あゆみ - みる会図書館


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1. 1Q84 BOOK2

手錠を両手にかけられ、目隠しをされ、ストッキングだか下着だかを口に突っ込まれて。あゆみ 自身が常々危惧していたことが、そのまま現実になったのだ。もし青豆があゆみをもっと優しく 受け入れていたなら、あゆみはおそらくその日、一人で街に出かけたりはしなかっただろう。電 話をかけて青豆を誘っていたはすだ。そして二人はもっと安全な場所で、お互いをチェックしあ いながら男たちに抱かれていたはずだ。でもたぶんあゆみは青豆に遠慮をしたのだ。そして青豆 の方からあゆみに電話をかけて誘うことは一度もなかった。 午前四時前に、青豆は部屋の中に一人でいることに耐えられなくなり、サンダルを履いて部屋 を出た。そしてショートパンツにタンクトップというかっこうのまま、未明の街を当てもなく歩 きまわった。誰かが声をかけてきたが振り向きもしなかった。歩いているうちに喉が渇いたので、 終夜営業のコンビニに寄って、大きなパックのオレンジジュースを買い、その場で全部飲んだ。 それから部屋に戻って、またひとしきり泣いた。私はあゆみのことが好きだったんだ、と青豆は 思った。自分で考えていたより、もっとあの子のことが好きだった。私の身体を触りたいのなら、 どこだって好きなだけ触らせてあげればよかったんだ。 翌日の新聞にも「渋谷のホテル、婦人警官絞殺事件」の記事は載った。警察は全力をあげて、 立ち去った男の行方を追っていた。新聞記事によれば、同僚たちは戸惑っていた。あゆみは性格 が明るくて、まわりのみんなに好かれ、責任感も行動力もあり、警察官としても優秀な成績を収 めていた。父親や兄を始めとして、親戚の多くが警官の職に就き、家族内の結東も強かった。ど うしてこんなことになってしまったのか誰も理解できす、ただ途方に暮れていた。 103 第 5 章 ( 青豆 ) 一匹のネズミが菜食主義の猫に出会う

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そんなことをされそうになったら、激しく抵抗するだろう。しかしあゆみには、相手が何かを求 めれば、それがどんなことであれ、ついこたえてしまう傾向があった。そのかわりに相手はいっ たい自分に何を与えてくれるのだろう、と期待する。危険な傾向だ。何といっても行きずりの男 たちなのだ。彼らがいったいどんな欲望を抱えているのか、どんな傾向を隠しているのか、その 場になってみなければわからない。あゆみ本人もその危険性はもちろん承知していた。だからこ ートナーを必要としたのだ。自分に歯止めをかけ、注意深く見守ってく そ青豆という安定したパ れる存在を。 青豆もあゆみを必要としていた。あゆみには青豆が持ち合わせていないいくつかの能力が具わ っていた。人を安心させる開放的で陽気な人柄。愛想のよさ、自然な好奇心、子供のような積極 性、会話の面白さ。人目を惹きつける大きな胸。青豆はそのそばでただミステリアスな微笑みを 顔に浮かべていればよかった。男たちはその奥にいったい何があるのかを知りたがった。そうい う意味では、青豆とあゆみは理想的な組み合わせだった。無敵のセックスマシーン。 たとえどんな事情があったにせよ、私はもっとあの子を受け入れてあげるべきだったんだ、と 青豆は思った。あの子の気持ちを受け止め、しつかりと抱きしめてやるべきだった。それこそが あの子の求めているものだった。無条件に受け入れられ、抱きしめてもらうこと。たとえいっと きでも、 しいからとにかく安心させてもらうこと。でも私はその求めにこたえることができなかっ た。自分の身を護ろうとする本能が強く、それに加えて大塚環の記憶を汚すまいという意識が強 すぎた。 そしてあゆみは青豆抜きで、一人だけで夜の街に出て、首を絞められて死んだ。冷たい本物の 102

