もちろん、わたしは牧野弘毅のことを考えていたのである。牧野弘毅が外国航路の船に乗ったの は、清掃作業のためではなかったのか。そして、ぼすとん丸事件の起きる三年前に、もう一つの幻 のぼすとん丸事件が起きた ? むろん、牧野弘毅こと宮代勇吉が入院した昭和三十九年六月の周辺 には四エチル鉛が飛散したという事故の記録はよ、 : 、 オしカそれがわたしの疑いを弱めることにはなら なかった。もしそんな記録があるのなら、牧野弘毅は病院から脱出したり、四エチル鉛中毒後遺症 の認定を得るために大学や病院をまわり、医者たちからも毛嫌いされるような存在にならなくても よかったはずだからである。 牧野弘毅は作話症、虚言癖という病名、病癖を、そのまま世の中にたたき返し、「公害の未来地 図ーをつくることでほんものの作話症、虚言癖の人間たちを糾明したかったのかもしれない。下請 けという排泄口からばかり企業や社会の仕組みを眺めてきた彼には、それだけに詳細な公害地図を つくる成算があったのだろう。だが、いや、だからこそ、牧野弘毅は地図づくりの途中で、酒を飲 まないはずなのに泥酔して、車にはねられ、惨死した。 それから九年たって、現在では、公害は社会心理学の問題だなどと公然と口にする学者は少ない 公害批判、企業悪の告発は市民権を得て、九年前とは状況が逆転してしまったようだ。九年前には 科学技術の進歩の先にけんらんたる未来学を構築することが学者たちの見識であったように、現在 では、科学技術を批判する激しさ、遠いはるかな太古の自然に駈けもどる想いの強さが見識の判定 基準になっているかのようである。だが、市民権を得た公害批判や企業悪の告発には、わたしの偏 見のせいかもしれないが、どこかしらじらしさが感じられてならないのだ。
後遺症を背負った人々も、せいぜい福祉という社会の安全装置に組み込まれる存在でしかなくなっ てしまう。 わたしが牧野弘毅を後遺症願望患者として切り捨て、公害ルポルタージュの仕事を断念したいと 編集者に申し入れたのは、彼が死んだ二カ月後であった。 それから半年ばかりたった、昭和四十二年の二月。テレビのドキュメンタリー番組で神戸の暴力 団を取材したとき、腹を刺されたチンビラが担ぎ込まれた三の宮の病院で、偶然、以前に四エチル 鉛中毒の患者たちがそこに入院していたことを知り、田舎がわたしと同じ町だという看護婦に無理 に頼んでこっそりとカルテを見せてもらったところ、患者の中に宮代勇吉という名前を発見した。 宮代勇吉ーーまさしく阿南市の観音堂で牧野弘毅が名乗っていた変名である。いや、牧野弘毅の ほうが変名なのかもしれない。 わたしはさらに看護婦に強引に頼んで、患者たちの入院したいきさっとその後のようす、とくに 宮代勇吉についてできるかぎりくわしく調べてもらった。 入院した患者、四名。入院の日付、昭和三十九年六月十八日。 患者たちは身体をよじり、七顛八倒の苦しみで、医師たちは当初食中毒の疑いをもち、次には、 患者たちの顔が異常に赤味をおびているために、 OO 中毒ではないかと疑った。鎮静剤と麻酔剤を 注射。 一晩過ぎると、ほとんど平静にもどり、仮病説も出た。仕事にあぶれた労務者が、三食っきべッ
まる存在だときめつけた。牧野は、そんな罵詈に近い言葉に対して、なぜか反駁らしい反駁もしな 、つこ 0 、カナー その日、わたしは新宿の厚生年金ホールの前で、千葉のコンビナートへ行くという牧野弘毅とな んとなく気まずい別れ方をしたのだが、それが牧野との最後の出会いになってしまったのである。 それから三カ月ばかりたった七月の暑い午後、学会で東京へきた熊大病院の中根医師から、牧野 弘毅が死んだことを聞かされた。阿南市の国道で酔っぱらって車にはねられたのだということだっ た。 今から考えると、自分があまりにも近視眼だったのがぶざまだと思うが、とにかくそのときは、 牧野弘毅が秋山教授からさんざんに打ちのめされたのが衝撃的で、またちょうどその頃、教授の言 葉に説得力をもたせるような事実をいくつも聞かされていたのだった。 たとえば、四日市の反公害キャン。