「君はかまわない」と天吾も相手の言葉をそのまま繰り返した。それはきっと伝染する習慣なの だ。「何について ? 」 「へやがみはられていたとしても しばらく言葉が出てこなかった。「でも僕はかまうかもしれないーと天吾はようやく言った。 「いっしょにいたほうがいいーとふかえりは言った。「ふたりでちからをあわせる」 「ソニーとシェール」と天吾は言った。「最強の男女デュオ」 「さいきよ、つのなに」 「なんでもない。こっちの話だ」と天吾は言った。 「そこにいく 天吾が何かを言いかけたときに回線の切れる音がした。誰も彼もが会話の途中で好き勝手に電 話を切ってしまう。まるで鉈をふるって吊り橋を落とすみたいに。 十分後にふかえりがやってきた。彼女は両手にス 1 ーマーケットのビニール袋を抱えていた。 青いストライプの長袖シャツに、細いプル 1 ジーンズというかっこうだった。シャツは男物で、 乱雑に干されたままアイロンがかけられていない。そしてキャンバス地のショルダーバッグを肩 からかけていた。顔を隠すために大きなサイズのサングラスをかけていたが、変装の役を果たし ているとも思えなかった。かえって人目を引くだけだ。 「食べものがたくさんあったほうがいいと思った」とふかえりは言った。そしてビニール袋の中 身を冷蔵庫に移し替えた。買ってきたもののほとんどは、電子レンジにかけただけですぐに食べ 209 第川章 ( 天吾 ) 申し出は拒絶された
膚の弾力や体温の伝わり方から、詳細な情報を読み取ろうとした。たったひとっしかないし、と ても小さな点だ。その一点を見出しやすい相手もいれば、見出しにくい相手もいる。このリ 1 ダ ーと呼ばれる男は明らかに後者のケースだった。喩えるなら、まっ暗な部屋の中で物音を立てな いように留意しながら、手探りで一枚の硬貨を求めるような作業だ。それでもやがて青豆はその 点を探り当てる。そこに指先を当て、その感触と正確な位置を頭に刻み込む。地図にしるしをつ けるように。彼女にはそういう特別な能力が授けられている。 「そのまま姿勢を変えずにいて下さいーと青豆はうつぶせになった男に声をかけた。そして傍ら のジムバッグに手を伸ばし、小さなアイスピックの入ったハ ードケースを取り出した。 「流れが詰まっている場所が首筋に一カ所だけ残っていますーと青豆は落ち着いた声で言った。 「私の指の力だけではどうしても解決のできない一点です。この部分の詰まりを取り除くことが できれば、痛みはずいぶん軽減されるはすです。簡単な鍼をそこに一本だけ打ちたいと思います。 微妙な部分ですが、これまで何度もやってきたことですし、間違いはありません。かまいません 男は深く息をついた。「全面的にあなたに身を任せている。わたしの感じている苦痛を消し去 ってくれるものであれば、それが何であろうと受け入れる」 彼女はケースからアイスピックを取り出し、先に刺した小さなコルクを抜いた。先端はいつも のように鋭く致死的に尖っている。彼女はそれを左手に持ち、右手の人差し指でさきほど見つけ この一点だ。彼女は針の先端をそのポイントにつけ、大きく たポイントを探った。間違いない 息を吸い込んだ。あとは右手をハンマーのように柄に向けて振り下ろし、極細の針先をそのポイ 238
