ってきた筏の上での生活を思い出して、最後に、「よし、そ間にとって、最も自然な生き方であるという反文明の哲学に ゝ。、ツク・フィンは筏の上の生活に れだったら、おれ地獄だって行ってやる」という有名な一一一一口葉あるのではないだろうカノ ついて「ほかん場所ってえのは、すごく窮屈だし、息がつま を吐いて、ジムを最後まで見捨てない決意を明らかにする。 この作品全体で最も感動的な場面である。このように、このりそうに思われるけど、筏はそこが違うんだ。筏んうえって、 ものすごく自由だし、気楽だし、居心地がいいからな」と、 物語は、黒人問題を軸にして、きわめて周到かっドラマティ 言うが、それこそこの作品のエッセンスなのである。 ックに構成されているのである。 そしてまた、ハック・フィンの語り口の魅力。十九章のミ 自由の追求と文体とユーモア シシッピー川の有名な夜明けの描写に典型的にみられるよう 『ハックルべリ に、眼に映った情況を無教育な少年の借りものでない俗語、 ・フィン』は、すでに述べた通り、体裁は 方言で、直接、感覚的に描写する文体、それが、理屈抜きに、 少年小説でありながら、大人の鑑賞にも十分耐えられるシリ アスな問題を扱った本格的な小説で、これまで多くの批評家、直接、読者に訴えかけてくる。また、理屈抜きにといえば、 研究者が、さまざまなレベルで、作品の意味の解明を試みてマーク・トウェインのすばらしいユーモアもそうである。彼 だま きた。ハック・フィン少年の置かれた疎外状況、自由とそれのユーモアは、迷信ぶかい黒人ジムを騙したり、ギャングご に伴う孤独感、少年の自由を脅かす抑圧的な社会からの脱出、つこをしたりするトム・ソーヤー的なものから、西部の 廴ーー・ル・一アール 放浪、危機を通して達成される人間的な成長、あるいは文明「ほら話」的なもの、あるいはシェイクスピアのパロディな ど、さまざまな種類があるが、なかでも、人間の真実にふれ 社会批判、本能的な実感にもとづく倫理的な判断、ユートピ アの追求、失なわれた田園への郷愁、殺人、黒人虐待などのた悲しいユーモアは、彼の文学の本質を示すものとして見逃 いずれもアメリカ文学に繰り返し現われる基本せない。「人間的なものはすべて悲哀をおびている。ューモ 暴力問題ーー 、悲しみである」という彼は、 的なテーマであると同時に、きわめて現代的なテーマが扱わアの隠された源は喜びではなく れている。それだからこそ、ヘミングウェイはこの小説を現そうしたユーモアによって、人間の弱さ、愚かさ、残忍性を も人間の悲しい宿命、限界としてある程度認め、そうした宿 説代アメリカ文学の出発点であると述べたのである。しかし、 そうした批評家の指摘する仰々しい議論もさることながら、命をもって生きなければならない人間に ( この作品の「王さ ま」や「公爵」をも含めて ) 同情の眼を向けるのである。 この作品の最大の魅力は、社会のいっさいの拘束、抑圧から 八三年、「四十八歳前に悲観 マーク・トウェインは、一 逃れて、川が流れるように、無為自然に時を過すことが、人
るプロテスタンティズム精神を一身に背負い立っファウスト のなかに立っていると、わたしはまだ〈時〉が始まったと 的人間である。あるいはこう言い換えてもよい、彼は、そう はいえない不思議な時代にまで洪水に運ばれて逆戻りした した西欧文明の伝統と精神とともに新大陸アメリカに移住し、 ような気がする。〈時〉とは人間とともに始まったものな のだ。 イその自然を己れの力にのみ頼って征服してきた白人の植民地 : モーゼよりもさらに古く、起源にさかのばりよ 開拓者たちの嫡子であり、またすでに十七世紀前半にインデ うもない昔から存在する一一一一口語に絶した鯨の脅威の前に、わ メ ィアンのビークオド族を絶滅せしめた西欧人、そしてそれを たしはただもう立ちすくむばかりだ。その脅威は、すべて 神の名において正当化しようとした十七世紀ビューリタンの の〈時〉の始まる前から存在したからには、すべての人間 血を引く人物であると。