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ず、外にも出なかった。涙として流れ出た水分を時々体内に補給し、倒れ込むように短いうたた 寝をするだけだった。あとの時間は休みなく泣いた。そのとき以来だ。 この世界にはもうあゆみはいない。彼女は体温を失った死体になり、今頃は司法解剖に回され ているだろう。解剖が終わるとまたひとつに縫い合わされ、おそらくは簡単な葬儀があり、その あとで火葬場に運ばれ、焼かれてしまう。煙となって空に立ち上り、雲に混じる。そして雨とな って地表に降り、どこかの草を育てる。何を語ることもない、名もなき草だ。しかし青豆はもう 二度と、生きたあゆみを目にすることはない。それは自然の流れに反することであり、おそろし く不公平なことであり、道筋を間違えたいびつな考え方としか思えなかった。 大塚環がこの世を去って以来、青豆がいささかなりとも友情に似た気持ちを抱けた相手は、あ ゆみの他にはいないしかし残念ながら、その友情には限界が存在した。あゆみは現職の警察官 であり、青豆は連続殺人者だった。確信を持った良心的殺人者ではあるけれど、殺人はあくまで 殺人であり、法的に見れば青豆は疑問の余地なく犯罪者である。青豆は逮捕される側に属し、あ ゆみは逮捕する側に属している。 だからあゆみがもっと深い繋がりを求めてきても、青豆は心を硬くして、それにこたえないよ うに努めなくてはならなかった。お互いを日常的に必要とするような親しい関係になってしまう と、いろんな矛盾やほころびがそこに避けがたく顔を出してくるし、それは青豆の命取りになり かねない。青豆は基本的に正直で率直な人間だった。大事なところで誰かに嘘をついたり、隠し 事をしながら、相手と誠実な人間関係を結ぶことはできない。そんな状況は青豆を混乱させるし、 混乱は彼女の求めるものではなかった。 100

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けで精いつばいなのだ。 孤独という言葉は、青豆にあゆみのことを思い出させた。 あゆみはどこかの男の手で、ラプホテルのべッドに手錠で縛り付けられ、暴力的に犯され、 スロープの紐で首を絞められて死んだ。犯人は青豆の知る限り、まだ逮捕されていない。あゆみ には家族もいたし、同僚もいた。しかし彼女は孤独だった。そんなひどい死に方をしなくてはな らなかったほどに孤独だった。そして私は彼女の求めに応じてやることができなかった。彼女は 私に向かって何かを求めていた。間違いなく。でも私には護らなくてはならない私の秘密があり、 孤独があった。あゆみとはどうしても分かち合うことのできない種類の秘密であり、孤独だった。 彼女はなぜよりによって私なんかに心の交流を求めなくてはならなかったのだろう。この世界に ほかにいくらでも人はいるはずなのに。 目を閉じると、アパートのがらんとした部屋に残してきた、鉢植えのゴムの木の姿が思い浮か んだ。 どうしてこんなにあのゴムの木のことが気になるのだろう。 それからひとしきり青豆よ立、こ。、 ( 、冫しオしったいどうしたのだろう、と青豆は小さく首を振りなが ら思う、このところ私は泣きすぎている。彼女は泣きたくなんかなかった。あのろくでもないゴ ムの木のことを考えながら、どうして私が涙を流さなくてはならないのだ。しかしこばれ出る涙 を抑えることができなかった。彼女は肩を震わせて泣いた。私にはもう何も残されていない。み すほらしいゴムの木ひとっ残されていない。、 少しでも価値あるものは次々に消えていった。何も 435 第 21 章 ( 青豆 ) どうすればいいのだろう

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あゆみにもそれはある程度わかっていたはずだ。青豆が何か表には出せない個人的な秘密を抱 えていて、そのために自分とのあいだに一定の距離を意図的に置こうとしているということが あゆみは直観に優れている。いかにも開けっぴろげな見かけの半分くらいは演技的なもので、そ の奥には柔らかく傷つきやすい感受性が潜んでいる。青豆はそれを知っていた。自分のとってい た防御的な姿勢のせいで、あゆみは淋しい思いをしていたかもしれない。拒否され、遠ざけられ ていると感じていたかもしれない。そう思うと針で刺されたように胸が痛んだ。 そのようにしてあゆみは殺されてしまった。たぶん街で見知らぬ男と知り合い、一緒に酒を飲 み、ホテルに入ったのだろう。それから暗い密室で手の込んだセックスプレイが始まった。手錠、 猫 さるぐっわ、目隠し。状況が目に浮かぶ。男は女の首をバスロープの紐で絞め、相手が悶え苦し の むのを見ながら興奮し、射精する。しかしそのとき男は、バスロープの紐を握った手に力を入れ主 すぎてしまったのだ。ぎりぎりで終わるはすのことが終わらなかった。 ズ あゆみ自身もそんなことがいっか起こるのではないかと恐れていたはすだ。あゆみは定期的な の 激しい性行為を必要としていた。彼女の肉体はーーそしておそらく精神はーーそれを求めていた。 匹 でも決まった恋人はほしくない。固定された人間関係は彼女を息苦しくさせ、不安にさせる。だ 豆 から適当な行きずりの男とその場限りのセックスをする。そのあたりの事情は青豆と似ていなく はない。ただあゆみには、青豆よりもっと奥深いところまで足を運んでしまう傾向があった。あ 第 ゆみはどちらかというとリスキーで奔放なセックスを好んだし、傷つけられることをおそらくは 無意識的に望んでいた。青豆は違う。青豆は用心深いし、誰にも自分を傷つけさせたりはしない。

