彼女はズボンのポケットから財布をとりだし、定期入れのところに入っている写真を出して僕 に見せてくれた。十歳前後のかわいい女の子のカラー写真だった。その女の子は派手なスキー ウェアを着て足にスキーをつけ、雪の上でにつこりと微笑んでいた。 「今年のはしめにこの写真送って 私の娘よ」とレイコさんは言った。 「なかなか美人でしょ ? くれたの。今、小学校の四年生かな」 「笑い方が似てますね」と僕は言ってその写真を彼女に返した。彼女は財布をポケットに戻し、 小さく鼻を鳴らして煙草をくわえて火をつけた。 「私若いころね、プロのピアニストになるつもりだったのよ。才能だってますまずあったし、ま わりもそれを認めてくれたしね。けっこうちやはやされて育ったのよ。コンクールで優勝したこ ともあるし、音大ではすっとトップの成績だったし、卒業したらドイツに留学するっていう話も だいたい決っていたしね、まあ一点の曇りもない青春だったわね。何をやってもうまく行くし、 うまく行かなきやまわりがうまく行くように手をまわしてくれるしね。でも変なことが起ってあ 森 のる日全部が狂っちゃったのよ。あれは音大の四年のときね。わりに大事なコンクールがあって、 , 私すうっとそのための練習してたんだけど、突然左の小指が動かなくなっちゃったの。どうして 動かないのかわからないんだけど、とにかく全然動かないのよ。マッサージしたり、お湯につけ たり、一「三日練習休んだりしたんだけど、それでも全然駄目なのよ。私まっ青になって病院に 行ったの。それですいぶんいろんな検査したんだけれど、医者にもよくわからないのよ。指には
「ひどい死に方よ」と彼女は言って、上着についた草の穂を手で払って落とした。「そのまま首 の骨でも折ってあっさり死んしゃえばいいけれど、何かの加減で足をくじくくらいですんじゃっ たらどうしようもないわね。声を限りに叫んでみても誰にも聞こえないし、誰かがみつけてくれ る見込みもないし、まわりにはムカデやらクモやらがうようよいるし、そこで死んでいった人た ちの白骨があたり一面にちらばっているし、暗くてじめじめしていて。そして上の方には光の円 がまるで冬の月みたいに小さく小さく浮かんでいるの。そんなところで一人ばっちでしわじわと 死んでいくの」 「考えただけで身の毛がよだつな」と僕は言った。「誰かが見つけて囲いを作るべきだよ」 「でも誰にもその井戸を見つけることはできないの。だからちゃんとした道を離れちゃ駄目よ」 「離れないよ」 直子はポケットから左手を出して僕の手を握った。「でも大丈夫よ、あなたは。あなたは何も 心配することはないの。あなたは闇夜に盲滅法にこのへんを歩きまわったって絶対に井戸には落 ちないの。そしてこうしてあなたにくつついている限り、私も井戸には落ちないの、 「絶対に ? 」 「絶対に 「どうしてそんなことがわかるの ? 」 「私にはわかるのよ。ただわかるの」直子は僕の手をしつかりと握ったままそう言った。そして
くわけにもいかないし ( そんなことは物理的に不可能である ) 、どうしても外泊許可をとってく りだすことになる。そ、つすると朝までそこにいなければならないとい、つことになり、自己嫌悪と 幻滅を感じながら寮に戻ってくるというわけだ。日の光がひどく眩しく、ロの中がざらざらし て、頭はなんだか他の誰かの頭みたいに感しられる。 僕は三回か四回そんな風に女の子と寝たあとで、永沢さんに質問してみた。こんなことを七十 回もつづけていて空しくならないのか、と。 「お前がこういうのを空しいと感じるなら、それはお前がまともな人間である証拠だし、それは 喜ばしいことだ」と彼は言った。「知らない女と寝てまわって得るものなんて何もない。疲れて、 自分が嫌になるだけだ。そりや俺だって同しだよ」 「しゃあどうしてあんなに一所懸命やるんですか ? 」 「それを説明するのはむすかしいな。ほら、ドストエフスキーが賭博について書いたものがあっ たろう ? あれと同じだよ。つまりさ、可能性がまわりに ~ 兀ちているときに、それをやりすごし て通りすぎるというのは大変にむすかしいことなんだ。それ、わかるか ? 「なんとなく」と僕は言った。 「日が暮れる、女の子が町に出てきてそのへんをうろうろして酒を飲んだりしている。彼女たち は何かを求めていて、俺はその何かを彼女たちに与えることができるんだ。それは本当に簡単な ことなんだよ。水道の蛇口をひねって水を飲むのと同しくらい簡単なことなんだ。そんなのアッ
