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検索対象: 1Q84 BOOK2
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1. 1Q84 BOOK2

突な終わり方をするとも思わなかった。 ふかえりが安田恭子の残していったレコードを熱心に聴いている姿を見ていると、不思議な気 がした。彼女は眉を寄せ、意識を集中し、その古い時代の音楽の中に何か音楽以外のものを聞き 取ろうとしているみたいに見えた。あるいは目をこらして、その響きの中に何かの影を見出そう としているよ、つにも見えた。 「そのレコードは気に入った ? 「なんどもきいた」とふかえりは言った。「かまわなかった」 「もちろんかまわない。でもひとりでいて退屈はしない ? 」 ふかえりは小さく首を振った。「かんがえることがある」 天吾は昨夜、雷雨のさなかに二人のあいだに起こったことについて、ふかえりに質問してみた かった。どうしてあんなことをしたのかと。ふかえりが自分に対して性欲を抱くとは、天吾には 考えられなかった。だからそれは性欲とは無関係なところで成立した行為であるはずだ。だとし たら、それはいったい何を意味するのだろう。 しかしそんなことを正面から質問しても、まともな答えが返ってくるとは思えない。それにい かにも平和で穏やかな九月の宵に、正面きってそんな話題を持ち出すのは、天吾としてももうひ とっ気が進まなかった。それは暗黒の時刻に暗黒の場所で、激しい雷鳴に囲まれながら、ひっそ りとおこなわれた行為なのだ。日常の中に持ち出すと意味あいが変質してしまうかもしれない。 「君には生理がない と天吾は別の角度から質問してみた。イエス・ノ 1 で答えられるところか ら始めてみよう。 3 ラ 3 第 16 章 ( 天吾 ) まるで幽霊船のように

2. 1Q84 BOOK2

、。にのホタン 「そいつは何をやらせてもとにかく駄目なんだ。何ひとつまともなことがやれなし月 も満足にとめられないし、自分のケツだってうまく拭けない。 ところが彫刻だけはやたらうまか った。何本かの彫刻刀と材木があれば、あっという間に見事な木彫りを作ってしまう。下描きも 何もなく、頭の中にイメージがばっと浮かんで、そのままものを正確に立体的に作ってしまうん だ。とても細かく、リアルに。一種の天才だよ。たいしたものだった」 「サヴァンーと青豆は言った。 「ああ、そうだ。俺もあとでそれを知った。いわゆるサヴァン症候群だ。そういう普通ではない 能力を与えられた人間がいる。しかしそんなものがあるなんて当時は誰も知らなかった。知恵遅 れのようなもんだと思われていた。頭の働きは鈍いけど、手先が器用で、木彫りがうまい子供だ と。もっともなぜかネズミの彫刻しか作らないんだ。ネズミなら見事に作れる。どこから見ても まるで生きているみたいにさ。しかしネズミ以外のものは何ひとっ作らない。みんなは何かほか の動物の木彫りを作らせようとした。馬とか、熊とかな。そのためにわざわざ動物園にまで連れ て行ったんだ。しかしそいつはほかの生き物にはこれつほっちも興味を示さなかった。だからみ んなはあきらめて、そいつにネズミばかり作らせておいた。好きにさせておいたわけだ。いろん なかたちの、いろんな大きさの、いろんなかっこうのネズミをそいつは作ったよ。不思議といえ ば不思議な話だ。というのは、孤児院にはネズミなんていなかったからさ。寒すぎたし、餌なん てどこにもない。その孤児院はネズミにさえ貧しすぎたわけさ。どうしてそいっかネズミにそん なにこだわるのか、誰 ( こも理解できなかった。 いすれにせよ、そいつの作るネズミのことが ちょっと話題になって、地方新聞にも載って、そのネズミを買いたいという人も何人か出てきた。 368

