ったわけだ。ちょうどひとりで眺めてほくほくしていたとこ だった。しかもたった八人では、対抗策を考えたところで、 やれつこない彳 皮らは相談の結果、路地を出て仲間たちのとろへ、あの連中がおしかけて騒いだために、しかたなくバル ころへひきあげた。 コニーにあがって、喜劇を演じたのだった。あらためて「ミ ニチュア」を眺めていたら、ふと、夫人の「葬式」のほうが 仲偉はバルコニーから笑いながら彼らを見おくった。見え なくなるまで見おくってから、部屋にはいったが、 まだ笑い自分の誕生祝いよりさきになるかもしれないと思った。そこ つづけていた。この「邸宅」は各階三部屋の三階建ての平凡で祝いの場面をくずして、古風な「葬式」に組みかえてみた。 こくたん まんまく な家だった。彼のマッチ工場が左前になってから、片側の脇高さ三寸ほどの白い幔幕をはり、マッチ箱大の黒檀のひじか け椅子には全部白い絹のカバーをかけた。ひとつひとつの配 部屋を人に貸すために空けたうえ、コックひとりと女中ふた りにひまを出した。だから実際に「不景気」がこの邸宅に充置に、彼はマッチ工場の経営よりずっと熱をこめ、かつはる かに計画的だった。 満していたわけだし、まして夫人が結核の第三期で、今年は とうろ、つ 一対のみかん大の灯籠をならべおわり、東西のアーチ門を 夏になっても寝たきりだった。にもかかわらず、仲偉はいっ とん底の暮らしから、買弁となっ 立てようとしたとき、不意にふたりの客がはいって来たので、 も平気で笑っていられた。・ この大仕事も中断するほかなかった。 てのしあがった彼だから、元来見かけだおしなのはしかたな チューインチウチェンチュンイー 客は朱吟秋と陳君宜で、卓上のおもちやを見るなり、思 いが、彼の特技はすいすいと「成りあがる」と思うと、 も簡単に「ころぶ」ことだった。そして、どんなに窮迫してわす笑いだした。仲偉も得意げに両手をこすって、アハハと 笑った。吟秋が仲偉の肩をたたいていった。 も、彼は笑っていられるのだ。 しよかっ、 ) うめい 「仲偉さん、あんたには感服するね。さすがに腹がすわって さながら「空城の計」の諸葛孔明のように、八人の代表を る。お宅の工員がデモにおしかけているじゃないですか。路 笑いで追っぱらった仲偉は、階下の脇部屋にひきかえして、 辷査と口論してましたよ」 ふたたび「ミニチュアモデル」をいじりはじめた。大きな角地の外に大勢おしかけて、巛 「えつ、ほんとにそんなことが ? ちっとも知らなかった。 テープルをふたつつないだうえに、古風な誕生祝いのミニチ ュアセットがすらりとならべてあった。来年八月、彼は自分ちょっと失礼、見にいってきます」 夜 中偉はわざとおどろいたようにそういうと、急に笑いをひ 子の四十歳の誕生祝いをやるつもりだった。清朝時代の古式に のっとって盛大に祝いたかったのだ。けさはひまだったので、つこめて、上着のボタンをかけ、すぐにも出ていきそうなふ りをした。君宜が彼をひきとめた。 大事な「ミニチュア」をはこびだして、予行演習にとりかか
暮していたって、あたしたちはこれまで通り心からの友達と外はもう暗かった。氷のような外気に、彼はプルッと身震 刀してつきあっていられるのだから : ロぶりはおだやかだったが、その声には抑えに抑えた苦渋「それじゃ、これで」 金 巴 が滲みでていた。 おだやかに言って、彼女はくるりと背を向けた。 シアオシュアン 「しかしホ。宀旦が 「ちょっと」 彼が絞りだすように言った。 彼は思わす呼び止めた。そして、彼女が振り返ったのを見 かわい 「あの子はお婆ちゃん子で、お婆ちゃんには可愛がってもらると、もはや前後のわきまえもなくし、今日一日頭のなかで えるし、お父さんからも大事にされているから、何と言うこ渦巻いていた疑念を吐きだしてしまった。 ともないわよ。どうせあたしと一緒にいる時は滅多にないの ほかの誰か 「頼むから本当のところを聞かせてくれないか からんでいるのかね」 だし、もう大きくなったのだから、あたしみたいな母親なんが。