144 「すいぶん理不尽な話みたいに思えるけどな」 「でも私にとってそれが愛なのよ。誰も理解してくれないけれど」と緑は言って僕の肩の上で小 さく首を振った。「ある種の人々にとって愛というのはすごくささやかな、あるいは下らないと ころから始まるのよ。そこからしゃないと始まらないのよ」 「君みたいな考え方をする女の子に会ったのははしめてだな」と僕は言った。 「そ、 2 言う人はけっこう多いわね」と彼女は爪の甘皮をいしりながら言った。「でも私、真剣に そういう考え方しかできないのよ。ただ正直に言ってるだけなの。べつに他人と変った考え方し てるなんて思ったこともないし、そんなもの求めてるわけでもないのよ。でも私が正直に話す と、みんな冗談か演技だと思うの。それでときどき何もかも面倒臭くなっちゃうけどね」 「そして火事で死んでやろうと思うの ? 「あら、これはそういうんしゃないわよ。これはね、ただの好奇心」 「火事で死ぬことが ? 「そうじゃなくてあなたがどう反応するか見てみたかったのよ」と緑は言った。「でも死ぬこと 自体はちっとも怖くないわよ。それは本当。こんなの煙にまかれて気を失ってそのまま死んしゃ うだけだもの、あっという間よ。全然怖くないわ。私の見てきたお母さんやら他の親戚の人の死 に方に比べたらね。ねえ、うちの親戚ってみんな大病して苦しみ抜いて死ぬのよ。なんだかどう もそういう血筋らしいの。死ぬまでにすごく時間がかかるわけ。最後の方は生きてるのか死んで
141 「ねえ、お母さんの死んだときのことなんだけどね」と緑は僕の方を向いて言った。 「うん」 「私ちっとも悲しくなかったの 「うん」 「それからお父さんがいなくなっても全然悲しくないの」 「そ、つ ? 「そう。こうい、つのってひどいと田 5 わない ? 令たすぎると思わない ? 「でもいろいろと事情があるわけだろう ? そうなるには 「そうね、まあ、いろいろとね」と緑は言った。「それなりに複雑だったのよ、うち。でもね、 私すっとこう思ってたのよ。なんのかんのといっても実のお父さん・お母さんなんだから、死ん じゃったり別れちゃったりしたら悲しいだろうって。でも駄目なのよね。なんにも感しないの 9 よ。悲しくもないし、淋しくもないし、辛くもないし、殆んど思いだしもしないのよ。ときどき 森 の夢に出てくるだけ。お母さんが出てきてね、暗闇の奥からじっと私を睨んでこう非難するのよ、 工 「お前、私が死んで嬉しいんだろう ? 』ってね。べつに嬉しかないわよ、お母さんが死んだこと ウ は。ただそれほど悲しくないっていうだけのことなの。正直なところ涙一滴出やしなかったわ。 子供のとき飼ってた猫が死んだときは一晩泣いたのにわ」 なんだってこんなにいつばい煙が出るんだろうと僕はった。火も見えないし、燃え広がった
138 「でも何かあるだろう。預金通帳とか実印とか証書とか、そういうもの。とりあえすのお金だっ てなきや困るし」 「大丈夫よ。私逃げないもの , 「ここが燃えても ? 「ええ」と緑は言った。「死んだってかまわないもの」 僕は緑の目を見た。緑も僕の目を見た。彼女の言っていることがどこまで本気なのかどこから 冗談なのかさつばり僕にはわからなかった。僕はしばらく彼女を見ていたが、そのうちにもうど 、フでもいいやとい、フ気になってきた。 「いいよ、わかったよ。つきあうよ、君に」と僕は言った。 「一緒に死んでくれるの ? ーと緑は目をかがやかせて言った。 「まさか。危くなったら僕は逃げるよ。死にたいんなら君が一人で死ねよ、 ) ーししさ」 「冷たいのね」 「昼飯をごちそうしてもらったくらいで一緒に死ぬわナこま ) 、 ー : ーし力ないよ。夕食ならともかくさ」 「ふ、つん、まあいいわ、とにかくここでしばらく成りゆきを眺めながら唄でも唄ってましよ、フ よ。ますくなってきたらまたその時に考えればいいもの」 「唄 ? 」 緑は下から座布団を一一枚と缶ビールを四本とギターを物干し場に運んできた。そして僕らはも
