女 - みる会図書館


検索対象: レキシントンの幽霊
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1. レキシントンの幽霊

114 った。それにどちらかといえばその当時の上海という街が提供する技巧的なあでやかさ の方が彼の性格にはよくあっていたようだった。揚子江を遡る船のデッキに立ち朝の光 に輝く上海の優美な街並を目にしたときから、滝谷省三郎はこの街がすっかり気に人っ てしまった。その光は彼にひどく明るい何かを約束しているように見えた。 , 彼はそのと き二十一歳だった。 そのようなわけで、日中戦争から真珠湾攻撃、そして原爆投下へと到る戦乱激動の時 代を、彼は上海のナイトクラブで気楽にトロンポーンを吹いて過ごした。戦争は彼とは まったく関係のないところで行われていた。要するに、滝谷省一二郎は歴史に対する意志 とか省察とかいったようなものをまったくといっていいほど持ち合わせない人間だった のだ。好きにトロンポーンが吹けて、まずまずの食事が一日に三度食べられて、女が何 人かまわりにいれば、それ以上はとくに何も望まなかった。 大抵の人間は彼のことを好いた。若くて男つぶりがよくて、おまけに楽器の腕もいい ときているから、どこに行っても雪の日のカラスのように目立った。数えきれないくら い沢山の数の女とも寝た。日本人から中国人から白系ロシア人、娼婦から人妻、美しい 女からそれほど美しくもない女まで、彼はほとんど手当たり次第に女と交わった。滝谷

2. レキシントンの幽霊

には女が一人眠っている。家のまわりにはめくらやなぎが茂っている。めくらやなぎが 女を眠りこませた。 「めくらやなぎっていったい何だよ ? 」と友だちが質問した。 「そういう植物があるのよ」 「聞いたことないね」 「私が作ったんだもの」、彼女は徴笑んだ。「めくらやなぎには強い花粉があって、その 花粉をつけた小さな蠅が耳から潜り込んで、女を眠らせるの」 新しい紙ナプキンを一枚とって、彼女はめくらやなぎの絵を描いた。めくらやなぎは つつじくらいの大きさの木だった。花は咲くが、その花は厚い緑の葉にしつかりと包み 女 込まれている。葉は、とかげの尻尾がいつばい集まったような格好をしている。めくら ゃなぎはちっとも柳のようには見えない。 「煙草あるかな ? 」と友だちは僕に尋ねた。僕は汗で湿ったショートホープの箱とマッ や 3 チをテープル越しに彼の方に放った。 め 「めくらやなぎの外見は小さいけれど、根はすごく深いのよ」と彼女は説明した。「じ 网っさいのところ、ある年齢に達すると、めくらやなぎは上に伸びるのをやめて、下へ下

3. レキシントンの幽霊

きことはなかった。トニー滝谷の人生はかくの如く静かに緩やかに過ぎていった。俺は おそらくこの先結婚することはあるまい、と彼は思った。 しかしある時突然、トニー滝谷は恋に落ちた。相手は彼の事務所にイラストレーショ ンの原稿を取りにきた出版社のアルバイトの女の子だった。歳は二十二だった。彼女は 彼の事務所にいるあいだずっと静かな徴笑みを口に浮かべていた。なかなか感じの良い 顔立ちの娘だったが、とりたてて美人というほどではなかった。でも彼女にはなにかし ら彼の心を激しく打つものがあった。彼は一目見たときから胸が詰まってうまく息がで きないくらいだった。彼女の中の何がそれほど強く彼の心を打ったのか、自分でもよく わからなかった。もしわかったとしても、それは一一一口葉で説明できる種類のものではなか っ ( 。 それから彼は娘の着こなしに注意を引かれた。彼はとくに洋服には興味を持たなかっ 谷たし、女の着ている服のことをいちいち気にとめるような人間でもなかったのだが、そ 一の娘が気持ち・よさそうに服を着こなしている様子に、なんだかすっかり感心してしまっ た。感動したといってもいいくらいだ。ただ単に上手い着こなしをする女ならけっこう いた。これ見よがしに着飾ってる女はそれ以上に沢山いた。でも彼女はそんな女たちと 125

