かんできたんだよ」と僕は言った。「ねえ、キズキはあのときよく君の見舞いに行ったの ? 「見舞いになんて殆んど来やしないわよ。そのことで私たち喧嘩したんだから、あとで。はしめ に一度来て、それからあなたと二人できて、それつきりよ。ひどいでしょ ? 最初に来たときだ ってなんだかそわそわそわそわして、十分くらいで帰っていったわ。オレンジ持ってきてね、ぶ つぶつよくわけのわからないこと言って、それからオレンジをむいて食べさせてくれて、またぶ つぶつわけのわからないこと言って、ぶいって帰っちゃったの。俺本当に病院って弱いんだとか なんとか言ってね」直子はそう言って笑った。「そういう面ではあの人はすっと子供のままだっ たのよ。だってそうでしょ ? 病院の好きな人なんてどこにもいやしないわよ。だからこそ人は 慰めにお見舞いに来るんしゃない。元気出しなさいって。そういうのがあの人ってよくわかって なかったのよね」 「でも僕と二人で病院に行ったときはそんなにひどくなかったよ。ごく並日通にしてたもの」 「それはあなたの前だったからよ」と直子は言った。「あの人、あなたの前ではいつもそうだっ たのよ。弱い面は見せるまいって頑張ってたの。きっとあなたのことを好きだったのね、キズキ 君は。だから自分の良い方の面だけを見せようと努力していたのよ。でも私と二人でいるときの 彼はそうじゃないのよ。少し力を抜くのよね。本当は気分が変りやすい人なの。たとえばべらべ らと一人でしゃべりまくったかと思うと次の瞬間にはふさぎこんだりね。そ、フい、つことがしよっ いつも自分を変えよう、向上させようと ちゅうあったわ。子供のころからずっとそうだったの。
244 ターを塗ったり、ゆで玉子の殻をむいたりしながら、何かのしるしのようなものを求めて、向い に座った直子の顔をときどきちらちらと眺めていた。 「ねえ、ワタナベ君、どうしてあなた今朝私の顔ばかり見てるの ? 」と直子がおかしそうに訊い 「彼、誰かに恋してるのよ」とレイコさんが言った。 「あなた誰かに恋してるの ? 」と直子が僕に訊い そうかもしれないと言って僕も笑った。そして二人の女がそのことで僕をさかなにした冗談を 言いあっているのを見ながら、それ以上昨夜の出来事について考えるのをあきらめてパンを食 べ、コーヒーを飲んだ。 朝食が終ると二人はこれから鳥小屋に餌をやりに行くと言ったので、僕もついていくことにし た。二人は作業用のジーンズとシャツに着替え、白い長靴をはいた。鳥小屋はテニス・コートの 裏のちょっとした公園の中にあって、ニワトリから鳩から、孔雀、オウムにいたる様々な鳥がそ こに入っていた。まわりには花壇があり、植えこみがあり、べンチがあった。やはり患者らしい 二人の男が通路に落ちた葉をほうきで集めていた。どちらの男も四十から五十のあいだに見え た。レイコさんと直子はその二人のところに行って朝のあいさつをし、レイコさんはまた何か冗 談を言って二人の男を笑わせた。花壇にはコスモスの花が咲き、植込みは念入りに刈り揃えられ ていた。レイコさんの姿を見ると、鳥たちはキイキイという亠尸を上げながら檻の中をとびまわっ
ていきたい、 一日も早くここを出ていきたいって、そればかり考えて学校に通ってたの。わえ、 私って無遅刻・無欠席で表彰までされたのよ。そんなに学校が嫌いだったのに。どうしてだかわ かる ? 」 と僕は一一 = ロった。 「わからない 「学校が死ぬほど嫌いだったからよ。だから一度も休まなかったの。負けるものかって思った の。一度負けたらおしまいだって思ったの。一度負けたらそのままするする行っちゃうんしゃな いかって怖かったのよ。三十九度の熱があるときだって這って学校に行ったわよ。先生がおい小 しいえ大丈夫ですって嘘ついてがんばったのよ。