ワイヤの入った白いプラ。私はミニスカートをまくりあげるような格好で鉄柵を越え、ここから 非常階段を降りた。 もう一度同じことをやってみる。それはあくまで純粋な好奇心からなされることだ。あのとき と同じ場所に、同じ服装で行き、同じことをして、どんなことが持ち上がるのか、私はただそれ が知りたい。助かりたいと思っているのではない。死ぬのはとくに布くない。そのときがくれば 躊躇はしない。私は微笑みを浮かべて死んでいける。しかし青豆は、ものごとの成り立ちを理解 しないまま、無知な人間として死にたくはなかった。自分に試せるだけのことは試してみたい。 ても最後の最後まで、やれるだけのことはやる。それが もし駄目ならそこであきらめればいい。、 私の生き方なのだ。 青豆は鉄柵から身を乗り出すようにして非常階段を探した。しかしそこに非常階段はなかった。 何度見ても同じだった。非常階段は消えていた。 の 青豆は唇を噛み、顔を歪めた。 場所を間違えているのではない。たしかにこの非常用駐車スペ 1 スだった。あたりの風景も同を ガ じだし、エッソの広告看板が目の前にある。 1984 年の世界では、非常階段がそこに存在して いた。あの奇妙なタクシーの運転手が教えてくれたとおり、青豆はその階段を容易に見つけるこ 豆 とができた。そして柵を乗り越え、その階段を降りていくことができた。しかし 1Q84 年の世 章 第 界には非常階段はもう存在していない。 出口はふさがれてしまったのだ。 青豆は歪めた顔をもとに戻してから、注意深くあたりを見回し、もう一度ェッソの広告看板を
いった。天吾はその心臓の音を耳元で聴きながら、滑り台の手すりに頭をもたせかけ、高円寺の 空に浮かぶ二つの月を見上げた。ひどく奇妙な風景だ。新しい月が加わった、新しい世界。すべ ては不確かで、どこまでも多義的だ。しかしただひとっ断言できることがある、と天吾は思った。 これから自分の身にどんなことが起こるにせよ、この二つの月が並んで浮かんだ風景を、見慣れ た当たり前のものとして眺めることはおそらくあるまい、ということだ。そんなことはたぶん永 遠にない。 青豆はあのときにいったいどのような密約を月と結んだのだろう、と天吾は思った。そして白 昼の月を眺めていた青豆の、どこまでも真剣な目を思い出した。彼女はそのときいったい月に向 かって何を差し出したのだろ、つ ? そしておれはこれからいったいどうなっていくのだろう ? それは放課後の教室で青豆に手を握られながら、十歳の天吾がずっと思いめぐらしていたこと だった。大きな扉の前に立った、怯えた一人の少年。そして今でもまだ、そのときと同じことを 思いめぐらしている。同じ不安、同じ怯え、同じ震え。もっと大きな新しい扉。そして彼の前に はやはり月が浮かんでいる。ただその数は二つに増えている。 青豆はどこにいるのだろう ? 彼は滑り台の上から再びあたりを見回した。でも彼が見出したいと思うものは、どこにも見当 たらなかった。彼は左手を目の前に広げ、そこに何かしらの暗示を見いだそうと努めた。しかし 手のひらには、いつもと同じ何本かの深いしわが刻まれているだけだ。それは水銀灯の奥行きの ない光の下では、火星の表面に残された水路のあとのように見える。しかしその水路は何ひとっ 429 第 20 章 ( 天吾 ) せいうちと狂った帽子屋
「痛みは確実に遠のいている」と男は大きく息を吐いてから言った。「これまで受けたどんな治 療もここまでは効かなかった」 「あなたの筋肉は被害を受けていますーと青豆は言った。「原因はわかりませんが、かなり深刻 な被害です。その被害を受けた部分をなるべくもとに近い状態に戻そうとしています。簡単なこ とではありませんし、痛みも伴います。でもある程度のことはできます。筋肉の素質はいいし、 あなたは苦痛に耐えることができる。しかしなんといってもこれは対症療法です。抜本的な解決 にはなりません。原因を特定しない限り、同じことが何度でも起こるでしよう」 「わかっている。