742 だる か忘れてしまった。あるいはジャーマン・ホスピタルに入院 だった。玄関前の石段の手摺の上にひどくきれいな綿帽子の 1 レ 中の親戚の者でも見舞いに行ったのだったかもしれない。 ようにつもっていた雪も、 いまは崩れかけ、すり落ちかけて、 かし街そのものの印象は少しも薄れることなく残っている。そのころ流行していた褐色砂岩の黒ずんだ地肌をところどこ まだら どうしてなのか、わたしにもさつばりわからないが、とにかろ斑に露出させていた。窓の片隅につつましくかけてある歯 く、それはいままで見たなかでもっとも神秘的な、もっとも科医や内科医院の小さなガラスの看板も、真昼の日差しにき プロミシング たのもしげな街として記億に残っているのだ。ことによると、らきらと輝き、もしかするとこのあたりの医院はわたしが知 ほうび 母がいつものとおり出がけに、おとなしくついてきたら褒美っているような拷問部屋とは違っているのかもしれないとい に何か素晴らしいものをあげるとでも約束してくれたせいかう気さえした。このあたり、とくにこの通りに住んでいる人 もしれない。わたしはいつも何やかやと約束してもらってい びとは、ほかにくらべてすっと親切で、心が広くて、そして たが、しかしそれを果たしてもらえたことは一度もなかった。 とわたしは子供 もちろん、ずっとすっと金持にちがいない、 だから、たぶんそのときもわたしはフンポルト街へ着いてそらしい想像をめぐらせた。生まれてはじめて恐怖心を起こさ め の新しい世界に驚きの眼を見はったとたん、何を約束してもせるものが何もない通りを見たわたしは、ちびつこながら自 らっていたのかきれいに忘れてしまって、結局は街そのもの分までおおいに心が広くなったような気がしていたのにちが が褒美ということになったのだろう。その通りは非常に広々 いない。それはまったく広々とした豪華な通りで、それが雪 していて、両側に並んだ建物の玄関の前にはそれまで見たこ どけにきらめいていたさまを、後年、ドストエフスキーを士冗 二 1 一口 ともないような高い石段がついていたのをわたしは億えてい むようになってから、わたしはよくべテルスプルグの雪どけ る。そしてまた、それらの風変りな建物のうちのひとつは一との連想で思い出したものだ。そこにあるものは、教会です 階が洋裁店になっていて、その飾り窓のなかに巻き尺を首に らほかとは違った様式で建てられていた。それらの教会には かけたマネキンの胸像が置いてあり、その眺めにおおいに感何か半東洋風の感じがあり、どことなく壮大でもあれば同時 ひ 銘を受けたことも憶えている。地面には雪がつもっていたが、 にあたたかみもおびていて、わたしを驚かすとともに惹きっ 日差しは強く、はじめは雪のなかに凍りついていたはすの灰けもした。またわたしが気がついたのは、その通りは道幅が をてを ) の底のまわりに少しばかり雪どけ水がたまっ広いだけでなく空間の余裕がたつぶりあるということだった。 ていたのも、ありありと思い出すことができる。なにか通り建物はみな歩道からかなり引っこんだところに静かな威厳を ひ 全体がまばゆい冬の陽をあびて溶けかかっているような感じみせて立ち並び、ほかの通りのように、店や工場や獣医の診 しんせき プロミス てすり
が入りだすと、急に通りのまんなかに立ちどまって、わたしニューヨークそのものを越え、ミシシッビ河を越え、グラン が身動きできないように、その大きな足をわたしの両足のあ ド・キャニョンを越え、モハーヴィ砂漠を越えて、アメリカ いだに割りこませる癖があった。そうしておいてわたしの上じゅうどこへ行こうと、およそ男と女のための建物のあると えり め 着の衿をつかみ、 ぐいと顔を近寄せてまっすぐわたしの眼のころでならかならすお目にかかれる、うすぎたない、鼻もち なかへ、一語一語まるで錐をもむようにねじこんでくるのだ。 