浮かん - みる会図書館


検索対象: 1Q84 BOOK2
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1. 1Q84 BOOK2

景を目にしたのは自分のほかにはいないはずだ。 三日目の夜に、ちょっとした騒ぎが鐘撞き台の下の広場で持ち上がった。「なんだか、人のに おいがしないか」と一匹の猫が言い出したのだ。「そういえばこの何日か、妙なにおいがしてい た気がする」と誰かが鼻を動かしながらそれに賛同した。「実は俺もそう感じていたんだ」とロ 添えするものもいた。「しかし変だな。人間がここにやってくることはないはすなんだがーと誰 かが言った。「ああ、そうだとも。人間がこの猫の町に入って来られるわけがない ー「でもあいっ らのにおいがすることも確かだぞ」 猫たちはいくつかのグループを組んで、自警団のように町を隅々まで捜索することになった。 本気になれば猫たちはとても鼻がきく。鐘撞き台がそのにおいの発生源であることを探り当てる までに、それほどの時間はかからなかった。彼らの柔らかい足が鐘撞き台の階段をひたひたと上 ってくる音が、青年の耳にも聞こえた。絶体絶命だ、と彼は田 5 った。猫たちは人間のにおいにひ どく興奮し、腹を立てているようだ。彼らは大きく、鋭い爪と白く尖った歯を持っている。そし てこの町は人間が足を踏み入れてはならない場所なのだ。見つかってどんな目にあわされるかは わからないが、その秘密を知ったまま、おとなしくこの町から出してもらえるとは思えない 三匹の猫たちが鐘撞き台にあがってきて、くんくんとにおいをかいだ。「不思議だ」と一匹が 長い髭をびくびくと震わせながら言った。「においはするんだが、人はいない」「たしかに奇妙 、 0 ヾ だ」とも、つ一匹が言った。「でもとにかく、ここには誰もいなし へつのところを探そう」「しか し、わけがわからんな」そして彼らは首をひねりながら去っていった。猫たちの足音は階段を下 り、夜の闇の中に消えていった。青年はほっと一息ついたが、彼にもわけはわからなかった。な 166

2. 1Q84 BOOK2

近づいていった。あと少しで夏も終わろうとして、外では蝉たちが最後の声を振り絞っている 一日一日はおそろしく長く感じられるのに、どうしてこんなにも急速に一ヶ月が通り過ぎてしま ったのだろう。 青豆はスポ 1 ツ・クラブの仕事から戻ると、汗を吸い込んだ衣服を脱いで洗濯用のバスケット に入れ、タンクトップとショ 1 トパンツという格好になった。昼過ぎに激しいタ立ちがあった。 空が真っ暗になり、小石くらいの大きさの雨粒が音を立てて路面を叩き、雷がひとしきり鳴った。 タ立ちが過ぎ去ると、あとには水浸しになった道路が残った。太陽が戻ってきて、その水を全力 で蒸発させ、都市はかげろうのような蒸気に覆われた。夕方から再び雲が出て、厚いヴェールで 空を覆った。月の姿は見えない 夕食の用意に取りかかる前に一休みする必要があった。冷たい麦茶を一杯飲み、前もって茹で ておいた枝豆を食べながら、台所のテープルにタ刊を広げた。一面から記事を流し読みし、順番 にペ 1 ジを繰っていった。興味を惹く記事は見あたらない。、 しつもの夕刊だ。しかし社会面を開 いたとき、あゆみの顔写真が彼女の目にます飛び込んできた。青豆は息を呑み、顔を歪めた。 そんなはずはないと彼女は最初思った。誰かよく似た人の写真をあゆみに見間違えているのだ。 だってあゆみが新聞に写真入りで、こんなに大きく取り上げられるわけがない。しかしどれだけ 見直しても、それは彼女のよく知っている若い婦人警官の顔だった。時折のささやかな性的饗宴 を立ち上げるためのパートナーだった。その写真の中で、あゆみはほんのわすかに微笑みを浮か べている。どちらかといえばぎこちない人工的な微笑みだ。現実のあゆみはもっと自然な、開け っぴろげな笑みを顔いつばいに浮かべる。それは公のアルバムに載せるために撮られた写真のよ 83 第 3 章 ( 青豆 ) 生まれ方は選べないが、死に方は選べる

