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検索対象: レキシントンの幽霊
13件見つかりました。

1. レキシントンの幽霊

「気の毒だね (l'mreallysorry) 」と僕は言った。でもいったい誰に対してそう言って いるのか、自分でもよくわからなかった。 「僕の母が死んだとき、僕はまだ十歳だった . とケイシーはコーヒーカップを眺めなが ら静かに切り出した。「僕には兄弟がいなかったから、父と僕とが、二人きりであとに 残された。母はある年の秋の初めに、ヨットの事故で死んだんだ。僕らはそのとき、母 が死ぬということに対して、精神的な準備がまったくできていなかった。彼女は若くて 元気だった。父よりも十歳以上年下だった。だから母がいっか死ぬかもしれないなんて ことは、父も僕もこれつぼっちも考えなかった。しかしある日突然、彼女はこの世界か らいなくなってしまった。ぼっと、煙かなにかみたいにね。母は美しく聡明な人で、誰 からも好かれた。散歩が好きで、とても綺麗な歩き方をする人だった。背筋を伸ばして、 少し顎を前に出して、両手を後ろで組んで、いかにも楽しそうに歩くんだ。歩きながら よく歌を歌っていた。僕は母と二人で一緒に歩くのが好きだった。僕がいつも思い出す のは、夏の朝の鮮やかな光を浴びながら、ニューポートの浜辺の道を歩いている母の姿 だ。風が彼女の長いサマ ードレスの裾を涼しげに揺らせていた。細かい花柄のコットン のドレスだ。その光景はまるで写真のように僕の頭に焼き付いている。

2. レキシントンの幽霊

172 ました。私は絵を眺めながら、自分がとともにやったことや、ともに訪れた場所のこ とを、ひとつひとっ鮮やかに思い出していきました。そうです、それは少年時代の私自 身のまなざしでもあったのです。その頃の私はと二人で肩を並べて、同じような生き 生きとした曇りのない目で世界を見ていたのです。 私は毎日会社から戻ってくると机の前に座り、の絵をどれかひとつ手にとって眺め ました。いつまでもそれを眺めていることができました。そこには私が長いあいだ意識 の中から強固にはじき出してきた、少年時代の優しい風景がありました。の絵を見て いると、何かが私の体の中に静かに染み込んでいくのが感じられました。 そしてあるとき、一週間ばかり経ったころでしようか、私ははっとこう思ったのです。 ひょっとして自分はこれまで重大な思い違いをしていたのではあるまいかと。あの波の 先端に横たわっていたは、私を憎んだり恨んだり、あるいは私をどこかに連れていこ うと思ったりしてはいなかったのではないか。にやりと笑っているように見えたのは、 ただ何かの加減でそう見えただけで、彼はそのときにはもう意識も何もなかったんじゃ ないのか。あるいはは私に向かって最後に優しく徴笑みかけて、永遠の別れを告げて いたのではあるまいか。私がの表情に認めた烈しい憎悪の色は、その瞬間に私を捉え

3. レキシントンの幽霊

152 校でも家に帰ってきて遊ぶときにも、私が保護者的な立場に立つようになりました。私 はどちらかというと大柄で、運動も得意でしたし、みんなに一目置かれていたからです。 私がそのようにと一緒にいることを好んだのは、なんといっても彼が優しい美しい心 を持っていたからです。決して知能に欠陥があったのではないのですが、障害のせいで 学校の成績はあまり芳しくなく、授業についていくのがやっとというところでした。で も絵が滅法巧く、鉛筆と絵の具を持たせると先生も舌を巻くような見事な、生命力にあ ふれた絵を描きました。何度もコンクールに人賞したり、表彰されたことがあります。 そのまま成長していたら、おそらく画家として名をなしていたのではないかと私は思っ ています。彼が好んで描いたのは風景画で、近くの海岸に行っては飽きずに海の風景を 写生しておりました。私はよくそのとなりに座って、彼の筆の素早い的確な動きを眺め ていたものでした。どうやったらそんなに生き生きとしたかたちや色彩を、真っ白な空 白の上に一瞬のうちに生み出すことができるのだろうと、私は深く感心し、また驚いて いたものです。今にして思えば、それが純粋な才能というものだったのでしよう。 ある年の九月のことですが、私の住んでいる地方に大きな台風が来襲しました。ラジ オの予報によれば、それはこの十年ばかりのあいだでは最大級の台風であるということ