オしかそれにして ならない軒蛇腹とちっとも違わないじゃよ、 朝の四時に通りのまんなかに突っ立っていたわれわれ二人のも、一生のあいだ来る日も来る日も、じっと座ったままで、 姿が、いまもわたしの目に浮かぶ。風が吼え、雪が吹きつけ貧乏だとか心労だとか、愛だとか死だとか、あこがれだとか るなかで、どうしても胸から吐き出してしまわないでいられ幻滅だとかいった、。 とこにでもころがっているような他人の 脳みごとばかり聞かされているなんて、まったくばかげてい ない舌に、何もかも忘れて熱中しているオローク。彼がしゃ べりつづけているあいだ、わたしはいつも目の端であたりのるという気がした。一日に最低五十人の人間がわたしのとこ 様子をうかがいながら、彼の話していることではなく、ただろへ押しかけてくるとして、また事実その通りだったのだが、 ヨークヴィルとか、アレン・ストリートとか、。フロードウェそのひとりひとりがわたしに脳みごとを打ち明け、そしてわ イとかに突っ立っている自分たち二人の姿だけを意識してい たしの方はそのつど黙って″受理〃してやらねばならないと 人間がいままでにこしらえあげたもっとも巨大で乱雑なあれば、話の途中のどこかでわたしが耳をふさぎ、心をかた 建築物のジャングルのまんなかで、ありふれた人殺しのこと く閉ざさずにいられなかったとしても、それは当然というも などをこまごまと話しつづける彼の熱中ぶりが、わたしにはのだろう。そんな話は、ほんのちょっぴりでたくさんだった。 カ いつも少々気違いじみたことに思われた。彼が指紋のことをそれだけでも、よく噛んで消化するのに何日も何週間もかか 話しているあいだ、わたしは彼の黒い帽子のすぐうしろに見つた。それなのに、わたしはじっと座ったまま話の洪水に浸 れんが か吉一いし のきじやばら える赤煉瓦造りの小さなビルの、笠石だの軒蛇腹だのをつくされ、夜は夜で事務所を出たあとまでもたつぶり聞かされて、 づく眺めたり何かしていることもあった。わたしはその軒蛇聞きながら眠り、聞きながら夢を見なければならなかった。 す 可腹が据えつけられた日のことを考えはじめる。あれをデザイ彼らは世界じゅういたるところから、社会のあらゆる階層か 南 ンした男は、、 しったいどこのどいつだ ? なんだってまたあら流れこんできて、無数のちがった一一 = ロ葉を話し、ちがった神 、 ' 皮らのなかの んな醜悪なものを作りやがったんだ ? ィースト・サイドかをあがめ、ちがった法律や置習に従ってした。彳 ばうだい ーレムまで、もっと先まで行きたければハ ーレムを越え、もっともあわれな連中の話だけを寄せ集めても、厖大な書物 きり
493 日はまた昇る ーヌ河は暗く、灯りをいつばいつけた川蒸気が通る。早い速「飲むかい ? 」 「いや」ビルはいった。「いらんよ」 度で、音もなく近づいてきて、橋の下に姿を消す。川下には、 ノートル・ダム寺院が夜空に大きくうずくまって見える。 ばくらは、コントルスカルプ広場を右へ折れて、両側に高 ケ・ド・べチューヌから木造の歩道橋を渡ってセーヌの左岸い古家のある滑らかな狭い通りを歩いた。通りにまで突きだ に出ようとしたのだが、 橋の上に立ちどまって、川下のノー している家もある。ひっこんだ家もある。ボ・ド・フェル通 トル・ダムを眺めた。橋の上からみると、島は暗く、家並みりにくると、こんどはこの通りをきっちり南北に通ずるサ が夜空に高く浮かび、木々は黒い影だ。 ン・ジャック通りまで歩く。そこから南へ折れ、鉄柵と中庭 「こいつあ、 いいや」ビルはいった。「よかったなあ、帰っのうしろにおさまっている「ヴァル・ド・グラース」 ( 紀に建 てられ てきて」 ) の蔔を通って、ポール・ロワイヤル大通りに出た。 た僧院目 ばくらは、木の欄干にもたれて、川上の大きな橋の灯りを 「きみは、ど , っす・る ? 」ばはきいた。「『セレクト』へいっ 見やった。橋の下の水は、滑らかで黒い。橋げたにぶつかって、。フレットとマイクに会うかい ? 