彼はアメリカ国内の自然だけではあ の時代がすぎ去ったあとまでも存在し続けるにちがいない のだ。 きたらす、大海の自然をも征服しようと船出し、それに生涯 ( 百四章「化石鯨し をかけてきた英雄的人物だ。そして今、その征服の対象たる せつきやく 白鯨に報復され、隻脚を咬み取られたというので、こんど もしモービー・ディックとエイハブ船長との闘争が宇宙的 は自分の方からの逆報復を試み、全身に憎悪の血をたぎらせ時間と人間的時間との対立関係とパラレルなものとすれば、 ながら相手の撃滅に向かって突進する。ときには創造主の神その勝負の行方はすでに予見されてしまっている。だが同時 に対する反逆の故に悪魔と結託することも辞さぬというかの にここでもまた、。ハスカル流の論理に従ってつぎのような言 ごとく、相手との死闘に挑んでゆく。 い方も可能なのだ 「空間によって宇宙は私を包み、一つ もちろん壮大なメルヴィルの想像力にあっては、そうしたの点のように私を呑みこむ。思考によって、私は宇宙を包 ェイハブの挑戦、反逆がいかに絶望的であるか、しかに無謀む」ンセしと。空間と時間の相違はあるとはいえ、こ ごうがんふそん なものであるかが随所に示唆されている。無窮の宇宙的時間れとエイハブ船長の傲岸不澄な自己主張の論理のあいだには の中にあって、人間の自我の絶対化などどれほどの意味を持一脈相通じるものがある。ところで、これまでわれわれは二 つものか、と言いたげである。 つの異なるバスカルの言葉を引いてきた。一見したところ、 それらは互いに矛盾しているようでいて、じつは宇宙や自然 力い・一つとう力い に対する近代欧米人の複雑な、あるいは屈折した心情を反映 これらの強大なレビャタンの骸骨、頭蓋骨、 (# に ) 、 あごろっこっせきつい 顎、肋骨、脊椎骨などは、 : 絶滅した超年代記的なレビ しているともいうべく、メルヴィルの想像力もまたそうした ャタンに対しても同様な類似性をもっている。これらの骨 複眼的な多様さを期せずして作品化している、と言えないこ
1379 文学作品キイノート 豊ーノ 4 襯 ヘンリー・ジェイムズ るだけである。ミリーとデンシャーの最めて抽象的で、とらえどころのないもの謀に至るとしても、なお読者の同情と関 心を完全に失うものではない。デンシャ 後の会見の場は彼の「回心」をもたらすに見える。しかし、それは或る種の人々 重要なものだが、これも表には一切出なの心を捉えて離さぬものなのである。愛ーは主人公というにはいかにも優柔不断 われわれが知るのはデンシャーのという使い古された一一「ロ葉を使うにはしのな、インテリの弱さをたつぶり持った男 , し、かーし、羊〈 「回心」という結果のみである。このよびないものがこの末世にもあり得ることであるが、ミリーのか弱し かっかそつよっ うな「間接法」には隔靴掻痒の感を覚えを示唆するには、間接法は有効な、あるしい在り方に感応して、ケイトの魅力の じゅばく 、は、やむをえぬ方法ではなかろうか る読者も少なくないであろう。しかし、ミ 呪縛からゆっくりと身をふりほどいてゆ この作品の魅力の多くは、実は「悪き、ついにケイトも金もあきらめること ーの哀切な心情や高貴な心の動きは描 せん かずに、現実の世界にこの先も生きてゆ役」のケイトに負うている。華やかな表のできる独得な強さ、おそらく、真に繊 かなくてはならないデンシャーにそれが面と死や悪徳の暗さが複雑に入りまじる細なものに特有の、妥協を拒む強さを備 この作中世界にあって、ケイトこそもっ えてもいるのである。彼の優柔不断に見 及ばした決定的な影響だけを描くことに よって、おとぎ話の王女か聖女じみて見とも生きる意欲に満ちた、存在感あふれえる意識の内にこそ、この作品の道徳的 あらわ えかねないミリーははじめて人間的世界る人物である。彼女自身が親族の打算的意義はおもむろに立ち顕れてくるのだ。 