「たぶん。ある程度は」 「セイコウをしていた」 セイコウという単語が「性交」を意味していることに思い当たるまでに少し時間がかかった。 それはどう考えてもふかえりがロにしそうにない言葉だった。 「もちろん。彼女はモノボリ 1 をやるために毎週ここに来ていたわけじゃない」 「モノボリー」と彼女は質問した。 「なんでもないーと天吾は言った。 「でもそのひとはもうここにはこない」 「少なくとも、そう言われた。も、つここには来ないだろうって」 「そのひとからいわれた」とふかえりは尋ねた。 「いや、直接言われたわけじゃない。その人の夫から言われた。彼女は失なわれてしまったし、 もう僕のところには来られないんだと 「うしなわれてしまった」 「それが具体的に何を意味するのか僕にもわからない。尋ねても教えてはもらえなかった。質問 はたくさんあるのに、回答は少ない。不均衡な貿易みたいに。紅茶は飲む ? 」 ふかえりは肯いた。 天吾は沸騰した湯をポットに注いだ。蓋をしてしかるべき時間が経過するのを待った。 「しかたないーとふかえりは言った。 「回答の少ないことが ? それとも彼女が失なわれたことが ? 259 第 12 章 ( 天吾 ) 指では数えられないもの
だから僕らは交わることになったのだろうか、と天吾はふかえりに尋ねたかった。昨夜のあの 激しい雷雨の中で。それはいったい何を意味するのだ ? しかし尋ねなかった。それはおそらく 不適切な質問であるはすだ。そしてどうせ答えは返ってこない。天吾にはそれがわかった。 説明しなくてはわからないとい、つことは、説明してもわからないとい、つことだ、と父親がどこ かで言った。 「君が知覚し、僕が受け入れる」と天吾はもう一度反復した。「『空気さなぎ』を書き直したとき と同じよ、つに」 ふかえりは首を横に振った。そして髪をうしろにやり、小さな美しい耳をひとっ露わにした。 発信器のアンテナを上げるみたいに。 「おなじではないー とふかえりは言った。「あなたはかわった」 「僕は変わった」と天吾は繰り返した。 ふかえりは肯いた。 「僕はどんな風に変わったんだろう ? 」 ふかえりは手にしたワイングラスの中を長いあいだのぞき込んでいた。そこに何か大事なもの が見えるみたいに。 「ネコのまちにいけばわかるーとその美しい少女は言った。そして耳を露わにしたまま、白ワイ ンを一口飲んだ。 458
は今では二十本ほどに増えていた。彼女は感心するくらいきれいにそれらの鉛筆を削っていた。 それほど美しく削られた鉛筆を天吾は今まで目にしたことがなかった。その先端は縫い針のよう に鋭く尖っていた。 「でんわがあった」と彼女は鉛筆の尖り具合を指で確かめながら言った。「チクラから 「電話には出ないはずだけど」 「だいじなでんわだったから」 大事な電話だとベルの音でわかったのだろう。 「どんな用件だった ? 」と天吾は尋ねた。 「ようけんはいわなかった」 「でもそれは千倉の療養所からの電話だったんだね ? 」 「でんわをかけてほしい」 「こちらから電話をかけてほしいとい、つこと ? 」 「おそくなってもかまわないからきようのうちに」 天吾はため息をついた。「相手の番号がわからないな」 「わたしにはわかる」 彼女は番号を記憶していた。天吾はその番号をメモ用紙に書き付けた。そして時計に目をやっ た。八時半だ 「電話は何時頃にかかってきた ? ーと天吾は尋ねた。 「すこしまえ」
「そんなに大事な相手なのに、どうして今日まで一度も捜さなかったのか ? 」と天吾はふかえり の代わりに言った。「良い質問だ」 ふかえりは黙って天吾の顔を見ていた。 天吾は頭の中にある考えをひととおり整理した。それから言った。「僕はたぶん長いまわり道 をしてきたんだろう。その青豆という名前の女の子は なんて言えばいいんだろうーーー長いあ いだずっと変わることなく僕の意識の中、いこ、こ。 。しオ僕という存在にとってのひとつの大事なおも しの役割を果たしていた。にもかかわらすというか、それがあまりにも中心にあったために、か えってその意味をみ切れなかったみたいだ」 ふかえりはじっと天吾の顔を眺めていた。その少女が彼の言っていることを少しでも理解して いるのかどうか、顔つきからはわからなかった。しかしそれはどうでもいい 。天吾は半ば自分自 身に向けて語りかけていた。 旧皿も 「でもやっとわかってきたんだ。彼女は概念でもないし、象徴でもないし、喩えでもない りのある肉体と、動きのある魂を持った現実の存在なんだ。そしてその温もりや動きは、僕が見 失ってはならないはずのものなんだ。そんな当たり前のことを理解するのに二十年もかかった。 僕はものを考えるのに手間がかかる方だけど、それにしてもいささかかかり過ぎだな。あるいは もう遅すぎるかもしれない。でもなんとしてでも彼女を捜し出したいんだ。もし仮に手遅れであ ったとしても」 ふかえりは床の上に膝をついたまま、身体をまっすぐに伸ばした。ジェフ・べックのツアー シャツに、乳首のかたちがまたくつきりと浮かび上がった。 め 6