」 ても、音をたてぬ。男と女が、通りかかオ っこ。互いに抱き合 しし AJ 、も」 うようにして歩いていった。 ポール・ロワイヤル通りをモン。ハルナスまで歩き、それか ばくらは橋をわたって、カルディナール・ルモワーヌ通りら、「リラ」や「ラヴィーニュ」、もろもろの小カフェ、「ダ を歩いた。急なのばりになって、コントルスカルプ広場までモアの店」などの前を通り、向こう側の「ロトンド」側へ渡 ずっと歩いた。広場の木々の葉ごしにアーク灯の灯りがもれり、その灯りとテープルの前を通って、「セレクト」にきた。 ネーグル・ジョワ てきて、木蔭から、バスが発車しかけている。「陽気な黒 マイケルが、テープルから立ちあがって、ばくらのほうに ん坊」の戸口から音楽がひびく。「カフェ・オー・ザマトウやってきた。日焼けして、丈夫そうだ。 すず 「ハロ ール」の窓ごしに、長い錫張りのカウンターが見えた。そと ジェーク」彼はい , つ。「ハロー のテラスでは、労働者たちが飲んでいる。「ザマトウール」 お、以」 , つ」い ? 」 オしか、マイク」 のあけっ放しの料理場で、女がポテト・チップスを油で揚げ 「すごく元気そうじゃよ、 ている。シチューの鉄鍋もある。女がそばに立った老人のた 「そうとも。えらく元気さ。何しろ歩いてばかりいたんさ。 めにシチューを皿にすくってやっている。老人は片手に赤葡一日じゅう歩く。お袋とお茶をつき合って、飲むのは一日一 どう 萄酒の瓶をつかんだままだ。 回だけ」 あか なペ よ
762 であるからして、せいぜいいまのうちにやっておこうじゃならできた。彼いわく、何もむだ使いすることはないからね ! さら というわけで、彼らは毎晩、食事のあとの皿洗いが ハイミーとは反対に、スティーヴ・ロメロにとっては発射 お、つし すむと、小鳥の巣のように小さなアパートの部屋で服を脱ぎせすにおくのがひと苦労だった。牡牛のような体をしたステ 捨て、横になって二匹の蛇のようにからみあった。彼はそれィーヴは惜しげもなく種をまき散らした。われわれはいつも、 チャプス をーー - ーっまり細君の抱き心地をーー何度となくわたしに説明会社の前の通りから角をひとっ曲がったところにある中華料 して聞かせようとした。あのなかはまるで柔らかい歯をもっ理屋に腰をすえて、互いに情報を交換しあったものだ。それ た牡蠣みたいで、そいつがじわじわと彼をかじるのだそうだ。 は妙な雰囲気の集まりだった。酒なしの集まりだったせいか きのこ トさな茸を とにかく綿毛のようにふんわりと柔らかいので、ときには子もしれない。それとも、おかしな恰好をした黒い / 宮のなかにまで入りこんだような気がする。その柔らかい歯食わされたせいだったかもしれないが、どっちにしろ、そこ にじわじわと一物をかじられているうちに、彼は夢見、い地にではわりあいに気軽にその種の話を持ち出すことができた。 。かっ : っ なってしまうのだ。ふたりはよく鋏のような冾好の体位をとスティーヴは、そこへ顔を見せるころにはすでにひと試合お って天井を見上げる。彼はすぐに終ってしまわないように、 えてシャワーを浴び、マッサージまですませていた。つまり 会社のことを考えたり、ふだんから気になっているちょっと は心身ともにさつばりして、男の完全な標本といったところ した心配ごとを思い返したりしながら、ぐっと下腹を引きし だ。彼はあまり頭の切れる方ではなかったが、それでも友達 めている。そしてオーガズムとオーガズムのあいだには別のとしてはい、 しやつだった。これに反して、ハイミーは蟇の 女のことを思いうかべる。そうすれば細君がまた働きかけてようにいやなやつだった。まるで彼は、汚らしい一日をすご ファック きたとき、まったく新しい女陰とまったく新しい性交を始めした沼地からまっすぐその店のテーブルへやってきたという たような気分を味わえるわけだ。彼はいつでも行為中に窓か ような感じがした。