3. 1Q84 BOOK2

ふかえりは天吾の顔をしばらくしげしげと見た。それから言った。「あなたはこれまでとはち がってみえる」 「どんなところが ? ふかえりは唇をいったん妙な角度に曲げて、またもとに戻した。説明できない。 「説明しなくていいーと天吾は言った。説明されないとわからないのであれば、説明されてもわ からないのだ。 天吾は部屋を出るとき、ふかえりに言った。「僕が電話をするときは、三回ベルを鳴らして、 それから切る。そしてもう一度かけ直す。君は受話器をとる。わかった ? 」 「わかった」とふかえりは言った。そして復唱した。「三かいベルをならしてそれからきる。そ してもういちどかけなおす。でんわをとる」古代の石碑の文句を翻訳しながら読み上げているよ 、つに聞こ、んた。 「大事なことだから忘れないように」と天吾は言った。 ふかえりは二度肯いた。 天吾は二つの講義を終え、職員用の部屋に戻り、帰り支度をしていた。受付の女性がやってき て、牛河という人があなたに会いに来ていると教えてくれた。彼女は歓迎されないニュースを伝 える心優しい使者のように、申し訳なさそうにそう言った。天吾は明るく微笑んで彼女に礼を一言 った。使者を責めるわけにはいか 牛河は玄関口ビーの隣にあるカフェテリアで、カフェオレを飲みながら天吾を待っていた。カ 213 第 10 章 ( 天吾 ) 申し出は拒絶された

4. 1Q84 BOOK2

「猫の町の話」と父親は言った。そしてその言葉をしばらく吟味した。「もしご迷惑でなければ、 それを読んで下さい」 天吾は腕時計に目をやった。「べつに迷惑じゃありません。電車の時間までにはまだ間はあり ます。奇妙な話だから、気に入るかどうかはわからないけど 天吾はポケットから文庫本を出し、『猫の町』の朗読を始めた。父親は窓際の椅子に座ったま ま姿勢も変えす、天吾の朗読する物語に耳を澄ませていた。天吾は聞き取りやすい声で、ゆっく りと文章を読んでいった。途中で二度か三度休憩して、息をついた。そのたびに父親の顔を見た が、そこにはどのような反応も見受けられなかった。彼がその物語を楽しんでいるのかいないの か、それもわからない。物語を最後まで読み終えたとき、父親は身動きひとっせす、じっと目を 閉じてした。目 、 ' 民り込んでしまっているみたいにも見えた。しかし眠ってはいなかった。物語の世 界に深く入り込んでいただけだ。彼がそこから出てくるのにしばらく時間がかかった。天吾はそ れを我慢強く待っていた。午後の光がいくらか薄れ、あたりにタ暮れの気配が混じり始めた。海 からの風が松の枝を揺らし続けていた。 「その猫の町にはテレビがあるのでしようか ? ー、父親はます職業的な見地からそう質問した。 「一九三〇年代にドイツで書かれた話だし、その頃にはまだテレビはありません。ラジオはあっ たけど」 そこにはラジオもなかった。放送局もなかった。新聞もなかなか届かず、 「私は満州におったが、 半月前の新聞を読んでおりました。食べるものだってろくになく、女もおらんかった。ときどき 狼が出た。地の果てのようなところでした」

5. 1Q84 BOOK2

それでもそこにあった何かを、そしてこれまで見過ごされてきた何かを、天吾は見つけ出さな くてはならない。それもここで今すぐに。そうしないと、この町のどこかにいるはずの青豆を探 し出すことはできなくなってしまうかもしれない。ふかえりの言葉を信じるなら、時間は限られ ている。そして何かが彼女を追っている。 彼は視線について考えてみることにした。青豆がそこで何を見ていたか。そして天吾自身が何 を見ていたか。時間の流れと視線の動きに沿って思い返してみよう。 天吾の手を握りしめながら、その少女は天吾の顔をまっすぐ見ていた。彼女はその視線をいっ ときも逸らさなかった。天吾は最初のうち、彼女のとった行為の意味がまったく理解できず、説 明を求めるように相手の目を見た。ここには何かしらの誤解があるに違いない。あるいは間違い かあるに違いない。天吾はそう思った。しかしそこには誤解もなければ、間違いもなかった。彼 にわかったのは、その少女の瞳がびつくりするほど深く澄み渡っていることだった。そんなに混 じりけなく澄んだ一対の瞳を、彼はそれまで一度も目にしたことがなかった。透き通っていなが ら、底が見えないくらい深い泉のようだ。長くのぞき込んでいると、中に自分が吸い込まれてし まいそうだった。だから相手の目から逃れるように視線を逸らせた。逸らせないわけにはいかな かった。 彼はまず足もとの板張りの床を眺め、人影のない教室の入り口を眺め、それから小さく首を曲 げて窓の外に目をやった。そのあいだも青豆の視線は揺らがなかった。彼女は窓の外を見ている 天吾の目をそのまま凝視していた。その視線を彼はひりひりと肌に感じることができた。そして 彼女の指は変わらぬ力で天吾の左手を握り締めていた。その握力には一片の揺らぎもなく、迷い 389 第 18 章 ( 天吾 ) 寡黙な一人ほっちの衛星