ーーおふくろは別だが ていらないでしょ , っ ? 」 彼女の顔色と態度はそれでいささかも変ったようには見え 彼女は噛んでふくめるように言った。 なかった。事実、彼女は彼の質問に怒りを感じるどころか、 れんびん 「しかし、ばくには君が必要なんだ かえって憐憫の情を抱いたのであった。彼の気持を察して、 彼はねばった。 彼女は暗く笑った。 「いるといえばいるし、 「必要といえば、あなたのお母さまこそあなたを必要として いないといえばいないわ。でも安心 いるのよ。あたしがまさかお母さまを追い出すわけには、、 してちょうだい、あたしももう三十四よ。無茶はしないわ」 ないし。お母さまがいらっしやるかぎり、あたしが帰るわけ彼女は軽く会釈すると、彼をその場に残して、足早に歩み よ、じゃないの」 去った。 ばうぜん 彼女にきつばりと言われて、彼は頭を抱えた。 彼は茫然とその場に立ちすくんだまま彼女の後ろ姿を見送 「それじゃ、ばくはどうしたらいいんだ」 った。とはいえ、彼の目には何もうつっていなかった。その 「さ、そろそろ出ましようよ。あなたも早く帰らなければ」 目に見えていたのはただ一つ、彼女があの気のきいたオー 彼女はふっと溜め息をもらしてやさしく一言うと、ポーイに ーを着た若い男と前を歩いてゆく、永久に前を歩いてゆく姿 ゞ ) 丿ゞ ) っ , ) 0 勘定を頼み、紙幣をテープルに置いて先に席を立った。彼も 仕方なしに黙って立ち、彼女の後を追った。 「失敗だ。あれだけ長いあいだ話しながら、何一つ片づける
「杜さまがお話があるとのことです。むかいの客尸 司にいらっ製糸工場はどこも火薬庫同然で、どこかに火がつけば、たち 料しゃいオす・・」 まち燃えひろがり、ゼネストになりかねないことはわかって 蔬甫は予期していたように、立ちあがり、「ちょっと失礼」 いる。しかも彼自身、いま大口契約の生産に追われている最 といいのこして、出ていった。だが食堂のドアを出たところ中だから、ストなんかおこったらこまるのだ。そんな事情を、 インチウ へ、吟秋が追ってきて、単刀直入にきりだした。 吟秋はむろんのみこんでいる。だから「三カ月操業停止」な チューチャイ 「竹斎さんのところの期限の来た借入金なんですが、あな どといって、おどしているのだ。 ~ 孫甫はしばらく考えたうえ たからロをきいていただけませんか」 で、口調を変えた。 ~ 孫甫が目を向けて答えようとしたら、吟秋がつづけてひと 「ともかく、なんとか話してみよう。竹斎が承知するかどう ことつけ加えた。 かわからんが、あとでまた相談しよう」 「三カ月延ばしていただくだけでい、 しのですが」 これ以上吟秋につきまとわれないように、 ~ 孫甫はさっとそ 「おとといわたしが竹斎に話したことだね ? おたがい親し こをはなれた。うすら笑いを顔に浮かべて。 い仲なんだから、融通できるときは融通しないわけがない でも彼のロぶりだと、むすかしいらしい。金づまりで、警戒竹斎は奥の客間で待ちくたびれて、いらいらしていた。嗅 してるんだろう。期限の来た貸付金はぜんぶ回収するつもりぎたばこを大量に嗅ぎ、二、三度くしやみをしてから、無意 。こ。おたくにかきらす , ー。ーー」 識にドアに歩みよった。ドアをあけると、ちょうど ~ 孫甫が逃 「それでは、道はひとっしかありません。破産宣告という」 げるように吟秋からはなれて、こちらへやってくるのが見え そういったときの吟秋の態度は、ひどく真剣で、 ~ 孫甫はあた。 ~ 孫甫のぶりぶりした苦しげな表情に竹斎はおどろき、 ~ 孫 ゃうく信用するところだった。だが、相手をひと目観察して、甫の工場で騒動がおこったか、それとも郷里からまた電報が やはり外交手段だと判断した。それでも、そしらぬ顔であっ来たのかと思った。彼は自分から近よって、いそいでたすね き、り・といっこ。 「まさか。あなたの資産は負債を上まわっている。破産なん「どうした 一難去ってまた一難か」 てとんでもない」 甫はうすら笑いを浮かべたまま、ロをきかなかった。ド 「それでは第二の道です。三カ月操業停止」 アをしめ、疲れきった様子でソフアに身を沈めてから、よう これには ~ 孫甫もあやうく顔色を変えるところだった。いまやく口をきいた。