彼の口からは汚物 ( 猥談と、う。、、 意味も氛る ) カ蜜のよう ら外を見ることができるような姿勢をとるようにしていた。 に垂れていた。いや、実のところ、彼の場合それは汚物とも それに熟練してくると、窓の下の通りを歩いている女を裸に 呼べなかった。なぜなら、その成分を比較できるようなもの してべッドへ連れこむこともできるようになった。それだけ がほかになかったからだ。それは完全にセックスばかりから でなく、進行中の性交をまったく中断させることなしにそのなる、ぬらぬらした粘液質の、不変の液体だった。彼の目に 女と細君とを入れ替わらせることまでできた。ときには、そは、どんな食べものも精液の原料としか見えなかった。あた の調子で二時間も続けながら一度も発射しないでいることすたかい日だと、きんたまの虫干しにちょうど、 しい日おに、と一一一一口 べッカー は ) み みつ ひきがえる
693 南回帰線 は部屋のなかをゆっくり見まわし、どの女がいちばん飲んべてってくれよ、おれもすぐあとから行くから : えらしくないだろうかと品さだめをしていた。われわれの人 いいか、きっと待ってるんだぞ、この前みたいにおれをおい 生のみじめな敗北について論じたてながらも彼の足は踊るよてけばりにして行っちまうなよ。そしてわたしは、これもま うに動き、彼の眼はだんだん輝きを増していく。そしていったいつものとおり、外へ出るとせいいつばい足を早めて歩み こうもやすやすとマグレガーのやっから逃 もそうなるとおり、彼がこんなことを言いはじめるとき 去ってしまう 「たとえばウッドラフのやつをみろ。あんなけちくさいこそげだせたことを幸運の星に感謝し、笑いを噛み殺しながら。 : 」・ーーちょうどそんこれだけ酒が入っているからには、足がどこへ向こうとたい 泥野郎は絶対に出世できっこないよ : した問題じゃない。あいもかわらず気違いじみた光にあふれ なころあいに、ほろ酔い機嫌の女がテープルのそばを通りか とうみつ たプロードウェイ、糖蜜のようにこってりと込み合った群衆。 かって彼の目を惹くという段取りになり、彼はまるでそれま いささかも間をおかずに女に声をそのなかへ蟻のように身を投げ入れて押し流されて行け。は での話のつづきのように、 つきりした目的のあるやつも、何の目的もないやつも、みん かける。「やあ、きみ、ここへ座って一緒に飲まないかね ? 」 すると、こんなところで酔っぱらっている女がひとりで来てな同じように流されて行く。 . こうして押し合いへしあいしな がら動いて行くことが、すなわち行動を、成功を、前進を意 いるはすもなく、かならず連れがいるときまったものだから、 彼女はこう答える しいわよ。あたしの友達も連れてき味するのだ。ちょっと足をとめて眺めてみようじゃないカ 靴だの、柄ものの趣味的なワイシャツだの、それに新作の秋 てかまわない ? 」そこでマグレガーはあたかも世界でいちば コート、 一個九十八セントのウェディング・ ん女に親切な男であるかのごとくそれに応じる。「ああ、かのオー まわないとも。その人は何て名前なんだね ? 」さてそれから、ングだのを。レストランとか食品店とか、食べものを扱う店 ならほとんど一軒おきに並んでいるほどだ。 彼はわたしの袖を引き、耳もとヘロを寄せてささやく こうしてタ食どきの飲み逃げに成功するたびに、わたしは おれにあいつらを押しつけといてずらかるなよ。一 熱い期待のとりこになった。タイムズ・スクウェアから五十 杯飲ませたら追っぱらっちまうからな。いいか ? 」 距離にしてほんの数。フロック、プロ ところが、いつものことながら一杯が二杯になり、勘定が丁目まで ( け報華なあたり ードウェイと一 = ロえば聞こえよ、 。ししが、要するにそれはただそ どんどんかさんでくると、彼はなぜこんな飲んだくれ女ども のために金を浪費しなければならないのかわからなくなって、れだけのもので、実のところは何ものでもありはしない。せ いぜい養鶏場といった程度で、それもきたならしいやつだ ヘンリー、薬でも買いに行くようなふりをして一足さきに出 そで あり