と接点をもち得るのである。エゴイズムなエゴイズムや貧乏のわびしさの犠牲者彼は繊細な感受性をもつが故にこの世に や強欲といった、大半の登場人物の行動であることが鮮明に描かれているために、適合して生きることが難しくなる、きわ の動機になっている具体的で強力な力にそこから自由になりたいと願う彼女の望めてジェイムズ的な人間像の典型なので くらべれば、ミリーの心の在り方はきわみは、結果的にはミリーを騙す玲酷な策ある。 『ある婦人の肖像』 The P 。ミミ、 4 ト 44 一 88 一 イサベルは独立心に富むアメリカ娘で、アメリカから彼女を追って来た実業家の彼女との結婚は望むべくもないが、彼女 人生に理想主義的な夢を抱いている。イグッドウッドである。貴族との結婚は安を愛している。親も財産ももたぬイザベ ルに金を与えて人生を存分に味わわせた ギリスに住むおばに招かれて渡英した彼易すぎる道に、グッドウッドとのそれは いと考えた彼は、死の床にある父を説い 女の前に、 二人の求婚者が現われる。一自分を束縛するものに思われて、彼女は 人は貴族のウォーバトン卿、し 、ま一人はどちらも拒む。いとこのレイフは病身でて彼女に大金を遺させる。だが、その金 とら
いう年老いたレビャタンが仲間づきあいなどするのは、むし にして半ば身をひねりながら進むのだったが、そのつど、彼 ろ異例のことだからだ。にもかかわらす、彼はあくまで群れの進路がまがりくねったものになる原因が白日のもとにさら ひれ の航跡を離れようとしない 。とはいえ、逆流するその航跡が された。彼の右舷側の鰭が、無残にも付け根の部分しかない イ ウ彼の前進を妨げていることもたしかだった。というのも、彼のだった。それが闘争で失ったものか、生まれつきのものか、 しらぼねなみ の広大な鼻づらにぶちあたる白骨波、つまり白く泡立つうねどちらとも見分けはつけにくかった。 メ ほ、ったい りには、対抗するふたつの潮流がぶつかって生じる激浪を思 「もうちょい待ってなよ、じいさん、その腕の傷に繃帯巻い しおふ もりづな わせるものがあったからだ。彼の汐吹きも短く、緩慢で苦してやるからな」残酷なフラスクが、かたわらの銛索を指さし ながらどなった。 げだった。それは何か詰まりかけてはほとばしるという感じ で吹き出し、ちぎれちぎれになって消失した。続いて彼の体 「そっちこそやつにその繃帯を巻かれないように気をつけろ 内を奇妙な震動が走ったかと思うと、それが水中に隠れてい よ」スター バックが叫んだ。「さあ、頑張れ。ドイツ人に取 る別の出口からでも出て行くのか、背後の水面が泡立つのだられちまうそ」 っ ? ) 0 互いに競いあうポートの群れが、ひとつの意図のもとに団 だれ 「誰か痛み止めを持ってないか ? 」スタッ。フが言った。「や結したようになってこの一びきの魚にむかって行った。と、 はらいた っこさん、腹痛を起こしてるらしいぜ。どうだい、半エーカうのも、そいつがもっとも大きく、従ってもっとも値打ちの ーの腹痛ときやがる ! やっこさんの腹んなかじゃ、つむじある鯨だったばかりでなく、もっとも近くにいたし、ほかの 風どもがクリスマスの乱痴気騒ぎをやってるらしいや。艫か鯨どもはものすごい速さですっ飛ばしていて、さしあたり追 くせ ら吹いてくるこんな臭え風に見舞われたのは、はじめてだ。 いつけそうもなかったからである。折しも、ピークオド号の それにしても、見ろよ、あんなに舳先のふらっく鯨にお目にポート群は、遅れておろされた三艘のドイツのポートを矢の かかったことがあるかい ? あいつはきっと舵柄を失くしちょうに追い抜いたが、はるかにスタートの早かったデリック まったにちがいないせ」 のポートだけは、依然として追跡の先頭を切っていた。とは 荷を積みすぎたインド航路の貿易船が、おびえた馬どもを いえそれも刻一刻とアメリカのポートに接近されつつあった。 甲板に載せて、傾いたり、のめったり、揺れたり、のたうつ アメリカ側の唯一の懸念は、すでに目標の間近に迫っている たりしながらインド沿岸を進んで行くように、この老鯨もまデリックが、こちらが彼に追いついて完全に追い抜いてしま わきばら た、年取った巨体を引きずり、ときおり重苦しげな脇腹を下わないうちに銛を打ちこみはしないかということだった。当 、つ・けん