「うまくしゃべることができないの」と直子は言った。「ここのところすっとそういうのがつつ いてるのよ。何か言お、フとしても、いつも見当ちがいな一言葉しか浮かんでこないの。見当ちがい だったり、あるいは全く逆だったりね。それでそれを訂正しようとすると、もっと余計に混乱し て見当ちがいになっちゃうし、そうすると最初に自分が何を言おうとしていたのかがわからなく なっちゃうの。まるで自分の体がふたつに分かれていてね、追いかけっこをしてるみたいなそん な感しなの。まん中にすごく太い柱が建っていてね、そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追 いかけっこしているのよ。ちゃんとした一一一一口葉っていうのはいつももう一人の私が抱えていて、こ っちの私は絶対にそれに追いつけないの」 直子は顔を上げて僕の目を見つめた。 「そういうのってわかる ? 「多かれ少なかれそういう感じって誰にでもあるものだよ」と僕は言った。「みんな自分を表現 9 しようとして、でも正確に表現できなくてそれでイライラするんだ」 の僕がそ、 2 言うと、直子は少しがっかりしたみたいだった。 「それとはまた違うの、と直子は言ったが、それ以上は何も説明しなかった。 ウ 「会うのは全然かまわないよ」と僕は言った。「どうせ日曜日ならいつも暇でごろごろしている ノ し、歩くのは健康にいいしね」 ートを韭日 彼女は国分寺に小さなア。ハ 我々は山手線に乗り、直子は新宿で中央線に乗りかえた。 ,
ノルウェイの森 159 するわけでもないし、自己弁護するわけでもないけれど、本当にそうなのです。もし私があ なたの中に何かの傷を残したとしたら、それはあなただけの傷ではなくて、私の傷でもある のです。だからそのことで私を憎んだりしないで下さい。私は不完全な人間です。私はあな たが考えているよりずっと不完全な人間です。だからこそ私はあなたに憎まれたくないので す。あなたに憎まれたりすると私は本当にバラバラになってしまいます。私はあなたのよう に自分の殻の中にすっと入って何かをやりすごすということができないのです。あなたが本 当はどうなのか知らないけれど、私にはなんとなくそう見えちゃうことがあるのです。だか ら時々あなたのことがすごくうらやましくなるし、あなたを必要以上にひきすりまわすこと になったのもあるいはそのせいかもしれません。 こういう物の見方ってあるいは分析的にすぎるのかもしれませんね。そう思いませんか ? ここの治療は決して分析的にすぎるというものではありません。でも私のような立場に置か れて何カ月も治療を受けていると、いやでも多かれ少かれ分析的になってしまうものなので す。何かがこうなったのはこういうせいだ、そしてそれはこれを意味し、それ故にこうなの たとかね。こ、つい、つ 分析が世界を単純化しようとしているのか細分化しようとしているの 、人こはよくわかりません。 しかし何はともあれ、私は一時に比べるとすいぶん回復したように自分でも感しますし、 まわりの人々もそれを認めてくれます。こんな風に落ちついて手紙を書けるのも久しぶりの