それ 林具合わるいんしゃないかって言っても、 で無遅刻・無欠席の表彰状とフランス語の辞書をもらったの。だからこそ私、大学でドイツ語を とったのよ。だってあの学校に恩なんか着せられちやたまらないもの。そんなの冗談しゃないわ 9 「学校のどこが嫌いだったの ? の「あなた学校好きだった ? = 「好きでもとくに嫌いでもないよ。僕はごく普通の公立高校に通ったけどとくに気にはしなかっ 丿ートの女の子のあつまる学校 「あの学校ね」と緑は小指で目のわきを掻きながら言った。 なのよ。育ちも良きや成績も良いって女の子が千人近くあつめられてるの。ま、金持の娘ばかり
はできるわよ。でもそれだけ。それ以上に何か特別なことをやるような余裕はうちにはないの よ。だからあんな学校に私を入れたりするべきしゃなかったのよ。そんなの惨めになるだけだも の。何か寄附があるたびに親にぶつぶつ文句を一言われて、クラスの友だちとどこかに遊びに行っ ても食事どきになると高い店に入ってお金が足りなくなるんじゃないかってびくびくしてわ。そ んな人生って暗いわよ。あなたのお家はお金持なの ? 」 「うち ? うちはごく普通の勤め人だよ。とくに金持でもないし、とくに貧乏でもない。子供を 仕 東京の私立大学にやるのはけっこう大変だと思うけど、まあ子供は僕一人だから問題はない。 送りはそんなに多くないし、だからアルバイトしてる。ごくあたり前の家だよ。小さな庭があっ て、トヨタ・カローラがあって」 「どんなアルバイトしてるの ? 」 「週に三回新宿のレコード屋で夜働いている。楽な仕事だよ。じっと座って店番してりやいいん 「ふうん」と緑は言った。「私ね、ワタナベ君ってお金に苦労したことなんかない人だって思っ てたのよ。なんとなく、見かけで」 「苦労したことはないよ、べつに。それほど沢山お金があるわけしゃないっていうだけのことだ し、世の中の大抵の人はそうだよ」 「私の通った学校では大抵の人は金持だったのよ」と彼女は膝の上で両方の手のひらを上に向け
しかし僕と直子の関係も何ひとっ進歩がないというわけではなかった。少しすっ少しすっ直子 は僕に馴れ、僕は直子に馴れていった。夏休みが終って新しい学期が始まると直子はごく自然 に、まるで当然のことのように、僕のとなりを歩くようになった。それはたぶん直子が僕を一人 の友だちとして認めてくれたしるしだろうと僕は思ったし、彼女のような美しい娘と肩を並べて 歩くというのは悪い気持のするものではなかった。我々は二人で東京の町をあてもなく歩きつづ けた。坂を上り、川を渡り、線路を越え、どこまでも歩きつづけた。どこに行きたいという目的 など何もなかった。ただ歩けばよかったのだ。まるで魂を癒すための宗教儀式みたいに、我々は わきめもふらす歩いた。雨が降れば傘をさして歩いた。 秋がやってきて寮の中庭がけやきの葉で覆い尽された。セーターを着ると新しい季節の匂いが した。僕は靴を一足はきつぶし、新しいスエードの靴を買った。 その頃我々がどんな話をしていたのか、僕にはどうもうまく思いだせない。たぶんたいした話 はしていなかったのだと思う。あいかわらす我々は過去の話は一切しなかった。キズキという名 前は殆んど我々の話題にはのばらなかった。我々はあいかわらずあまり多くはしゃべらなかった し、その頃には二人で黙りこんで喫茶店で顔をつきあわせていることにもすっかり馴れてしまっ ていた。 直子は突撃隊の話を聞きたがっていたので、僕はよくその話をした。突撃隊はクラスの女の子
