67 マリカのソファー 「先生を信じてる。約束だよ。」 オレンジは、私の心の奧底を見つめるような目をして言った。 マリカは。食べてゆけるの ? 」 「お金は ? どうやって稼ぐの ? 「私がに出たり、雑誌に出たりしてマリカのことで得たお金がすべてマリカ名義で貯金 してある。そうやってマリカがいやなことはしないで、学校に行ったり好きなことをして、 やることを見つけていけるくらいの額はあるのよ。 私は、嫌いな人に十年間関わったりしない。あなたたちのことが、人間として好きだった からやれたのよ。」 「うん。マリカの友達は先生だけだから。」 「一生の友達はそんなに多くなくていいのよ。私はマリカが好き、大丈夫よ。」 私は言った。 「僕はどこに行くんだろう ? 消えてしまうのかな ? 」 オレンジは言った。 大理石にてのひらを映しながら。 命はえないと田 5 、つ。」 「消えない、 私は言った。
私は笑って言った。 「昼までゆっくり寝よう。」 私はマリカに水をついであげた。マリカはごくごく飲み干して、 「だって、いつも一緒にいたの。どんなことかわかる ? 生理のときだって、犯されてると いたの。隹にも きだって、本を読んでるときも、ぶたれて鼻血を出してるときも、いつも、 わかってもらえない、わかちあえないような恥ず・かしいことや見られたくないことも、オレ ンジは見たの。でも、マリカを嫌いにならなかったの。どんなことがあっても、マリカを好 いなくなったら、とても、淋しい。先生、 きでいたの。そんなひとはもう一生見つからない。 誰かとそんなふうにいたことある ? 」 と一一一口った。 「それは、人間同士にはありえないことだわ。」 私は言った。 「でも、すっとそうだったの。 マリカはやっと落ち着いてきて、腫れた目でばんやりと言った。 「もしかして、おなかのなかにいたとき、母親とはそうだったかもしれない。」 私は言った。
飛行機はバリ島を目指して夜の中を飛んでいる。機内は静かで暗く、ところどころで本を 読む人がライトを照らしているのが見える。 私は、この旅行に近所の女の子を連れて来た。マリカは私の友達だ。十年前に彼女と知り 合ったことで、私の人生は大きく変わった。 親切にして 彼女がなぜ私を慕ってくれたのかわからない。彼女が小さい時にただひとり くれた人に、私が似ていたからだと彼女は昔言った。 マリカは疲れているのだろう、隣の席で毛布にくるまってくうくう眠っている。年のわか らない顔だった。十歳のようでも、四十歳のようでもある。 私はこの顔がさまざまに変わってゆく様子を十年間見続けてきた。彼女が八歳、私が二十 ジュンコ先生の独白
「私も。」 と一一一口った。 先生はバリで買ったカラフルなドレスを着ていた。 「海見に行こ、つか ? ・」 マリカが言った。 「ちょっとだけね。 先生が言った。 先生はおうちにいる主婦のときよりもすっと、女つほいというか、自由な感じに見える。 陽にやけて、若くて、きれいだった。 砂浜はさらさらで驚くはど冷たくて、海は静かだった。星が沢山あって、むこうに街のあ かりが見えた。都会を感した。 きれいなものを見る度に、マリカのなかに言葉がふえてゆく。 フ 「夜の海はいつまで見ててもあきないね。」 カ 先生が言った。 マ 「オレンジのこと、好き ? 」 マリカは聞 ) こ。
「好きよ。あの子はどこから来たの ? 」 先生は言った。 「絵本の中かな。」 マリカは言った。 : はしめはそうかと思ってた 「ペインの好きだった絵本の中の、怪物の世界の王子さま。 いつのまにかマリカ けど、オレンジはオレンジだった。どの本の中にもいない、オレンジ。 のそばにいて、ペインの面倒を見て、ミッョに忠告したり、生意気だった。 いないの ? 」 「そう。今は ? 「このへんにはいない、でも感じる。」 マリカは言った。 、ツヒイは ? ・ 「ペインのことは ? 先生が聞いた。 「感しるけど、遠い感じ。あと、マリカがみんななようにも思う。」 海は暗すぎてこわくて、大きくてすごい音だった。 でも美しくて、ひきつけられた。 暗い中の色っぽい先生は、はんとうにいつもの先生だろうか ? みんないくつか違う人を