天吾は台所に行って水をグラスに一杯飲んだ。流し台の縁に両手をついて目を閉じ、頭がなん とか人並みに回転することを確かめてから、電話の前に行ってその番号をまわした。ひょっとし て父親が亡くなったのかもしれない。少なくともそれは生死にかかわるものごとに違いない。よ ほどのことがなければ、彼らはこんな夜の時間にわざわざ天吾に電話をかけてきたりはしない 電話には女性が出た。天吾は自分の名前を言って、さっきそちらから連絡があったので、折り 返し電話していると言った。 「川奈さんの息子さんですね」と相手は言った。 「そうですーと天吾は言った。 「先日こちらでお会いしました」とその女性は言った。 金属縁の眼鏡をかけた中年の看護婦の顔が浮かんだ。名前は思い出せない 彼は簡単な挨拶をした。「さきほどお電話をいただいたそうですが」 「ええ、そうです。今担当の先生のところに電話をまわしますので、直接お話しなさってくださ 天吾は受話器を耳に押しつけたまま、電話がつながるのを待った。相手はなかなか出てこなか った。『峠の我が家』の単調なメロディーが永遠に近い時間流れていた。天吾は目を閉じて、そ の房総の海岸にある療養所の風景を思い出した。重なり合うように分厚く茂った松林、そのあい だを抜けてくる海からの風。休むことなく打ち寄せる太平洋の波。見舞客の姿もない閑散とした 玄関口ビ 1 。廊下を運ばれていく移動式べッドの車輪が立てる音。日焼けしたカーテン。きれい にアイロンのかかった看護婦の白い制服。まずくて薄い食堂のコーヒー 447 第 22 章 ( 天吾 ) 月がふたっ空に浮かんでいるかぎり
りに気に入っているんだ。つまり個人的に」 青豆はほんの少し微笑んだ。「人間の女にしては、ということ ? タマルは表情を変えずに言った。「男にせよ女にせよ、あるいは大にせよ、俺はそれほど多く の相手を気に入るわけじゃない 「もちろん」と青豆は言った。 「しかしそれと同時に、マダムの安寧と健康を護るのが、俺の目下の最重要事項になっている。 そして俺はなんというか、ある種のプロだ」 「言、つまでもなく」 「そういう観点から見て、俺にどんなことができるものか、ちょっと調べてみようと思う。保証 はできない。しかしひょっとしたら、あんたの要望にこたえられる知り合いを見つけることがで きるかもしれない。ただしこれはきわめて微妙なものごとだ。通信販売で電気毛布を買うのとは わけが違う。返事できるまでに、一週間くらいはかかるかもしれない 「それでかまわないーと青豆は言った。 タマルは目を細め、蝉の鳴いている木立を見上げた。「いろんなことがうまくいくことを祈っ ている。それが妥当なことであれば、俺にできる限りのことはする」 「ありがとう。この次がおそらく私の最後の仕事になると思う。ひょっとしたらもうタマルさん に会うこともないかもしれない」 タマルは両手を広げ、手のひらを上に向けた。まるで砂漠の真ん中に立って、雨が降ってくる のを待ち受けている人のように。でも何も言わなかった。大きな分厚い手のひらだった。ところ
る。 ハンタ 1 としては適役だ。そして教団の幹部たちは、青豆の背後に誰がいるかをつきとめな くてはならない。 彼女は朝食にリンゴをひとっ食べた、食欲はほとんどなかった。彼女の手にはまだ、男の首筋 に針を打ち込んだときの感触が残っていた。右手に小さなナイフを持ってリンゴの皮をむきなが ら、彼女は身のうちに微かな震えを感じた。これまでに一度も感じたことのない震えだ。誰かを 殺しても、一晩眠ればその記憶はあらかた消えてしまっていた。もちろん一人の人間の命を奪う のは決して気持ちの良いことではない。しかしどうせ相手はみんな、生きている価値のないよう な男たちだった。人としての憐憫よりはおぞましさの方が先に立った。しかし今回は違う。客観 的に事実だけを見れば、あの男がこれまでやってきたのは人倫にもとる行いだったかもしれない。 しかし彼自身は多くの意味合いにおいて普通ではない人間だった。その普通でなさは、少なくと も部分的には、善悪の基準を超えたもののように思えた。そしてその命を絶っのもまた、普通で はないことだった。