ひとも手に入れたいという切実な必要性が、一種の勇気を呼んだりしてポケットに突っ込んだせいで、よれよれに皺がよ っている一枚の札びらを無造作に取りだすと、賢輔の手の中 び起こし、旅費を工面する件で恥を忍んで準求に頭を下げさ せ、南竹には平然と、姉宛てにも旅費を送って欲しいと手紙に押し込んだ。賢輔はにわかに胸がきりきりと痛みだし、目 を書くよう、勧めさせたのである。 頭が熱くなってきた。手の中に残されたよれよれの札びらと ところが、よれよれのポーラーの背広を着込み、汗に濡れ友人の汗ばんだ手の温もりに、粘っこい友情がねっとりと絡 ている帽子をかぶったみすばらしい姿の彼といざ顔を合わせみついているような気がして、不意に胸を衝かれたのである。 てみると、賢輔は一瞬、準求に金の工面を依頼したことが悔南竹はこと新しく感謝の念を表わしながらも、申し訳ない やまれるのだった。何がなし荒んで見える彼の姿に、自分の気持ちから彼を正視することができず、視線をテー。フルのう えに落としたまま、髪に手をやって何度も撫で上げるばかり それと通い合うものを嗅ぎとったからでもあった。 それでも準求は、落ち着いた足取りで階段を上がると食堂だった。目の前に一、二度しか顔を合わせたこともない女が ひつはく すわ へ案内し、座席を示して二人に坐るよう勧めた。次いで飲み同席しているのもお構いなしに、逼迫している家庭の事情ま おく 物を注文してから、 ハンカチを取りだして臆するふうもなく、でぶちまけねばならない、貧しい市民の心情が気の毒でもあ れば哀れでもあり、よく一言えば勇気があって見え : : : すぐに 顔と胸の汗をゆっくりと拭うのだった。 「勘弁してくれ。家には子供らがうようよしているうえ、家も尻尾を巻いて逃げだしたくなるような、そんな息苦しいそ 内が臨月を迎えて太鼓腹を抱えているのに、まだいっぺんもの場の雰囲気だった。 産婆に見せてやれないありさまなんだ。月末になると借金取 あおがえる 通りへでて準求と別れてからも、賢輔と南竹の気持ちはと りがわんさと戸口まで押しかけてきて、まるで青蛙みたい わめ : どうしてこんな具合ても複雑だった。賢輔はむしやくしやしてすぐには家に帰る にぎゃあぎゃあ喚きたてる始末だし : になっちまったのか、し 、まのおれはもう、自殺することしか気になれす、南竹もやはり旅館の狭苦しい部屋へ早々と引き む頭に浮かんでこないんだ : : : 他に方法がないんだから、仕方揚げたいとは思わなかったので、当てもなしに夜の街をぶら ががないさ。こんども校長にさんざん無理を言って、何とか一ぶらし始めた。せつかく親友が工面してきてくれた汗臭い金 を、そうと知ってはいまさら突き返すわけにもいかす、有難 枚だけ都合をつけてきたところだ。少なくて申し訳ないが、 く受け取りはしたものの、買い整えねばならぬものなどもあ 何かの足しにでもしてくれや」 って、旅費としてはぜひともその五倍は必要だった。賢輔は このように前口上を述べてから彼は、封に入れたり丸め込 しわ
をつけて良く見ているのだが、どれも代り映えのせぬ詰らぬ ぎぎ こうげん 顔ばかりで、我が師のお顔のごとく巍々たる光顔を拝するこ とは一度もない。男たち、女たち、子供たちが格子の向うか ものすご ら覗きこんで「やあトラだよ。物凄いやつだなあ」と声をあ やかま げ、わしを起き上らせようと喧しく騒ぎ立てたり、係が目を この動物園の規模がいかほどのものか、とんとわからぬ。離している隙に石を投げこんだりしてから、隣りの檻の主か たの せいぜい身の回りと、目の前を往来するもののことしか、わらも同じ娯しみを得ようと移動して行く。