こおりおとこ 私は氷男と結婚した。 私が氷男と出会ったのはあるスキー場のホテルだった。氷男と知りあうにはうってつ けの場所というべきかもしれない。若いひとびとで混み合った賑やかなホテルのロビー の、暖炉からいちばん遠く離れた隅っこの椅子の上で、氷男はひとりで静かに本を読ん でいた。もう正午に近かったのだけれど、冬の朝の冷たく鮮やかな光が彼のまわりにだ けはまだ留まっているように私には感じられた。「ねえ、あれが氷男よ」と私の友人が 小声で教えてくれた。でもそのとき私は氷男というのがいったいどういうものなのかま 男 ったく知らなかった。私の友だちもよくは知らなかった。ただ彼が氷男と呼ばれる存在 氷であるということを知っているだけだった。「きっと氷でできているのよ。だから氷男 と呼ばれているんだわ」と彼女は真剣な顔つきで私に言った。まるで幽霊か伝染病の患
窓の外を舞う雪を眺めながら遠慮がちに話をした。私は温かいココアを注文して飲んだ。 氷男は何も飲まなかった。氷男の方も私に負けず劣らず話をするのがあまり得意な方で はないようだった。それに加えて、私たちは共通する話題というものを持たなかった。 私たちは初めのうち天気の話をした。それからホテルの居心地について話した。あなた は一人でここに来ているんですか、と私は氷男に尋ねた。そうです、と氷男は答えた。 氷男は私にスキーは好きかと尋ねた。あまり好きではないと私は答えた。女友だちにど うしても一緒に来てくれと誘われたから来ただけなのだ、実際のところほとんど滑れも しないのだ、と。私は氷男というのがどういうものなのかとても知りたかった。本当に 体が氷でできているのかどうか、いつもどんなものを食べているのか、夏はどこで暮ら しているのか、家族はいるのかいないのかーーそんな類のことだ。でも氷男は自分の方 からは、自らについて何も語ろうとはしなかった。私の方もあえては尋ねなかった。氷 男はたぶんそういうことについてあまり語りたくないのだろうと思ったのだ。 男 そのかわり、氷男は私という人間について話した。本当に信じがたいことなのだけれ 氷ど、氷男はどういうわけか私のことを熟知していた。私の家族構成やら、私の年齢やら、 私の趣味やら、私の健康状態やら、私の通っている学校やら、私のつきあっている友だ
は自分がどこで生まれたのかも知らない。両親の顔も知らない。両親が本当にいたのか どうかさえ知らない。自分の年齢さえわからない。自分に本当に年齢があるのかどうか さえ知らない。 氷男は暗闇の中の氷山のように孤独だった。 そして私はそんな氷男のことを真剣に愛するようになった。氷男は過去もなく未来も なく、ただこの今の私を愛してくれた。そして私も過去も末来もないただこの今の氷男 を愛した。それは本当に素晴らしいことに思えた。そして私たちは結婚について話しあ うようにさえなった。私は二十歳になったばかりだった。そして氷男は私が生まれてこ のかた真剣に好きになった最初の相手だった。氷男を愛するということがいったい何を 意味するのか、そのときの私には想像もっかなかった。でももし仮に氷男が相手ではな かったとしても、私にはやはり同じように何もわからなかっただろうと思う。 母や姉は私と氷男の結婚には強く反対した。あなたは結婚するにはまだ若すぎる、と 彼女たちは言った。だいたい相手の正確な素性さえわからないじゃない。何処でいっ生 まれたかさえわからないんでしよう。そんな相手と結婚するなんて親戚にだって言えや しないわよ。それにあなた、相手は氷男よ、もし何かの拍子に溶けちゃったりしたらど