・マーケットみたいなのもあるし、毎週 し。本もレコードも運動設備もあるし、小さなスー 理容師もかよってくるし。週末には映画だって上映するのよ。町に出るスタッフの人にとくべっ な買物は頼めるし、洋服なんかはカタログ注文できるシステムがあるし、ます不便はないわね」 「町に出ることはできないんですか ? 」と僕は質問した。 「それは駄目よ。もちろんたとえば歯医亠名に行かなきゃならないとか、そういう特殊なことがあ ればそれは別だけれど、原則的にはそれは許可されていないの。ここを出て行くことは完全にそ の人の自由だけれど、一度出ていくともうここには戻れないの。橋を焼くのと同じよ。一「三日 町に出てまたここに一民ってとい、つことはできないの。だってそ、フでしよ、フ ? そんなことした ら、出たり入ったりする人ばかりになっちゃ、つもの 林を抜けると我々はなだらかな斜面に出た。斜面には奇妙な雰囲気のある木造の一一階建て住宅 が不規則に並んでいた。どこがどう奇妙なのかと言われてもうまく説明できないのだが、最初に ます感しるのはこれらの建物はどことなく奇妙だということだった。それは我々が非現実を心地 良く描こうとした絵からしばしば感しとる情感に似ていた。ウォルト・ディズニーがムンクの絵 をもとに漫画映画を作ったらあるいはこんな風になるのかもしれないなと僕はふと思った。建物 はどれもまったく同しかたちをしていて、同し色に塗られていた。かたちはほば立方体に近く、 左右が対称で入口が広く、窓がたくさんついていた。その建物のあいだをまるで自動車教習所の コースみたいにくねくねと曲った道が通っていた。どの建物の前にも草花が植えられ、よく手入
もちろん彼を納得させられなかった。 「わからないな」彼は本当にわからないという顔をして言った。「は、僕の場合はち、ち、地図 が好きだから、ち、ち、ち、地図の勉強してるわけだよね。そのためにわざわざと、東京の大学 に入って、し、仕送りをしてもらってるわけだよ。でも君はそ、つしゃないって一一一一口、フし : 彼の言っていることの方が正論だった。僕は説明をあきらめた。それから我々はマッチ棒のく しをひいて二段べッドの上下を決めた。彼が上段で僕が下段だった。 彼はいつも白いシャッと黒いズボンと紺のセーターという格好だった。頭は丸刈りで背が高 頬骨がはっていた。学校に行くときはいつも学生服を着た。靴も鞄もまっ黒だった。見るか らに右翼学生という格好だったし、だからこそまわりの連中も突撃隊と呼んでいたわけだが本当 のことを言えば彼は政治に対しては百。ハーセント無関心だった。洋服を選ぶのが面倒なのでいっ もそんな格好をしているだけの話だった。彼が関心を抱くのは海岸線の変化とか新しい鉄道トン ネルの完成とか、そういった種類の出来事に限られていた。そういうことについて話しだすと、 の彼はどもったりつつかえたりしながら一時間でも一一時間でも、こちらが逃げだすか眠ってしま、フ 工かするまでしゃべりつづけていた。 ウ 毎朝六時に「君が代」を目覚し時計がわりにして彼は起床した。あのこれみよがしの仰々しい 国旗掲揚式もまるつきり役に立たないというわけではないのだ。そして服を着て洗面所に行って 3 顔を洗う。顔を洗うのにすごく長い時間がかかる。歯を一本一本取り外して洗っているんじゃな
にいってお母さんに知らせなくちゃ、叫ばなくちゃとったわ。でも体の方が一一 = ロうことをきかな いのよ。私の意識とは別に勝手に体の方が動いちゃうのよ。私の意識は早く下に行かなきやと思 っているのに、体の方は勝手に動いてお姉さんの体をひもから外そうとしているのよ。でももち ろんそんなこと子供のカでできるわけないし、私そこで五、六分ばおっとしていたと思うの、放 心状態で。何が何やらわけがわからなくて。体の中の何かが死んでしまったみたいで。お母さん が『何してるのよ ? 』って見にくるまで、すっと私そこにいたのよ、お姉さんと一緒に。その暗 くて令たいところに : 直子は首を振った。 