3. 1Q84 BOOK2

件ですからねー 「僕がもし深田絵里子さんに会っているとして、それが何か意味を持っことになりますか ? 」 牛河はもう一度手のひらを天吾に向けた。小ぶりな手だが、指はむつくりと太い。「まあまあ、 そう感情的にならないでくださいな。悪気があって言っているんじゃありません。いや、私が申 し上げたいのはですね、生活のために才能や時間を切り売りするのは、良い結果を生まないとい うことです。僭越なようですが、私は川奈さんのような磨けば珠になる優れた才能が、つまらな いことでひっかきまわされて、損なわれていくのを見たくないんです。深田さんと川奈さんとの あいだのことがもし世間に知られたりしたら、必ず誰かがおたくにやってきますよ。そしてうる さくつきまとうでしようね。あることないこと詮索します。なにしろしつこい連中ですから」 天吾は何も言わずに黙って牛河の顔を見ていた。牛河は目を細めて大きな耳たぶをほりほりと 掻いた。耳は小さいのだか、 耳たぶだけが異様に大きい。この人物の身体の作りにはどれだけ見 ても見飽きないところがあった。 「いやいや、私の口からは誰にも洩れません」と牛河は繰り返した。そして口にファスナ 1 をか ける身振りをした。「約東しますよ。こう見えて口は堅いんです。はまぐりの生まれかわりじゃ ないかと言われてます。このことは、私だけの胸の内にしつかりと留めておきます。川奈さんへ の個人的な好意のしるしとして」 牛河はそ、つ言って、ソフアからようやく立ち上がり、ス 1 ツについた細かいしわを何度かひっ ばってのばした。しかしそんなことをしてもしわはとれない。その存在が余計に人目を引くだけ

4. 1Q84 BOOK2

第 / 章大五ロ 手渡されたパッケージ 「こちらにきてわたしをだいて」とふかえりは言った。「ふたりでいっしょにもういちどネコの まちにいかなくてはならない 「君を抱く ? ーと天吾は言った。 「わたしをだきたくないーとふかえりは疑問符抜きで尋ねた。 「いや、そういうわけじゃなくて、ただーーーそれがどういうことなのか、意味がよくわからなか ったから」 「オハライをする」、彼女は抑揚を欠いた声でそう告げた。「こちらにきてわたしをだいて。あな たもパジャマにきがえてあかりをけして」 天吾は言われたように寝室の天井の明かりを消した。服を脱ぎ、自分のパジャマを出して、そ れに着替えた。いちばん最近このパジャマを洗濯したのはいつだっけ、と天吾は着替えながら考 えた。思い出せないところをみると、かなり前のことなのだろう。でもありがたいことに汗の匂 いはしなかった。天吾はもともとあまり汗をかかない。体臭も強い方ではない。とはいえパジャ 294

5. 1Q84 BOOK2

間にあまり名前を知られていない方々を選抜し、援助をさせていただく、ということを活動の中 心にしております。要するに、日本の現代文化の各種分野におきまして、次の時代を担う若い芽 を育てていこうじゃないか、という趣旨のものです。各部門につきまして専門のリサーチャーと 契約し、候補者の人選をします。毎年五人の芸術家・研究者が選抜され、助成金を受けとります。 一年間、好きなことを好きなようにしていただいてけっこうです。紐みたいなものはついていま せん。ただ年度末に、かたちだけのレポートを出していただきます。一年間にどのような活動を なさって、どのような成果があげられたか、簡単に書いていただければそれで結構です。それが 当財団の発行している雑誌に掲載されます。面倒なことは何もありません。まだこのような活動 を始めたばかりなので、何はともあれ実績をかたちにして残すというのがます重要な作業になっ ておるわけです。要するにまだ種子を蒔いているという段階なのです。具体的に申し上げますと、 一人あたり三百万円の年間助成金が出ますー と天吾は言った。 「ずいぶん気前がいいー 「何か重要なものを創り上げるには、あるいは何か重要なものを見つけ出すには、時間がかかり ますし、お金がかかります。もちろん時間とお金をかければ立派なことが成し遂げられるという ものじゃありません。しかしどちらも、あって邪魔にはなりません。とくに時間の総量は限られ ています。時計は今もちくたくと時を刻んでいます。時はどんどん過ぎ去っていきます。チャン スは失われていきます。そしてお金があれば、それで時間を買うことができます。買おうと思え ば、自由だって買えます。時間と自由、それが人間にとってお金で買えるもっとも大事なもので