隣りのトラとわし かんしゃ ひ とは違うのだといっても、外見こそ物凄いが内には魂をもっ ジープに曳かれた檻車で運びこまれた日、 しにはわからない ているのだと訴えても、きみたちは理解してくれそうもない 目についたのはわしを迎え入れるべく開かれた観音開きの門 が、わしには思考、分析、判断、記憶の力があり、きみたち 扉だけだった。立上ると前方に檻がいくつか見え、それにラ はる にできることなら何でもできる。しかも遥かに手際よく理に イオンの声が聞こえた。密林からわしを運送して来た男はジ 適ったやりかたでだ。ただ一つ、ことばを使う能力だけが欠 ープから降りると、こちらにちらと視線を投げながらいった。 けているのだ。 「異常なし。一つ走りして向うの檻の段取りがついているか わしの考えを読みとれるかたがおられたら、どうそ檻にお 見てくれ。このトラは人間と一緒にいたり、自由にあちこち まわ 歩き廻るのには馴れているんだ。だから人通りの多いところ入りになって身の上話しを聞いてやって下さい。せめて格子 はうしじよ , っ に檻を用意すると良い。うん、それから放飼場に野生のトラの間から腕を差しこんでわしに触ることができれば、ご挨拶 かぎづめ もちろん、鉤爪など引っこ が出ていないときに、放飼場で自由にさせておくのも案外面のしるしに前足を差し出そう 虎 めての上のことだ。きみたちは外見に惑わされておられる。 白そうだ。考えて見てくれないか」 おび め そうが 来 みんなが特別の配慮をしてくれるのは、我が師のお蔭だっ確かにわしの爪牙、らんらんと輝く眼はきみたちを怯えさせ デた。あのお方とは多分もう会えないのだろう。とはいえ、ひる。それはそれで仕方ない。詩人や画家に芸術的感興を催さ んやりとした床に寝ころんだまま、わしはいま我が師が人だせるような姿態に、オウムやクジャク、シカなどを創造され マ た神さまが、何ゆえかかるおそましき形相をわしらに与えら かりの中に突然姿を現し、檻の扉を開いて「出ておいで。さ うかカ あ一緒に行こう」とお召し下さるのを待ち焦がれているのだ。れたのか、神慮の程は窺い知れぬ。きみたちがわしに対して これがわしの夢だ。だからこそ見物人たちの顔を、いつも気距離を置くのも無理からぬことだ。わし自身にしたところが、 すき く ( くさ
、つい・く 節に仰せられる " われは生なり。われは死なり。われは殺戮てくれ。ここにおまえが書いたのは一体なんだ」と尋ねた。 : おおアルジューナよ。 者にして殺戮せらるる者なり。 「あなたがロ述されたとおりのことだ。」 きゅうてきやから 汝が目前にある仇敵の輩は既に死せる者なり。汝が矢先の「我々の知らない一一一一口葉で書いてある。受理できない : ン 「サンスクリットで書いたのです。我が国の聖なる書物は全 ヤ・回へると否とを問はす…と。」戦闘が始まる直軋、同相克の事態を苦慮 ラし戦意を喪失しかけたアルジューナに、連命に従って義務を果すようにと説得する 部これで書かれておる。神々のお使いになることばですそ。 クリシュナのことば〔。バガヴァッド・ギーター。「の第十一章、三十三節の取意訳 ナ委員長が度胆を抜かれ、対応に苦慮しているのは目に見えわしは日本語も含めて、ほかに十カ国語を知っておるが、書 ていた。「そのような場合にはですな。きみの生死に関してくときにはサンスクリットしか使わんのです。」それ以上う 我々の全責任を免除する旨の宣誓供述書を作製して署名してるさいこともいわれずに、師は委員長に背をむけて歩み去り、 頂かねば : ちょっと立止ってアルフォンスが眠りこけているのを確認し す 「いやはや名判事殿の石頭には呆れ果てた。わしが口を酸く たあと、校長室のドアの鍵穴に鍵を差し込んだ。 るる して縷々申し上げ、しかも緊急を要する事態だというのに よろしい。紙をよこしなさい。きみのいうとおり書き 、一しやく 鍵穴の中を鍵が回る音が聞こえたとき、小癪なことをしゃ すきま 判事は書類鞄から用紙を一枚取り出すと、窓の格子の隙間 がると巴った。部屋に入ってわしの邪魔をする権利など誰に すわ むち から突き出した。