清二 - みる会図書館


検索対象: レディ・ジョ-カ- 上巻
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1. レディ・ジョ-カ- 上巻

そのせいか清二はあまり八戸へは帰って来す、その次 ごった。「神奈川工場を覚えてるか , と物井がもう に会ったのは昭和十七年に応召て帰省してきたときだ 一一一口尋ねると、その後の返事はなかったが。 った。工場の金本社長が噂を聞いてきて、岡村の兄さ 物井は、訪ねるたびに日之出の缶ビールを持参し、 んが出征だから見送りに行けと言い、物井は作業服のそれを吸い口に移して清一一に飲ませてきた。昨日は、 まま本八戸駅へ行ったが、すてに駅は見送りの小旗て ビールの方は飲まなかったが、 物井がプルトップを開 埋まっており、物井は人垣ごしに、武運長久のたすき けて机に置いた缶を、清二は長い間じっと見つめてい をかけて立っている清二を見たのだった。出征する五、 ルは日之出ラガーて、ラベルには半世紀前と 六人の男たちの中ても、一番小さく青白い兄の姿を見同じ金色の鳳凰が翔んている缶だった。あんまり長い つめていると、向こうが物井を見つけて小さく笑いか 間見ているのて、物井が「日之出の商標は懐かしい けてきたのぞ、物井も照れ笑いを返した。あのときは、ねーと声をかけると、清二はしばらくしてまた、「日 汽車が行ってしまってから、散会した見送りの人垣の之出のビールは美味かった」とだけ呟いた。 中に戸来の父母の姿を見つけたが、母は人目をはばか 五日市線の秋川駅て電車を降り、駅前の店て缶ビー るように終始うつむいていた ルと、清二の好きな水羊羹を買って、物井はバスに乗 物井がそうした話をする間、清二はいつも聞こえて った。竟山街道を川蓊いに十五分ほど登っていくと、 いるようないないような素振り。て、とくに表情が変わ丘陵地に広がる西多摩霊園の隣に、老人ホーム緑風苑 はある。 ることもなかったが、 あるとき物井が「日之出ビール を知っているか」と尋ねると、何分もかかって、突然 物井はバス停から五分ほど坂道を歩き、汗ごくにな 思い出したように「日之出のビールは美味かった」と ってホームの玄関に迪り着いた。ひとまず汗を拭って いらっしゃい。岡 清二は応えた。昭和二十二年に本人が書き綴ったと、 いると、事務局の窓口から「あら、 村のおじいちゃん、お昼寝の時間だから、起きてるか う手紙を元にした怪テープの中て、清二は何度も『日 之出のビールは美味かった』と繰り返していた。まる なあ : : : 」と女子職員の明るい声が飛んてきた。ここ て、そのときの思いがまた甦ったような、述製の口調ては入所者も訪間者も、年寄りはみな幼稚園児以下の ー 60

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ホームに足を運ぶようになってから、物井は物言わ は分かるが、自分の居る場所や、かって居た場所、就 いていた仕事、生まれた土地、家族の名前などは分か ぬ清一一相手に、いろいろな話をした。主に戸来や八戸 いざ話し出すと、これまて埋も らないようだという。しかし、頭の中身がどうてあれ、の田 5 い出舌だっ、驀、 れていた事細かな事柄が、次から次へと出てきて自分 寝巻姿てころんと横たわっている男は、生きものとい うよりは物に近い静けさて、おむつの臭いのほかにはても際限がないと田 5 うほどごった。物井が金本鋳造所 体臭すらなく、性別も、市井の悲哀も消えてしまって に奉公にあがった年には、清二はす′しに日之出に入っ いた。同室のほかの老人たちもおおむねそうごったが、 ていたが、その年の夏、盆休みに帰省した清二が鋳造 中ても清二は、よくまあこれだけ枯れてしまったもの所へ訪ねてきた。自分の兄だという感じもない、上等 なスーツ姿だった清二は、鋳造所の戸口て帽子を脱い だと田 5 , フほど、力さかさに乾いて軽く、それは一種、 清涼な感じさえした。ああ、ここへ来るのは厭てはなて工場長に挨拶をし、「物井清一二がいつもお世話にな っております」と社交辞令を述べた後、緊張している いなと物井が最初に田 5 ったのは、何か、そんな静けさ のせいだつご。 物井を呼んて、「元気か。困ったことはないか」と話 しオオカ物言いはいつも少 一日おきに訪ねるたびに、物井は「清二さん、戸来しかけてきた。優し、顔ごっ、驀、 の清一二ぞす」と語りかけ、清二はそのうち「ああ、清し一方的て、血がつながっているとはいえ、生まれた 三さん、こんにちは」と応えるようになつご、、、、 オカそれときから一緒に暮らしたこともない相手への遠慮や、 共有するものが何もない戸惑いを、年長者の立場て取 だけのことだった。スプーンを差し出すと口を開け り譱お , フとしているよ - フにも感じられた。 吸い口に移したビールも飲み、シャッとズボンに着替 そのとき清二は、物井に何円か小遣いを渡し、「鋳 夜えさせて車椅子て散歩に連れ出すと、おとなしく従う。 物はビール工場の装置にも使われているのだよ。物を 物井は妻の芳枝を入院させたときも、スプーンを口に 作るのは尊い仕事だから、君もしつかりやりなさい 年運び、おむつを替えたりしたが、清二の世話について というふうな、型通りの言葉を残していった。 は、これは父母を看取らなかった代わりだと自分を納 得させている部分もあった。 岡村商会は後妻が跡継ぎの男子を産んていたのて、 巧 9