6. 1Q84 BOOK2

が経験しているのは前例のない奇病であり、現在の医学知識では手の打ちょうがないということ でしかなかった。漢方、整骨医、整体師、鍼灸、マッサージ、温泉治療 : : : 考え得る限りのこと を試してみたが、語るに足る効果は見られなかった」 青豆は軽く顔をしかめた。「私がやっているのは、日常的な領域での身体機能の活性化です。 そのような深刻な問題は、とても手に負えそうにはありません」 「それもよくわかっている。わたしとしては、あらゆる可能性をあたっているだけだ。もしあな たのやり方が効果を発揮しなかったとしても、それはあなたの責任ではない。あなたがいつもや っていることを、わたしに対してしてくれればいい。 わたしの身体がそれをどのように受け止め るか見てみたい」 青豆はその男の大きな身体が、どこか暗い場所で、冬眠中の動物のように動かず横たわってい る光景を思い浮かべた 「いちばん最近その麻痺の症状が出たのは、いつですか ? 「十日前になる」と男は言った。「それから、これはいささか言いにくいことなのだが、ひとっ 伝えておいた方が良いと思えることがある」 「なんでも遠慮なくおっしやって下さい 「その筋肉の仮死状態が続いている間、ずっと勃起が続いているー 、ミすっと性器が硬くなっている 青豆は顔をより深くしかめた。「つまり、その数時間のあした、。 とい、つことですか ? 「そのとおりだ」

7. 1Q84 BOOK2

のわかった人間に扱われていたらしく、よく手入れされている。銃は自動車と同じで、まったく の新品より程度の良い中古品の方がむしろ信頼できる」 タマルはその拳銃を青豆から受け取り、扱い方を説明した。安全装置のかけ方と外し方。キャ ッチを外してマガジンを抜き、それをまた押し込む。 「マガジンを抜くときには、必ず安全装置をかけておくこと。キャッチをはすしてマガジンを抜 いたら、スライドを後ろに引いて、チェンバ 1 にある弾丸をはじき出す。今は弾丸は入ってない から、何も出てこないけどな。そのあとスライドは開きつばなしになるから、こうして引き金を 引く。するとスライドは閉じる。そのとき撃鉄はコックされたままになる。も、つ一度引き金を引 べ 選 くと、撃鉄は下りる。それから新しいマガジンを押し込む」 タマルは一連の動作を、手慣れた動きで素早くやってのけた。それからもう一度、今度はゆっ 死 くりとひとつひとっ動作を確認しながら、同じことを繰り返した。青豆は食い入るようにそれを 見ていた。 べ 選 「やってみろ」 方 れ 青豆は用心深くマガジンを取り出し、スライドを引き、チェンバーを空け、撃鉄を下ろし、も 生 う一度マガジンを押し込んだ。 「それでいし とタマルは言った。そして銃を青豆から受け取り、マガジンを抜き、そこに慎重情 に七発の弾丸を入れ、かしゃんという大きな音を立てて銃に装着した。スライドを引いてチェン ーに弾丸を送り込んだ。そして銃の左側についたレバ 1 を倒して安全装置をかけた。 「さっきと同じことをやってみるんだ。今度は実弾がフルに装瞋されている。チェンバ

8. 1Q84 BOOK2

「集まりーの中にはテレビはなく、ラジオも特別な場合を別にして許可されてはいなかった。新 聞や雑誌も制限されていた。必要だと思われるニュースは、「集会所」での夕食の席で口頭で伝 えられた。そのニュースのひとつひとつに対して、集まった人々は歓声や不賛成のうめきで反応 した。歓声よりはうめきの方が数としてはずっと多かった。それが少女にとっての唯一のメディ ア体験だった。少女は生まれてから映画を見たこともない。漫画を読んだこともない。ただ古典 音楽を聴くことだけは許可されていた。「集会所」にはステレオ装置があり、誰かがまとめて持 ち込んだのだろう、たくさんのレコードがあった。自由時間にはそこでプラームスの交響曲や、 シューマンのピアノ曲や、バッハの鍵盤音楽、宗教音楽を聴くことができた。それが少女にとっ ての貴重な、そしてほとんど唯一の娯楽になった。 そんなある日、少女は罰を受けることになった。彼女はその週、朝と夜に数匹の山羊の世話を することを命じられていたのだが、学校の宿題やほかの日課をこなすことに追われて、うつかり それを忘れてしまった。その翌朝、いちばん年老いた目の見えない山羊が冷たくなって死んでい るのが発見された。その罰として彼女は十日間、「集まり」から隔離されることになった。 その山羊は人々のあいだで特別な意味を持っ山羊と考えられていたが、じゅうぶん年老いてい たし、病気はーーそれがどんな病気だったかはわからないがーー・・・その痩せた身体をしつかりと爪 でとらえていた。誰が面倒をみてもみなくても、その山羊が持ち直す見込みはなかった。死んで いくのは時間の問題だった。しかしだからといって少女の犯した罪が軽減されるわけではない。 山羊の死そのもののみならず、与えられた職務を彼女が怠ったことが問題にされていた。隔離は 401 第 19 章 ( 青豆 ) ドウタが目覚めたときには