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近づいていった。あと少しで夏も終わろうとして、外では蝉たちが最後の声を振り絞っている 一日一日はおそろしく長く感じられるのに、どうしてこんなにも急速に一ヶ月が通り過ぎてしま ったのだろう。 青豆はスポ 1 ツ・クラブの仕事から戻ると、汗を吸い込んだ衣服を脱いで洗濯用のバスケット に入れ、タンクトップとショ 1 トパンツという格好になった。昼過ぎに激しいタ立ちがあった。 空が真っ暗になり、小石くらいの大きさの雨粒が音を立てて路面を叩き、雷がひとしきり鳴った。 タ立ちが過ぎ去ると、あとには水浸しになった道路が残った。太陽が戻ってきて、その水を全力 で蒸発させ、都市はかげろうのような蒸気に覆われた。夕方から再び雲が出て、厚いヴェールで 空を覆った。月の姿は見えない 夕食の用意に取りかかる前に一休みする必要があった。冷たい麦茶を一杯飲み、前もって茹で ておいた枝豆を食べながら、台所のテープルにタ刊を広げた。一面から記事を流し読みし、順番 にペ 1 ジを繰っていった。興味を惹く記事は見あたらない。、 しつもの夕刊だ。しかし社会面を開 いたとき、あゆみの顔写真が彼女の目にます飛び込んできた。青豆は息を呑み、顔を歪めた。 そんなはずはないと彼女は最初思った。誰かよく似た人の写真をあゆみに見間違えているのだ。 だってあゆみが新聞に写真入りで、こんなに大きく取り上げられるわけがない。しかしどれだけ 見直しても、それは彼女のよく知っている若い婦人警官の顔だった。時折のささやかな性的饗宴 を立ち上げるためのパートナーだった。その写真の中で、あゆみはほんのわすかに微笑みを浮か べている。どちらかといえばぎこちない人工的な微笑みだ。現実のあゆみはもっと自然な、開け っぴろげな笑みを顔いつばいに浮かべる。それは公のアルバムに載せるために撮られた写真のよ 83 第 3 章 ( 青豆 ) 生まれ方は選べないが、死に方は選べる

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誰も知らない、と青豆は思った。でも私にはわかる。あゆみは大きな欠落のようなものを内側 に抱えていた。それは地球の果ての砂漠にも似た場所だ。どれほどの水を注いでも、注ぐそばか 、 0 ヾ とのような生命もそこには根づ ら地底に吸い込まれてしまう。あとには湿り気ひとっ残らなし かない。鳥さえその上空を飛ばない。何がそんな荒れ果てたものを彼女の中に作り出したのか、 それはあゆみにしかわからない。、 しや、あゆみにだって本当のところはわからないかもしれない。 しかしまわりの男たちがカずくで押しつけてくるねじれた性的欲望が、その大きな要因のひとっ になっていたことは間違いない。彼女はその致命的な欠落のまわりを囲うように、自分という人 間をこしらえてこなくてはならなかった。作り上げてきた装飾的自我をひとつひとっ剥いでいけ ば、そのあとに残るのは無の深淵でしかないそれがもたらす激しい乾きでしかない。そしてど れだけ忘れようと努めても、その無は定期的に彼女のもとを訪れてきた。ひとりばっちの雨降り の午後に、あるいは悪夢を見て目覚めた明け方に。そしてそんなとき、彼女は誰でもいい誰かに 抱かれないわけにはいかなかった。 青豆はヘックラ 1 & コッホ 4 を靴の箱の中から取りだし、慣れた手つきでマガジンを装瞋 1 に弾丸を送り込み、撃鉄を起こし、両手で し、安全装置を解除し、スライドを引き、チェンバ じゅ、つは 銃把をしつかり握って壁のある一点に狙いを定めた。銃身はびくりとも揺れなかった。もう手の 震えはない。青豆は息を止め神経を集中し、それから大きく息を吐いた。銃を下ろし、もう一度 安全装置をかけた。銃の重さを手の中で点検し、鈍い光を見つめた。その拳銃は彼女の身体の一 部のよ、つになっていた。 、と青豆は自分に言い聞かせた。あゆみの叔父や兄を罰したとこ 感情を抑えなくてはならない 104