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本しながら一日を適当に割り振って、一つ一つと向兄だと田 5 うと面倒を見るのは自分の義務だという気も き合っているだけだった。日に数回の打ち水も、朝顔したし、清二の世話をすることて、自分自身の余生を 心穏やかに過ごせるの。てはないかといった田 5 いもあ の世話も、昼に素麺を食うのも、秋川の特養老人ホー った。ひたひたと老いの閉寒感にさらされて苛立って ムにいる岡村清二を一日おきに見舞うのも、みな同じ いるひまがあったら、とにかく手足を動かして何かを リズムて流れていた している・万がいし : 、 こ決まっていたし、要は、清二のた 物井は居間に戻って仏壇の前に座り、チンと鉦を叩 めというよりは、自分自身のためだった。もっとも、 いて手を合わせ、朝供えた白飯の茶碗を引き暢げた。 人生の最後だ 妻の芳枝、孫の孝之、娘婿の秦野、郷里の祖父母や父互いの年齢を思うと一一の足を踏んだり、 母と、なにせ仏さまの数が多いのて、みんなまとめて からこそ体力の残っているうちにと田 5 い直したり、今 さらという気もしたりて、なかなか腰の上がる話ても 茶碗一杯のお供えて我慢してもらっているが、その中 なかった。 に兄の岡村清二が入っていないというのは、考えてみ れば不田 5 議なことだった。もう四十年も前に死んだと そうして一日一日延ばすうちに盛夏を迎え、清二の をに日は、これ↓ 聞いていた男が生きており、生きているべき人間たち身体は目に見えて弱ってきているが、日 が亡くなってしまったというのは。 て少しずつ吸い口て飲んていたビールも口にしようと しなかった。持っていったスイカも一口しか食べなか 下げたお供えの冷飯に麦茶をかけ、糠漬けの瓜と った。もともと寝たきりに近いのだから、食が細って ナスビを出して簡単な昼食を取りながら、物井は二日 つじ J ・フし」い - フ一し」わた 6 い、が、 ちょっと昨日の清二の弱 続きぞ秋川のホームへ行こうとしている理由を思い ムコ日は一丁っこ り方が気になって、今朝起きてすぐ 夜返した。 五月初めに清二の生存が確認されてから三カ月経っ方がいいかなと思ったのだ 痴呆症の進んている清一一を自宅へ引き取るのが、物 年が、物井は先日来、清一一を引き取ることを考えていた 三カ月前 オオ : の男一人に、元より肉親理的に可能か否か。もし条件さえ整えば自分はほんと に偶然再会しごごナ うに清二を引き取るのか否か。物井一人が決めること の情など持ちょうもなかったが、一応血のつながった