いようだったが、それでも時間がたっと彼らだって少しずつ氷男に向かって話しかけた りするようになった。氷男といっても普通の人とそれほど変わりないんですね、と彼ら は言うようになった。でも彼らはもちろん心の底では氷男のことを受け人れてはいなか ったし、彼と結婚した私のことだってやはり受け人れてはいなかった。私たちは彼らと は違う種類の人間であり、どれだけ時間がたってもその溝が埋められることはないのだ。 私たちのあいだには子供がなかなか出来なかった。あるいは人間と氷男のあいだでは 遺伝子の結合かなにかが難しいのかもしれない。でもいずれにせよ、子供のいないせい もあってそのうちに私はすっかり時間を持て余すようになった。朝のうちに手ばやく家 事をかたづけてしまうと、もうあとは何もすることがなかった。私には話をしたり、 緒にどこかに出かけるような友だちもいなかったし、近所のつきあいもなかった。私の 母と姉妹は、私が氷男と結婚したことにまだ腹を立てていて、私と口をきこうとはしな かった。彼女たちは私のことを一家の恥のように思っていたのだ。私には電話をかける 男 相手さえいなかった。氷男が倉庫で働いているあいだ、私はずっとひとりで家にいて、 氷本を読んだり音楽を聞いたりしていた。私はどちらかといえば外に出るよりは家にいる 的ほうが好きだし、一人でいるのもさして苦にならない性格だと思う。でもそうはいって
い主は氷男のことをとても気に人ってくれた。そして他の人たちよりもずっと良い給料 を払ってくれた。私たちは誰に邪魔されることもなく、誰を邪魔することもなく、二人 きりでひっそりと幸せに暮らした。 氷男に抱かれると、私はどこかにひっそりと静かに存在しているはずの氷のかたまり のことを思う。氷男はその氷塊の存在している場所を知っているのだろうと思う。硬い、 これ以上硬いものはあるまいと思えるくらい硬くこおりついた氷だ。それは世界でいち ばん大きな氷のかたまりだ。でもそれはどこかずっと遠い場所にある。彼はその氷の己 一三ロ 憶をこの世界に伝えているのだ。最初のうち、私は氷男に抱かれることにとまどいを感 じた。しかしそのうちに私は慣れてしまった。そして私は氷男に抱かれることを愛する ようにさえなった。彼はあいかわらず自分のことを何も語らなかった。どうして彼が氷 男になったのかについても。私も何も訊かなかった。私たちは暗闇の中で抱き合い、黙 ってその巨大な氷を共有した。その氷の中には何億年にもわたる世界のあらゆる過去が、 あるがままに清潔に閉じ込められているのだ。 私たちの結婚生活には問題らしい問題はなかった。私たちは深く愛しあっていたし、 ・その邪魔をするものもいなかった。まわりのひとびとは氷男の存在になかなかなじめな
うするのよ、と彼女たちは言った。あなたにはわかっていないみたいだけれど、結婚と いうものにはきちんとした責任が必要なのよ。氷男なんてものにはたして夫としての責 任がとれるのかしら。 でもそんな心配は無用だった。氷男は何も氷でできているわけではなかったのだ。氷 男はただ氷みたいに冷たいというだけのことなのだ。だからもしまわりが暖かくなって も、それで溶けてしまったりはしないのだ。その冷たさはたしかに氷に似ている。でも その肉体は氷とは違う。確かにひどく冷たいのだけれど、それは他人の体温を奪ったり するような冷たさではないのだ。 そして私たちは結婚をした。それは誰にも祝福されない結婚だった。友だちも親も姉 妹も、誰も私たちの結婚を喜んではくれなかった。結婚式だってあげなかった。籍をい れるにも、氷男は戸籍さえ持たなかったのだ。私たちは二人で、自分たちは結婚したの だと決めただけだった。私たちは小さなケーキを買ってきて、それを二人で食べた。そ 男 れが私たちのささやかな結婚式だった。私たちは小さなア。ハートを借り、氷男は生活の 氷ために牛肉を保管する冷凍倉庫で働いた。彼はなんといっても寒さに強かったし、どれ だけ働いても疲れというものを感じなかった。食事さえろくにとらなかった。だから雇
