「できると思う」 「あともうひとつ。この前の件に関して、あんたと二人だけで話しあいたい。マダムの用件が終 わった後で、少し時間を作ってほしい 「この前の件 ? タマルは少し沈黙した。砂袋のように重い沈黙だった。「手に入れたいものがあったはすだ。 忘れたか ? 「もちろん覚えている」と青豆は慌てて言った。まだ頭の隅で月のことを考えていたのだ。 「明日の七時に」と言ってタマルは電話を切った。 翌日の夜も月の数は変わらなかった。仕事を終えて急いでシャワーを浴び、スポーックラブを 出たとき、まだ明るい空の東の方に淡い色合いの月が二つ並んで見えた。青豆は外苑西通りをま たぐ歩道橋の上に立ち、手すりにもたれてその二つの月をしばらく眺めた。しかし彼女のほかに は、わざわざ月を眺めようとする人はいなかった。通り過ぎていく人々は、そこに立ち止まって いちべっ 空を見上げている青豆の姿を、不思議そうに一瞥するだけだった。彼らは空にも月にもまったく 興味がないらしく、足早に地下鉄の駅に向かっていた。月を眺めているうちに、青豆は昨日感じ たのと同じような気怠さを身体に感じ始めた。もうこんな風に月を見つめるのはやめなくてはと 彼女は思った。それは私に良い影響を及ばさない。しかしどれだけこちらから見ないように努め ても、月たちの視線を皮膚に感じないわけにはいかなかった。私が見なくてもあちらが見ている のだ。私がこれから何をしようとしているか、彼らは知っている。
青豆はそのときひそかに、ある種の心を月に託していたのかもしれない、 と天吾はふと思った。 彼女と月とのあいだに、何か密約のようなものが結ばれたのかもしれない。月に向けられた彼女 の視線には、そのような想像を導く、おそろしく真摯なものがこめられていた。 そのとき青豆が月に向かって何を差し出したのかはもちろんわからない。しかし月が彼女に与 えたものは、天吾にもおおよそ想像がついた。それはおそらく純粋な孤独と静謐だ。それは月が 人に与え得る最良のものごとだった。 天吾は勘定を払って「麦頭」を出た。そして空を見上げた。月は見当たらなかった。空は晴れ ていたし、どこかに月は出ているはずだ。しかしまわりをビルに囲まれた路上からは、その姿を 目にすることはできない。彳 ( , 皮よポケットに手を突っ込んだまま、月を求めて通りから通りへと歩 いた。どこか視界の開けた場所に行きたかったが、 高円寺ではそんな場所は簡単には見つからな い。ちょっとした坂だって見つけるのに苦労するくらい平らな土地なのだ。小高くなった場所も ない。四方を見渡せるビルの屋上に上がれればいいのだろうが、あたりには屋上に上がれるよう な適当なビルは見当たらなかった。 でもあてもなく歩いているうちに、近くに児童公園があったことを天吾は思い出した。散歩の 途中その前を通りかかることがある。大きな公園ではないが、そこにはたしか滑り台があったは ずだ。その上にのばれば、少しは空を見渡すことができるかもしれない。大した高さではないけ れど、地表にいるよりはいくらか見晴らしがいいだろう。彼はその公園の方に歩いていった。腕 時計の針は八時近くを指していた。 392
にふと、父親のいる千葉の海辺の療養所を思い出させた。 都市の世俗的な明かりが、いつものように星の姿をかき消していた。空はきれいに晴れていた か、いくつかのとくべつに明るい星が、ところどころに淡く散見できるだけだ。しかしそれでも 月だけはくつきりと見えた。月は照明にも騒音にも汚染された空気にも苦情ひとっ言わず、律儀 にそこに浮かんでいた。目をこらせば、その巨大なクレーターや谷間が作り出す、奇妙な影を認 めることもできた。月の輝きを無心に眺めているうちに、天吾の中に古代から受け継がれてきた 記應のようなものが呼び起こされていった。人類が火や道具や言語を手に入れる前から、月は変 わることなく人々の味方だった。それは天与の灯火として暗黒の世界をときに明るく照らし、 人々の恐怖を和らげてくれた。その満ち欠けは時間の観念を人々に与えてくれた。月のそのよう な無償の慈悲に対する感謝の念は、おおかたの場所から闇が放逐されてしまった現在でも、人類 の遺伝子の中に強く刷り込まれているようだった。集合的な温かい記憶として。 考えてみれば、こんな風に月をしげしげと眺めるのはすいぶん久しぶりのことだな、と天吾は 思った。この前月を見上げたのはいつのことだったろう。都会であわただしく日々を過ごしてい ると、つい足もとばかり見て生きるようになる。夜空に目をやることさえ忘れてしまう。 それから天吾はその月から少し離れた空の一角に、もう一個の月が浮かんでいることに気づい た。最初のうち、彼はそれを目の錯覚だと思った。あるいは光線が作り出した何かのイリュージ ョンなのだと。しかし何度眺めても、そこには確固とした輪郭を持った二つめの月があった。彼 はしばし言葉を失い、ロを軽く開いたまま、ただばんやりとその方向を眺めていた。自分が何を 見ているのか、意識を定めることができなかった。輪郭と実体とがうまくひとつに重ならなかっ 394