そこにいることはたしかなのだ。 念を鎮め、航海の前途に信頼感と明るさを与えてくれるのに 下での当直が終って甲板へ出て行くたびに、わたしはすぐ何よりも力強い効果があったのは、この船の三人の高級船員、 さま船尾の方へ目をやり、はじめての顔がそこに見えはしなつまり航海士たちの様子だった。これほど高級船員らしい いかと探した。それというのも、未知の船長に対して最初は しかもそれそれ違った持ち味のある高級船員の三人組は、そ 漠然と感じていただけの不安が、陸地から隔絶されたいま、 うざらには見つかるまい。それに三人ともアメリカ人ーーーナ ウイニアド生まれに、ケイプ・コッド 激しい胸さわぎのようなものにまでなっていたからだ。あのンタケット生まれに、。 ばろをまとったイライジャの悪魔めいたたわごとが、以前し こ生まれの、れつきとしたアメリカ人だ。それはさておき、船 が港をあとにして大海原へ突入したのはクリスマスの日だっ は思いもよらなかったほどの不思議な力をおびて、別に思い 出したくもないのに心に浮かんできたりすると、その胸さわたから、しばらくは身を刺すような極寒の天候が続いたが、 ぎは奇妙なくらい強まった。リ 男の精神状態のときなら笑ってそれでも刻々と南方にむかってその天候から逃れつつあった。 聞き流したであろうような、あの浮世ばなれした波止場の予緯度を一分また一分、一度また一度と経過するにつれて、無 一一一一口者の、さも重大そうな世迷いごとにも、 いまのわたしはつ情な冬とその耐えがたい天候が少しすっ後方に遠ざかった。 ひ いふらふらと惹きこまれてしまいそうだった。しかし、わた こうした天候の変化のなかで迎えたある朝、険悪さはいくぶ きぐ いんうつ しの感じている危惧ーーーというか不安というか、とにかくそん薄らいだとはいえ、まだ空は灰色で陰鬱だった。追風に乗 きゅうてき った船は、仇敵におどりかかるような跳躍をくり返しながら んな風に呼んでおくが、その正体が何であったにせよ、あら ためて身のまわりを見まわすと、そんな感情をいだくことに陰々と波を切って疾走していた。午前中の当直のために甲板 - もりう タフレール は何の根拠もないのだ、と思われてくる。銛打ちたちにしてへあがったわたしは、船尾手摺の方へ目を向けた瞬間、何か せんりつ も、大部分の乗組員にしても、わたしが以前の航海で見馴れ前兆めいた戦慄に全身をつらぬかれた。しかし不安を覚える たおとなしい商船の連中に比べれば、ずっと野蛮で異教的な、 いとまもなく、現実がそこにあった。ェイハ。フ船長が後甲板 に立っていたのだ。 種々雑多な人間たちの集まりであるにはちがいないが、しか しこれは、わたしが見さかいもなく飛びこんだこのヴァイキ世間並みの病気らしい様子はどこにもなかった。かといっ ど、つもう 、刀し , く 白ングみたいに荒つばい仕事の、獰猛といっていいような特異てまた、病気から恢復したという風でもない。むしろ、いっ ひあぶ たんは火焙りの刑に処せられ、炎に全身を舐められたあとで な陸質に由来するものなのだ、とわたしは思い返した。また 事実その通りでもあっただろう。しかし、この漠然とした疑解き放たれた男、という風にみえた。その炎は、彼の体の表