4. レキシントンの幽霊

〈めくらやなぎのためのイントロダクション〉 この作品は一九八三年十二月号の「文學界」に掲載した「めくらやなぎと眠る女」にほ ぼ十年ぶりに手を人れたものです。オリジナルは四百字詰めにして約八十枚ばかりあり、 これはいささか長すぎるので、もう少し短く縮めたいと以前から考えていたのですが、九 五年の夏にたまたま神戸と芦屋で朗読会を催す機会があり、そのときにどうしてもこの作 品を読みたいと思ったので ( この作品はその地域を念頭に置いて書かれたものだからで す ) 、大きく改訂してみることにしました。オリジナル「めくらやなぎと眠る女」と区別 するために、便宜的に「めくらやなぎと、眠る女」という題に変えました。原稿量は約四 割減らせて、四十五枚ほどにダイエットしたわけですが、それにそって内容も部分的に変 わってきており、オリジナルとは少し違った流れと意味あいを持っ作品になったので、違 う版として、あるいは違ったかたちの作品として、この短編集に収録することにしました。 とりあえず新旧ともに併存するということになると思います。 この作品は同じ短編集に収められた「蛍」という短編と対になったもので、あとになっ て『ノルウェイの森』という長編小説にまとまっていく系統のものですが、「蛍」の場合 とは違って、この「めくらやなぎと眠る女」と『ノルウェイの森』のあいだにはストーリ ー上の直接的な関連性はありません。

5. レキシントンの幽霊

みません、と女は言った。そして涙をハンカチで拭いた。 よかったら明日から事務所に来てもらいたいのだが、とトニー滝谷は事務的な声で言 った。とりあえず一週間ぶんの服と靴をこの中から選んで持って帰りなさい。 女は時間をかけて六日ぶんの服を選んだ。それからその服に合わせて靴を選んだ。そ してそれらをスーツケースに詰めた。寒くなるといけないからコートも持っていきなさ いとトニー滝谷は言った。彼女は温かそうなグレーのカシミアのコートを選んだ。コー トは羽根のように軽かった。そんな軽いコートを手にしたのは生まれて初めてだった。 女が帰ったあとで、トニー滝谷は妻の衣装室に人ってドアを閉め、妻の残していった 服をしばらくぼんやりと眺めていた。どうしてあの女が服を見て泣いたのか、彼にはよ く理解できなかった。その服は彼には妻が残していった影のように見えた。サイズ 7 の 彼女の影が折り重なるように何列にも並んで、ハンガーから下がっていた。それは人間 谷の存在が内包していた無限の ( 少なくとも理論的には無限の ) 可能性のサンプルを幾つ 立黽 か集めてぶらさげたもののように見えた。 それらの影は、かっては妻の体に付着し、温かな息吹を与えられ、妻とともに動いて いた影であった。しかし今彼の眼前にあるものは、生命の根を失って一刻一刻とひから 139

6. レキシントンの幽霊

へと伸びていくの。まるで暗闇を養分とするみたいにね」 「そして蠅がその花粉を運んで、耳に潜り込んで、女を眠らせるんだね」、友だちが湿 ったマッチで苦労して煙草に火をつけながら言った。「それで : : : その蠅は何をする 「女のからだの中で、その肉を食べるのよ、もちろん」と彼女は言った。 「むしやむしや」と友だちは言った。 そう、彼女はその夏、めくらやなぎについての長い詩を書いていて、その筋を僕らに 説明してくれたのだ。それは彼女にとっての唯一の夏休みの宿題だった。ある夜に見た 夢からストーリーを思いっき、べッドの上で一週間かけて長い詩を書き上げた。友だち は読みたいといったのだが、まだ細かい部分に手を人れてないからといって彼女はそれ を断り、そのかわりに絵を描いて詩の筋を説明してくれた。 めくらやなぎの花粉で眠り込んでしまったその女を救うために、若い男が一人で丘を のぼっていった。 「それは俺のことだね、きっと」と友だちが口をはさんだ。