もなかった。彼女は法えてはいなかった。彼女が怯えなくてはならないものは何ひとつなかった。 そしてその指先を通して天吾にその気持ちを伝えようとしていた。 掃除のあとだったから、空気を入れ換えるために窓は大きく開けられ、白いカーテンが緩やか に風にそよいでいた。その向こうには空が広がっていた。十二月になっていたがまだそれほど寒 くはない。空の高いところには雲が浮かんでいた。秋の名残をとどめたまっすぐな白い雲だ。っ いさっき刷毛で引かれたばかりのように見える。それからそこには何かがあった。何かがその雲 の下に浮かんでいた。太陽 ? いや、違う。それは太陽ではない。 天吾は息を止め、こめかみに指を当てて記億をより深いところまでのぞき込もうとした。その 今にも切れてしまいそうな意識の細い糸をたどっていった。 そ , つ、そこには月かあった。 そこには月がほっかりと浮かんでいた。四分の三の大きさの月 まだ夕暮れには間があったが、 だ。まだこんなに明るいうちに、こんなに大きく鮮やかに月を見ることができるんだ、と天吾は 感心した。そのことを覚えている。その無感覚な灰色の岩塊は、まるで目に見えぬ糸にぶらさげ られたようなかっこうで、所在なさそうに空の低いところに浮かんでいた。そこには何かしら人 工的な雰囲気が漂っていた。ちょっと見たところ、芝居の小道具で使われる作り物の月のように 見えた。しかしもちろんそれは本物の月だった。当然のことだ。誰も本物の空にわざわざ手間暇 かけて、偽物の月を吊したりはしない ふと気がついたとき、青豆はもう天吾の目を見てはいなかった。その視線は彼が見ているのと 同じ方向にむけられていた。青豆も彼と同じように、そこに浮かんだ白昼の月を見つめていた。
9 7 8 4 1 0 5 5 5 4 2 5 5 1 9 2 0 0 9 5 0 1 8 0 0 5 I S B N 9 7 8 - 4 ー 1 0 - 5 5 5 4 2 5 ー 5 C 0 0 9 5 \ 1 8 0 0 E ⑧定価 : 本体 1800 円 ( 税別 ) BOOK 2 く 7 月一 9 月〉 村上春樹 く ichi-kew-hachi-yon 〉 a novel 新潮社 く ichi- kew-hachi-yon 〉 a novel BOOK 2 く 7 月一 9 月〉 村上春樹 く Haruki Murakami 〉 新潮社
第フ章「人五ロ せいうちと狂った帽子屋 間違いない。月は二個ある。 ひとつは昔からすっとあるもともとの月であり、もうひとつはすっと小振りな緑色の月だった。 それは本来の月よりかたちがいびつで、明るさも劣っていた。行きがかりで押しつけられた、だ れにも歓迎されない、貧しく醜い遠縁の子供のように見えた。しかしそれは打ち消しがたくそこ にあった。幻でもなければ、目の錯覚でもない。それは実体と輪郭を備えた天体として、たしか にそこに浮かんでいた。飛行機でもないし、飛行船でもないし、人工衛星でもない。誰かが冗談 で作ったはりばてでもない。疑いの余地なく岩の塊だ。深く考え抜かれたあとの句読点のように、 あるいは宿命が与えたほくろのように、それは無言のうちに揺らぎなく、夜空のひとつの場所に 自らの位置を定めていた。 天吾は挑むように、その新しい月を長いあいだ見つめた。視線を逸らすことはなかった。瞬き さえほとんどしなかった。しかしどれだけ長く凝視しても、それは微動だにしなかった。どこま
いった。天吾はその心臓の音を耳元で聴きながら、滑り台の手すりに頭をもたせかけ、高円寺の 空に浮かぶ二つの月を見上げた。ひどく奇妙な風景だ。新しい月が加わった、新しい世界。すべ ては不確かで、どこまでも多義的だ。しかしただひとっ断言できることがある、と天吾は思った。 これから自分の身にどんなことが起こるにせよ、この二つの月が並んで浮かんだ風景を、見慣れ た当たり前のものとして眺めることはおそらくあるまい、ということだ。そんなことはたぶん永 遠にない。 青豆はあのときにいったいどのような密約を月と結んだのだろう、と天吾は思った。そして白 昼の月を眺めていた青豆の、どこまでも真剣な目を思い出した。彼女はそのときいったい月に向 かって何を差し出したのだろ、つ ? そしておれはこれからいったいどうなっていくのだろう ? それは放課後の教室で青豆に手を握られながら、十歳の天吾がずっと思いめぐらしていたこと だった。