ヘーンで、ある新聞が「海を奪われた漁師たちの怒りーという 見出しで古びた漁船の前に立って暗い顔をしている漁師たちの写真を載せていたが、それは、漁師 たちの休日に、わざわざ古くなって捨てた船を背景にして撮影したもので、彼らは最新型の漁船を 乗りまわしているのだという話だったし、川崎の小学校の生徒たちが公害マスクをかけ、公害体操 をしているという記事が大きく出たことがあったが、それも新聞記者が取材に来るというので特別 に準備されたショウのようだった。当時、公害についてさかんに発言していた学者たちにも何人か 会ったが、そのだれもが、公害は不幸な過去の古傷で今後の問題ではないと断定し、補償金目あて の乞食根性や被害妄想の残酷悲話を煽情的に書きたてるマスコミの無責任さを手厳しく批判する点
がらためらっていたのは、話を持ちかけてきたのが三浦であったことに加えてもう一つ、わたし自 身の苦い体験の後遺症のためだった。 昭和四十年六月。 わたしは徳島県阿南市のはずれにある共同墓地の観音堂で、一人の中年男に会っていた。男の名 前は牧野弘毅。ただし、わたしが観音堂を訪ねて、その名を口にすると、男は頑強に否定し、つい には鍬を振ってわたしを追い払おうとした。わたしは懸命に逃げながら、やっとカバンの中から一 枚の名刺を探し出して彼に示した。三池の炭住で炭じん爆発による OO 中毒後遺症患者たちの追跡 調査をしている医師にもらった牧野弘毅あての紹介状だった。そのときわたしは、ある出版社の依 頼で「公害列島」という本を書くために全国を歩きまわっていたのだが、三池炭坑の炭住で知り合 った熊本大学の中根三吉医師から、「公害の未来地図をつくっているケッタイな男がいる」と教え られたのである。 牧野弘毅は、「ここでは宮代勇吉ということになっているので」と、声をひそめて弁解しながら わたしを観音堂の中に入れると、入口に鍵をかけ、全部の窓をカーテンでおおってから無縁仏の骨 壺が無数に並んで見下している板張りの床に、大きな一枚の地図を拡げて見せた。 それは、古いカレンダーを張りあわせた裏側にマジックインキで描いた日本地図で、破れたとこ ろはセロテー。フで幾重にも補修してあったが、地図のあちこちに二重丸、赤丸、黒丸、さらには鉛 筆の丸印などが丹念に書き込まれていた。
二重丸は公害による死者がすでに発生している地域、赤丸はこれから発生する地域、黒丸は公害 病が蔓延している地域、鉛筆の丸印はこれから蔓延するであろう地域だった。 牧野弘毅は、一つ一つ、自分の足で歩き、目で確認して、赤丸を二重丸に、鉛筆の丸印を黒丸に 書き変え、一方では赤丸、鉛筆の丸印をふやしていく作業をしているのだと説明した。ロ臭が強く、 唾をとばしながら饒舌にしゃべる牧野弘毅の目は、濡れたように輝ゃいていた。わたしはふと、同 じような目付で熱つぼくデタラメの身の上話をしてくれた三池の OO 中毒による作話症の患者のこ とを思い出して、二重丸や黒丸印がついていてわたしにも心あたりのあるいくつかの地点について 問うてみると、工場の数や名前、公害の種類について明快な答が返ってきた。それは、わたしが新 聞や雑誌で読んだり、実際に歩いて得た知識よりはるかに詳細だった。 それにしても、全国を歩きまわって「公害の未来地図」をつくりあげるのに、なぜ阿南市のよう な不便なところを拠点にしているのか、とたずねると、彼はにつこり笑って、これから公害銀座に なる瀬戸内海から紀伊半島一帯を歩くのには、ここがいちばん便利でしかも人目につかないからな のだと言った。どうやら牧野は、無料で自由に滞在できて、人目につきにくい拠点をほかにも何箇 所か持っているようだった。 牧野弘毅がなぜ「公害の未来地図」づくりに執着しだしたのかは、いまだによくはわからない。 わたしは彼といっしょに北九州や四日市、新潟、大阪などを歩きまわったが、そのことをきいても、 彼はきまって好奇心だとか切手蒐集と同じような病気だとかいってはぐらかしてしまったものであ