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第つつ章主日一 生まれ方は選べないが、死に方は選べる 七月も終わりに近いその夜、長く空を覆っていた厚い雲がようやく晴れたとき、ふたつの月が くつきりとそこに浮かんでいた。青豆はその光景を部屋の小さなべランダから眺めた。彼女は すぐ誰かに電話をかけて、こう言いたかった。「ちょっと窓から首を出して、空を見上げてくれ る。どう、月はいくっ浮かんでいる ? 私のところからは月がはっきりふたつ見えるのよ。そち 、らはい」、つ ? ・ しかしそんな電話をできる相手はいない。あゆみにならかけられるかもしれない。しかし青豆 皮女は現職の警察官だ。青豆 としてはこれ以上、あゆみとの個人的な関係を深めたくなかった。彳 はおそらく近いうちにもう一人の男を殺し、顔を変え、名前を変え、別の土地に移り、存在を消 すことになる。あゆみとも当然会えなくなる。連絡もとれなくなる。一度誰かと親しくなってし まうと、その絆を断ち切るのはつらいものだ。 彼女は部屋に戻り、ガラス戸を閉め、エアコンを入れた。カ 1 テンを引き、月と自分とのあい だを遮った。空に浮かんだ二個の月は、彼女の心を乱した。それらは地球の引力のバランスを微

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「友だちといえるような人は私にはいません」と青豆は言った。それから彼女はふとあゆみのこ とを思い出した。私が何も言わすに突然姿を消してしまったら、あゆみは淋しく思うかもしれな あるいは裏切られたように感じるかもしれない。でもあゆみを友だちと呼ぶことにはそもそ もの最初から無理があった。警官を友だちにするには、青豆はあまりにも危険な道を歩んでいる。 「私には二人の子どもがいました」と老婦人は言った。「男の子と、三歳下の妹。娘の方は死に ました。前にも言ったように、自殺をしたのです。彼女には子供はいません。息子の方は、、 んな事情があり、私とは長いあいだうまくいっていません。今ではロをきくこともほとんどあり ません。孫が三人いますが、久しく会っていません。しかしもし私が死んだら、私の保有してい る財産の多くは一人息子と、その子供たちのところに遺贈されるはすです。ほとんど自動的に。 最近は昔と違って、遺言状というものはそれほど効力を持たないのです。それでも今のところ、 私には自由になるお金がかなりあります。もしあなたが今回の仕事をうまく成し遂げてくれたら、 あなたのためにその多くを譲りたいと思っています。誤解しないでほしいのですが、何もあなた をお金で買い取ろうというつもりはありません。私が言いたいのは、私はあなたのことを、どち らかというと実の娘のように感じているということです。あなたが私の本当の娘であればよかっ たのにと思っています」 青豆は静かに老婦人の顔を見ていた。老婦人は思い出したように、手にしていたシェリ 1 酒の グラスをテープルの上に置いた。そして後ろを振り向き、百合の艶やかな花弁に目をやった。そ の豊満な匂いを嗅ぎ、それからもう一度青豆の顔を見た。 「さっきも言った通り、私はつばさを引き取って養女にしようと考えていました。なのに結局彼 23 第 1 章 ( 青豆 ) あれは世界でいちばん退屈な町だった

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のサイズの靴がずらりと揃えられているかもしれない。それがアルマーニとフェラガモであれば、 一言うことはないのだが。しかし予想に反してクロ 1 ゼットは空つほだった。いくらなんでもそこ まではやらない。彳 皮らはどのあたりまでが周到で、どのあたりからがやり過ぎになるかを心得て いる。ジェイ・ギャッビ 1 の図書室と同じだ。本物の書物は揃える。しかしペ 1 ジを切ることま ではしない。それにここにいるあいだ、外出着が必要とされるような状況はますないはずだ。必 要ではないものを彼らは用意しない。しかしハンガーだけはたつぶりと用意されている。 青豆は旅行バッグの中から持ってきた服を取りだし、ひとつひとっしわがよっていないことを 確かめてからそのハンガーにかけた。そんなことをせず、服をバッグに入れつばなしにしておい た方が、逃走中の身にとって何かと都合の良いことはわかっていた。しかし青豆がこの世界にお いてなにより嫌いなのは、折りじわのよった服を着ることだった。 私は冷徹なプロの犯罪者にはなれそうにない、と青豆は思った。まったく、こんなときに服の 折りじわが気になるなんてね。そしてあゆみといっか交わした会話をふと思い出した。 「べッドのマットレスのあいだに現ナマを隠しておいて、やばくなるとそれをひつつかんで窓か ら逃げる」 「そう、それそれ」とあゆみは言って、指をばちんと鳴らした。「なんだかスティーブ・マック ィーンの『ゲッタウェイ』みたい。札束とショットガン。そういうのって好きだな」 それほど楽しい生活でもないよ、と青豆は壁に向かって言った。 それから青豆は浴室に行って着ている服を脱ぎ、シャワーを浴びた。熱い湯を浴びて、身体に 33 ラ第 15 章 ( 青豆 ) いよいよお化けの時間が始まる