誰も頼る人がいなくて、誰も私のことをかまってくれなくて。それで辛くて、こうなっちゃうん です。夜もうまく眠れなくて、食欲も殆んどなくて。先生のところに来るのだけが楽しみなんで す、私』 「ねえ、どうしてそうなるのか言ってごらんなさい。聞いてあげるから』 いってないんです、ってその子は言ったわ。両親を愛することができないし両親 宀黍庭か、つまく の方も自分を愛してはくれないんだって。父親は他に女がいてろくに家に戻ってこないし、母親 はそのことで半狂乱になって彼女にあたるし、毎日のように打たれるんだって彼女は言ったの。 家に帰るのが辛いんだって。そう言っておいおい泣くのよ。かわいい目に涙をためて。あれ見た ら神様だってほろりとしちゃうわよね。それで私こう言ったの。そんなにお家に帰るのが辛いん だったらレッスンの時以外にもうちに遊びに来てもいいわよって。すると彼女は私にしがみつく ようにして「本当にごめんなさい。先生がいなかったら、私どうしていいかわかんないの。私の e こと見捨てないで。先生に見捨てられたら、私行き場がないんだもの』って一一 = ロうのよ。 の仕方ないから私、その子の頭を抱いて撫でてあげたわよ、よしよしってね。その頃にはその子 工 は私の背中にこう手をまわしてね、撫でてたの。そうするとそのうちにね、私だんだん変な気に ルなってきたの。体がなんだかこう火照ってるみたいでね。だってさ、絵から切り抜いたみたいな きれいな女の子と二人でべッドで抱きあっていて、その子が私の背中を撫でまわしていて、その 撫で方たるやものすごく ~ 見北的なんだもの。 ~ 早王なんてもう足もとにも及ばないくらいなの。ひ
父親はもそもそと唇を動かした。〈よくない〉と彼は言った。しゃべるというのではなく、喉 の奥にある乾いた空気をとりあえす一言葉に出してみたといった風だった。〈あたま〉と彼は言っ 「頭が痛いの ? 」緑が訊いた。 〈そう〉と父親が言った。四音節以上の言葉はうまくしゃべれないらしかった。 「まあ仕方ないわね。手術の直後だからそりや痛むわよ。可哀そうだけど、もう少し我慢しなさ と緑は言った。「この人ワタナベ君。私のお友だち」 はしめまして、と僕は言った。父親は半分唇を開き、そして閉した。 の足もとにある丸いビニールの椅子を指した。僕は言われた 「そこに座っててよ」と緑はべッド とおりそこに腰を下ろした。緑は父親に水さしの水を少し飲ませ、果物かフルーツ・ゼリーを食 へたくないかと訊いた。〈いらない〉と父親は言った。でも少し食べなきや駄目よと緑が一一 = ロうと、 〈食べた〉と彼は答えた。 べッドの枕もとには物入れを兼ねた小テープルのようなものがあって、そこには水さしやコッ プや皿や小さな時計がのっていた。緑はその下に置いてあった大きな紙袋の中から寝巻の着がえ や下着やその他細々としたものをとり出して整理し、入口のわきにあるロッカーの中にいれた。 紙袋の底の方には病人のための食べものが入っていた。グレープフルーツが二個とフルーツ・ゼ ーとキウリが三本。
「キウリ ? と緑がびつくりしたようなあきれた声を出した。「なんでまたキウリなんてものが ここにあるのよ ? まったくお姉さん何を考えているのかしらね。想像もっかないわよ。ちゃん と買物はこれこれやっといてくれって電話で言ったのに。キウリ買ってくれなんて一言わなかった わよ、私」 「キウイと聞きまちがえたんしゃないかな」と僕は言ってみた。 緑はばちんと指を鳴らした。「たしかに私、キウィって頼んだわよ。それよね。でも考えりや わかるじゃない ? なんで病人が生のキウリをかしるのよ ? お父さん、キウリ食べた 〈いらない〉と父親は言った。 緑は枕もとに座って父親にいろんな細々した話をした。の映りがわるくなって修理を呼ん だとか、高井戸のおばさんが二、三日のうちに一度見舞にくるって言ってたとか、薬局の宮脇さ んがバイクに乗ってて転んだとか、そういう話だった。父親はそんな話に対して〈うん〉〈うん〉 と返事をしているだけだった。 の「本当に何か食べたくない、お父さん ? 」 工 〈いらない〉と父親は答えた。 ル「ワタナベ君、グレープフルーツ食べない ? 「いらない」と僕も答えた。 少しあとで緑は僕を誘って室に行き、そこのソファーに座って煙草を一本吸った。室