メルヴィル 122 らには、危険という観念が軍人稼業に対する世間の好感をあ いまや数において他国すべての鯨捕りを束にしたのよりも優 れほど強めているのなら、請け合ってもいし 砲塁にむかるのはなぜか ? 七百を越える捕鯨船の大群、一万八千の乗 おく って臆せす進撃を重ねてきた歴戦の勇士も、眼前に現われた組員、年間の出費四百万ドル、出航時の船価二千万ドル、そ 抹香鯨が、 巨大な尾を打ち振って頭上に旋風を巻き起こす、して年々港に持ち帰る漁獲高七百万ドル これが鯨捕りの その光景には、たちまちすくみあがってしまうだろう。恐怖威力を示すものでなくて何であろうか ? わぎ と驚異とがひとつに結びついた神の業に比べれば、たかが人 だが、これでもまだ半ばに満たない。先へ進もう。 わざ だれ 間業にすぎないものの恐怖など、何ほどのことがあろうか , わたしは誰はばかることなく主張するーーーここ六十年のあ けいべっ しかし、世間はわれわれ鯨捕りを軽蔑しながらも、それと いだに、ひとつの総合体としてのこの広い世界を平和に保つ 気づかすにもっとも深い敬意を捧げているのだ。然り、満ちのに、気高く雄壮なわが捕鯨業にもまして力強い影響をおよ あふれるほどの崇敬を ! というのは、この地球上のいたるばしたものがひとつでもあるか、四海同胞主義の哲学者が血 ろうそく ところで燃えている灯心、ランプ、蝦燭のほとんどすべてが、 まなこになって探したところで見つかりはしないだろう。 たた 神前のともし火と同じように、われわれの栄光を讚えて燃えろんな意味で、捕鯨業が生み出した成果はそれ自体めざまし ているものにほかならないからである , いものであっただけでなく、つぎからつぎへと継続的に重要 しかしながら、この問題をもっと別の光に照らして見てみなものを派生させていったのであって、その点、あのエジプ はかり よう。これをあらゆる種類の秤にかけて、われら捕鯨業者とト神話の母親ーー彼女が産んだ子供たち自身、すでに受胎し は現在いかなるものであり、また、これまでいかなるものでた体で子宮から出てきたという、あの母親にも比すべきもの あったかを検討してみよう。 がある。こうしたことがらをすべて列記していけば、いつま デ・ウィット時代のオランダ人が、その捕鯨船隊に提督をでたっても終る見込みがない。だから、ほんのひとっかみだ 配置したのはなぜか ? フランスのルイ十六世が、その私財けで満足しておこう。多年にわたって、捕鯨船は世界のもっ ぎそう へきえん を割いてダンケルクで何隻もの捕鯨船を艤装し、われらのこ とも僻遠の地、未知の秘境を探り出す先駆者の役割を果たし のナンタケット島から、礼を尽くして数十世帯もの家族を招てきた。クックやヴァンクーヴァーなどの航海者も行ったこ いたのはなぜか ? 一七五〇年から一七八八年にかけて、イ とのない、海図にも記されていない多くの海域や群島を探険 してきた。かっては蛮地であった港に、いまアメリカやヨー ギリスが捕鯨業者に対して百万ポンドを越える助成金を出し たのはなぜか ? そして最後に、われらアメリカの鯨捕りが、 ロッパの軍艦が平穏に乗り入れるとすれば、最初にその航路 ま一
メルヴィル 276 力に富んでいるからだ。それにまた、わたしとしては、 心がけている者さえある。 ( 何ごとにも美学というものがあるから、 ) マニラ麻の方が大イギリスの捕鯨ポートでは、桶をひとつでなくふたっ使い 麻よりずっと美しく、捕鯨ポートに似つかわしいということ一本の索を連続して両方の桶に巻き入れている。これにはあ もつけ加えておきたい。インド麻と呼ばれることもある大麻る種の利点がある。というのは、この一対の桶はごく小さい は、色が黒すんでいてその名の通りインド人みたいだが、マのでポートのなかにおさまりやすいし、ポートの底にかかる ニラ麻の方は金髪のチェルケス人だ。 負担も少なくてすむからだ。ところがアメリカ式の桶は直径 銛索は太さわすかに三分の二インチ、ちょっと見ただけでが三フィート近くあり、深さもそれに比例して深いので、底 は、それほど強いものとは思えないだろうが、実験してみる板の厚さがわずか半インチしかないポートにとっては、かな と、その五十一本の撚り糸のそれそれが百二十ポンドのおも りの重荷になる。