何も解決はしない。同じことは何度も起こるだろうし、そのたびに状況は悪化 していくだろう。しかしたとえ一時的な対症療法であったとしても、今ここにある痛みが少しで も軽減されれば、何よりありがたいことだ。それがどれくらいありがたいことなのか、あなたに はおそらくわかるまい。モルヒネを使うことも考えた。しかし薬物はできるだけ使いたくない 長期間にわたる薬物の摂取は頭脳の機能を破壊する」 「残りを続けますーと青豆は言った。「同じように手加減なしでやってかまわないのですね ? 「言、つまでもない と男は言った。 青豆は頭を空つほにして、一心に男の筋肉に取り組んだ。彼女の職業的記憶には、人体のすべ ての筋肉の成り立ちが刻み込まれていた。それぞれの筋肉がどのような機能を果たし、どのよう な骨に結びついているか。どのような特質を持ち、どのような感覚を備えているか。それらの筋 肉や関節を青豆は順番に点検し、揺り動かし、効果的に締め上げていった。仕事熱心な宗教裁判 の審問官たちが、人体のあらゆる痛点をくまなく試していくのと同じように。 232
公園には人影はなかった。真ん中に水銀灯が一本高く立っていて、その明かりが公園の隅々ま でを照らしていた。大きなケヤキの木があった。その葉はまだ密に繁っている。いくつかの背の 低い植え込みがあり、水飲み場があり、べンチがあり、ぶらんこがあり、滑り台があった。公衆 便所もあったが、 それは区の職員の手によって日暮れに施錠されるようになっていた。浮浪者を 閉め出すためかもしれない。昼のあいだは、幼稚園に上がる前の子供を連れた若い母親たちがや ってきて、子供たちを遊ばせながら賑やかに世間話をしていた。天吾は何度かそういう光景を目 にしていた。しかし日が暮れると、そこを訪れるものはほとんどいない 天吾は滑り台の上にあがり、そこに立って夜空を見上げた。公園の北側には六階建ての新しい マンションが建っていた。以前はそんなものはなかった。最近できたばかりなのだろう。その建 物か北側の空を壁のように塞いでいた。しかしそれ以外の方向には低いビルしかない。天吾はぐ るりとあたりを見回し、南西の方向に月の姿を見つけた。月は二階建ての古い一軒家の屋根の上衛 に浮かんでいた。月は四分の三の大きさだった。二十年前の月と同じだ、と天吾は思った。まっ たく同じ大きさ、同じかたち。偶然の一致だ。たぶん。 しかし初秋の夜空に浮かんだ月はくつきりと明るく、この季節特有の内省的な温かみを持って いた。十二月の午後三時半の空に浮かんだ月とはすいぶん印象が違う。その穏やかな自然の光は、 人の心を癒し鎮めてくれる。澄んだ水の流れや、優しい木の葉のそよぎが、人の心を癒し鎮めて くれるのと同じよ、つに。 天吾は滑り台のてつべんに立ったまま、その月を長いあいだ見上げていた。環状七号線の方向 からは、様々なサイズのタイヤ音が混じり合った海鳴りに似た音が聞こえてきた。その音は天吾
彼女は大声で笑い出したくもあったし、同時に泣き出したくもあった。しかしそのどちらもで 皮女はその中間に立ちすくんだまま、どちらにも重心を移せす、ただ言葉を失って きなかった。彳 「怯えることはない」と男は言った。 「怯える ? 」 「君は怯えている。かってヴァチカンの人々が地動説を受け入れることを怯えたのと同じように。 むびゅうせい 彼らにしたところで、天動説の無謬性を信じていたわけではない。地動説を受け入れることによ ってもたらされるであろう新しい状況に法えただけだ。それにあわせて自らの意識を再編成しな くてはならないことに法えただけだ。正確に言えば、カトリック教会はいまだに公的には地動説 を受け入れてはいない。君も同じだ。今まで長いあいだ身にまとってきた、固い防御の鎧を脱ぎ 捨てなくてはならないことを怯えている」 青豆は両手で顔を覆ったまま、何度かしやくり上げた。そんなことをしたくはなかったのだが、 ひとしきり自分を抑えることができなかった。彼女はそれを笑いに見せかけたかった。しかしそ れはかなわぬことだった。 「君たちは言うなれば、同じ列車でこの世界に運び込まれてきた」と男は静かな声で言った。 「天吾くんはわたしの娘と組むことによって反リトル・ピープル作用を立ち上げ、君は別の理由 からわたしを抹殺しようとしている。言い換えるなら、君たちはそれぞれに、とても危険な場所 でとても危険なことをしている」 「何らかの意思がそうすることを私たちに求めたということ ? 282