ローヴァーは何時間もぶつつづけにピアノの前に座りづめで、イーク龕 ) だよ」とでも答えたとする。するとこの因業おや じは一一一一口 , つのだ 誰も彼をピアノから引き離すことができなかった。そんなと 「そりやいってえ何のこった ? 何だって き、彼の母親は家の前の芝生の上に立っていて近所の連中が まともな英語の名をつけやがらねえんだ ? 」グローヴァーに 通りかかるのをつかまえては、ひとことでも息子への賛辞をとって、このおやじの粗暴さよりも無知の方がもっと耐えが しばり取ろうとした。彼女は自 5 子の " 入神の , 演奏に聴き忽 たいくらいだった。彼は心底から自分の父親を恥じていて、 れるあまり、夕食の支度をするのも忘れてしまうほどだった。 かげでは容赦なく父親をこきおろした。そして二、三年たっ と、もしおやじがあんな下司野郎でさえなければ、自分もこ 下水工事場で働いているグローヴァーの父親は、こ、 つもむつつりした顔で、ペこペこに腹をへらして帰ってきた。んなえび足に生まれてはこなかったはずだ、などと当てつけ ときには玄関からまっすぐ二階の客間へ上がって行ってグロを一言うようになった。おやじのやつは妊娠中のおふくろの腹 ーヴァーをピアノの前の椅子から引きすりおろすこともあっ を蹴とばしやがったにちがいない、 というのだった。彼の主 あしげ しろんな面で彼に影響を及ばしたようだ た。この父親も悪態をつくことにかけては相当なもので、彼張するこの足蹴は、、 がそれを天才息子に浴びせかけはじめると、さすがのグロー った。なぜならば、さきほども述べたとおり、立派な若者に ヴァーも返す一一一一口葉がほとんどなくなってしまうほどだった。 成長した彼は突如としておそろしく情熱的に神を信じはじめ、 この父親の見解によれば、グローヴァーなどただやたらと騒おかげで彼の前では鼻をかむにもまず神の赦しを得てからで なければならないようなことになったからだ。 音をたてるろくでもないぐうたら自 5 子にすぎなかった。とき グローヴァーの回心は、ちょうどわたしのおやじの信仰熱 どき、彼はこんな糞いまいましいピアノなど窓から放り出し おば てやるーーー、・ついでにおまえも一緒にだ、とグローヴァーをおがさめた直後だった。わたしがいまでもよく憶えているのは だれ どかした。そんな場面に、母親が向う見すにも割って入ろうそのためだ。ウォトラス家の連中には長いあいだ誰も会って いなかったが、 ものなら、たちまちばかりと殴りつけられ、おまえなんそは そこへ不意に、いわばすさまじい鼾が鳴り響 ののし いている真っ最中に、・ クローヴァーが乗りこんできたのであ ロープの端にぶらさがって小便でもたれてろ、と罵られるの 帰がおちだった。しかしむろん、こんな父親にも気持の和らぐる・丨ーわれわれ一家を悪より救い出そうとして神も照覧あれ 南 ときがあって、そ , つい , っとき彼がグローヴァーに、おまえが とばかり腕まくりし、き、かんに祝垢恤をまきちらしながら。わ トつば、つ たしがます気がついたのは、彼の容貌の変化にだった。彼は ガンガン鳴らしてるそのうるせえのはいったい何てんだ、と 訊き、そしてグローヴァーが、たとえば、「ソナタ・。ハテテ神の仔羊 ( キリスト ) の血によってすっかり洗い浄められてい こひつじ ゆる いん 1 、う