何しろこの底板は薄氷のようなものだから、 りを吊るすことができるから、全体としては三トンに近い負分散してかかる重みには耐えられても、一箇所に集中してか つなおけ 担に耐えることになる。また長さは、普通の抹香鯨用のものかる重みにはあまり強くないのである。アメリカ式の索桶に おけ ひろ で二百尋をいくらか超える。それをポートの艫の方の桶のなペンキを塗った帆布をかぶせると、ものすごくでかいウェデ じ・よう らせん かに螺旋状に巻いて入れてあるのだが、螺旋状といっても蒸イング・ケーキを鯨に進呈するためにポートに積んで行くと 溜器の螺旋管のようにでなく、同心円を描く渦巻きが″束〃 ころだとでも見えかねない すなわち層をなすようにぎっしりと積み重ねた、一個のまる 索の両端は桶の外に出してある。末端は″目玉継ぎ〃と称 いチーズのような塊になるように巻くのであって、そのチー する輪になっていて、桶の底から内側に沿って上へ出し、ど しん すき ズの中心の″芯〃と称する細い垂直の円筒形の空間以外に隙 こへも固定しないで垂らしたままになっている。こうしてお これを巻くとき、少しでももつれたりねじれたり くのには、ふたつの理由がある。第一は、銛を打ちこまれた だれ すると、くり出されるときに必す誰かの腕か脚か、あるいは 鯨が深く潜って、その銛についている索だけではたりなくな 体全体が持って行かれてしまうから、桶に巻きおさめるには りそうな場合に、隣のポートの索を継ぎたすのを容易にする ためである。こんな場合、むろん、鯨は最初のポートからっ 極度の注意を払う。銛打ちのなかには、この仕事にほとんど つな い , つならばビールのジョッキのよ , つにまわ 午前中いつばいを費やすのもいとわず、索を高いところでいぎのポートへと、 ったん滑車に通してから、下へ引っ張って桶に巻き入れるとされるわけだが、そのあとも、最初のポートは僚艇を助ける いう風にして、少しでももつれやよじれが生じないようにと ためにそばに付き添ったままでいる。第二し こ、これは乗組員 りゅう っ と - も -
1376 胤〃リノ 4 襯 ヘンリー・ジェイムズ の偶然からチャドとヴィオネ夫人の間が与えた作品である。視点でもあれば主人たのである。異質の、それも悦ばしい世 ありふれた男女の仲であることを知る。 公でもあるストレザーのロをついてでる界に触れたことで動揺をきたしたハウェ ルズの危機は、人生の豊かな可能性や、 しかもチャドはすでに夫人に飽きており、「生きたまえ ! そうしないのは間違い 帰国して家業に励みたいという希望をスだ : : : 人生を生きなかったらほかに何が文明の悦楽に開眼したよろこびが、過去 トレザーにはのめかす。結局のところ、あるというのだろう。ばくは今では老人の人生を「間違い」だと認める苦い反省 だ。少なくともばくに分かったことを実を生み、さらには自分の負った使命への ウレットの推測と判断が正しかったよう リに行するには年をとりすぎている。人が失重大な疑念やその放棄へと転じていくス に見える。ストレザーにはもはやパ トレザーの危機として活かされることに とどまる理由はない。彼が最後にヴィオったものは取りかえすことができない : それにしても人には自由の幻がある。なった。 ネ夫人を訪ねた夜、彼に真相を見抜かれ ジェイムズはこの作ロをストレザーの たことも、チャドを失ってしまったこと だから、ばくみたいにその自由の幻の思 「意識の変化の過程」とも、「識別のドラ も悟っている夫人はいつもより老けて見い出さえない人間になってはいけない マ」とも一「ロっている。チャドを連れ戻す : ばくは確かに失敗だった。君は生き え、それどころか一瞬「情人に捨てられ たまえ ! 生きたまえ ! 」という一一一一口葉は目的でパリに来ながら、最後には、ヴィ た下女」のように泣きくずれさえする。 やしき ジェイムズその人の言葉かと疑われるほオネ夫人を残して帰国するようでは君は 夏を迎えて開け放たれた夫人の邸の窓ご しに聞こえてくる。