6. 1Q84 BOOK2

天吾はそう言いながら、目の前にいるこの貧相な老人はその人生の過程において、誰かを心か ら愛した経験があるのだろうか、と考えた。あるいは彼は天吾の母親のことを真剣に愛していた のかもしれない。だからこそ血の繋がりがないことを知りながら、幼い天吾を自分の子供として 育てたのかもしれない。 もしそうだとしたら、彼は精神的には天吾よりもずっと充実した人生を 送ったとい、つことになる。 「ただ例外というか、一人の女の子のことをよく覚えている。市川の小学校で三年生と四年生の とき同じクラスだった。そう、二十年も前の話だよ。僕はその女の子にとても強く心を惹かれた ずっとその子のことを考えてきたし、今でもよく考える。でもその子と実際にはほとんど口をき いたこともなかった。途中で転校していって、それ以来会ったこともない。でも最近あることが あって、彼女の行方を捜してみようという気になった。自分が彼女を必要としていることによう やく気がついたんだ。彳 皮女と会っていろんな話をしたかった。でも結局その女の子の行方はっき とめられなかった。もっと前に捜し始めるべきだったんだろうね。そうすれば話は簡単だったか もしれない 天吾はそこでしばらく沈黙した。そして今までに語ったものごとが父親の頭に落ち着くのを待 った。というよりむしろ、それが彼自身の頭に落ち着くのを待った。それから再び話を続けた。 「そう、僕はそういうことについてはとても臆病だった。たとえば自分の戸籍を調べなかったの も同じ理由からだ。母親が本当に亡くなったのかどうか、調べようと思えば簡単に調べられた。 役所に行って記録をみればすぐにわかることだからね。実際に何度も調べようと思った。役所ま で足を運んだこともあった。でも僕にはどうしても書類を請求することができなかった。事実を

7. 1Q84 BOOK2

が精液の先触れであることは、天吾にはまだわからなかった。そんなものをこれまで目にしたこ とはなかったから、彼は不安を感じた。何かただならぬことが自分の身に持ち上がっているのか もしれない。しかし父親に相談するわけにもいかないし、級友にも聞けない。夜中に夢を見て目 を覚ますと ( どんな夢だったかは思い出せない ) 、下着が微かに濡れていた。まるであの少女に 手を握られたことによって、何かがひつばり出されてしまったように天吾には思えた。 そのあと少女との接触は一切なかった。青豆はクラスの中でこれまでどおりの孤立を保ち、誰 とも口をきかず、給食の前には明暸な声でいつもの奇妙なお祈りを唱えた。どこかで天吾とすれ 違うことがあっても、まるでなにごともなかったかのように、顔色ひとっ変えなかった。天吾の 姿はまったく目に入っていないように見えた。 しかし天吾の方は機会があれば、まわりに気取られないように、 こっそりと注意深く、青豆の 姿を観察するようになった。よく見れば整った顔立ちをした少女だった。少なくとも好意を抱く ことができる顔立ちだった。ひょろりとした身体つきで、いつも色あせたサイズの合わない服を 着ていた。体操着を着ると、胸の膨らみがまだもたらされていないことがわかる。表情に乏しく、 ほとんど口をきかず、常にどこか遠くを見るような目をしていた。瞳には生気が感じられない。 それが天吾には不思議だった。あの日、彼の目をまっすぐのぞきこんだときには、あれほど輝き に満ちた澄んだ瞳をしていたのに。 手を握られたあとでは、そのやせつほちの少女の中に人並み外れて強靭な力が潜んでいること が、天吾にはわかった。握力だって大したものだが、それだけではない。その精神には更に強、 力がそなわっているようだった。彼女は普段はそのエネルギーを、ほかの生徒たちの目につかな 87 第 4 章 ( 天吾 ) そんなことは望まない方がいいのかもしれない