「ひどい死に方よ」と彼女は言って、上着についた草の穂を手で払って落とした。「そのまま首 の骨でも折ってあっさり死んしゃえばいいけれど、何かの加減で足をくじくくらいですんじゃっ たらどうしようもないわね。声を限りに叫んでみても誰にも聞こえないし、誰かがみつけてくれ る見込みもないし、まわりにはムカデやらクモやらがうようよいるし、そこで死んでいった人た ちの白骨があたり一面にちらばっているし、暗くてじめじめしていて。そして上の方には光の円 がまるで冬の月みたいに小さく小さく浮かんでいるの。そんなところで一人ばっちでしわじわと 死んでいくの」 「考えただけで身の毛がよだつな」と僕は言った。「誰かが見つけて囲いを作るべきだよ」 「でも誰にもその井戸を見つけることはできないの。だからちゃんとした道を離れちゃ駄目よ」 「離れないよ」 直子はポケットから左手を出して僕の手を握った。「でも大丈夫よ、あなたは。あなたは何も 心配することはないの。あなたは闇夜に盲滅法にこのへんを歩きまわったって絶対に井戸には落 ちないの。そしてこうしてあなたにくつついている限り、私も井戸には落ちないの、 「絶対に ? 」 「絶対に 「どうしてそんなことがわかるの ? 」 「私にはわかるのよ。ただわかるの」直子は僕の手をしつかりと握ったままそう言った。そして
いに見えるの。でも死ぬくらいならと思ってやけつばちで坊主頭にしちゃったの。一保しいことは 涼しいわよ、これ」と彼女は言って、長さ四センチか五センチの髪を手のひらでさらさらと撫で た。そして僕に向ってにつこりと微笑んだ。 「でも全然悪くないよ、それ」と僕はオムレツのつづきを食べながら言った。「ちょっと横を向 いてみてくれないかな」 彼女は横を向いて、五秒くらいそのまましっとしていた。 「うん、とても良く似合ってると思うな。きっと頭のかたちが良いんだね。耳もきれいに見える し」と僕は言った。 「そうなのよ。私もそう思うのよ。坊主にしてみてね、うん、これもわるくないしゃないかって 思ったわけ。でも男の人って誰もそんなこと言ってくれやしない。小学生みたいだとか、強制収 容所だとか、そんなことばかり一一一一〕うのよ。わえ、どうして男の人って髪の長い女の子がそんなに 9 好きなの ? そんなのまるでファシストじゃない。下らないわよ。どうして男の人って髪の長い の女の子が上品で心やさしくて女らしいと思うのかしら ? 私なんかね、髪の長い下品な女の子一一 、百五十人くらい知ってるわよ、本当よ」 ル「僕は今の方が好きだよ」と僕は言った。そしてそれは嘘ではなかった。髪の長かったときの彼 女は、僕の覚えている限りではまあごく普通の可愛い女の子だった。でも今僕の前に座っている 彼女はまるで春を迎えて世界にとびだしたばかりの小動物のように端々しい生命感を体中からほ
133 「そう」 「お父さんは去年の六月にウルグアイに行ったまま一民ってこないの [ 「ウルグアイ ? と僕はびつくりして一言った。「なんでまたウルグアイなんかに ? 」 「ウルグアイに移住しようとしたのよ、あの人。馬鹿みたいな話だけど。軍隊のときの知りあい がウルグアイに農場持ってて、そこに行きゃなんとでもなるって急に言いだして、そのまま一人 で飛行機乗って行っちゃったの。私たち一所懸命とめたのよ、そんなところ行ったってどうしょ うもないし、言葉もできないし、だいいちお父さん東京から出たことだってロクにないしゃない のって。でも駄目だったわ。きっとあの人、お母さんを亡くしたのがものすごいショックだった のね。それで頭のタガが外れちゃったのよ。それくらいあの人、お母さんのことを愛してたの よ。本当よ」 僕はうまく相槌が打てなくて、ロをあけて緑を眺めていた。 