4. レキシントンの幽霊

いつばいの洋服を見せた。デ。ハートを別にすれば、そんなに多くの服がひとつの場所に 集まっているのを女はそれまで見たことがなかった。そしてそのどれもが見るからに金 のかかった上等なものだった。趣味も申し分なかった。それはひどく眩しい眺めだった。 彼女はうまく息ができなかった。意味もなく胸がどきどきした。それはどこか性的な高 揚感に似ているように彼女には思えた。 トニー滝谷はサイズを試してみるようにと言って、彼女をそこに残して出ていった。 女は気を取り直して近くにあった服を何着か試しに着てみた。靴も履いてみた。服も靴 も、まるで彼女のために作られたみたいにびったりとサイズが合った。彼女はそんな服 をひとつひとつ手に取って眺めた。指先で撫で、匂いを嗅いでみた。何百着という美し い服がそこにずらりとならんでいた。やがて彼女の目に涙が浮かんできた。泣かないわ けにはいかなかったのだ。涙はあとからあとから出てきた。彼女はそれを押しとどめる ことができなかった。彼女は死んだ女の残した服を身にまとったまま、声を殺してじっ とむせび泣いていた。しばらくあとでトニー滝谷が様子を見にやってきて、どうして泣 いているのかと彼女に尋ねた。わかりません、と彼女は首を振って答えた。これまでこ んなに沢山の綺麗な服を見たことがないので、それでたぶん混乱しちゃったんです、す

5. レキシントンの幽霊

に快方に向かうだろうとは、正直なところ誰も期待していなかった。もちろん口には出 さないけれど、まわりの人々は彼の耳については半ばあきらめてしまっているみたいだ った。 僕といとことは家こそ近かったけれど、年齢が十歳以上離れているせいで、親交とい うほどのものはなかった。親戚が顔を合わせたときに、ちょっとどこかに連れていって やったり、一緒に遊んでやったりしたくらいだった。それでもいつのまにか、みんなは 僕とそのいとこを「一対のもの」として見做すようになっていた。つまり彼が僕にとく になついて、僕が彼のことをとくに可愛がっているという風に思われていたわけだ。僕 には長いあいだその理由がわからなかった。しかしこうして今、小首をかしげるような 女 格好で左耳をじっと僕の方に向けているいとこの姿を見ていると、僕は妙に心を打たれ た。ずっと昔に聞いた雨の音のように、彼のどことなくぎこちない一挙一動が僕の心に なじんだ。親戚の人々が何故僕と彼とをひとつに結びつけたがったか、少しはわかるよ や らうな気がした。 め 。ハスが七つめか八つめの停留所を通り過ぎたあたりで、いとこがまた不安そうな目で

6. レキシントンの幽霊

せん。いっから通っているのか、と彼は尋ねました。中学の二年生のときからですと答 えました。君が中学の時に青木を殴ったというのは本当かと教師は訊きました。本当で す、と僕は答えました。嘘をつくわけにはいきませんからね。それはボクシングを始め る前のことか、あとのことか、と教師は尋ねました。始めたあとのことです、と僕は言 いました。でもその時は僕はまだ何も教わってはいませんでした、最初の三カ月くらい はグラブもつけさせてもらえませんでした、と説明しました。でも教師はそんなことに は耳も貸しませんでした。それで君は松本を殴ったことはあるか、と教師は尋ねました。 僕はびつくりしてしまいました。だってさっきも言ったように、僕は松本という男とは ほとんど口をきいたこともないんです。殴ったことなんてあるわけがありません、どう して僕が松本を殴らなくてはならないんですか、と言いました。 松本は学校でしよっちゅう誰かに殴られていたらしいんだよ、と教師はむずかしい顔 をして言いました。顔やからだにあざをつけて家に帰ってくることがよくあったんだ。 黙 お母さんがそう言ってるんだ。学校で、この学校で、誰かに殴られて、小遣い銭を巻き 沈上げられていたんだよ。でも松本はその名前をお母さんには言わなかった。そんなこと をしたらもっと殴られていじめられると思ったんだろうな。それであいつは思いあまっ

7. レキシントンの幽霊

びりとしていて、攻撃的というには程遠い種類のものだ。そんな人物とボクシングがど ういう地点で結びついたのか、うまく想像できなかった。だからふとそんな質間をして しまったのだ。 僕らは空港のレスト一フンでコーヒーを飲んでいた。大沢さんは僕と一緒にこれから新 潟に行こうとしているところだった。季節は十二月の初めで、空はふたでもされたみた いに重く曇っていた。新潟は朝からひどい雪が降っているらしく、飛行機の出発は予定 よりかなり遅れそうだった。空港は人でごったがえしていた。ラウドスピーカーは便の 遅延についてのアナウンスを流しつづけ、足どめをくった人々は疲れた表情を顔に浮か べていた。レスト一フンの暖房はいささかききすぎで、僕はずっとハンカチで汗を拭いっ づけていた。 「基本的には一度もありません」大沢さんはしばらく沈黙していたあとで突然そう言っ た。「僕はボクシングを始めてから人を殴ったことはありません。それはボクシングを 黙 始めるときにいやっていうくらい叩きこまれるんです。絶対にグラブをつけずにリング 沈の外で他人を殴っちゃいけないって。普通の人間が誰かを殴ったって、打ちどころが悪 ければ変なことになっちゃうんです。それがボクシングをやっている人間ということに