258 う名前で呼ぶけれど、君が趣味って呼びたいんならそう呼べばいし 「ねえ、ワタナベ君」と直子が言った。「あなたキズキ君のことも好きだったんでしよう ? 「もちろん」と僕は答えた。 「レイコさんはどう ? 」 「あの人も大好きだよ。いい人だね」 「ねえ、どうしてあなたそういう人たちばかり好きになるの ? と直子は言った。「私たちみん などこかでねじまがって、よしれて、うまく泳げなくて、どんどん沈んでいく人間なのよ。私も キズキ君もレイコさんも。みんなそうよ。どうしてもっとまともな人を好きにならないの ? 「それは僕にはそう思えないからだよ」僕は少し考えてからそう答えた。「君やキズキやレイコ さんがねしまがってるとはどうしても思えないんだ。ねじまがっていると僕が感しる連中はみん な元気に外を歩きまわってるよ」 「でも私たちねしまがってるのよ。私にはわかるの , と直子は言った。 我々はしばらく無言で歩いた。道は牧場の柵を離れ、小さな湖のようにまわりを林に囲まれた 丸いかたちの草原に出た。 「ときどき夜中に目が覚めて、たまらなく怖くなるの」と直子は僕の腕に体を寄せながら言っ た。「こんな風にねし曲ったまま二度ともとに戻れないと、このままここで年をとって朽ち果て ていくんしゃないかって。そ、つ思、つと、体の芯まで凍りついたよ、フになっちゃ、フの。ひどいの
「まあ順番に話していくとね、その子は病的な嘘つきだったのよ。あれはもう完全な病気よね。 なんでもかんでも話を作っちゃ、つわけ。そして話しているあいだは自分でもそれを・不当一だと思い こんしゃうわけ。そしてその話のつじつまをあわせるために周辺の物事をどんどん作りかえてい っちゃうの。でも普通ならあれ、変だな、おかしいな、と思うところでも、その子は頭の回転が おそろしく速いから、人の先にまわってどんどん手をくわえていくし、だから相手は全然気づか ないのよ。それが嘘であることにね。だいたいそんなきれいな子がなんでもないつまらないこと で嘘をつくなんて事誰も思わないの。私だってそうだったわ。私、その子のつくり話を半年間山 ほど聞かされて、一度も疑わなかったのよ。何から何まで作り話だっていうのによ。馬鹿みたい だわ、まったく」 「どんな嘘をつくんですか ? 「今も一 = ロったでしょ ? 「ありとあらゆる嘘よ」とレイコさんは皮肉つばく笑いながら言った。 人は何かのことで嘘をつくと、それにあわせていつばい嘘をつかなくちゃならなくなるのよ。そ のれが虚一一一一口症よ。でも虚一一一一口症の人の嘘というのは多くの場合罪のない種類のものだし、まわりの人 工 にもだいたいわかっちゃうものなのよ。でもその子の場合は違うのよ。彼女は自分を守るために ウ ルは平気で他人を傷つける嘘をつくし、利用できるものは何でも利用しようとするの。そして相手 によって嘘をついたりつかなかったりするの。お母さんとか親しい友だちとかそういう嘘をつい たらすぐばれちゃうような相手にはあまり嘘をつかないし、そうしなくちゃいけないときには細
もちろん彼を納得させられなかった。 「わからないな」彼は本当にわからないという顔をして言った。「は、僕の場合はち、ち、地図 が好きだから、ち、ち、ち、地図の勉強してるわけだよね。そのためにわざわざと、東京の大学 に入って、し、仕送りをしてもらってるわけだよ。でも君はそ、つしゃないって一一一一口、フし : 彼の言っていることの方が正論だった。僕は説明をあきらめた。それから我々はマッチ棒のく しをひいて二段べッドの上下を決めた。彼が上段で僕が下段だった。 彼はいつも白いシャッと黒いズボンと紺のセーターという格好だった。頭は丸刈りで背が高 頬骨がはっていた。学校に行くときはいつも学生服を着た。靴も鞄もまっ黒だった。見るか らに右翼学生という格好だったし、だからこそまわりの連中も突撃隊と呼んでいたわけだが本当 のことを言えば彼は政治に対しては百。ハーセント無関心だった。洋服を選ぶのが面倒なのでいっ もそんな格好をしているだけの話だった。彼が関心を抱くのは海岸線の変化とか新しい鉄道トン ネルの完成とか、そういった種類の出来事に限られていた。そういうことについて話しだすと、 の彼はどもったりつつかえたりしながら一時間でも一一時間でも、こちらが逃げだすか眠ってしま、フ 工かするまでしゃべりつづけていた。 ウ 毎朝六時に「君が代」を目覚し時計がわりにして彼は起床した。あのこれみよがしの仰々しい 国旗掲揚式もまるつきり役に立たないというわけではないのだ。そして服を着て洗面所に行って 3 顔を洗う。顔を洗うのにすごく長い時間がかかる。歯を一本一本取り外して洗っているんじゃな