大きな扉の前に立った、怯えた一人の少年。そして今でもまだ、そのときと同じことを 思いめぐらしている。同じ不安、同じ怯え、同じ震え。もっと大きな新しい扉。そして彼の前に はやはり月が浮かんでいる。ただその数は二つに増えている。 青豆はどこにいるのだろう ? 彼は滑り台の上から再びあたりを見回した。でも彼が見出したいと思うものは、どこにも見当 たらなかった。彼は左手を目の前に広げ、そこに何かしらの暗示を見いだそうと努めた。しかし 手のひらには、いつもと同じ何本かの深いしわが刻まれているだけだ。それは水銀灯の奥行きの ない光の下では、火星の表面に残された水路のあとのように見える。しかしその水路は何ひとっ 429 第 20 章 ( 天吾 ) せいうちと狂った帽子屋
でも寡黙に、頑なな石の心をもって天空のその場所に腰を据えていた。 天吾は握りしめていた右手のこぶしをほどき、ほとんど無意識に小さく首を振った。これじゃ 『空気さなぎ』と同じじゃないか、と彼は思った。空に月が二つ並んで浮かんでいる世界。ドウ タが生まれたとき、月は二個になる。 とリトル・ピ 1 プルは少女に一言った。 「それがしるしだぞ。空をよく注意して見てるがいいー その文章を書いたのは天吾だった。小松のアドバイスに従って、その新しい月についてできる 限り詳細に具体的に描写した。彼がもっとも力を入れて書いた部分だ。そして新しい月の形状は ほとんど天吾が自分で考えついたものだった。 小松は言った。「天吾くん、こう考えてみてくれ。読者は月がひとつだけ浮かんでいる空なら、 これまで何度も見ている。しかし空に月が二つ並んで浮かんでいるところを目にしたことはない はすだ。ほとんどの読者がこれまで目にしたことのないものごとを、小説の中に持ち込むときに は、なるたけ細かい的確な描写が必要になる」 もっともな意見だ。 天吾は空を見上げたまま、もう一度短く首を振った。その新しく加わった月は、まったくのと ころ、天吾が思いっきで描写したとおりの大きさと形状を持っていた。比喩の文脈までほとんど そっくりだ。 そんなことはあり得ないと天吾は思った。どのような現実が比喩を真似たりするだろう。「そ んなことはあり得ない」と実際に声にしてみた。声はうまく出てこなかった。彼の喉は長い距離 を走ったあとのようにからからに渇いていた。どう考えてもそんなことはあり得ない。あれはフ 42 ラ第 20 章 ( 天吾 ) せいうちと狂った帽「・屋
た。まるで観念と一言語が結東しないときのように。 も、つひとつの月 ? 目を閉じ、両方の手のひらで頬の筋肉をごしごしとこすった。いったいおれはどうしたのだろ う、と天吾は思った。それほど酒を飲んだわけでもない。彼は静かに息を吸い込み、静かに息を 吐いた。意識がクリアな状態にあることを確かめた。自分が誰で、今どこにいて何をしているの か、目を閉じた暗闇の中であらためて確認した。一九八四年九月、川奈天吾、杉並区高円寺、児 童公園、夜空に浮かんだ月を見上げている。間違いない それから静かに目を開け、もう一度空を見上げた。冷静な心で、注意深く。しかしそこにはや はり月が二個浮かんでいた。 錯覚ではない。月は二個ある。天吾はそのまま長いあいだ右手のこぶしを強く握りしめていた。 月は相変わらす寡黙だった。しかしもう孤独ではない。 395 第 18 章 ( 天吾 ) 寡黙な一人ほっちの衛星
第フ ~ 章主日一 どうすればいいのだろう その夜、月を見るために青豆は、グレーのジャージの運動着の上下にスリッパというかっこう でべランダに出た。手にはココアのカップを持っていた。ココアを飲みたくなるなんてすいぶん 久しぶりのことだ。戸棚の中にヴァン・ホーテンのココアの缶をみつけ、それを見ているうちに 突然ココアが飲みたくなったのだ。雲ひとつなく晴れた南西の空に、月がくつきりと二個浮かん でいた。大きな月と小さな月。彼女はため息をつくかわりに、喉の奥で小さくうなった。空気さ なぎからドウタが生まれ、月は二つになった。そして 1984 年は 1Q84 年に変わった。古い 世界は消え、もうそこに戻ることはできない。 べランダに置かれているガ 1 デンチェアに腰掛け、熱いココアを小さく一口ずつ飲み、目を細 めて二つの月を見ながら、青豆は古い世界のことを思い出そうと努めた。しかし今のところ彼女 に思い出せるのは、アパートの部屋に置いてきた鉢植えのゴムの木だけだった。それは今どこに あるのだろう ? タマルは電話で約東したように、あの鉢植えの面倒を見てくれているのだろう か ? 大丈夫。心配することはない、と青豆は自分に言い聞かせる。タマルは約東をまもる男だ。 431 第 21 章 ( 青豆 ) どうすればいいのだろう