見えない衣をなんとかして見ようとするのではなく、見えないもの、見えにくいものは存在しな いのだと切り捨ててしまう。この、見えるものしか見ない、見えないものは切り捨てるというのは、 いってみれば「近代合理主義」の重大な欠陥なのではないだろうか。そしてこの欠陥こそが、見た くないものには目をつぶり、見ようとしないが故に見えず、見えないが故に存在しないと言い張る、 現在の公害列島、人間疎外の状況を生み出した元凶であり、牧野弘毅は、その傲慢不遜なターゲッ トを撃とうとしたのではなかったのだろうか。 九年前には、科学技術の信奉者たちは「近代合理主義ーにあぐらをかいて牧野弘毅を抹殺してし まったが、今その連中に激しい批判を浴びせている人々も、見るべきものを見ようとせず、高をく くることで同じような誤りをおかしているのではないかという危惧を、わたしは原子力船「むつ」 をめぐるマスコミ報道のなかで感じていた。 「これからは原子力が台風の目になる」と三浦は言った。彼が「原子力ーに目をつけたのは、商売 になると考えたからなのだろうが、「原子力」の起す台風とはどんなものなのか。いや、「原子力」 とはいったい何なのだろうか。なんとも茫洋としていてつかみにくい存在だ。だが、その感触のな さが逆にわたしをひきつけた。 ここでわたし自身が高をくくらないためには、九年前に官僚や学者たちに公害問題は「解決済 み」と高をくくらせた「科学」や「技術」、そしてそれを支配する国家や企業の動きをとことん追 いつめてみることで、それらがまとっているはずの見えにくい「衣」や「糸」を見きわめることが v 科学技術庁・原子力開発バンフレットより
手こずらせている札つきなんですよ。狙いは医療補償か、あるいは医者の証明書を取りつけて企業 から金をまきあげようとでもしたのでしようかね。もちろんどこの大学も病院もそんな札つきを相 手になどしませんよ。四エチル鉛はたしかに毒性が強いけれど、水銀のように体内に残ることはな いので、後遺症で神経や筋肉が麻痺することは絶対にないのです。ところが、マスコミの人々は、 不勉強なうえに無責任に悲劇のヒーローをつくりたがるので、こういう人の話にすぐにのってしま そして、医者のほうでウソ うのですね。手や足がしびれるとか、ラ行の発音ができないとか : を見破ると、実は作話症といって、これも後遺症のせいなのだと、しゃあしゃあとひらきなおるの です」 秋山教授はさらに、牧野弘毅が四エチル鉛中毒の検査のために神戸の病院に入院中、看護婦から 騙し取った金で酒を飲み、通行人にからんで警察に留置されたこと、阪大附属病院で医師に暴行を 加えて逮捕された事実などを、まるで牧野の存在を無視するかのように語った。 「大槻さんがテレビ局の人だからあえて言うのですが、科学的な部分をふっとばして煽情的な被害 者の悲話ばかりを追うのは無責任、というより一種の犯罪だとわたしは思います。公害というのは、 はっきりいって過去の古傷なんですよ。科学が進んでデータが飛躍的に精密になったために、はし なくも古傷が出てきただけのことで、いわば解決済みの問題です」 秋山教授によれば、日本がアメリカ相手の戦争に踏み切ったのは、航空機の燃料に絶対必要な四 エチル鉛が国内で生産できるようになったためで、毒をもって毒を制することが人間の叡智であり、 そこに進歩や発展があるのであって、牧野弘毅のような人間は火を怖れる野蛮人のごとき滑稽きわ
いのです ? 」 孫引きや数字による安全論争にはわたしも疑問を感じてはいる。しかし宝泉寺の意見にはなんと しても承服しかねた。 十年前に、公害は解決済みの事項で社会心理学の問題だとうそぶいて牧野弘毅を抹殺した連中が はやくも甦り、またぞろあやし気な社会システム論をふりかざして悲惨な事実から発せられる告発 ー」「集団妄想」なる言葉で抑えこもうとしはじめている。 を「集団ヒステリ わたしは、公害告発が市民権を得たために、告発の言葉が安易に使われすぎていることを危いな とは感じている。十年前には、科学技術信奉者たちが高をくくっていたように、公害告発を叫ぶ人 人が高をくくり過ぎてるぞと警戒はしているが、だからといって牧野弘毅といっしょに歩いて目撃 冫ーーしかない。