大馬鹿ったら、すっと目をそらせて壁の方を向いたきりで、 さず答えた。「なんだって ? 」わたしは言った。「きみはおと なしく殴られるままになっていたのか ? 」「なにもこっちか さすり方だって丸太ん棒をこすってるみたいじゃないの。 『そんなとこじゃないわよ、馬鹿ね』ってあたし言ったわ。ら殴ってくれって頼んだわけじゃないわ」彼女は言った。 ラ『もっと下の方よ : ・・ : 何をこわがってるの ? 』そして痛くて「でも、知ってのとおり、すごく気の短いひとでしょ ? ほ たまらないふりをしたの。あいつ、しまいにとうとう肝心のかのひとにだったら、おとなしく殴られてやしないけどさ、 ところにさわったわ、どうせ偶然でしようけど。『そう , でもどういうわけだか、あのひとには殴られてもあまり気に そこよ ! 』って、あたし叫んじゃった。『ああ、そこを撫でならない。かえって気分がさつばりすることだってあるし てちょうだい、 とてもいい気持だわ ! 』ねえ、あのとんでも よくわからないけど、女ってたまには殴られた方がい ない間抜けったら、たつぶり五分間は本気でマッサージして いのかもしれないわね。本当に好きなひとにだったら、殴ら くれたわよ、それがゲームだとも気がっかないで。あたししれたってそんなに気持は傷つかないものよ。それに、殴った やにさわっちゃって、も , つ、 しいからさっさと出てってちょあとはすごくやさしくしてくれるんですものーーーなんだかこ かんがん うだいって言ってやったわ。『この宦官』って言ってやった っちが恥すかしくなるくらい : んだけど、あのとおりの間抜けだから、その言葉の意味もわ こんなことを正直に認めるような女には、そうざらにお目 からなかったにきまってるわ」彼女は自分の弟の間抜けさ加 にかかれるものではない わたしが言うのはまともな女の 減を思い出して笑った。そして、あの子はきっとまだ童貞の場合のことで、頭のたりない女となれば話は別だ。たとえば、 ままよ、と一一 = ロった。あんたどう思う ? あたしのしたこと、 トリックス・ミランダとその姉のミセス・コステロ。これは とてもいけないことだったかしら ? しかしむろん、彼女は実によく似た一対だった。わが友マグレガーとっきあってい わたしがそれをいけないことだなどと思うはずがないのをちオ こトリックスは、同居している姉にたいして、マグレガーと ゃんと承知していた。「ところで、フランシー」とわたしは はべつに性的な関係などないようなふりをしていたし、姉は 言った。「きみはいまっきあってるあのおまわりにその話を姉で、相手が誰だろうとおかまいなく、自分は冷感症だし、 したかい ? 」たしか話さなかったと思う、というのが彼女のそれに " 作りが小さすぎる〃ので、たとえその気があっても 返事だった。「だろうな」わたしは言った。「もしそんな話を男と関係できないのだというふりをしてみせた。ところが、 聞かせたら、やつはいやというほどきみをぶちのめしただろわが友マグレガーは姉妹のどちらともよろしくやっていた。 うからね」「あのひとになら、もう殴られたわ」彼女はすかそして姉妹はどちらもそれを知っていながら、互いにそんな
外に出た。外はもう暗し の狭い通りは、 がらんとしている。バルコニーはいたる所、 「何時ごろだろうね」コーンがきく。 人でいつばいだ。と、急に通りを駆けてくる人の群れが現わ 「あしただよ」とマイク。「おまえさん、二日間眠ったのさ」れた。みんな、一かたまりになって、駆けてくる。この一団 工 「よせよ」コーンはいった。「はんとに何時だい」 が闘牛場の方角へ通りすぎていったかと思うと、そのうしろ ウ グ「十時だよ」 から、さらに大勢が駆けこんできて、さらにうしろから脱落 「ばくたち、よくも飲んだもんだなあ」 した連中がばらばらと、もう懸命に走ってくる。そのうしろ へ 「ばくたち、だって。おまえさんは、眠りこけてたんだ」 に、ほんの少し空間をおいて、牛が頭を上下に振り立てなが 暗い通りをホテルのほうへ歩いてゆくと、広場で打ちあげら、迫ってくる。たちまち、みんなが角を曲がって見えなく ている花火が見えた。広場に通ずる路地に出ると、広場は人なる。一人は倒れ、転がるように通りのわきによけて、動か でぎっしり、中央の連中はみんな踊っている。 なくなった。が、牛はそのまま気づかずに、駆けてゆく。