それはあとに奇妙な種類の手応えを残していった。普通ではない手応えだ。 彼が残していったものは「約東」だった。青豆はしばらく考えた末にそういう結論に達した。 約東の重みが、彼女の手の中にしるしとして残されたのだ。青豆はそれを理解した。このしるし が彼女の手から消えることは、もうないかもしれない 午前九時過ぎに電話がかかってきた。タマルからの電話だった。ベルが三回鳴って切れ、それ から二十秒後にまたベルが鳴った。 「連中はやはり警察を呼ばなかった」とタマルは言った。「テレビのニュースにも出ない。新聞
「僕は今ある人を捜している」と天吾は切り出した。「女の人だ」 ふかえり相手にそんな話を持ち出したところでどうなるわけでもない。それはよくわかってい る。しかし天吾は誰かにその話をしたかった。誰でもいい、青豆について自分が考えていること を、声に出して話してしまいたかった。そうしておかないと、青豆がまた少し自分から遠のいて いくよ、つな気がした。 「もう二十年も会ったことがない。最後に会ったのは十歳のときだ。彼女も同じ歳だ。僕らは小 学校の同じクラスにいた。いろんなやり方で調べてみたけれど、彼女の足取りを辿ることができ レコ 1 ドが終わった。ふかえりはレコードをターンテープルから取りあげ、目を細めてそのビ ニールの匂いを何度か嗅いだ。それから盤に指紋をつけないように注意しながら紙袋に収め、そ の紙袋をレコード・ジャケットに収めた。まるで眠りかけている子猫を寝床に移すみたいにそっ と、慈愛深く。 「あなたはそのひとにあいたいーとふかえりは疑問符抜きで尋ねた。 「僕にとって大事な意味を持つ人だから」 「二十ねんずっとそのひとをさがしてきた」とふかえりは尋ねた。 「いや、そうじゃない と天吾は言った。そしてそれに続く言葉を探し求めるあいだ、テープル の上で両手の指を組み合わせた。「実を言えば、捜し始めたのは今日のことだ」 ふかえりはよくわからないという表情を顔に浮かべた 「きようのことと彼女は言った。 3 ) 5 第 16 章 ( 天吾 ) まるで幽霊船のように
怯えてはならない。法えは顔に出るし、それは相手に疑念を抱かせる。 彼女は最悪の状況を覚悟しながら、左手にジムバッグを提げ、用心深く浴室を出た。右手はす ぐに拳銃にのばせるようにしてある。しかし部屋の中に変わった様子はなかった。坊主頭は腕組 みをして部屋の真ん中に立ち、目を細めて何ごとかを考えてした。。、 、、ホニーティルは、相変わらず 入り口の椅子に座り、部屋の中を冷静に観察していた。彼は爆撃機の機関銃手のような、静かな 一対の目を持っていた。孤独で、青い空を見続けるのになれている。目が空の色に染まっている。 「疲れたでしよう」と坊主頭が言った。「よかったらコ 1 ヒーをいかがですか。サンドイッチも あります」 青豆は言った。「ありがとう。でもけっこうです。仕事の直後はおなかがすかないんです。一 時間くらいすると少しすっ食欲が出てきます - 坊主頭は肯いた。そして上着の内ポケットから分厚い封筒を取りだし、その重みを手の中で確 かめてから、青豆に差し出した。 男は言った。「失礼ですが、うかがっている料金よりは余分に入っているはずです。先ほども 申し上げましたとおり、今回の件はくれぐれも内聞に願います」 「口止め料ということですか」と青豆は冗談めかして言った。 「なにかと余分なお手間を取らせた、ということですーと男はにこりともせず言った。 「金額とは関係なく秘密は厳守します。それも私の仕事のうちです。外に話が漏れることはあり ません」と青豆は言った。そして受け取った封筒をそのままジムバッグの中に入れた。「領収書 はご入り用ですか ?