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る失意の代償を日之出ビールに払わせるというアイデ い言葉を吐いた。 たった今田 5 いっ アが一つ、残っていた。物井は、 そのとき物井は、今や驅と化した一人の男を眺めな そのアイデアを眺め直して、少々心外な気分は味わっ がら、どこから湧いてきたのか分からない言い知れぬ たが、本来ならやって来るべきためらいや疑念などは、 感情の渦の中にいた。目の前の死はたんに、かって見 自分の中に半世紀ぶりに根を下ろした悪鬼があらか オいくつもの牛馬の屍や、頭を垂れて馬喰に引かれて じめ取り除いてしまったに違いなかった。清二の亡骸 いった駒子の姿や、芳枝の醜い死に顔などと分かちが を職員が拭き清めている間、物井はそんなことを考え たく重なり合っていただけて、個人の悲哀さえ伴って はいなかったが、 突然、その驅の周りに自分自身の人て過ごし、おかげてその後も、身内の死に伴う諸々の 生の全部がざわざわと引き寄せられて、ごうごう、ひ雑事のわすらわしさの方は、一度も思い出しもしなか ゅうひゅうと騒がしく鳴り出したのご。その中から 物井は、ホームの公衆電話から八戸の岡村商会へ電 〈人間なんてこの程度のものだ〉〈これが明日のお前 だ〉といった自分の声が聞こえ、そのざわめきがやが 話を入れたが、代替わりした当主はいかにも当惑げに 言葉を濁した。五月に清一一の生存を知らせたときも迷 て形もなくなると、代わりに降りてきた放心の隣て、 惑そうごったのて、予想は出来たことごった。当主は 物井は今度は〈清二さん、仇を討ってやるぞ〉という 結局、「すぐには出向けないのて、費用は支払うから 別の声を聞いた。物井は無意識にその声に耳をそばだ そちらてよろしくお願いします」といった返事をよこ て、半世紀前に一度だけ姿を現した悪鬼の声だと驚い たが、その声を聞いたのも、それを悪鬼だと認めたのした。ホームに聞けば、通夜の読経と火葬だけなら費 も、半世紀前とはご : しふん様子の違う、自分ても意外用は都が負担するというふうなことだったのて、物井 は五文字ぐらいの戒名だけ付けてもらえるよう寺への な冷静さの中てのことだった。 物井は「日之出ビールだ」と独りごち、その自分の手配を頼み、葬儀は要らないと伝えた。 夕方には、清二は白装束てお棺に納まって遺体安置 声て我に返った。放心のトン、外ルを技け出すと、物井 室に入った。歪んぞいた顔は何とか寝顔に近いものに の額には、駒子の眼差しが一つと、清二の半世紀に亘 162

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言葉をかけられる。物井はそれに馴染めなかったが、 は頬骨の下て陥設していた。そこにはもう岡村請二は 腹立たしい思いとは裏腹に「すみません。お世話にな おらす、死んだ牛馬と同じ形相をした屍が一つ、ある ります」という従順な言葉が出、身体は自然に前かが ごけだった。物井の瞼て、土埃の光るバス道や、草の みになった。物井は、一一度三度と事務局の方へ頭を下臭いと嬋の声、荷車の上の屍の、奇怪な眼球などが入 げてからスリッパに履きかえて、寝たきり老人ばかり り乱れて点滅した。 集められている棟へ向かったが、足は重かった。 ひと呼吸置いて物井は、清一一を引き取って平穏に余 午後一一時前という時刻は、たしかに入所者の大半が生を暮らすという予定がこれて消えたことを思い、続 昼寝をしているときて、娯楽の催物や職員や看護婦の いて、人の一生とは何だという漠とした自問がよぎつ 巡回もない。殺風景なほど清潔なリノリウムの床を、 死ぬときは人間も牛馬も一緒、というのは、芳枝 網戸ごしの外の熱気がゆるゆる流れていき、どこかて のときにも味わったことごった。芳枝は、こと切れる 風鈴が鳴っていた。部屋のドアはみな開けっ放しだ。 直前に昏睡から覚めて苦しげな一声を上げ、同じよう その一つを覗いて、物井は首を伸ばした。 に口を引きつらせ、醜く目をむいたのだ 六台並んているうちの、一番端のべッドに清二はい 緊急呼出し用の赤いボタンを押してから、人が駆け た。午後のこのぐらいの時刻には西日が射し始めるそ つけてくるまての間、物井は鳴り続ける風鈴と一緒に の場所て、清二は仰向けの頭を枕に載せ、目を見開い 数分も侍たされた。同室の老人たちは声も上げず、一 ていた 「清二さん」と呼びかけるいつもの声が出な人はうちわをゆっくり上下させながら、物井と死人の いまま、物井はその顔を凝視した。流れている時間が方を眺めていた。ほかの四人は、それぞれのべッドに 夜突然止まり、物井ははるか昔、村のバス道を荷車て運転がったまま身じろぎもせず、低い鼾が一つ聞こえた。 ばれていく牛馬の屍を見たときの、その牛馬の顔のい それから医師や職員が入ってきて、形ばかり瞳孔を調 くつかを田 5 い出して放ししご。 べたり脈を取ったりした後、医師は「もうお年だった 年 清二の半開きのロは左右に裂けてねじれるように歪から」と言い、職員の女は「静かな最期てよかったわ : 」と、誰に向かって一一一口っているのか分からな んており、天井を睨む目は白目をむき、引きつった頬ねえ :