の役目であり、本質です。 よかった、と私は言った。そして徴笑んだ。それを聞いてほっとしたわ。だって私は 自分の末来のことなんて知りたくなんかないもの。 私たちは東京に帰ってきてからも何度か会った。やがて私たちは週末になるといつも デートをするようになった。でも私たちは一緒に映画にも行かなければ、喫茶店にも人 らなかった。食事さえしなかった。氷男は食事というものをほとんどとらなかったから だ。私たちはいつもふたりで公園のべンチに座り、いろんな話をした。私たちは本当に いろんな話をした。でも氷男はいつまでたっても自分について語ろうとはしなかった。 どうしてなの、と私は尋ねてみた。どうしてあなたは自分のことを話さないの ? 私は あなたのことをもっと知りたいわ、あなたはどこで生まれて、御両親はどんな人で、ど ういう経過で氷男になったの ? 氷男はしばらく私の顔を見ていた。それからゆっくり 男 と首を振った。私にはわからないんだよ、と氷男は静かなきりつとした声で言った。そ 氷して硬く白い息を宙に吐いた。私は過去というものを持たないんだ。私はあらゆる過去 を知っている。あらゆる過去を保っている。でも私自身には過去というものがない。私
見た。時間はまだたつぶりとあった。そして彼はおもむろに話を始めた。 大沢さんがそのときに殴った男は同級生だった。青木というのがその男の名前だった。 大沢さんはもともとその男が嫌いだった。どうしてそんなに嫌いなのか、自分でもよく 理解できなかったが、でも一目見たときからその男のことが嫌で嫌でしかたなかった。 誰かのことをそれほどはっきりと嫌いになったのは、生まれて初めてのことだった。 「そういうことってあるでしよう ? 」と彼は言った。「誰にだって、どんな人にだって 一生のうち一度くらいはそういうことがあるんじゃないかと思います。理屈抜きで誰か を嫌いになることがです。僕は意味もなく他人を嫌ったりする人間ではないと自分では 思っていますが、それでもやはりそういう相手つているんです。理屈じゃありません。 そして問題は、大抵の場合、相手の方もおなじような感情をこちらに対して持っている 黙 っていうことなんです。 沈青木は勉強のよくできる男でした。大抵は一番の成績を取っていました。僕の通って いたのは男子ばかりの私立校だったんですが、彼はなかなか人気のある生徒でした。ク
177 七番目の男 七番目の男はしばらくのあいだ、黙って一座の人々を見回していた。誰も一言も口を きかなかった。息づかいさえ聞こえなかった。姿勢を変えるものもいなかった。人々は 七番目の男の話の続きを待っていた。風はすっかり止んだらしく、外には物音ひとっ聞 こえなかった。男は一「ロ葉を探すように、もう一度シャツの襟に手をやった。 「私は考えるのですが、この私たちの人生で真実怖いのは、恐怖そのものではありませ : それは様々な ん」、男は少しあとでそう言った。「恐怖はたしかにそこにあります。 かたちをとって現れ、ときとして私たちの存在を圧倒します。しかしなによりも怖いの は、その恐怖に背中を向け、目を閉じてしまうことです。そうすることによって、私た ちは自分の中にあるいちばん重要なものを、何かに譲り渡してしまうことになります。 私の場合にはーーそれは波でした」
者の話でもしているみたいに。 氷男は背が高くて、見るからに硬そうな髪をしていた。顔つきを見るとまだ若そうだ ったが、そのごわごわとした針金みたいな髪には白いものが、まるで溶け残った雪のよ うにところどころ混じっていた。頬骨が凍った岩みたいにきりつと張って、指には決し て溶けることのない白い霜が浮いていたが、それをべつにすれば氷男の外見は普通の人 間の男とほとんど変わらなかった。、 ノンサムとは一言えないかもしれないけれど、見よう によってはなかなか魅力的な風貌だった。そこにはなにかしら人の心を鋭く刺すものが ある。とくにそう思わせるのは、彼の目だった。まるで冬の朝のつららのようにきらっ と光る寡黙で透明なまなざしだ。それは間にあわせに作られた肉体の中の、唯一真実な 生命のきらめきのように見えた。私はしばらくそこに立って、遠くから氷男のことを眺 めていた。しかし氷男は一度も顔を上にあげなかった。彼は身動きひとっせずにじっと 本を読みつづけていた。まるで自分のまわりには誰もいないんだと自らに言い聞かせて いるみたいに。 翌日の午後も氷男は同じ場所で同じように本を読んでいた。私が昼食をとりに食堂に 行ったときにも、夕方前にみんなと一緒にスキーから戻ってきたときにも、彼は前の日