師は坐りこみ、窓の中から委員長がロ述すもない。わしは手に入れた自由を心ゆくまで味わい、鞭が るとおりに書き取って、誰からもいかなる責任をも免除する それを握っていた手ともどもーー永久に追放されたこと 旨の書類を作製し署名して返した。「こんなものは無用かつの至福に深々と浸っていたのだ。二度とあんな目に遭わされ 筋違いで、権威の濫用であることは承知のうえだが、判事とることはない。 この幸運をじっくりみしめると心が弾んだ。 いうきみの立場に敬意を表する、ただ、それだけのためです。あんなにも長いあいだ鞭をのさばらせておいたのは愚かなこ きみがなすべき、もっと大切なことがある。アルフォンスのとだった。こんど誰か鞭など振り回してみろ : : : どんな目に もら イに転がっている鉄砲を保管しなさい。目が覚めたとき虫の遭わせたら良いか、教えて貰いたいぐらした。、、 、。「とんなに場数 居所が良いか悪いか誰し こもわかりません。かれの手の届く範を踏んだ相手の悪企みだって、前足で軽く小突くだけで厄介 囲内に銃を放置するのは危険ですそ。」 払いできることを、わしは唐ったのだ。これまでは何という 委員長は書類に目をとおそうとして「おい、ちょっと待っ無知さ加減だったろう。人間の体の仕組みがわかった今とな なんじ かばん あき
この沈黙は耐えがたいものだったが、だからといって私はえ、さらにひとこと付け加えた。「書いていないと、ほかに 逃げようとは思わなかった。彼女が車に乗ろうと言い出さなすることもありませんからね。ばくは趣味と言えば映画だけ しよう・はん いので、私は彼女にお相伴して歩いて屋敷に帰った。私のなんです。それにしても、近ごろはなかなかいい映画に出会 金 巴一一一一〔葉が彼女の、いに何らかの印象を残したにせよ、とにかく本えませんね」 心を言ってしまったうえは、あとは覚吾をきめてすべての結 「あたくしは小説を読むのが好きです。小説を読むことは映 果を引き受けるまでだ。私には悔いはなかった。 画を見るのと同じですわ。あたくしいつも思っているんです 彼女の歩みもこれまでのように平静ではなくなった。たぶけど、ひとりの人がどうして同時にあんなにもたくさんの複 ん彼女も心中の平静さを失っていたのだろう。私は彼女がい雑な事柄を考え出すことができるんでしよう。先生は今度の ま何を考えているのか知りたいと思った。しかし、そのすべ ト兇の筋をもう最後まで考えていらっしやるのですか。今度 キ、な、かった ) 。 はどんな人物のことをお書きになるのですの」 あらすじ 屋敷まであと角が二つという交差点で、彼女がふと振り向 ムは小説の粗筋を話した。彼女は一、いに聞いているようだ った。最後まで話したところで、屋敷に着いていた。 「先生はまた小説を書いていらっしやるそうですが、本当で車夫がひとあし先に車を引いて門をはいった。夫人と私が すの」 後につづいた。李老人が椅子の前に立って私たちを迎えた。 彼女の甘い暖かい声が沈黙を破った。 彼の後ろの部屋のすみにひとつの人影が見えた。軒下にさが 「ええ。することがないもので、暇つぶしにね」 った門灯の赤茶けた光では、その人の顔をはっきり認めるこ からだ 「でもあまり根をつめて書かれると、お身体によくありませとができなかったうえ、通りすがりに見かけただけだったが、 たいせんし んわ。婆やが言っておりましたが、先生は一日中机に向かっ 私はとっさに例の大仙祠の唖者に違いないと断定した。しか ていらっしやるとか。あの机は低いのでご不便でございまし し、私が姚夫人との話の続きをすませて振り返ったときには、 よう。明日、主人に言って替えさせますわ。それにしても、ひょろりとした人影が街に消えて行くのがちらりと見えただ 、丁 , 、、こっこ。 少し仕事をお控えくださいまし。お見受けしたところあまり お丈夫ではないようですし」 私はそれを確かめてみる暇もないまま、夫人とともに中庭 その心配そうな声に、私は、 を抜けて中門をはいった。 「それほど書いているわけでもないんですよ」と感動して答 「こんなに歩いたのは、ここに嫁いできてからはじめてのこ ばあ