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東病院に収容されたときには、社員寮の自室の窓から てあって、誰に急かされているわけてはなかったが、 数百冊の本を道路に放り投げていたそうだ。その後、 もうあまり時間はないと茶漬けを啜りながら考えた。 物井はボストンバッグに、商店街のセールぞ買い込都立松沢病院や東京武蔵野病院を転々とし、福祉事務 所の世話てやっと秋川市にある老人ホームに入ったの んだ夏ものの開襟シャツ、洗濯した下着やタオルなど だが、それから四年。去年辺りまては、一人て散歩も を詰めた。自分もシャツだけ着替えて日除けの帽子を していたらしいが、物井が今年五月に会ったときはも 被ると、夕方に朝顔に水だけやってくれと小母さんに うほとんど寝たきり状態て、六人部屋のべッドの一つ 頼み、店の前にあるバス停から蒲田行きの路線バスに に転がっていた。物井ても担げそうなほど痩せた小さ 乗った。 い男て、少し伸びかけた丸刈りの頭が真っ白だつご。 岡村清一一が、秋川市郊外にあるその老人ホームに入皺のせいか、表情のせいか、そのときは、昔八戸て何 ごということて、そのとき清二は七度か会ったときの顔をもう思い出せず、まったく知ら ったのは平成一一年だ ない人物に会ったような気がしたものだ 十五歳だった。 興信所の調査ぞ分かった限りては、昭 初めに「清二さん。物井清三てす。戸来の清三て 和二十五年から一一十八年まて杉並区の私立高校て代用 すと呼びかけると、清二は「ああ、はい、はい、 教員をし、学校の都合ぞそこを辞めた後は、 三さんてすか、そうてすか、清三さんてすか」と何度 刷会社、倉庫会社、食品間屋などを転々として、最後 もうなずいて応えた。しかし、その目は物井を見つめ の十年間は墨田区て社員寮の住み込み管理人をしてい た。調査が難航したのは、教員を辞めた後の清一一が本てはいたが、動きも表情もなく、戸来村の物井清三を ほんとうに見分けたのかどうかは分からなかった。そ 名を名乗っておらず、住民票も移していなかったから の状况は、今も同じだつご。 て、おかげて物井が興信所に支払った金は三〇万近い ものになっ、、。 ホームの職員の説明ては、痴呆もしくは仮性痴呆が 進んており、軽い意識障害や進行麻痺などがあって、 昭和六十年、 清二はずっと病院通いだったらしく、 かろうじて自分の名前や、今日は何日かといったこと 近所の通報て駆けつけた警察の手て保護されて都立墨 巧 8

