕も消えちまうだろう』が、履いたと 通りはまたしてもたまらない暑さだった。ここ数日という たん、たちまち嫌悪と恐怖の念にかられて、脱ぎ捨てた。脱 もの、ただ一滴の雨さえ降らなかったのである。またしても れんが 」しつくい ぎ捨ててから、だが 、代りはないのだと気づき、またしても埃と煉瓦と漆喰、またしても安料理屋や居酒屋から流れ出す 拾い上げて、履いてーーーそして、またしても笑い出してしま悪臭、またしてもひっきりなしに出くわす酔っぱらい、フィ った。『こんなことはみな条件的なことだ、みな相対的なこ ンランドの行商人、半ばこわれかけた辻馬車。太陽がぎらぎ とだ、それこそただの形式にすぎない』ーーちらりと、ほんらと彼の目に照りつけ、物を見るのさえ痛く、頭がくらくら の一瞬、そんな考えが頭をかすめたが、そのくせ、体中が震しこ オーー高熱の身で日盛りの通りへ突然出た人間が誰でも経 オしか ! やつばり、験するあの感じである。 えている。『ほら、履いてしまったじゃよ、 結局は履いてしまったじゃよ、 オしカ ! 』けれども、笑いはたち 昨日の通りの角までくると、彼は苦しい胸騒ぎを覚えて、