「それから三日間、私はひとことも口がきけなかったの。べ、 ソドの中で死んだみたいに、目だけ 開けてしっとしていて。何がなんだか全然わからなくて」直子は僕の腕に身を寄せた。「手紙に 書いたでしょ ? 私はあなたが考えているよりすっと不 ~ 一兀全な人間なんだって。あなたが思って いるより私はすっと病んでいるし、その根はすっと深いのよ。だからもし先に行けるものならあ 森 のなた一人で先に行っちゃってほしいの。私を待たないで。他の女の子と寝たいのなら寝て。私の 工 ことを考えて一虜したりしないで、どんどん自分の好きなことをして。そ、つしないと私はあなた ウ を道づれにしちゃうかもしれないし、私、たとえ何があってもそれだけはしたくないのよ。あな たの人生の邪魔をしたくないの。誰の人生の邪魔もしたくないの。さっきも言ったようにときど き会いに来て、そして私のことをいつまでも覚えていて。私が望むのはそれだけなのよ」
肥りに行くことは伏せておいた。ただあの寮において親しくつきあっている唯一の男はこういうュ ニークな人物なのだと説明しただけだった。そのあいだレイコさんはギターを抱えて、もう一度 さっきのフーガの練習をしていた。彼女はあいかわらすちょっとしたあいまを見つけてはワイン を飲んだり煙草をふかしたりしていた。 「不思議な人みたいね」と直子は言った。 「不思議な男だよ」と僕は言った。 「でもその人のこと好きなの ? 「よくわからないね」と僕は言った。「でもたぶん好きというんしゃないだろうな。あの人は好 きになるとかならないとか、そういう範疇の存在じゃないんだよ。そして本人もそんなのを求め てるわけじゃないんだ。そういう意味ではあの人はとても正直な人だし、胡麻化しのない人だ し、非常にストイックな人だね」 「そんなに沢山女性と寝てストイックっていうのも変な話ね」と直子は笑って言った。「何人と 寝たんだって ? 」 「たぶんもう八十人くらいは行ってるんしゃないかな」と僕は言った。「でも彼の場合相手の女 の数が増えれば増えるほど、そのひとつひとつの行為の持つ意味はどんどん薄まっていくわけだ し、それがすなわちあの男の求めていることだと思うんだ 「それがストイックなの ? と直子が訊わた。
112 入れにそういうの捨てるでしよ、女子校だから。それを用務員のおしいさんが集めてまわって焼 却炉で焼くの。それがあの煙なの」 「そうって見るとどことなく凄味があるね」と僕は言った。 「うん、私も教室の窓からあの煙を見るたびにそう思ったわよ。凄いなあって。うちの学校は中 学・高校あわせると千人近く女の子がいるでしよ。まあまだ始まってない子もいるから九百人と 百十人よね。で、一日に百八十人ぶんの して、そのうちの五分の一が生理中として、だいたい八 生理ナプキンが汚物入れに捨てられるわけよね」 ュー算まよくわからないけど」 「まあそ、フだろうね。細かい = ⅱー 「かなりの量だわよね。百八十人ぶんだもの。そういうの集めてまわって焼くのってどういう気 分のものなのかしら ? 」 「さあ、見当もっかないよ」と僕は言った。どうしてそんなことが僕にわかるというのだ ? そ して我々はしばらく一一人でその白い煙を眺めた。 「本当は私あの学校に行きたくなかったの」と緑は言って小さく首を振った。「私はごく普通の 公立の学校に入りたかったの。ごく普通の人が行くごく普通の学校に。そして楽しくのんびりと 青春を過したかったの。でも親の見栄であそこに入れられちゃったのよ。ほら小学校のとき成績 が良いとそういうことあるでしょ ? 先生がこの子の成績ならあそこ入れますよ、ってね。で、 入れられちゃったわけ。六年通ったけどどうしても好きになれなかったわ。一日も早くここを出