9 「お母さんが死んだとき、お父さんが私とお姉さんに向ってなんて言ったか知ってる ? こう一一 = ロ 森 のったのよ。『俺は今とても悔しい。俺はお母さんを亡くすよりはお前たち二人を死なせた方がす いくら 工っとよかった』って。私たち唖然としてロもきけなかったわ。だってそ、つ思、つでしょ ? なんでもそんな言い方ってないじゃない。そりやね、最愛の伴侶を失った辛さ哀しさ苦しみ、そ ノ れはわかるわよ。気の毒だと思うわよ。でも実の娘に向ってお前らがかわりに死にゃあよかった んだってのはないと思わない ? それはちょっとひどすぎると思わない ?
ろそれはもう起ってしまったことなのだし、どう思ったところで仕方ない種類のことなのだ。 その五月の気持の良い昼下がりに、昼食が済むとキズキは僕に午後の授業はすつばかして玉で も撞きにいかないかと言った。僕もとくに午後の授業に興味があるわけではなかったので学校を 出てぶらぶらと坂を下って港の方まで行き、ビリャード屋に入って四ゲームほど玉を撞いた。最 初のゲームを軽く僕がとると彼は急に真剣になって残りの三ゲームを全部勝ってしまった。約束 どおり僕がゲーム代を払った。ゲームのあいだ彼は冗談ひとっ言わなかった。これはとても珍し いことだった。ゲームが終ると我々は一服して煙草を吸った。 「今日は珍しく真剣だったしゃないか」と僕は訊いてみた。 「今日は負けたくなかったんだよ」とキズキは満足そうに笑いながら言った。 彼はその夜、自宅のガレージの中で死んだ。 Z 360 の排気。ハイプにゴム・ホースをつない で、窓のすきまをガム・テープで目ばりしてからエンジンをふかせたのだ。死ぬまでにどれくら いの時間がかかったのか、僕にはわからない。親戚の病気見舞にでかけていた両親が帰宅してガ レージに車を入れようとして扉を開けたとき、彼はもう死んでいた。カー・ラジオがつけつばな しになって、ワイハ ーにはガソリン・スタンドの領収書がはさんであった。 遺書もなければ思いあたる動機もなかった。彼に最後に会って話をしたという理由で僕は警察 つもとまったく同じ に呼ばれて事情聴取された。そんなそぶりはまったくありませんでした、い でした、と僕は取調べの警官に言った。警官は僕に対してもキズキに対してもあまり良い印象は
げでもう大変だったわ。だって私三カ月くらいたった一枚のプラジャーで暮したのよ。信しられ る ? 夜に洗ってね、一所懸命乾かして、朝にそれをつけて出ていくの。乾かなかったら悲劇よ ね、これ。世の中で何が哀しいって生乾きのプラジャーっけるくらい哀しいことないわよ。もう 涙がこばれちゃうわよ。とくにそれがだしまき玉子焼き器のためだなんて思うとわ」 「まあそ、つだろ、つね」と僕は笑いながら言った。 「だからお母さんが死んしやったあとね、まあお母さんにはわるいとは思うんだけどいささかホ ッとしたわね。そして家計費好きに使って好きなもの買ったの。だから今しゃ料理用具はなかな かきちんとしたもの揃ってるわよ。だってお父さんなんて家計費がどうなってるのか全然知らな いんだもの 「お母さんはいっ亡くなったの ? 」 「一一年前」と彼女は短かく答えた。「癌よ。脳腫瘍。一年半入院して苦しみに苦しんで最後には 頭がおかしくなって薬づけになって、それでも死ねなくて、殆んど安楽死みたいな格好で死んだ 森 のの。なんて一一 = ロうか、あれ最悪の死に方よね。本人も辛いし、まわりも大変だし。おかげでうちな 工んかお金なくなっちゃったわよ。一本二万円の注射ばんばん射つわ、つきそいはつけなきゃいけ ないわ、なんのかのでね。看病してたおかげで私は勉強できなくて浪人しちゃうし、踏んだり蹴 ったりよ。おまけに 」と彼女は何かを言いかけたが思いなおしてやめ、箸を置いてため息を 129 ついた。「でもすいぶん暗い話になっちゃったわね。なんでこんな話になったんだっけ ?