ハリのざわめきの中に、 どの切実さが感じられる、大変有名なも人でなしだ、とチャドに言うことになる のである。実はこれはジェイムズの友人ストレザーの鼈くべき変節ぶりは、人間 いまのストレザーは央いものだけでなく、 や人生の微妙な質の違いを識別すること 革命や血のにおいも感じとる。われわれで、アメリカ・リアリズムを代表する小 が最後に見るストレザーはチェスター以説家ウィリアム・ディーン・ハウエルズのできる彼の知性と感性が惹き起こした えんきよく 来の女友だちマライアの婉曲な求婚をが。ハリの魅力的な庭園で催された園遊会ものである。その識別力と、人間的な共 退けてアメリカへ帰って行くところであで、若い友人に向かって実際に語った言感能力や豊かな想像力によって、彼は過 去の限界から解放され、遅ればせながら る。ただ、それはもはやニューサム夫人葉をほとんど引き写したものである。 ハウエルズの一一 = ロ葉にジェイムズが嗅ぎ「自由の幻」をさえ、いくらかは味わし のもとへではあるまい しよせん とったのは、いまだかってない寛ぎのひえたのである。所詮、それは幻にすぎす、 とときが危機として感じられねばならぬほろ苦い幻滅は避けがこいにしても。 ちょうへん リを立ち去るときのストレザーは、ほと という奇妙な状况だった。その奇妙さに 円熟期の三大長篇の一つで、ジェイ ムズが自作のなかでもっとも高い評価をついての考察から「使者たち』は生まれんどすべてを喪っている。しかし、早春 解説 くつろ
1375 文学作品キイノート リノ 4 ヘンリー・ジェイムズ 急速に拡大してゆく。チャドに会ってみのと信じたストレザーは、チャドを真に アメリカ、ニュ ・イングランドの架ると、彼は堕落しているどころか、見事救う道は彼をアメリカに連れ帰ることで へんばう あ 空の町ウレットで評論誌の編集にたずさ な変貌を遂げている。彼の悪しき誘惑者はなく、反対に、 ハリとヴィオネ夫人の わる初老の男ストレサーは雑誌の出資者であるはずの女も、ウレットの想像とは もとにとどまらせることだと考えるに至 であるニューサム未亡人の依頼を受けて違って、ヨーロッパ文化の精髄のようにる。 いっこうに成果を挙げる気配のないス 丿へ来る。夫人の息子チャドはパリにすばらしいヴィオネ伯爵夫人なのだ。ウ トレザーに業を煮やして、ニューサム夫 レットの固苦しく、底の浅い世界では知 遊学して五年にもなるのに、まだ帰国し ・よろ、一 、よ , っと一ー ) 4 ない ウレットの人びとの想像らすにすぎた、豊かで脱ばしい生活と、人は第二の使者たちを送りこんでくる。 では、彼は良からぬ女の手に落ちている自由で生き生きした人々に触れて、これその中心人物セアラはニューサム夫人の 皮をその女の手から救い出し、家業に感嘆し、ひるがえって自分の過ぎ去っ実の娘で、チャドの姉である。彼女には のだ。イ た人生の貧寒さを悟ったとき、ストレザチャドの変貌もヴィオネ夫人も「そっと を継ぐべくウレットに連れ帰るのがスト ーの使命は根拠を失い、逆転が始まる。するようなもの」でしかない。何を見、 レザーの使命なのである。これに成功し た暁にはニューサム夫人は彼と結婚してヴィオネ夫人はチャドより十歳も年長で、何に触れようと、ウレットを絶対視し、 ヨーロッパ的生活や人間を堕落と見なす くれるだろう。ところがイギリスで船を別居中とはいえ夫のある身である。しか 降り、古い歴史のあるチェスターで旅のし、夫人の多彩で奥深い魅力に自分も惹彼女の先入観には少しの動揺も見られな 強硬なセアラを前に、ストレザーは きつけられ、さらにその苦悩をおばろげ 疲れをいやしている間にも、ストレザー 自身が豊かな解放感やヨーロツ。ハ文明のながら察し、また、彼女がチャドにもた自分がヴィオネ夫人の味方であることを 明言してしまう。むろん、それはニュ 魅力を感じはじめる。旧友ウェイマーシらした驚嘆すべき変化を知るにつれて、 ュがヨーロッパ的なものすべてに疑念やストレザーにはこの女性自身や彼女とチサム夫人との訣別を意味する。