8. レキシントンの幽霊

人っていつまでもこんこんと眠り続けたんだ。まるで特別な血統の儀式でも継承するみ たいにね。 たぶんぜんぶで二週間くらいだったと思う。僕はそのあいだ眠って、眠って、眠って 、時間が腐って溶けてなくなってしまうまで眠った。いくらでも際限なく眠ること ができた。いくら眠っても眠り足りなかった。そのときには、眠りの世界が僕にとって のほんとうの世界で、現実の世界はむなしい仮初めの世界に過ぎなかった。それは色彩 を欠いた浅薄な世界だった。そんな世界でこれ以上生きていたくなんかないとさえ思っ た。母が亡くなったときに父が感じていたはずのことを、僕はそこでようやく理解する ことができたというわけさ。僕の言っていることはわかるかな ? つまりある種のもの ごとは、別のかたちをとるんだ。それは別のかたちをとらずにはいられないんだ」 ケイシーはそれからしばらく、黙って何かを考えていた。季節は秋の終わりで、椎の の 実がアスファルトの路面を打っコーンという乾いた音が時折耳に届いた。 「ひとつだけ言えることがある」とケイシーは顔を上げ、いつもの穏やかなスタイリッ キ レ シュな徴笑みを口元に浮かべて言った。「僕が今ここで死んでも、世界中の誰も、僕の ためにそんなに深く眠ってはくれない」

9. レキシントンの幽霊

「まあね」といとこは言って、溜息をついた。「いちばん辛いのは、怖いことなんだよ。 実際の痛みよりは、やってくるかもしれない痛みを想像する方がすっと嫌だし、怖いん だ。そういうのってわかる ? 」 「わかると思う」と僕は答えた。 その年の春には、いろんなことが起こった。事情があって、それまで二年間勤めてい た東京の小さな広告代理店をやめた。それと前後して、大学時代からっきあっていた女 性とも別れることになった。その翌月祖母が腸の癌で亡くなって、僕は葬儀のために、 小さなバッグをひとっ持って五年ぶりにこの町に戻ってきた。家には僕の使っていた部 屋がまだそのまま残っていた。本棚には僕の読んでいた本が並び、僕の眠っていたべッ トがあり、僕の使っていた机があり、僕の聴いていた古いレコード が残っていた。部屋 ひから いの中にあるすべては干涸びて、ずっと昔にその色と香を失っていた。でも時間だけは、 見事なくらいしつかりと留まっていた。 め 祖母の葬儀が終わったあと、二三日休んだら、すぐに東京に戻る予定だった。新しい 勤めロのってがないわけではなかったので、それを当たってみるつもりだった。気分を

10. レキシントンの幽霊

あまり乗ってこなかった。彼は何かについてじっと考えこんでいるようだった。何かに 耐えているようでもあったし、何か迷っているようでもあった。僕は仕方なくぼんやり と窓の外に並んだ銀色のジェット旅客機を眺めていた。 僕がそんな質問をしたそもそものきっかけは、彼が中学校の初めのころからずっとポ クシングのジムに通っているという話をしたからだった。飛行機待ちの暇つぶしにあれ これととりとめもない世間話をしているうちに、なんとなくそういう話になったのだ。 彼は一二十一歳だが、今でもまだ週に一度はジムに通ってトレーニングを続けているとい うことだった。大学時代には何度も対抗試合の代表選手をつとめた。国体の選手にも選 ばれたことがある。僕はそれを聞いてちょっと意外な気がした。それまでに何度か一緒 に仕事をしてきたが、大沢さんは二十年近くもボクシングを続けるような人柄には見え なかったからだ。彼は物静かで、あまりでしやばらない人間だった。仕事ぶりは誠実で 我慢強く、誰かに何かを無理に押しつけるというようなことは一度としてなかった。ど んなに忙しいときでも声を荒らげたり、眉を吊り上げたりすることはなかった。他人の わるぐちを言ったり、愚痴をこぼしたりするのを耳にしたことは一度もなかった。言う なれば、人が好感を抱かざるをえない人間だった。風貌だって、いかにも温厚で、のん