77 マリカのソファー とのんきな感じで先生が来た。 お店のおじさんに値段を聞いた。 高、 と先生は言った。 伊東四朗に似たおしさんは、この小さい布を織るのに七年かかるのだ、と悲しそうに言っ たが、先生は値切って少し安く買ってくれた。 布はなんとかグリンシンという名前で、魔よけの布だというようなことを言っていた。 「大事にするのよ。」 と渡されたとき、嬉しくて何度も匂いをかいた 夜、クタというところに着いた。 都会だ。 とにかく車かたくさんあって、みんながなにか買えとか、車はいらないかとかうるさく 一三ロってくる。 でもなんとなく好きな感じの町だった。
た。マリカがマリカをあたためて、孵化させてあげることができればいいのに、と私は思っ そして、突然優しい気持ちになり、毛布をかけに行った。 ふわりと毛布をかけた時、しゃべったのは、マリカではなくて、オレンジだった。 「先生、マリカは必す、強くなるよ。わかるんだ。」 「だといいわね。」 私は一「ロった。 「ばくにはわかるんだ。見えるんだ。マリカは先生と仲良くなりたいんだよ。でも、やりか たがわからないの。誰からも教わらなかったからね。」 「わかるわ。」 「だから、マリカを見捨てないでやって。」 「もちろんよ。 「昨日、マリカと先生が南の島を歩いてるところを見たよ。」 「見たってなによ。」 「見たんだもの。南の島の町で、陽にやけて、買物してたよ。笑ってたよ。いっかそんな日 が来るんだよ。
33 マリカのソファー ったらと田 5 った。・ とんなに話がはやいだろ、つ、といらだたしく田 5 った。 「あ、先生。」 マリカが起きた。 「先生、ここ暑いね。」 「そうでしよう。 私は笑った。 「飲み物買ってくる。」 マリカは田、、 ( 糸しカらだで立ち上がり、ホテルの売店に走った。無邪気な笑顔で店員と話しな がら冷たいコーラを買ってきた。 「英語が話せるの ? 私がたすねると、 「日本語で話してた。何とか通しるものよ。」 と一一高った。 「先生、明日もここに泊まる ? ・」 「ううん、どうして ? 」 「オレンジが夢に出てきて、ここは昔、黒魔術の村だったから、いやだなあって言うの。」
とマリカは田いった。 し窓にはマリカと呼はれる女の子の当惑した顔がまだ映っている。 寝て起きても、暗 ) 」則は私は暗いところで眠リなから、他の誰かがジュンコ先生と話しているのを聞いていれ ざマリカが表に出ると はよかった。二人の話がおもしろくってくすくす笑ったりしたが、い 肉体が一緒に笑うのがこわくて、ダイナミックに感しられ過ぎて、縮こまってしまう。 だから今でも時々、表に出るとおどおどしてしまう。 マリカが大声で笑ったりしたら、誰かひどい人が急にたたいたり、どなったり、暗がりに 連れて行っておしおきすると言ったらどうしよう、と思うのだ。正しく言うと、思うのでは なくって、感しる。気持ちがふわっとして解放されそうになると、マリカの中のなにかが、 こ可こもこわいものかまわりになくても、そういう命令か 「身を縮めろ ! 」と命令する。 : ー : やってくる。 そんなことない、そんなことはもうない、 ジュンコ先生はペインがひどいことをされた数 だけそう言ってくれた。痛かった数を超えて言ってくれた頃、マリカはやっと表に出続けら れるようになった。 ジュンコ先生は好き。大好き。あまり大好きで大好きすぎると遠い感じがするから、お母 さんでもジュンコさんでもない ジュンコ先生と呼ぶ。遠いままだったら、いつまでもいな
104 マリカは言った。そしてあたりを見回して、 「あれ ? ここはバリ ? まだバリなの ? ジュンコ先生のおうちかと思った。マリカは今、 ひとりじゃなくて、先生といたのね ? 」 と言った。私は笑って、 「まだバリ よ。今日、帰るの。いっかうちで寝たら、今度はバリの夢を見るかもね。」 ほんとう、とマリカは笑った。あとで、空港で、おばあちゃんと先生たちに、 丿の塩を 買っても ) しい ? と言いなから、また眠りについた。 私はマリカの現実に存在する私たちのことを思った。マリカがいつのまにか育てていた世 界。私は想像した。すっかり羽根をのはした私にも、また、帰るところがある。あの部屋で、 マリカはソファーに丸くなり、私はこちらでおばえたチキンカレーを作り、夫はを見て いる、夕方の時間を。それは、家族ではない家族が育ててきた団欒の光景だった。いつのま にか、はんとうに控えめに小さくなりながらも、マリカかどうしてもそこにいたくて得た、 マリカの居場所だった。 窓の外は朝で、すべてを洗い流すような光がはるかな海を照らしはじめていた。疲れ果て た私たちのべッドにも、さんさんと降り注ぎはしめていた。