「手術後まもないし痛み止めの処置してあるから、まあ相当消耗はしてるよな」と医者は言っ 「手術の結果はあと一「三日経たんことにはわからんよね、私にも。うまく行けばうまく行 くし、うまく行かんかったらまたその時点で考えよう」 「また頭開くんしゃないでしようね ? 」 「それはそのときでなくちゃなんとも一一一一口えんよな」と医者は言った。「おい今日はえらい短かい スカートはいてるじゃないか」 「素敵でしょ ? 「でも階段上るときどうするんだ、それ ? と医者が質問した。 「何もしませんよ。ばっちり見せちゃうの」と緑が言って、うしろの看護婦がくすくす笑った。 「君、そのうちに一度入院して頭を開いて見てもらった方がいいぜ」とあきれたように医者が言 った。「それからこの病院の中しゃなるべくエレベーターを使ってくれよな。これ以上病人増や したくないから。最近ただでさえ忙しいんだから」 回診が終って少しすると食事の時間になった。看護婦がワゴンに食事をのせて病室から病室へ と配ってまわった。緑の父親のものはボタージュ・スープとフルーツとやわらかく煮て骨をとっ た魚と、野菜をすりつぶしてゼリー状にしたようなものだった。緑は父親をあおむけに寝かせ足 もとのハンドルをぐるぐるとまわしてべッドを上に起こし、スプーンでスープをすくって飲ませ 父親は五、六ロ飲んでから顔をそむけるようにして〈いらない〉と言った。
んなの前でおしつこさせたりするやつ。私あの手のが大好きなの」 「ねえワタナベ君、ポルノ映画館で私がいちばん好きなもの何か知ってる ? 「さあ見当もっかないね」 「あのね、セックス・シーンになるとね、まわりの人がみんなゴクンって唾を呑みこむ音が聞こ えるのーと緑は言った。「そのゴクンっていう音が大好きなの、私。とても可愛いくって」 病室に戻ると緑はまた父親に向っていろんな話をし、父親の方は〈ああ〉とか〈うん〉とあい づちを打ったり、何も言わすに黙っていたりした。十一時頃隣りのべッドで寝ている男の奥さん がやってきて、夫の寝巻をとりかえたり果物をむいてやったりした。丸顔の人の好さそうな奥さ んで、緑と二人でいろいろと世間話をした。看護婦がやってきて点滴の瓶を新しいものととりか e え、緑と隣りの奥さんと少し話をしてから帰っていった。そのあいだ僕は何をするともなく部屋 のの中をばんやりと眺めまわしたり、窓の外の電線を見たりしていた。ときどき雀がやってきて電 線にとまった。緑は父親に話しかけ、汗を拭いてやったり、痰をとってやったり、隣りの奧さん ウ や看護婦と話したり、僕にいろいろ話しかけたり、点滴の具合をチェックしたりしていた。 十一時半に医師の回診があったので、僕と緑は廊下に出て待っていた。医者が出てくると、緑 れは「ねえ先生、どんな具合ですか ? 」と訊ねた。
間「一一時間ばかり一人でそのへん散歩してきなよ」と僕は言った。「僕がしばらくお父さんのこと 見ててやるから」 「どうして ? 「少し病院を離れて、一人でのんびりしてきた方がいいよ。誰とも口きかないで頭の中を空つば にしてさ」 緑は少し考えていたが、やがて肯いた。「そうね。そうかもしれないわね。でもあなたやり方 わかるの ? 世話のしかた」 「見てたからだいたいはわかると思うよ。点滴をチェックして、水を飲ませて、汗を拭いて、痰 をとって、しびんはべッドの下にあって、腹が減ったら昼食の残りを食べさせる。その他わから ないことは看護婦さんに訊く」 「ただね、あの人今ちょっと頭 「それだけわかってりやまあ大丈夫ね」と緑は微笑んで言った。 かおかしくなり始めてるからときどき変なこと言いだすのよ。なんだかよくわけのわからないこ とを。もしそ、つい、フこと言ってもあまり気にしないでね」 「大丈夫だよ」と僕は一一 = ロった。 病室に戻ると緑は父親に向って自分は用があるのでちょっと外出してくる、そのあいだこの人 が面倒を見るからと言った。父親はそれについてはとくに感想は持たなかったよ、フだった。ある
彼は煙草を吸い、僕は緑の父親のことを考えた。そして緑の父親はでスペイン語の勉強を 始めようなんて思いっきもしなかったろうと隸った。努力と労働の違いがどこにあるかなんて考 えもしなかったろう。そんなことを考えるには彼はたぶん忙しすぎたのだ。仕事も忙しかった し、福島まで家出した娘を連れ戻しにも行かねばならなかった。 「食事の話だけど、今度の土曜日でどうだ ? 」と永沢さんが言った。 しいですよ、と僕は言った。 永沢さんが選んだ店は麻布の裏手にある静かで上品なフランス料理店だった。永沢さんが名前 を言うと我々は奥の個室に通された。小さな部屋で壁には十五枚くらい版画がかかっていた。ハ ッミさんが来るまで、僕と永沢さんはジョセフ・コンラッドの小説の話をしながら美味しいワイ ンを飲んだ。永沢さんは見るからに高価そうなグレーのスーツを着て、僕はごく普通のネイビ ・プルーのプレザー・コートを着ていた。 十五分くらい経ってからハッミさんがやってきた。彼女はとてもきちんと化粧をして金のイヤ ) ングをつけ、深いプルーの素敵なワンピースを着て、上品なかたちの赤いパンプスをはいてい 僕がワンピースの色を賞めると、これはミッドナイト・プルーっていうのよとハッミさんは 教えてくれた。