第二の使 ャドとの関係をウレットの狭量な基準で者たちはストレザーを見限り、ウェイマ 道徳的憤慨しか覚えす、先入観で頑に シュもろともパリを立去る。置き去り 判断したり、裁いたりすることの不適切 身を守っているのに対して、ストレザー にされたストレザーはなおしばらくパリ はヨーロッパという異質なものに勇気とさが分かってくる。結婚できるあてのな い二人の仲を、世にも珍しい清らかなも生活を楽しんでいるが、やがてまったく よろこびをもって出合い、意識の地平を 『使者たち』 The ゝミ、 as ご 1903 あらすじ》 けつべっ
は日が暮れても都会の灯という多くの太陽が昇る ) 新西部が景が最近現われるようになってびつくりしているはずだ。 モカシ まだ荒野であり、処女地であった時代には、同じ人数の鹿皮それだけではない。い ま言及した種族のレビャタンに関す 、ようき一い レ靴の男たちが同じ月数のあいだ、船を走らせる代りに馬に乗るかぎり、彼らはふたつの堅固な要塞をもっていて、それを . イって、四十頭ではなく四万頭を超える野牛を殺したはすだ。 人間のカで打ち破ることはおそらく永久に不可能だろう。冷 必要とあらば、この事実を統計によって示すこともできる。 ややかなスイス人が、谷間を侵略されると山岳へしりそくよ メ また、往年 ( いうならば前世紀の後半あたり ) には、たと うに、鬚鯨類もまた、海の中央の大草原や大湿原から狩り立 ポッド じ・よつき ) い えば抹香族のレビャタンにしても、小群をなしているのが現てられると、最後には極洋の城砦にしりそいて、そこのガ 今よりもすっとしばしば見つかったもので、従って航海もそラスのような柵や城壁の下へ潜り、氷原や浮氷のあいだへ浮 れほど長引かずにすんだし、利益もずっと多かった、と主張かびあがる。そして永遠の十二月という魔法の輪のなかから、 ち - ようしトつ する向きもあるかもしれないが、正しく考察すれば、これも人間のあらゆる追撃に嘲笑を浴びせるのだ。 カシャロ 抹香鯨が次第に消滅しつつあるということを裏書きするもの それでも、おそらく抹香鯨一頭に対して鬚鯨類五十頭の割 ではないと思う。なぜなら、ほかのところでも述べたように、で銛を打ちこまれるだろうから、水夫部屋の哲学者たちのな これらの鯨たちょ、、 かには、彼らの大軍勢もこの積極果敢な殺戮によって、すで ししまでは身の安全を考えてか大集団をな して泳いでいるのであって、つまり昔は独り鯨とか、二頭連にきわめて深刻な兵員の減少をきたしているだろうと推断し ポッド スクール れ鯨とか、小群とか、 " 学校〃とかいった形で散らばってい た者も何人かいる。しかし、しばらく前から、アメリカの北 た鯨の大部分が、いまでは巨大な、しかし互いに遠く離れて西沿岸でアメリカ人の手によるものだけでも、毎年一万三千 いるので、そうあちこちで見られるわけではない軍団に結集頭をくだらない鬚鯨類が殺されているが、それにもかかわら しているからだ。要するにそれだけのことにすぎない。それす、こんな状況をすら、この点に関する対立意見としてはほ ひげくじ 4 っ にまた、いわゆる鬚鯨類が、かっては多数いた漁場にもい とんど、あるいはまったく無価値にしてしまうよ , つな事情が まはあまり姿を見せなくなっていることから、この種の鯨も存在するのである。 せいそく 地球上に棲息する巨大動物のおびただしさについて、なに 衰退しつつあるとする考えかたも、同様に誤りだと思える。 がしか懐疑的になるのももっともだが、それでは、ゴアの歴 彼らはひとつの岬から別の岬へと追われているにすぎない。 しおふ もしどこかの沿岸から彼らの汐吹きの活気が失われたとして史家ホルトのつぎのような記述に対して何と言えばいいの みな も、遠く離れた別の岸辺では、まちがいなく、見馴れない光か ? それによれば、シャム王が一回の狩猟で四千頭すっ象 ン さく