だ ちそう ホテルの夕食は、たつぶりご馳走が出た。お祭り向けに値れもかれも、走っている。 段が倍になって、最初の食事だが、し 、くつも新しい料理がっ 彼らが見えなくなった後、闘牛場から、大きな歓声があが いた。食後に、みんなで町へ出た。今晩は徹夜して、明日の った。なかなか、終わらない。やがて、やっと花火の音がき 朝、六時に闘牛が通りを駆け抜けるところを見物しようと決こえた。牛が人びとのあいだを駆けぬけて、囲い場におさま 、いしたが、 あんまり眠いので、四時ごろ床についたのをおば った合図だ。ばくは部屋にもどって、。ヘッドに入った。は。こ えている。ほかの連中は、起きていた。 しのまま、石のバルコニーに立っていたのだ。みんなは、闘 かぎ ばくの部屋は鍵がかかっていて、鍵が見つからない。そこ牛場にいってるそと思いながらへ 、・ツドに入ると、また眠っ で階上にあがって、コーンの部屋のべッドの一つに寝た。外てしまった。 では夜のあいだもお祭りがつづいていたが、眠くてどうにも コーンが帰ってきたとき、ばくを起こした。彼は着がえを 起きていられなくなった。眼がさめると、花火の鳴る音がし はじめると、窓ぎわへいって、戸をしめた。向かい側の家の た。町のはずれの囲い場から牛をだしてやる合図だ。牛は通バルコニー にいる連中がのぞいていたからだ。 りを駆け抜けて、闘牛場へと向かうだろう。ばくはぐっすり 「今朝の、見たかし ? 」ばくはきいた。 寝こんでいて、目がさめたとき、もう遅すぎるという気がし 「ああ。みんなで、出かけたんだ」 た。ばくはコーンの上着をきて、バルコニーに出てみた。下「だれも怪我はなかった ? 」
息子が、といってもわたしとほとんど同じくらいの年だった 横になってこんなことをしているのだろうか、それとも : g が、・ヘッドで寝ているときは、彼女とわたしは鍵をかけて台一年三百六十五日のあいだ、毎回くりかえしたあの長い散 所に閉じこもった。彼女はそこの細長いテー。フルの上に横た歩 ! ーー別の女と寝ながら、わたしはその散歩を思い返した。 わってわたしを迎え入れた。その快楽を一段と強めたものは、あれ以来、わたしは心のなかで何度あの道をたどり直したこ とだろう , 行為のたびにわたしが心のなかでくりかえす、こんなひとり かって人間が創り出したなかでももっとも荒凉 わび ごとだった コレガ最後ダゾ : : 明日ハキット逃ゲ出シテとした、もっとも侘しい、もっとも醜悪な街路。わたしは苦 もん ことが終ると、彼女はそのアパートの管理人だった 悶のうちにこれらの散歩を、これらの街路を、日ごとに打ち くだかれたこれら最初の希望を、心のなかでたどり直した。 ので、わたしは彼女の代りに地下室へおりて行って樽 ドビュッシーの歌劇ペレア の灰を捨て ) の姿 ) を外へ運び出してやった。朝になって彼女の息子が窓はそこにある。だがメリザンド ( る樽。前出 スとメリザンド新のヒロイン 仕事に出かけると、わたしは寝具を屋上へ持ってあがって干はない。庭もそこにある。だが黄金の輝きはない。わたしは した。母親も息子も、結核にかかっていたからだ : それ通りすぎ、また戻ってきて通りすぎる。だがいつも窓は空っ で、ときにはテー。フルの上での組み打ちがとりやめになるこ ばだ。宵の明星が空に低くかかっている。トリスタンが現わ ともあった。またときには、なんの希望もないそんな暮しにれ、フィデリオが現われ、オペロンが現われる。ヒドラのよ やりきれなくなって、服をひっかけてふらりと散歩に出るこ うに九つの頭をもった犬が九つのロで吠え、沼があるわけで かえる もないのに、 ともあった。ときおり、わたしは家へ帰ることも忘れた。だ いたるところから蛙の声が聞こえる。同じ家並 がそんなときは、彼女があの大きな悲しそうな眼を見ひらい み、同じ電車の線路、何もかも同じだ。彼女はカーテンの蔭 てわたしの帰りを待っているということがわかっているだけ に隠れている。