坊主頭は目を細め、彼女の沈黙をしばらく計っていた。それからおもむろに言った。「あなた は何を目にするにせよ、そのことをよそでロにしてはなりません。それが外部に漏れることによ って、神聖さは取り返しのつかない穢れを受けます。美しく澄み切った池が異物に汚染されるよ うにです。世間的な考えがどうであれ、現世の法律がどうであれ、それが我々の感じる感じ方で す。そのことをどうか理解していただきたい。それさえ理解し、約東を守っていただければ、さ きほども申し上げましたように、我々はあなたに十分なお礼をすることができます」 「わかりました」と青豆は言った。 て 「我々は小さな宗教団体です。しかし強い心と長い腕を持っています」と坊主頭は言った。 あなた方は長い腕を持っている、と青豆は思った。それがどれくらい長いものか、それを私は れ これから確かめることになるだろ、つ。 み 坊主頭は両腕を組んでデスクにもたれたまま、壁にかかった額縁が曲がっていないかどうか確を かめるような目で、注意深く青豆を見てした。。、 、 ' ホニーティルはさっきと同じ姿勢を続けていた。 れ 彼の視線もやはり青豆の姿を捉えていた。とても均質に、切れ目なく。 それから坊主頭は腕時計に目をやって、時刻を確認した。 あ 「それでは参りましよう」、と彼は言った。ひとっ乾いた咳払いをし、湖面を渡る行者のような 慎重な足取りでゆっくりと部屋を横切り、隣の部屋につながるドアを軽く二度ノックした。返事 章 を待たす手前にドアを開いた。そして軽く一礼し、中に入った。青豆はジムバッグを持ち、その 第 あとに従った。カーベットを踏みしめながら、呼吸が乱れていないことを確認した。彼女の手の つものとおりだ。しかしそ 指は想像上の拳銃の引き金にしつかりかけられている。心配ない。い
かったから」 タマルは喉の奥で小さなくぐもった音を立てた。それは押し殺されたため息のように聞こえな くもなかった。「もし仮に俺がそういう手配のできる立場にあったならということだけど、常識 的に考えて、俺はたぶんあんたにこう質問するだろうね。いったいそれで誰を撃つつもりなのか 青豆は人差し指で自分のこめかみをさした。「たぶんここを」 タマルはその指をしばらく無表情に眺めていた。「その理由は、と俺は更に質問するだろうな」 「つかまりたくないから。死ぬのは布くない。刑務所に行くのも、おそろしく不愉央ではあるけ れど、まあ許容するしかないと思う。しかしわけのわからない連中に捕らえられて、拷問された りするのは困る。私としては誰の名前も出したくないから。言う意味はわかるでしよう ? 」 退 「わかると思う」 ん 「誰かを撃つつもりはないし、銀行を襲うつもりもない。だから二十連発セミオートマチックみ引 で コンパクトで反動の少ないものがいい」 たいな大げさなものはいらない 界 世 「薬という選択肢もある。拳銃を手に入れるより、その方が現実的だ」 れ あ 「薬は取り出して飲み込むまでに時間がかかる。カプセルをかみ砕く前にロの中に手を突っ込ま 豆 れたら、身動きがとれなくなる。でも拳銃があれば、相手を牽制しながらものごとを処理するこ 章 とができる」 第 タマルはそれについてしばらく考えていた。右側の眉がいくらか持ちあげられた。 と彼は言った。「俺はあんたのことがわ 「俺としては、できることならあんたを失いたくない
「そのカラスは夕方になるといつもやってくる。気にすることはない。社交的な訪問みたいなも のだ。七時までにはそちらに戻れると思う」 「いそいだほうがいしー 「どうして ? ーと天吾は尋ねた。 「リトル・ピ 1 プルがさわいでいる」 「リトル・ピープルが騒いでいる」と天吾は相手の言ったことを繰り返した。「僕の部屋の中で 騒いでいるとい、つこと ? 」 「ちがう。どこかべつのところ」 「別のところ」 「ずっととおくで」 「でもそれが君には聞こえる」 「わたしにはきこえる」 「それは何かを意味しているんだろうか ? 」と天吾は尋ねた。 「イへンがあろうとしている」 「イへンーと天吾は言った。それが「異変」であると思い当たるまでに少し時間がかかった。 「どんな異変が起ころうとしているんだろう ? 「そこまでわからない - 「リトル・ピープルがその異変を起こすのかな ? ふかえりは首を振った。彼女が首を振っている気配が電話口から伝わってきた。わからないと 223 第川章 ( 天吾 ) 申し出は拒絶された