た その折り母は、密かにい くばくかの金を彼の手に握らせましようになってからは、その利益を貯めて百ウオン、五百ウォ ンと、父の名であちこちに寄付をしました。そして心ひそか レ父のために役立っことだと喜びにひたりました。 彼は、父の屋敷を追われても決して父を恨まず、むしろ神 う . わ、 「ねえ、きみ。父上が吝嗇だという噂も、近頃いくらか影を を恐れぬ父の態度に、涙を流したのでした。彼はささやかな ひそめたんじゃないかな ? 」 店を借りて商いを始めました。 ある日、彼は妻にこのように訊ねました。 イエスにひたすら忠実なだけ、彼は商いにも熱心で正直に 「ええ、何日か前、道端に立っていたら、通りすがりの人の 取り組みました。この世には三つの徳があり、一にイエスを けんそん 信じること、二に正直であること、三に謙遜であること、と 話が耳に入ってきて、お父さまが気の毒な方たちのために寄 いうのが田主事の胸の奥深くに刻まれている信念でした。彼付なさったことが新聞に出ているといって、老境にさしかか うわ ) って釜ロ行を施しなさったようだと噂していましてよ」 は何をするにもまず、この〈徳〉という鏡に照らして行動し ました。彼は、イエスの生誕前にこの世を去った孔子と孟子「新聞に ? 」 彼はその日から新聞を購読することにしました。 のためにさえ祈りました。 父の名で千ウオンの あるとき彼は、ある礼拝堂の建立に、、 正直さと謙遜を旨とする彼の商いは、日を追うごとに繁盛 しました。下は子供の洟まみれの五文銅貨から上は五ウオン、金を寄付しました。そして、その日から新聞にそのことが掲 載されるのを待ちました。 十ウオン紙幣までが、彼の店を出たり入ったりしました。 二、三日後に彼は、新聞のページを繰っていて歓声をあげ 商いは日ごとに繁盛したというのに、彼の財産はいっこう ると、その新聞を抱えて部屋に駆け込みました。新聞にはで に増えませんでした。 ソンチョル それまで、彼が父の屋敷にいた頃には気づかなかったこと 一大監は大臣に対する朝鮮王朝時代の ) 。、 , し王・宀呈 かでかと、田聖徹大監 ( 尊 の建立に千ウオンの金を寄付したということが、まるで奇跡 ですが、こうして世間に出てみて、父の評判がたいそう悪い りんしよく でも起こったかのように書かれていました。 ことをたびたび耳にしました。ほかでもない、吝嗇だとい ーー主なる神よ、父の罪 「ねえ、きみ、お祈りを捧げよう。 うのです。 イエス・キリスト 明〈父さんもあれだけ財産があるんだから、他人に少し分けてをこのことでいくらかでもお許し下さい みな の御名においてお願い申し上げます。アーメンーーああ、き やってもよさそうなものだが : : : 〉 初めはそう思いましたが、商いでそこそこの利益を上げるみ、これを見てごらんよ、これを。父上もきっと喜んで下さ ひそ ころ
1315 解説 二八年の夏に書き上げられたこの『滅亡』は、「人が人を 活動期 食う」社会に絶望し、この世界に憎悪の念を燃やしている孤 かれん 彼はこの小説を、一つには長兄への独立宣一一一一口書のようなっ 独な一青年革命家が、清純可憐な。フルジョアの令嬢との恋に ふくしゅう 悩んだすえ、殺された同志の復讐のためテロに走って犠牲もりで書いた。原稿をそのまま送るつもりだったが、気をか えて上海の出版社開明書店の友人へ送った。自費出版のうえ となるという筋の中編であるが、「ばくは愛することができ ない。ただ憎むだけだ。ばくはすべてを憎む」「われわれの長兄へ贈ろうと思ったのである。ところが、この年の暮、帰 ことばが何になる」「ばくはもはや愛のために生きることは国してみると情勢は変っていた。友人がその原稿を当時最大 ようせいとう 乍家。 できない。憎しみのために死ぬことを願う。