「『華麗なる賭け』」と青豆は言った。 「そうそう、それです。フェイ・ダナウェイが保険会社の調査員をしてるんですよ。盗難保険の スペシャリストです。それでマックイ 1 ンが大金持ちで、趣味で犯罪をやっている。面白い映画 だった。高校生のときに見ましたよ。あの音楽が好きだったな。しゃれていて」 「ミシェル・ルグラン 運転手は最初の四小節を小さくハミングした。それから彼はミラ 1 に目をやって、そこに映っ ている青豆の顔をもう一度じっくり点検した。 「お客さん、そういえばどことなく、その頃のフェイ・ダナウェイに雰囲気が似てるんじゃない ですかー 「どうもありがとう」と青豆は言った。微笑みが口元に浮かんでくるのを隠すために、努力がい くらか必要だった。 首都高速道路三号線上りは、運転手が予言した通り見事に渋滞していた。入り口から入って百 メートルも進まないうちに既に渋滞は始まっていた。渋滞の見本帳に載せたいような立派な代物 だった。しかしそれこそがまさに青豆の望んだことでもあった。同じ服装、同じ道路、同じ渋滞。 タクシーのラジオからャナーチェックの『シンフォニエッタ』が流れていないのは残念だったし、 カーラジオの音質があのトヨタ・クラウン・ロイヤルサルーンに取り付けられていたものほど高 そこまで望むのは望みすぎというものだ。 品質ではないことも残念だったが、 車はトラックに挟まれながら、のろのろと前進した。長く一カ所に止まり、それから思い出し
知った。どこまで相対的になれるものか様子を見てみよう。「今度は左側をやります。たぶん右 側と同じくらいの痛みがあるはずですー 「あなたにまかせる。わたしのことなら気にかけなくてい 「手加減はしなくていいということですね 「その必要はない」 青豆は同じ手順で、左側の肩胛骨まわりの筋肉と関節を矯正した。言われたとおり手加減はし なかった。いったん手加減をしないと決めたら、青豆は躊躇することなく最短距離を歩む。しか し男の反応は右側の時よりもさらに冷静なものだった。彼は喉の奥でくぐもった音を立てただけ で、ごく当たり前のようにその痛みを受容した。けっこう、どこまで耐えられるか見てみましょ う、と青豆は思った。 彼女は男の全身の筋肉を手順に従って解きほぐしていった。すべてのポイントは彼女の頭の中 のチェック・リストに記入されている。そのルートを機械的に、順序通りたどっていけばいいだ けだ。夜中に懐中電灯を持ってビルを巡回する、有能な恐れを知らぬ警備員のように。 どの筋肉も多かれ少なかれ、詰まっていた。厳しい災害に襲われたあとの土地みたいだ。多く の水路が堰き止められ、堤が崩されている。普通の人間が同じような目に遭ったら、たぶん立ち 上がることもできないだろう。呼吸をすることだってままならないかもしれない。頑丈な肉体と 強い意志がこの男を支えている。どのようなあさましい行いをこの男がなしてきたにせよ、ここ まで激しい苦痛に黙して耐えていることに対して、青豆は職業的な敬意を抱かないわけにはいか なかった。 229 第 lli' を ( 青の均衡そのものが善なのた
