177 七番目の男 七番目の男はしばらくのあいだ、黙って一座の人々を見回していた。誰も一言も口を きかなかった。息づかいさえ聞こえなかった。姿勢を変えるものもいなかった。人々は 七番目の男の話の続きを待っていた。風はすっかり止んだらしく、外には物音ひとっ聞 こえなかった。男は一「ロ葉を探すように、もう一度シャツの襟に手をやった。 「私は考えるのですが、この私たちの人生で真実怖いのは、恐怖そのものではありませ : それは様々な ん」、男は少しあとでそう言った。「恐怖はたしかにそこにあります。 かたちをとって現れ、ときとして私たちの存在を圧倒します。しかしなによりも怖いの は、その恐怖に背中を向け、目を閉じてしまうことです。そうすることによって、私た ちは自分の中にあるいちばん重要なものを、何かに譲り渡してしまうことになります。 私の場合にはーーそれは波でした」
に快方に向かうだろうとは、正直なところ誰も期待していなかった。もちろん口には出 さないけれど、まわりの人々は彼の耳については半ばあきらめてしまっているみたいだ った。 僕といとことは家こそ近かったけれど、年齢が十歳以上離れているせいで、親交とい うほどのものはなかった。親戚が顔を合わせたときに、ちょっとどこかに連れていって やったり、一緒に遊んでやったりしたくらいだった。それでもいつのまにか、みんなは 僕とそのいとこを「一対のもの」として見做すようになっていた。つまり彼が僕にとく になついて、僕が彼のことをとくに可愛がっているという風に思われていたわけだ。僕 には長いあいだその理由がわからなかった。しかしこうして今、小首をかしげるような 女 格好で左耳をじっと僕の方に向けているいとこの姿を見ていると、僕は妙に心を打たれ た。ずっと昔に聞いた雨の音のように、彼のどことなくぎこちない一挙一動が僕の心に なじんだ。親戚の人々が何故僕と彼とをひとつに結びつけたがったか、少しはわかるよ や らうな気がした。 め 。ハスが七つめか八つめの停留所を通り過ぎたあたりで、いとこがまた不安そうな目で
なかったし、夫は顔に毛一筋程の変化も見せなかったが、私は見逃さなかった。夫の体 の中で、何かが激しく、でもひそやかに揺さぶられたのだ。私はじっと夫の横顔を見て いた。彼はそこに立ちどまって空を眺め、自分の手を眺め、そして大きく息を吐いた。 それから私の顔を見て、につこりと笑った。ここが君の望んだ土地なのかい、と彼は一言 った。そうよ、と私は言った。 ある程度予想はしていたことだが、でも南極はあらゆる予想を越えて寂しい土地だっ た。そこにはほとんど人なんて住んでいなかった。そこには特徴のない小さな町がひと つあるきりだった。町にはやはり同じように特徴のない小さなホテルがひとつあった。 南極は観光地ではないのだ。そこにはペンギンの姿さえなかった。オーロラだって見え なかった。私はときたま通りかかる人々に向かって、どこに行けばペンギンが見られる のかと質問してみた。しかし人々は黙って首を振るだけだった。彼らには私の言葉が理 男解できないのだ。だから私は紙に。ヘンギンの絵を描いてみた。しかしそれでもやはり彼 らは黙って首を振るだけだった。私は孤独だった。町を一歩外に出ると、そこにはもう 氷しかなかった。木もなければ、花もなく、 川も池も何もなかった。どこに行っても、 そこにあるのは氷だけだった。見渡す限りどこまでもどこまでも氷の荒野が続いていた。
「その波が私を捉えようとしたのは、私が十歳の年の、九月の午後のことでした」と七 番目の男は静かな声で切り出した。 彼がその夜に話をすることになっていた最後の人物だった。時計の針はもう夜の十時 をまわっていた。部屋の中に丸く輪になって座った人々は、西に向けて吹き抜けていく 風の音を、外の深い闇の中に聞き取ることができた。風は庭の木々の葉を揺らせ、窓の ガラスをかたかたと細かく震わせ、それから小さな呼び子を吹くような甲高い声を上げ 男て、どこかに抜けていった。 の Ⅲ「それは特殊な種類の、かって見たこともないような巨大な波でした」と男は続けた。 「その波は、ほんの僅かのところで私を捉えることができませんでした。しかしかわり にそれは、私にとってもっとも大事なものを呑み込んで、別の世界に運び去ってしまい