9. 1Q84 BOOK2

ーを想起させた。クロ 1 たくさん」という表現は、広い野原に見渡す限り生えているクロー ーが示すのはあくまで「たくさん」という概念であって、誰にもその数は数えられない 「たくさんの人が『空気さなぎ』を読んでいる」と天吾は言った。 ふかえりは何も言わず、ジャムの塗り具合を点検した。 「小松さんに会わなくちゃならない。なるべく早い機会に」と天吾はテ 1 プル越しにふかえりの 皮女の顔にはいつものようにどんな表情も浮かんでいなかった。「君はも 顔を見ながら言った。彳 ちろん小松さんに会ったことはあるよね ? 」 「キシャカイケンのときに」 「話はした ? ふかえりはただ小さく首を振った。ほとんど話はしていないということだ。 その場の情景がありありと想像できた。小松はいつものようにすさまじいスピードで、思って いることをーーーあるいはとくに思ってもいないことをーーーしゃべりまくり、彼女はそのあいだほ とんど口を開かない。相手の一一一口うこともろくに聞いていない。小松の方はそんなことは気にもし もし「相容れる見込みのない人々の組み合わせ、のサンプルをひとっ具体的に示せと誰か に言われたら、ふかえりと小松を持ち出せばいい。 天吾は言った。「すいぶん長く小松さんに会っていない。連絡ももらっていない。あの人もこ このところすいぶん忙しかっただろう。『空気さなぎ』がベストセラーになったことで、どたば たに巻き込まれていたからね。でも顔をつき合わせて、いろんな問題について真剣に話し合うべ き時期になっている。せつかく君もここにいるんだ。良い機会だ。一緒に会ってみないか ? 」 342

10. 1Q84 BOOK2

天吾はそう言われて、ほとんど反射的に腕時計に目をやった。たしかに時間はちくたくと休み なく過ぎ去っていた。 「お時間をとらせて申し訳ありません」と牛河はあわてて言った。彼はその動作をデモンストレ ションととったようだった。「話を急ぎましよ、つ。もちろん今どき年間三百万円ほっちでは、 贅沢な生活はできません。しかし若い方々が生活をしていく上では、けっこうな足しにはなるは ずです。生活のためにあくせく働くことなく、研究や創作に一年間どっぷりと集中していただけ ればというのが、私どものそもそもの意図であるわけです。年度末の査定の際に、一年間のうち に見るべき成果が上がったと理事会で認められれば、一年きりではなく、助成を継続する可能性 も残されています」 天吾は何も言わず話の続きを待った。 「この予備校での川奈先生の講義を先日、たつぶり一時間聞かせていただきました」と牛河は言 った。「いやいや、とても興味深かったな。私は数学についてはまったくの門外漢というか、ど っちかといえば昔から大の苦手でして、学校のときにも数学の授業がいやでいやでしようがなか ったんです。数学って聞いただけで、のたうちまわって、逃げまくっていました。しかし川奈さ んの講義は、ああ、これはもう大変に楽しかった。もちろん微積分の論理なんてこれつほっちも わかりやしませんが、でもお話を聞いているだけで、そんなに面白いものなら、今からでもちっ と数学を勉強してみようかという気持ちになりました。まったく大したもんだ。川奈さんには人 並みじゃない才能があります。人をどこかに引きずり込む才能とでもいうのかな。予備校の先生 として人気を博しているって聞いてはいましたが、それも当然のことですー 45 第 2 章 ( 天吾 ) 魂のほかには何も持ち合わせていない