ならないのはこの男の視力ではない。 男が顔を両手で覆い、窓から差し込んでくる明かりに目を慣らしているあいだ、青豆はソファ に腰を下ろし、男を正面から眺めた。今度は青豆が相手を子細に観察する番だった。 大きな男だった。太っているのではない。ただ大きいのだ。身長もあるし、横幅も大きい。カ これほどの大きさ もありそうだった。大柄な男だという話は老婦人から前もって聞いていたが、 を青豆は予想していなかった。しかし宗教団体の教祖が巨漢であってはならないという理由はも ちろんどこにもない。そして青豆は、こんな大きな男にレイプされる十歳の少女たちを想像して、 思わず顔を歪めた。その男が裸になって、小さな少女の身体に乗しかかっている光景を彼女は想 像した。少女たちには抵抗のしようもないだろう。いや、大人の女にだってそれはむすかしいか もしれない 男は裾がゴムで細まった薄手のスエットパンツ風のものをはき、長袖シャツを着ていた。シャ ツは無地で、絹のような光沢がわずかに入っている。大振りで、前をボタンでとめるようになっ ており、男は上のふたつのボタンを外していた。シャツもスエットパンツも白か、あるいはごく 淡いクリ 1 ム色に見える。寝間着というのではないが、部屋の中でくつろぐためのゆったりとし た衣服だ。あるいは南の国の木陰に似合いそうな身なりだ。裸足の両足は見るからに大きかった。 石塀のように広い肩幅は、経験を積んだ格闘技の選手を連想させた。 「よく来てくれた」、青豆の観察が一段落するのを待って、男は言った。 「これが私の仕事です。必要があればいろんなところにうかがいます」、青豆は感情を排した声 で言った。しかしそう言いながら、自分がまるでここに呼ばれてやってきた娼婦になったような
と告げている。床にねじ伏せ、思い切り体重をかけ、ひとまず肩の関節を外してしまうこ とを命じている。しかしそれはあくまで直感に過ぎない。確証はない。単なる思い違いであった 場合には、ひどく面倒な立場に置かれることになる。彼は激しく迷い、そして結局あきらめた。 判断し指示を下すのはあくまで坊主頭であり、彼にはその資格はない。彼は右手の衝動を必死に 押さえ込み、肩の力を抜いた。青豆はポニーティルの意識がその一秒か二秒のあいだに通過した 一連の段階を、ありありと感知することができた。 青豆はカーベットの敷かれた廊下に出た。振り返ることなくエレベ 1 ターに向けて、そのまっ すぐな廊下を淡々と歩いた。ポニーティルはどうやらドアの外に顔を出して、彼女の動きを目で 追っているようだった。その鋭い刃物のような視線を、青豆は背中に感じ続けた。体中の筋肉が ひどくむすむずしたが、決して振り返らなかった。振り返ってはならない。廊下の角を曲がって、 そこでやっと張り詰めていたカが抜けた。しかしまだ安心はできない。次に何が起こるかはわか らない。彼女はエレベ 1 ターの下りボタンを押し、それがやってくるまで ( やってくるまでに永 遠に近い時間がかかった ) 、手を後ろにまわして拳銃のグリップを握っていた。ポニーティルが 思い直してあとを追ってきたら、いつでもそれを引き抜けるように。その強靭な手で自分の身体 をつかまれる前に、迷いなく相手を撃たなくてはならない。あるいは迷いなく自分を撃たなくて はならない。そのどちらを選ぶべきか、青豆には判断がっかなかった。最後まで判断がっかない かもしれない。 しかしあとを追ってくるものはいなかった。ホテルの廊下はひっそりと静まりかえったままだ 320
どうすればいいのか、彼女には判断できない 息づかいが激しくなる。様々な思いが入れ替わ り、すれ違う。考えをひとつにまとめることができない。何が正しくて、何が正しくないのか 彼女にわかっていることはたったひとっしかない。今すぐここで彼のその太い腕に抱かれたいと いうことだ。そのあとのことは、そのあとのことだ。それは神様だか悪魔だかが勝手に決めれば 、、 0 青豆は決心する。洗面所に行き、タオルで顔に残っていた涙のあとを拭う。鏡に向かって髪を 素早く整える。とりとめのないでたらめな顔をしている。目は赤く血走っている。着ている服だ ってひどいものだ。色の褪せたジャ 1 ジの上下で、ウエストバンドには九ミリの自動拳銃が突っ 込まれ、背中に奇妙な膨らみを作っている。二十年間会いたいと焦がれ続けてきた相手の前に出 ていくよ、つなかっこ、つじゃない。。 とうしてもう少しまともな服を身につけておかなかったのだろ う。しかし今更どうしようもない。着替えているような余裕はない。彼女は素足にスニーカ 1 を 履き、ドアに鍵もかけず、マンションの非常階段を三階ぶん駆け下りる。そして道路を横切り、 人気のない公園に入り、滑り台の前に行く。しかしそこにはもう天吾の姿はない。水銀灯の人工 的な光を受けた滑り台の上は無人だ。月の裏側よりも暗く冷たく、がらんとしている。 あれは錯覚だったのだろうか ? いや違う、錯覚なんかじゃない、彼女は息を切らせながらそう思う。天吾はほんの少し前まで そこにいたのだ。間違いなく。彼女は滑り台の上にあがり、そこに立ってあたりを見回す。どこ にも人影は見えない。しかしまだそんな遠くには行っていないはずだ。ほんの数分前まで彼はこ