死んではじめての文芸雑誌であった「小説月報」の編集長代理葉聖陶 ( イ 編集長 ばくの憎しみは消滅するのだ」といった歯の浮くような激烈 ー。「旅可しに見せ、翌二九年一月号から同誌に連載 なことばがちりばめられたこの作品には、彼の当時の焦りが ( 四月号まで ) されることに決っていたのである。 まったくふとしたことから作家になってしまった観のある 如実に写しだされている。 おうせい 巴金だが、それからの彼の旺盛な作家活動は、その『滅亡』 での好運な文壇登場が決してフロックではなかったことを証 、 -l-; / 中国の作家・ 鄭振鐸 ( 左 ) と ( 一九三三年、 十三陵の長陵 ) 中 / 上海の自宅の書斎にて ( 一九六二年三月 ) 下 / 中国作家団団長として 訪日 長崎平和公園にて ( 右から一一人目、巴金 一九八〇年四月 )
明したものであった。 年 ) とあわせて『愛情』三部作となった。彼にはほかにもう 三一年、彼は初期の代表作『家』をはじめ、『新生』『霧』 一編『火』三部作 ( 四〇年ー四三年 ) がある。彼がこのよう と三編の長編をほとんど並行して完成した。『家』は彼の生な長編を好んだのは、滞仏中に読んだゾラの「ルーゴン〔〔マ 金 巴家をモデルとして、旧礼教にがんじがらめになった家族制度 ソカール双書」にヒントを得たものであった。しかし後の二 の害悪を暴露しようとしたものであり、その家の犠牲となっ つの三部作は観念的で生硬であり、『激流』の重厚さには到 て青春を失った彼の長兄堯枚を描くことで、今なお家の重圧底及ばなかった。これは巴金の背後にある家の重さがしから しめたものである。 のもとにある長兄を励まそうとしたものであった。しかし、 この小説の第一回が『激流』という題で上海の新聞「時報」 彼は『激流』三部作をまとめたことで、すでに離散してし けつべっ に発表された四月十八日、当の長兄の堯枚は成都で死んだ。 まった生家に訣別したわけではなかった。この三部作を完成 事業に失敗し、五人の子供を残して服毒自殺したのである。 して間もない一九四一年の一月と四二年の五月、彼は成都を 巴金はこの時すでに六章まで書き進めていたが、思いもかけ訪ねてそれそれ二カ月前後滞在した。二三年、十九歳で家を なかった長兄の死にあって、兄に言いたかったことのすべて出て以来のことである。二十年振りで訪ねてみた生家は持ち ほ、つとう を作中に注ぎこみ、全四十章を一気に書き上げた。作中の人主が転々し、門構えもすっかり変っていた。放蕩者だった叔 物は、彼が十九年間、生活をともにした人びとの記憶をたよ父のひとりは、没落後妻子からも見離され、窃盗をかさねた かくし , れ かつはっ りに造形したものだったが、長兄に当る人物覚新だけは、長すえに拘置所で死んでいた。かっては美しく活漫だった従姉 兄の生きざまを忠実に写して記念とした。『激流』はその後、 は、何人もの子供をつくり、金のことしか口にしないありふ 三三年『家』と改題のうえ出版され、三七年完成の「春』、れた中老の女にかわっていた。こうして生家の跡をたすね、 しんせき 四〇年完成の『秋』とあわせ、改めて『激流』三部作にまと 親戚をたすねるうち、彼は『激流』三部作の完結篇を書こう められた。巴金たち兄弟が五・四文化革命のなかで新思潮に と思いたった。彼はそれを『冬』と題しようとした。拘置所 触れ、旧家族制度との闘争を開始した一九二〇年から、彼らで死んだ叔父の一家をモデルとするという構想はその時に立 の家ーー小説では高家・、ーーが没落のすえ邸を人手に渡して立てられた。四四年に半年あまりかけて書きあげられた『憩 ち退くまでの十年間を描いた大河小説である。 園』はこれが結実したものである。内容的には最初の構想通 この『家』と同時に書かれた『新生』は処女作『滅亡』のり『激流』三部作の完結篇といえるものだが 、ゝ、『激流』三部 続編であり、『霧』はのちの『雨』 ( 三二年 ) 、『稲妻』 ( 三一一作が高家の一族という共通した主人公を持った大河小説であ