「本当よ。私にはそういうのよくわかるの、直感的に。で、あなたなんて答えたの ? 」 「よくわかんないから、心配ない、大丈夫、緑さんも切符もちゃんとやるから大丈夫ですって言 っといたけど」 「しゃあお父さんにそう約束したのね ? 私の面倒みるって ? 」緑はそ、 2 言って真剣な顔つきで 僕の目をのぞきこんだ。 「そうじゃないよ」と僕はあわてて言いわけした。「何がなんだかそのときよくわからなかった 「大丈夫よ、冗談だから。ちょっとからかっただけよ」緑はそう言って笑った。「あなたってそ ういうところすごく可愛いのね」 コーヒーを飲んでしまうと僕と緑は病室に戻った。父親はまだぐっすりと眠っていた。耳を近 づけると小さな寝息が聞こえた。午後が深まるにつれて窓の外の光はいかにも秋らしいやわらか な物静かな色に変化していった。鳥の群れがやってきて電線にとまり、そして去っていった。僕 と緑は部屋の隅に一一人で並んで座って、小さな声でいろんな話をした。彼女は僕の手相を見て、 あなたは百五歳まで生きて三回結婚して交通事故で死ぬと予言した。悪くない人生だな、と僕は 一一一一口った。 四時すぎに父親が目をさますと、緑は枕もとに座って、汗を拭いたり、水を飲ませたり頭の痛 みのことを訊いたりした。看護婦がやってきて熱を測り、小便の回数をチェックし点滴の具合を
時間が過ぎ、あの小さな世界から遠く離れれば離れるほど、その夜の出来事が本当にあったこと なのかど、フか僕にはだんだんわからなくなってきていた。本当にあったことなんだと思えばたし かにそうだという気がしたし、幻想なんだと髞えば幻想であるような気がした。幻想であるにし てはあまりにも細部がくつきりとしていたし、本当の出来事にしては全てが美しすぎた。あの直 子の体も月の光も。 緑の父親が突然目を覚まして咳をはしめたので、僕の思考はそこで中断した。僕はティッシ ーで痰を取ってやり、タオルで額の汗を拭いた。 「水飲みますか ? 、と僕が訊くと、彼は四ミリくらい肯いた。小さなガラスの水さしで少しすっ ゆっくり飲ませると、乾いた唇が震え、喉がびくびくと動いた。彼は水さしの中のなまぬるそう な水を全部飲んだ。 「もっと飲みますか ? と僕は訊いた。彼は何か言おうとしているようなので、僕は耳を寄せて みた。〈もういい〉と彼は乾いた小さな声で言った。その声はさっきよりもっと乾いて、もっと の小さくなっていた。 、「何か食べませんか ? 腹減ったでしよう ? と僕は訊いた。父親はまた小さく肯いた。僕は緑 ルがやっていたようにハンドルをまわしてべッドを起こし、野菜のゼリーと煮魚をスプーンでかわ りばんこにひとロすっすくって食べさせた。すごく長い時間をかけてその半分ほどを食べてか 9 、ら・・も、フしし 、という風に彼は首を小さく横に振った。頭を大きく動かすと痛みがあるらしく、ほ ュ
「これくらい、食べなくちゃ駄目よ、あなた , と緑は言った。 父親は〈あとで〉と言った。 「しようがないわねえ。ごはんちゃんと食べないと元気出ないわよ」と緑が言った。「おしつこ はまだ大丈夫 ? 」 〈ああ〉と父親は答えた。 「ねえワタナベ君、私たち下の食堂にごはん食べに行かない ? , と緑が言った。 いいよ、と僕は言ったが、正直なところ何かを食べたいという気にはあまりなれなかった。食 堂は医者やら看護婦やら見舞い客やらでごったがえしていた。窓がひとつもない地下のがらんと したホールに椅子とテープルがすらりと並んでいて、そこでみんなが食事をとりながらロぐちに 何かをしゃべっていてーーーたぶん病気の話だろうーーーそれが地下道の中みたいにわんわんと響い ていた。ときどきそんな響きを圧して、医者や看護婦を呼びだす放送が流れた。僕がテープルを e 確保しているあいだに、緑が二人分の定食をアルミニウムの盆にのせて運んできてくれた。クリ のーム・コロッケとポテト・サラダとキャベツのせん切りと煮物とごはんと味噌汁という定食が病 工人用のものと同じ白いプラスチックの食器に盛られて並んでいた。僕は半分ほど食べてあとを残 ルした。緑はおいしそうに全部食べてしまった。 「ワタナベ君、あまりおなかすいてないの ? 」と緑が熱いお茶をすすりながら言った。 「うん、あまりね」と僕は言った。