んで、わざわざあんな大きな音で音楽を聴いたりはしない。 僕はとにかく。ハジャマを脱いで、ズボンを拾い上げた。スニーカーをはいて、シャ ツの上からセーターをかぶった。でも万が一ということもある。何か手にするものがほ しかった。部屋の中を見回したが、適当なものは何も目につかなかった。野球の・ハット もないし、火かき棒もない。そこにあるのはタンスとべッドと小さな本棚と額にはいっ た風景画だけだ。 廊下に出ると、音はもっとはっきり聞こえた。階段の下から古い楽しげな音楽が、蒸 気のように廊下に浮かびあがってきた。聞き覚えのある有名な曲だったが、題名は思い 出せなかった。 話し声も聞こえた。数多くの人々の声がひとつに交じりあっているので、話の内容ま では聞き取れない。ときおり笑い声も耳に届いた。品の良い、軽やかな笑い声だった。 どうやら階下では。ハーティーが進行中であり、それも佳境にあるようだった。まるで彩 りを添えるみたいに、シャン。ハン・グラスかワイン・グラスがふれ合う、ちりんちりん というかろやかな音が響いた。たぶん踊っているものもいるのだろう、革靴が床を移動 するリズミカルなきしみも聞こえた。
肥た。そしてまわりの人々が受けている傷や苦痛のようなものに対しても、人並み以上に 敏感になりました。これはプラスの点ですね。そういうプラスの特質を得たことによっ て、僕はそのあと何人かの本物の良い友人を作ることができました。でもそこにはマイ ナスもあります。僕はあのときから、人間というのを頭からすっかり信用するというこ とができなくなったんです。人間不信とか、そういうものじゃありません。僕には女房 もいますし、子供もいます。僕らは家庭を作り、お互いを守りあっています。そういう のは信頼がなければできないことです。でもね、僕は思うんです。たとえ今こうして平 穏無事に生活していても、もし何かが起こったら、もし何かひどく悪意のあるものがや ってきてそういうものを根こそぎひっくりかえしてしまったら、たとえ自分が幸せな家 庭やら良き友人やらに囲まれていたところで、この先何がどうなるかはわからないんだ ぞって。ある日突然、僕の言うことを、あるいはあなたの言うことを、誰一人として信 じてくれなくなるかもしれないんです。そういうことは突然起こるんです。ある日突然 やってくるんです。いつもそのことを考えています。この前はそれがなんとか六カ月で 終わりました。でも次にもう一度同じようなことが起こったとき、それがどれだけ長く 続くのかは誰にもわからないんです。この次自分がどれくらいそれに耐えられるかどう
びりとしていて、攻撃的というには程遠い種類のものだ。そんな人物とボクシングがど ういう地点で結びついたのか、うまく想像できなかった。だからふとそんな質間をして しまったのだ。 僕らは空港のレスト一フンでコーヒーを飲んでいた。大沢さんは僕と一緒にこれから新 潟に行こうとしているところだった。季節は十二月の初めで、空はふたでもされたみた いに重く曇っていた。新潟は朝からひどい雪が降っているらしく、飛行機の出発は予定 よりかなり遅れそうだった。空港は人でごったがえしていた。ラウドスピーカーは便の 遅延についてのアナウンスを流しつづけ、足どめをくった人々は疲れた表情を顔に浮か べていた。レスト一フンの暖房はいささかききすぎで、僕はずっとハンカチで汗を拭いっ づけていた。 「基本的には一度もありません」大沢さんはしばらく沈黙していたあとで突然そう言っ た。「僕はボクシングを始めてから人を殴ったことはありません。それはボクシングを 黙 始めるときにいやっていうくらい叩きこまれるんです。絶対にグラブをつけずにリング 沈の外で他人を殴っちゃいけないって。普通の人間が誰かを殴ったって、打ちどころが悪 ければ変なことになっちゃうんです。それがボクシングをやっている人間ということに