った。テレマンの作曲した各種独奏楽器のためのパルティ 1 タ。いつもと同じ行動だ。台所でコ ーヒーを作り、それを飲み、ラジオで「バロック音楽をあなたに」を聴きながら髭を剃る。日々 曲目だけが変わる。昨日はたしかラモーの鍵盤音楽だった。 解説者が語っていた。 十八世紀前半には作曲家としてヨーロッパ各地で高い評価を得たテレマンですが、十九世紀 に入ってからはあまりの多作の故に、その作品は人々の軽侮を買うことになりました。しかし それはなにもテレマンの責任ではありません。ョ 1 ロッパ社会の成り立ちの変化に伴い、音楽 の作られる目的が大きく変化したことが、このような評価の逆転を招いたのです。 これが新しい世界なのか、と彼は田 5 った。 あらためてまわりの風景を見まわしてみた。やはり変化らしきものは見当たらない。軽イ 人々の姿も今はまだ見えない。しかしいすれにせよ、髭を剃る必要はある。世界が変わったにせ よ変わらなかったにせよ、誰かが代わりに彼の髭を剃ってくれるわけではない。自分の手で剃る しかない 髭を剃ってしまうと、トーストを焼いてバターをつけて食べ、コーヒ 1 をもう一杯飲んだ。寝 すいぶん深く眠り込んでいるらしく、身動きひとっしなか 室にふかえりの様子を見に行ったが、。 った。さっきから姿勢も変わっていない。髪は頬の上で同じ模様を描いていた。寝息も前と同じ ように安らかだった。 340
れるのが怖かったのだろう。 前の時と同じように、彼女は側壁と左車線の車のあいだを抜けるようにして、渋谷の方向に歩 いた。その距離は五十メートルばかりだった。人々は車の中から信じられないという目で彼女の リ・コレクションのステージに 姿を見守っていた。しかし青豆はそんなものは気にもかけず、パ 立ったファッションモデルのように、背筋をまっすぐに伸ばして大股で堂々と歩を運んだ。風が 彼女の髪を揺らせた。空いた対向車線をスピードをあげて通り過ぎていく大型車が、路面を煽る ように揺らせていた。ェッソの看板がだんだん大きくなり、やがて見覚えのある非常用駐車スペ ースに青豆はたどり着いた。 あたりの風景は前に来たときと変わりはなかった。鉄の柵があり、その隣に非常用電話の入っ た黄色いポックスがあった。 ここが 1Q84 年の出発点だった、と青豆は思った。 この非常階段を使って、下にある二四六号線に降りたときから、私にとっての世界が入れ替わ ってしまった。だから私はもう一度この階段を下りてみようと思う。この前この階段を降りたの は四月の初めで、私はべ 1 ジュのコートを着ていた。今はまだ九月の初めで、コートを着るには 暑すぎる。しかしコートをべつにすれば、そのときとまったく同じものを私は身につけている。 渋谷のホテルで、あの石油関係の仕事をしているろくでもない男を殺したときと同じ服装だ。ジ ュンコ・シマダのスーツにシャルル・ジョルダンのハイヒール。白いフラウス。ストッキングに、 468
かもが私のもとから去っていった。天吾の記憶の温もりのほかには。 もう泣くのはやめなくては、と彼女は自分に言い聞かせる。私は今こうして天吾の中にいるの だ。あの『ミクロの決死圏』の科学者みたいにーーそうだ『ミクロの決死圏』というのが映画の タイトルだった。映画のタイトルを思い出せたおかげで、青豆はいくらか気持ちを立て直すこと ができた。彼女は泣くのをやめる。いくら涙をこばしても、それで何かが解決するわけではない。 もう一度クールでタフな青豆さんに戻らなくてはならない 誰がそれを求めているのか ? 私がそれを求めている。 そして彼女はあたりを見回す。空にはまだ二つの月が浮かんでいる。 「それがしるしだぞ。空をよく注意して見てるがいい」とリトル・ピープルの一人が言った。小 さな声のリトル・ピープルだ。 「ほうほう」とはやし役がはやした。 そのときに青豆はふと気がつく。今こうして月を見上げている人間が、自分一人ではないこと 皮よ滑り台のてつべん に。道路をはさんだ向かいにある児童公園に一人の若い男の姿が見えた。彳 ( 、 に腰を下ろして、彼女と同じ方向を見つめていた。その男は私と同じように二個の月を目にして いる。青豆は直感的にそれを知った。間違いない彼は私と同じものを見ている。彼にはそれが 見えるのだ。この世界には二個の月がある。しかしこの世界に生きているすべての人間に二個の とリ】ダーは一「ロった。 月が見えるわけではない、 436