8. 1Q84 BOOK2

いるのか痩せているのか、背が高いのか低いのか、ノ、 、ノサムなのかそうでもないのか、夫婦仲が 良いのか悪いのか、それも知らない。天吾にわかるのは、彼女がとくに生活に困ってはいないこ とと ( どちらかといえば余裕のある生活を送っているみたいだ ) 、夫とのセックスの回数に ( あ るいは質に ) あまり満足を覚えていないらしいということくらいだった。しかしそれだってすべ て、あくまで彼の推測に過ぎない。天吾と彼女はべッドの中でいろんな話をして午後の時間を潰 したが、 そのあいだ彼女の夫が話題にのばることは一度もなかった。そして天吾としても、とく にそんなことを知りたいとも思わなかった。自分がどんな男から奥さんをかすめとっているのか、 できることなら知らないでおきたかった。それはある種の礼儀のようなものだと彼は考えていた。 しかし事態がこんな風になった今、天吾は自分が彼女の夫について何ひとっ質問しなかったこと を悔やんだ ( 質問さえすれば彼女はかなり率直に答えたはずだ ) 。その男は嫉妬深いのだろうか、 所有欲は強いのだろうか、暴力的な傾向はあるのだろうか ? 自分のこととして考えてみよう、と天吾は思った。もし逆の立場に置かれたら、自分ならいっ たいどんな風に感じるだろう ? つまり妻がいて、小さな子供が二人いて、ごく普通の穏やかな 家庭生活を送っているとする。ところが妻が週に一度ほかの男と寝ていたことが発覚する。相手 は十歳も年下の男だ。関係は一年余り続いている。仮にそんな立場に置かれたとして、自分なら どのように考えるだろう。どんな感情が心を支配することになるのだろう ? 激しい怒りか、深 い失望か、茫漠とした哀しみか、無感動な冷笑か、現実感覚の喪失か、それとも判別のつかない いくつかの感情の混合物か ? どれだけ考えてみても、そこで自分が抱くであろう感情を、天吾はうまく探り当てられなかっ 129 第 6 章 ( 天吾 ) 我々はとても長い腕を持っています

9. 1Q84 BOOK2

「君はそう感じる ? 」 ふかえりは夏用の掛け布団を顎の下まで引っ張り上げたままこっくり肯いた。 「たしかに君の言うとおりだ」と天吾は言った。「僕は猫の町に行って、電車に乗って戻ってき 「そのオハライはした」と彼女は尋ねた。 「オハライ ? 」と天吾は言った。お祓い ? 「いや、まだしていないと思う」 「それをしなくてはいけない」 「たとえばどんなお祓いを ? ふかえりはそれには答えなかった。「ネコのまちにいってそのままにしておくとよいことはな 天をまつぶたつに裂くように雷鳴が激しく轟いた。その音はますます激しさを増していた。ふ かえりがべッドの中で身をすくめた。 「こちらに来てわたしをだいて」とふかえりは言った。「わたしたちふたりでいっしょにネコの まちにいかなくてはならない 「どうして ? 「リトル・ピープルがいりぐちをみつけるかもしれない 「お祓いをしていないから ? 」 「わたしたちはふたりでひとつだから」と少女は言った。 270

10. 1Q84 BOOK2

皮女の目を深いところまでのぞき込んだ。それから変わ 坊主頭は青豆の顔をまっすぐに見た。彳 ったところはないか検分するようにその視線をゆっくりつま先まで下ろし、また目を上げて顔を 見た 「それは普通のことなのですか」 「筋肉の激しいストレスが解消されて、そのせいで深く眠り込んでしまう人はよくいらっしゃい ます。特別なことではありません」 坊主頭は居間と寝室を隔てる戸口のところまで歩いて行って、静かにドアノブをまわし、ドア を小さく開けて中をのぞき込んだ。何かあったときにすぐに拳銃を取り出せるように、青豆は右 手をスエットパンツの腰にあてていた。男は十秒ばかり様子をうかがっていたが、やがて顔を引 っ込め、ドアを閉めた。 「どれくらい眠られるのでしよう ? 」と彼は青豆に尋ねた。「あのままいつまでも床に寝かせて おくわけにはいきません」 「二時間ほどで目を覚まされるはすです。それまではできるだけあのままの姿勢にしておいてく ださい 坊主頭は腕時計に目をやり、時刻をたしかめた。それから軽く肯いた。 「わかりました。しばらくそのままにしておきますーと坊主頭は言った。「シャワーをお使いに なりますか ? 」 「シャワーは必要ありません。ただもう一度着替えさせてください 「もちろん。化粧室を使ってください 314