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疑念が一つ晴れ、城山の腹にすとんと落ちた。 そのとき、被差別部落云々の話はしたのか。そして、 「話が漏れたと : 娘はそれを交際相手の秦野に話したのか否か。話した としたら、いっかそ , フしたことが判明しなければ、 「そのようてすね。秦野が面接会場から消えてしまっ たんて、人事の方もばたばたしていたから」 十月十日の一一次面接て秦野という学生が途中退席した 「彼らの具体的な動きは」 こととの因果関係は分からない。 「二次面接の当日の夜に倉田の自宅に、名前を名乗ら 白井は、城山のしばしの沈黙をよそに言葉を継いだ。 ない不審な電話が一本入ったということてす。電話の 「城山さん。ばくは、秦野が二次面接を中座したこと については、それがどんな理由てあるにしろ、日之出主は、ある人物の名前を挙げて、その人物が秦野の遠 縁に当たる岡村清一一という男と関係があると告げたそ は関知しないとい - フことていいのてはないかと田 5 って うぞ」 いる。会社としての失態は、少なくとも選考に関して 城山は、怪テープを起こしたという用紙の冒頭にあ はなかったのだから、それ以上言及する必要はないて る『岡村清二』の名を見る。 ー」よ , フ」 「ある人物の名前は」 「ちょっと確認しますが、一一次面接には杉原はいたの 「戸田義則。テープの中にその名前は挙がっていない か、いなかったのか」 「彼はいなかった。面接の場て、杉原と当の学生が顔が、人物には触れている。昭和一一十一年に争議煽動を 理山に、うちの京都工場を解雇されている男てす。調 を合わせたのなら話はややこしくなるが、会っては べたら、今はジャーナリストをやっていて、中日相銀 いないのだから、個人的に何があったにしても、会社 ち には関係ないところ、て起こったことだとみなすべきの周辺を探っているようてすが」 城山の頭の中て、話の脈絡は一応つながった。秦野 ぞす」 年「てはなぜ、倉田は人事の方 ~ 釘を刺したりしたんという学生の二次面接ポイコットの話を聞き及んだ何 者かが、それなりに異常な事態だと察知し、素早く秦 てす」 野の素性を探り回って、傍系の岡村清二の名をどこか 「総会屋がらみ」と白井は簡潔に一言応えた。

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ちょっとぶしつけなことを家を預かってるばくの姉夫婦が、亡くなったそうだと 「遅くに大変申し訳ない。 言っていました》 お尋ねしますが、岡村清一一という人は、お義父さんの まあ、息子を亡くしますと、寂し お兄さんてすか , 「そうてすか : いというか何というか。会ったこともない親族の話て まず、《はあ》という短い当惑の一語が返ってきた。 も、何となく気になって。それだけてす」 《八戸の岡村商会にいた岡村清二なら、そうてすが 少し間があり、とろとろとした鈍い相手の声が返っ 今度は秦野が言葉に詰まった。 「いえ、その : : : 歯てきた。《あなたはお若いんだから。まだ何かて埋め 科医師会の懇親会て、戦中の軍隊の話をする年配の先合わせる時間はありますよ》 生たちもおられまして。そこぞ戦友に岡村清一一という 「お義父さん、競馬はやっておられますか」 、、、いごという話か出て、どうも街いていると、ひ と、戸惑い気味の照れ笑いが聞こえた。 よっとしたら : : : 」 《うん、まあ。馬見てたら、いやなことも忘れるし。 いやいや、下らん時間潰してす》 そうてすか。て、岡村が何か》 「機会があったら、馬券の買い方ぞも教えて下さい 「家内に聞いたら、そんな人は知らないと言うもん どうも、夜分失礼しました。風邪をお引きにならない て」 しょ , フに」 《ああ、娘には話したことはないかも知れません。な にせ、ばくが生まれる前に余所へ養子に行った人なん 《そちらこそ》 おざなりの会話を交わした電話を切ったとき、秦野 て、ばく自身、ほとんど知らないもんだから。八戸て、 ち - 五十年以上前の話 は一瞬、奇妙な感覚にとらわれた。岡村清二と同じ腹 数回会ったことはありますが、もう から生まれた物井清三の、夜に相応しいひっそりした 。ごし、顔一もちょっと : 年「 ~ え、そうてしたか。年配の先生の話ては、今ごろ声は、まるて岡村本人の声だったような、そんな気が したのだった。 どうしているかなあ、ということごったのて」 それから秦野は、三十一枚の手紙の束を手に、居間 《あれは昭和一一十七、八年だったと思うが、戸来の実 6