すくなくともわたしが自分の目で確認した人々は、集 した事実を妄想と考えるわナこま、 団ヒステリー患者などではない。脳みその腐っていない、欲とくずくではない、むろん政治屋でも ない住民運動をやっている人たちが確実に存在している。 だからこそ原子力発電所の建設は難航しているのではないか、と宝泉寺に問うと、彼は、「それ こそが煽動プロフェッショナルたちの跳梁の成果」なのだ、と大口を開いて並びの悪い歯につまっ た貝を太い指で取りながら言った。 「黴菌や毒虫に悪いことをするなと説得しますか。叩き殺すか除去する。方法はこれしかないので す。やつらの存在を徹底的に認めない。存在を認めたら途端に増殖をはじめますからねえ。当然、 存在しない相手に公聴会やシンポジウムを開く必要はない。必要なのは黴菌をすばやく適確に見つ 123
ドを狙って救急車を呼んで担ぎ込まれることがよくあったからだ。 午後、患者の一人が煙草を喫いたいと言い、看護婦が階下に自動販売機があると答えると、百円 男の一人は便所に行きたいと言い、二人は病室を出ると、いきなり階 貸してくれないかと頼んだ。リ 段をころげ落ちるように駈けおりて、おどり場の窓から隣りの民家の屋根にとびうつって脱走した。 ーマンのようだった」と語っている。 この瞬間を目撃した医師は、「テレビのスーパ 患者二人は一時間後に兵庫署の「酔っぱらいセンター」に収容された。一人は狂躁状態で病院に 逆送される途中に死亡。その後、さらに二名死亡。死亡しなかったのは宮代勇吉一人であった。 宮代勇吉すなわち牧野弘毅が看護婦から騙し取ったと秋山教授が指摘したのは、どうやら煙草の 代金百円のことらしい。しかも彼は、秋山教授がいったような泥酔状態ではなく、四エチル鉛中毒 のために錯乱状態になっていたわけだ。そして入院二十三日目に「無断外出」して、そのままもど ってこなかったのである。 その後、もと病院の付添婦や阿南市に住んでいる牧野の従兄などを取材して、いくつかの情報を 得た。 牧野弘毅はよく外国航路の船に乗ったと自慢していたこと、船の仕事はもうこりごりだと言った り、船会社は下請けの人間を人間扱いしないなどとぼやいていたこと。かと思うと、神戸の病院に 監禁され、手術で廃人にされそうになって脱出したとか、自分は生命を狙われているなどとも語っ ていたこと。そして、牧野は酒をまったく飲まなかったこと。ただし、彼には虚言癖があり、見え すいたウソを平気でつくというので誰も彼の言葉を信用してはいなかった : ・
「ワア、ウイ、ウ工、ウ工、オー」 実は牧野がこのときに発声していたのは、ア行とラ行、そしてワ行だったのである。彼はア行と ラ行、ワ行の発声の区別がっかなくなっている、というより、ラリルレ口が発声できなくなってい たのだ。 だが、そんな牧野弘毅に、やがてわたしは後遺症願望症という病名を進呈することになる。 翌年、つまり昭和四十一年の春、横浜の石油コンビナートで下請けの労働者に四エチル鉛中毒が 発生したという噂を耳にして、牧野といっしょに新宿の東京医科大学の秋山教授のところへ話を聞 きにいったときだった。有機性重金属による中毒の研究では権威である秋山教授が、四エチル鉛の アンチノック剤として優れている点とその安全性とを強調し、事故の可能性を否定したのに対して、 牧野弘毅は、ポケットから四エチル鉛による中毒事件のメモを取り出して反論した。 昭和三十三年、横浜市小柴の米軍燃料タンクで日本人作業員十数人が中毒し、八人が死亡。三十 四年、羽田の航空機格納庫で整備員が中毒。三十六年、神戸港で荷揚げ作業員五人が中毒。同じく 三十六年、大阪此花区のオフセット印刷所で印刷工三人が中毒 : ・ すると、秋山教授は突如激昻し、古証文をちらっかせて因縁をつけるのは下司の行為で、現在で は有機性重金属についての対策は完璧であって事故は絶対に生じない、だいたい公害なんてものは 過去の未熟な時代の残滓なのだ、と言い切り、さらに、「古傷をあさって金をせびる乞食根性がま だなおらないのか」と、牧野を露骨に罵倒した。 「この人はね、自分は四エチル鉛中毒の後遺症だといって関西の大学や病院をわたり歩いて医者を