食べないで。部屋を暗くして、何もしないでポオッとしてるの。でも不機嫌というんしゃないの よ。私が学校から戻ると部屋に呼んで、隣りに座らせて、私のその日いちにちのことを聞くの。 たいした話じゃないのよ。友だちと何をして遊んだとか、先生がこ、 2 言ったとか、テストの成績 がどうだったとか、そんな話よ。そしてそういうのを熱心に聞いて感想を言ったり、忠告を与え たとえばお友だちと遊びに行ったり、バレエのレ たりしてくれるの。でも私がいなくなると ッスンにでかけたりするとーーーまた一人でポオッとしてるの。そして二日くらい経っとそれがパ タッと自然になおって元気に学校に行くの。そういうのが、そうねえ、四年くらいつづいたんし ゃないかしら。はしめのうちは両親も気にしてお医者に相談していたらしいんだけれど、なにし ろ二日たてばケロッとしちゃうわけでしよ、だからまあ放っておけばそのうちになんとかなるだ ろうって思うようになったのね。頭の良いしつかりした子だしってわ。 でもお姉さんが死んだあとで、私、両親の話を立ち聞きしたことあるの。すっと前に死んしゃ 9 った父の弟の話。その人もすごく頭がよかったんだけれど、十七から一一十一まで四年間家の中に 森 の閉しこもって、結局ある日突然外に出てって電車にとびこんしやったんだって。それでお父さん 工 こう一言ったのよ。『やはり血筋なのかなあ、俺の方の』って」 ウ 直子は話しながら無意識に指先ですすきの穂をほぐし、風にちらせていた。全部はぐしてしま うと、彼女はそれをひもみたいにぐるぐると指に巻きつけた。 265 「お姉さんが死んでるのをみつけたのは私なの」と直子はつづけた。「小学校六年生の秋よ。十
我々は死に捉えられることはないのだ〉と。それは僕には至極まともで論理的な考え方であるよ 、フに思えた。生はこちら側にあり、死は向、つ側にある。僕はこちら側にいて、向、つ側にはいな しかしキズキの死んだ夜を境にして、僕にはもうそんな風に単純に死を ( そして生を ) 捉える ことはできなくなってしまった。死は生の対極存在なんかではない。死は僕という存在の中に本 来的に既に含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるものでは ないのだ。あの十七歳の五月の夜にキズキを捉えた死は、そのとき同時に僕を捉えてもいたから 僕はそんな空気のかたまりを身のうちに感しながら十八歳の春を送っていた。でもそれと同時 に深刻になるまいとも努力していた。深刻になることは必すしも真実に近づくことと同義ではな いと僕はうすうす感じとっていたからだ。しかしどう考えてみたところで死は深刻な事実だっ 9 た。僕はそんな息苦しい背反性の中で、限りのない堂々めぐりをつづけていた。それは今にして の思えはたしかに奇妙な日々だった。生のまっただ中で、何もかもが死を・甲心にして回転していた 工のだ。 ウ