彼女はあれやこれやをしながらわたしが通り に、なおさら惨めな気持になった。わたしはまるで果たすべすぎるのを待っている : : : ダガ彼女ハソコニイハシナイノダ、 き神聖な義務をもった男のように、また彼女のもとへ帰ってケッシテ、ケッシテ、ケッシテ。あれはグランド・オペラだ 行くばかりだった。べッドに横たわって、彼女が抱きついてろうか、それとも手廻しォルガンを鳴らしているのだろう くるのにまかせながら、わたしは彼女の眼の下の皺や、赤毛か ? あれはアマート 和。一九 fi しが黄金の肺を破裂さ がのそいてきている髪のつけ根をつくづくと眺める。そうしせているのだ、あれは『ルバイヤート』だ、エヴェレスト山 て横たわったまま、わたしはしばしばもうひとりの女、自分だ、月のない夜だ、夜明けの啜り泣きだ、空いばりをしてい が愛している女のことを考えたー。ー彼女もまた、いまごろはる少年だ、 " 長靴をはいた猫 , だ、マウナ・ロア ( た かき ↓・、だ - 勹 すす
ヘミングウェイ 544 甲高く鳴く、単調な、乾いた、うつろな太鼓がひびきだすと、フェに入りこみだした。 みんないっせいに飛びあがって踊りだす。混み合って、踊り 「プレットとマイクは ? 」ビルはきいた。 手の頭と肩が上下にゆれ動くのが見えるだけだ。 「よびに行ってくるよ」とコーン。 広場では、一人の男が屈みこむようにして、葦笛を吹きっ 「ここへ連れてきな」 づけ、子供たちの群れが、叫んだり、男の着物をひつばった いよいよお祭りの始まりだ。七日間、夜昼なしでつづく。 りしながら、ついてゆく。男が広場から出ると、子供もあと踊りも、飲むほうも、騒ぎもつづく。お祭りのあいだでなけ に従い、いっしょにカフェの前から、路地のほうへ入ってい れば起こり得ないようなことがつぎつぎと起こる。しまいに った。前を通るとき、男のばかんとしたあばた面がはっきり っさいが非現実的になって、あとのことなどどうでも 見えた。子供たちはすぐあとから、どなったり、彼の着物を といった気分になる。お祭りのあいだに、あとの結果 ひつばりながらついてゆく。 を考えるなんて、場違いに見えてくる。お祭りのあいだじゅ 「村のうすのろってとこだね」ビルがいった。「おや、おや、 う、静まっているときでさえ、何か伝えようとすれば、大声 あれを見てごらん」 でどならねばならぬ、そんな感じがつづく いっさいの行動 通りを踊り手たちが、やってくる。通りは踊り手でぎっし について、同じ感じがっきまとう。まさしくお祭りで、これ りいつばい、みんな男ばかりだ。それそれの笛と太鼓に合わが七日間つづくのだ。 せて踊りながら、ついてくる。何かのクラブらしく、みんな 午後には、大きな宗教行列があった。サン・フェルミンが 青い職人用の上っ張りをきて、赤いハンケチを首にまき、二教会から教会へと移される。この行列には、教会と町との、 本の竿に張った大きなのばりをもっていた。のばりは、人混おえら方みんなが加わっている。人混みがひどすぎて、行列 みにもまれて、あがったり、さがったりしている。 も見えなかった。格式ばった行列の前後で、リオ・リオの踊 ぶどう 「葡萄酒万歳 ! 外人万歳 ! 」とのばりに書いてあった。 り手たちが踊りつづける。群衆の中で、一団の黄色いシャッ ヾート・コーンカき 「外人てのは、どこにいるんだい ? 」ロノ が上下に動いている。路地から歩道まで、いたる所をぎっし り埋めつくした群衆のあいだから、やっと見えたものといえ 「おれたちが、外人なのさ」ビルはいった。 ば、大きな巨人、煙草屋用の三十フィートもあるインディア そのあいだも、花火の打ちあげはつづいている。カフェのン ( 煙障広告に使われ ) 、ムーア人、王と王妃などの人形がリ テー・フルもすっかり満員だ。広場には人が少なくなって、カオ・リオの曲に合わせて、重々しく輪をえがきつつ、ゆれ動 さお カカ