手にとった。ケイシーは料理を作るのが趣味で、ドイツ製の高価な包丁のセットを持っ ていた。手人れも行き届いている。きれいに研ぎあげられたステンレスの刃は、手の中 でいかにもなまめかしく、リアルに光った。 でも自分がその大きな肉切り包丁を手に握りしめて、にぎやかな。ハーティ 1 の会場に 歩いて人っていくところを想像すると、なんだか急にばかばかしくなった。僕は水道の 水をグラスに一杯飲んでから、包丁を引き出しに戻した。 大はどうしたんだろう ? そこで初めて、マイルズの姿が見えないことに気づいた。大はいつもの寝床である毛 布の上にはいなかった。いったいあいつはどこに行ってしまったんだ ? もし誰かが夜 中に家の中に人り込んできたのなら、少なくとも吠えるか何かしたって良さそうなもの じゃないか。床にかがんで、毛だらけの毛布のへこみに手をやってみた。暖かみは残っ ていなかった。大はどうやらずっと前に、寝床を出てどこかに行ってしまったらしかっ 僕はキッチンを出て玄関ホールに行き、そこにある小さなべンチに腰を下ろした。音 楽は休みなく続いていた。人々の会話も続いていた。それは波のようにときおり大きく
でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言いぶんを無批判に受け人れて、 そのまま信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、 ロ当りの良い、受け人れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。彼ら は自分が何か間違ったことをしているんじゃないかなんて、これつぼっちも、ちらっと でも考えたりはしないんです。自分が誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれ ないなんていうことに思い当たりもしないような連中です。彼らはそういう自分たちの 行動がどんな結果をもたらそうと、何の責任も取りやしないんです。本当に怖いのはそ ういう連中です。そして僕が真夜中に夢をみるのもそういう連中の姿なんです。夢の中 には沈黙しかないんです。そして夢の中に出てくる人々は顔というものを持たないんで す。沈黙がたい水みたいになにもかもにどんどんしみこんでいくんです。そして沈默 の中でなにもかもがどろどろに溶けていくんです。そしてそんな中で僕が溶けていきな がらどれだけ叫んでも、誰も聞いてはくれないんです」 大沢さんはそう言って首を振った。 僕はそのまま続きを待っていたのだけれど、話はそこで終わった。大沢さんはテープ
か、まったく自信が持てないんです。そのことを考えると、ときどき本当に怖くなりま す。夜中にそういう夢を見て飛び起きることもあります。というか、そういうことはし よっちゅうあるんです。そういうとき僕は女房を起こすんです。そしてしがみついて泣 くんです。一時間くらい泣いていることもあります。怖くて怖くてたまらないんです」 彼は話をやめてじっと窓の外の雲を見ていた。雲はさっきからびくりとも動いていな かった。管制塔も飛行機も輸送車両もタラップも作業服を着た人々も、そんな深い雲の 影にあらゆる色を吸い取られてしまっていた。 「僕が怖いのは青木のような人間ではありません。青木みたいな人間はどこにでもいま すし、それについてはもうあきらめています。そういう人間を見ると、何があっても関 わりを持たないようにしています。とにかく逃げるんです。逃げるにしかず、というや つですね。そんなにむずかしいことじゃありません。そういう人間はすぐに見分けがっ きます。また同時に、僕は青木に対してはそれなりにたいしたものだと思う節もあるん 黙 です。機会がくるまでじっと身を伏せている能力、機会を確実に捉える能力、人の心を 沈実に巧みに掌握し煽動する能力ーーこういうのは誰にも備わっているわけではありませ ん。そんなものは吐き気がするくらい嫌いですが、でもそれが能力であることは認めま