じ姿勢のままだ。こちらに横顔を向け、空を見上げている。彼女は震える指で双眼鏡の焦点をあ わせ、横顔を間近に見る。息を止め、意識を集中する。間違いない。それは天吾だ。たとえ二十 年という歳月を経ていても、青豆にはそれがわかる。天吾以外の誰でもない 青豆がいちばん驚いたのは、天吾の見かけが十歳のときからほとんど変化していないことだっ た。十歳の少年が、そのまま三十歳になってしまったみたいだ。子供つほいというのではない。 もちろん身体は遥かに大きくなっているし、首も太くなり、顔の造作も大人らしくなっている。 表情にも深みが出ている。膝に置かれた手は大きく、力強かった。二十年前に小学校の教室で、 彼女が握った手とはずいぶん違う。しかしそれでも、その体驅が醸し出す雰囲気は、十歳のとき の天吾そのままだった。しつかりとした厚みのある身体は彼女に、自然な温もりと深い安心感を 与えてくれた。彼女はその胸に頬を寄せたいと思った。とても強く思った。青豆はそのことを嬉 しく思った。そして彼は児童公園の滑り台の上に座って空を見上げ、彼女が見ているのと同じも のを熱心に見つめていた。二個の月だ。そう、私たちは同じものを目にすることができるのだ。 どうすればいいのだろう ? どうすればいいのか、青豆にはわからなかった。彼女は双眼鏡を膝の上に置き、両手を思い切 り握り締めた。爪が食い込んでしつかりとあとがついてしまうくらい。握り締められた拳は細か くぶるぶると震えていた。 どうすればいいのだろう ? 彼女は自分の激しい息づかいを聞いていた。彼女の身体がいつの間にか、真ん中からふたつに 439 第 21 章 ( 青豆 ) どうすれはいいのだろう
えていないことを確かめた。それからその二センチほどの空間に指を入れ、両開きの扉を開くと きのように、ゆっくりと左右に押し広げた。これという抵抗もなく、音もなく、それは簡単に開 いた。まるで彼の手で開かれるのを待ち受けていたみたいに。 今では空気さなぎ自身が発する光が、雪明かりのように内部を柔らかく照らし出していた。十 分な光量とは言えないにせよ、中にあるものの姿を認めることはできた。 天吾がそこに見出したのは、美しい十歳の少女だった。 少女は眠り込んでいた。寝間着のようにも見える装飾のない簡素な白いワンピースを着て、平 らな胸の上に小さな両手を重ねて置いている。それが誰なのか、天吾には一目でわかった。顔が ほっそりとして、唇は定規を使って引いたような一本の直線を描いている。かたちの良い滑らか な額に、まっすぐに切りそろえられた前髪がかかっている。何かを求めるようにこっそりと宙に 向けられた小さな鼻。その両脇にある頬骨はいくらか横に張っている。まぶたは閉じられている が、それが開いたときそこにどんな一対の瞳が現れるのか、彼にはわかっていた。わからないわ けがない。彼はこの二十年間、その少女の面影をすっと胸に抱いて生きてきたのだ。 青豆、と天吾はロに出した。 少女は深い眠りに就いていた。どこまでも深い自然な眠りのようだ。呼吸もほんの微かなもの でしかなかった。彼女の心臓は人の耳には届かないほどのはかない鼓動しか打っていなかった。 そのまぶたを持ちあげるだけの力は、彼女の中にはなかった。まだそのときが来ていないのだ。 彼女の意識はここではない、、、 とこか遠い場所に置かれていた。しかしそれでも、天吾のロにした 言葉は少女の鼓膜をわずかに震わせることができた。それは彼女の名前だった。 498
える必要はありません」 青豆は黙って肯いた。サンドイッチをもうひとつつまみ、コーヒーを飲んだ。 「ところで銀行に預金をしていますか ? 」と老婦人は尋ねた。 「普通預金が六十万円ばかりあります。それから定期預金が一一百万円」 老婦人はその金額を吟味した。「普通預金は何度かにわけて四十万円まで引き出してかまいま せん。定期預金には手をつけないように。今ここで急に解約するのは好ましくありません。彼ら はあなたの私生活をチェックしているかもしれません。用心に用心をかさねましよう。そのくら い私があとでカバ 1 してあげます。ほかに財産と言えるようなものは ? 「これまでいただいたぶんがそのまま、銀行の貸金庫に入れてありますー 「現金は貸金庫から出しておいて。でもアパートの部屋には置かないように。どこか適当な保管 場所を自分で考えて下さい」 「わかりました」 「あなたにしてもらいたいことは、今のところそれくらいです。あとは、、 しつもどおりに行動す ること。生活のスタイルを変えす、人目を引くような真似をしないこと。それから大事な用件は なるべく電話で話さないように」 それだけ言い終えると、まるでエネルギーの備蓄をすべて使い果たしたように、老婦人は椅子 の中に深く身を沈めた。 「日にちは設定されたのですか ? ーと青豆は尋ねた。 「残念ながらまだわかりません」と老婦人は言った。「私たちは相手からの連絡を待っています。