7. レキシントンの幽霊

時間もそこの床に座って壁をじっと眺めていた。そこには死者の影の、そのまた影があ った。しかし年月がたつにつれて、彼はかってそこにあったものを思い出すことができ なくなっていった。その色や匂いの記憶もいっしか消えてしまった。そしてかって抱い たあの鮮やかな感情さえもが、記憶の領域の外へとあとずさりするように退いていった。 記憶は風に揺らぐ霧のようにゆっくりとその形を変え、形を変えるたびに薄らいでいっ た。それは影の影の、そのまた影になった。そこに触知できるのはかって存在したもの があとに残していった欠落感だけだった。時には妻の顔さえうまく思い出せなくなるこ とがあった。しかし彼はときどき、かってその部屋の中で妻の残していった服を見て涙 を流した見知らぬ女のことを思い出した。その女の特徴のない顔や、くたびれたエナメ ルの靴のことを思い出した。そして彼女の静かな嗚咽が記憶の中に蘇ってきた。そんな ものを思い出したくはなかった。でも知らず知らずにそれが蘇ってくるのだ。いろんな 谷ことをすっかり忘れてしまったあとでも、不思議に名前も覚えていないその女のことだ 一けは忘れられなかった。 妻の死んだ二年後に滝谷省三郎が肝臓の癌で死んだ。癌にしては苦しみは少なく、人 院していた期間も短かった。ほとんど眠るように死んでいった。そういう意味でも彼は 143

8. レキシントンの幽霊

140 びていくみすぼらしい影の群れに過ぎなかった。それは何の意味も持たないただの古ぼ けた服だった。彼はそれを見ているうちにだんだん息苦しくなってきた。様々な色がま るで花粉のように宙に舞い、彼の目や耳や鼻腔に飛び込んできた。貪欲なフリルやボタ ンやエボレットや飾りポケットやレースやベルトが部屋の空気を奇妙に希薄なものにし ていた。たつぶりと用意された防虫剤の匂いが、無数の徴小な羽虫のように無音の音を 立てていた。彼は自分が今ではそんな服を憎んでいることにふと気づいた。彼は壁にも たれ、腕を組んで目を閉じた。孤独が生暖かい闇の汁のようにふたたび彼を浸した。こ れはもうみんな終わってしまったことなのだ、と彼は思った。もう何をしたところで、 全ては終わってしまったのだ。 彼は女の家に電話をかけて、この仕事の話は忘れてほしいと言った。申し訳ないが仕 事はもうなくなったのだと彼は言った。いったいどうしてですか、と女はびつくりして 尋ねた。悪いけれど事情が変わったのだ、と彼は言った。あなたが持って帰った靴と洋 服は全部あなたにさしあげる、スーツケースもあげる、だからこのことは忘れてほしい、 この話は誰にも話さないでほしい、とトニー滝谷は言った。女は何がなんだかよくわけ がわからなかったけれど、話しているうちにそれ以上押し問答をするのも面倒になって

9. レキシントンの幽霊

いつばいの洋服を見せた。デ。ハートを別にすれば、そんなに多くの服がひとつの場所に 集まっているのを女はそれまで見たことがなかった。そしてそのどれもが見るからに金 のかかった上等なものだった。趣味も申し分なかった。それはひどく眩しい眺めだった。 彼女はうまく息ができなかった。意味もなく胸がどきどきした。それはどこか性的な高 揚感に似ているように彼女には思えた。 トニー滝谷はサイズを試してみるようにと言って、彼女をそこに残して出ていった。 女は気を取り直して近くにあった服を何着か試しに着てみた。靴も履いてみた。服も靴 も、まるで彼女のために作られたみたいにびったりとサイズが合った。彼女はそんな服 をひとつひとつ手に取って眺めた。指先で撫で、匂いを嗅いでみた。何百着という美し い服がそこにずらりとならんでいた。やがて彼女の目に涙が浮かんできた。泣かないわ けにはいかなかったのだ。涙はあとからあとから出てきた。彼女はそれを押しとどめる ことができなかった。彼女は死んだ女の残した服を身にまとったまま、声を殺してじっ とむせび泣いていた。しばらくあとでトニー滝谷が様子を見にやってきて、どうして泣 いているのかと彼女に尋ねた。わかりません、と彼女は首を振って答えた。これまでこ んなに沢山の綺麗な服を見たことがないので、それでたぶん混乱しちゃったんです、す

10. レキシントンの幽霊

めくらやなぎと、眠る女