「なんだか『カサプランカ』みたいな話よね」とレイコさんは笑って言った。 そのあとでレイコさんはポサノヴァを何曲か弾いた。そのあいだ僕は直子を眺めていた。彼女 は手紙にも自分で書いていたように以前より健康そうになり、よく日焼けし、運動と屋外作業の せいでしまった体つきになっていた。湖のように深く澄んだ瞳と恥かしそうに揺れる小さな唇だ けは前と変りなかったけれど、全体としてみると彼女の美しさは成熟した女性のそれへと変化し ていた。以前の彼女の美しさのかげに見えかくれしていたある種の鋭さ。ーー人をふとひやりとさ はすっとうしろの方に退き、そのかわりに優しく慰撫するよ せるあの薄い刃物のような鋭さ うな独得の静けさがまわりに凛っていた。そんな美しさは僕の心を打った。そしてたった半年間 のあいだに一人の女性がこれほど大きく変化してしまうのだという事実に驚愕の念を覚えた。直 子の新しい美しさは以前のそれと同しようにあるいはそれ以上に僕をひきつけたが、それでも彼 女が失ってしまったもののことを考えると残念だなという気がしないでもなかった。あの思春期 9 の少女独特の、それ自体がどんどん一人歩きしてしまうような身勝手な美しさとでも一一一一口うべきも 森 ののはもう彼女には二度と戻ってはこないのだ。 ' 直子は僕の生活のことを知りたいと言った。僕は大学のストのことを話し、それから永沢さん のことを話した。僕が直子に永沢さんの話をしたのはそれが初めてだった。彼の奇妙な人間性と 独自の思考システムと偏ったモラリティーについて正確に説明するのは至難の業だったが、直子 理解してくれた。僕は自分が彼と一一人で女の子を漁 は最後には僕のいわんとすることをだいたい
172 言われたとおりにロータリーの左から一一本目の道を進んでいくと、つきあたりこよ、、 昔前の別荘とわかる趣きのある古い建物があ「た。庭には形の良い石やら、灯籠なんかが配さ れ、植木はよく手入れされていた。この場所はもともと誰かの別荘地であるらしかった。そこを 右に折れて林を抜けると目の前に鉄筋の三階建ての建物が見えた。三階建てとは言「ても地面が 掘りおこされたようにくばんでいるところに建「ているので、とくに威圧的な感じは受けない。 建物のデザインはシンプルで、いかにも清潔そうに見えた。 玄関は二階にあった。階段を何段か上り大きなガラス戸を開けて中に入ると、受付に赤いワン ピースを着た若い女性が座っていた。僕は自分の名前を告げ、石田先生に会うように言われたの 彼女はにつこりと笑ってロビーにある茶色のソファーを指さし、そこに座って待っ だと一一一一口った。 , てて下さいと小さな声で言「た。そして電話のダイヤルをまわした。僕は肩からナッブザックを 下ろしてそのふかふかとしたソファーに座り、まわりを眺めた。清潔で感じの良いロビーだっ 観葉植物の鉢がいくつかあり、壁には趣味の良い抽象画がかかり、床はびかびかに磨きあげ られていた。僕は待っているあいだずっとその床にうつった自分の靴を眺めていた。 途中で一度受付の女性が「もう少しで見えますから」と僕に声をかけた。僕は肯いた。まった くなんて静かなところなんだろうと僕は田」った。あたりには何の物音もない。なんだかまるで 午睡の時間みたいだなと僕は田 5 った。人も動物も虫も草木も、何もかもがぐ 0 すりと眠りこんで しまったみたいに静かな午後だった。