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も、内容からして社内て軽々しく扱われたはずもない の恋人だった姪の名が出てくるかと田 5 ったが、出てき たのは、さらにややこしい舌・ごっこ。 と考えられますが、その手紙の内容そのままのテープ が外部から送られてきたことについて、御社の方ては 「《岡村清一一》は、その学生の母親の伯父に当たる人 どう思われたのてすか」 物てすね ? 」 「ど - フと言われても : そのときはただ、 送り主の 「たしか、遠縁だと : 音 ~ 図が分からないという占だけ、話し合ったと記億し 「そうお聞きになったのてすね ? 塚本さんは、一応 ています」 身元調査をなさってるんてすよ」 「日之出に宛てられた手紙が外部に充れた、という認 「そうかも知れません。私が失念していました。それ 言はなかったてすか 「そう言われればそうてすが : なにしろ終戦直後 「秦野孝之という学生、その父親の歯科医秦野浩之、 の話のようてしたし、そういう手紙が実在したのかど そして手紙の差出人てある《岡村清一一》が親戚関係に うかも確認出来ない、 ということてしたから」 あるとなれば、この種の因縁なり誤解なりが生じるこ 「話が前後しますが、行社ては、秦野という学生の身ともないとは言えませんが : : : 、事実はもう少しやや 元調査はなさいましたか , こしくて、秦野浩之は自殺する直前まぞ、《岡村清一一》 え。日之出ては、そ - フい - フことはやっていま なる人物を知らなかったようなのてす。九〇年の十一 せん」 月五日、すなわち秦野がテープを投函した前の日てす 「父親から二度の手紙と変なテープが送られてきた後 が、秦野は深夜に別居していた妻に電話をかけて、 いかがてすか」 《岡村清二》という人物を知っているかと尋ねていま いえ」 す。しかし、妻は知らなかったのて、知らないと応え 少し間を置いて、「そんなはすはないと思いますが」 た。その同じ夜、秦野は妻の実家に電話をかけて、 と捜査員は呟き、どういう意味なのか理解出来ないま《岡村清二》の弟に当たる人物、これは妻の父親てす ま、城山は息を詰めて次の言葉を侍った。っ しに学生が、その人に同じく《岡村清一一》は誰かと尋ね、その 3 ー 8

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お嬢さん育ちの母はといえば、無知ほど罪深いものは 「物井清二が、養子に出て岡村になったんてす。名前 ない見本て、連日解放委の集会に誘われたり、ビラを ぐらい、お聞きになったことは ? 貼られたりして早々に音を上げた。結局、結婚は五年「ない。物井の方とはほとんど付き合ってないから も続かず、母は片手にトランク一つ、片手に小さい息 「奇遇とはこういうもんてしようが、岡村清一一も昔、 子を抱えてぎゅうぎゅう詰めの東海道線の夜行に乗り、 日之出の研究所にいたらしい。東北帝大を出た優秀な 鎌倉に逃げ帰ったのだが、その鈍行列車の混雑は、か人だったようてすな。昭和十一一年に日之出に入って、 すかに秦野の記慮にあった。 昭和二十二年に退職したをてすが、退職の直後に日之 「関係ない」と秦野は一言応えた。 出に宛てた手紙が残ってまして。それが、これ」 「先生が忘れても、世間はどこからかいろいろなこと 「日之出に宛てられた手紙をなぜ、お宅が持ってるん を探し出すもんてす。今回の日之出の件も、多分そう てす」 いうことだと思いますな。先生にはお気の毒だがこ 「出所については、まあ、四十三年前に日之出が紛失 ういうものがあるんてすよ」 したとても言っておきましよう。ところて、肝心の中 西村は、から取り出した何かの紙の束を手に、そ身てすが」西村は、手にした紙の束をゆっくり振って れを軽く振ってみせた。判て二、三十枚はありそ見せた。「何と言いますか : 岡村本人は他意はな うな厚みごっご、、。、 オオカそれはひとます男の手に留まり、 かったんてしようが、会社側から見れば、捨て置けな 秦野の方へはやって来なかった。 い内容てして。読みようによっては、中傷とも脅迫と 「先生、奥さんの方のご実家とお付き合いは」 も取れる」 「ほとんどない。 それがどうしました」 ドいたこともない妻の親族の何者か。半世紀前も 「岡村清二という名前、ご記慮にありますか」 昔に日之出にいて、日之出に脅迫文を送った何者か ウイスキーて緩んだ秦野の額の裏て、新たな異物がふ 「奧さんの伯父に当たる人物てすが , かふか浮いていた 「妻の実家の姓は物井だ」 「岡村さんは手紙の中て、会社の同僚四名について触