ンガポール島一帯の残敵掃討、戦場処理にあたった。 華僑の反日意識は強烈だった。すでに指摘したように、マレー戦、シンガポール戦で、抗日華 僑連合会、″ダル・フォ 1 ス〃は英軍にみられない戦意を示した。″ダル・フォース〃は、シンガ ポール陥落の直前に解体され、市内、マレー半島のゲリラ活動に従事することになり、大量の武 器、弾薬を与えられた。彼らはやがて反日ゲリラとなるが、その一部が、日本軍入城前後、無頼 の徒なみに市内で掠奪、暴行を働いたのも事実である。 日本軍は、イボ 1 進撃のさい、同地で発見した「抗日華僑名簿」、さらに探偵局、警察署の記 録、救出邦人の進言などをもとにして、二月二〇日までに「反抗華僑容疑者名簿」を作成。二十 一日から三月末にかけて約六五〇〇人を逮捕した。このうち一五〇〇人を釈放し、残り約五〇〇 〇人を処刑したのである。処刑の理由は、飛行場襲撃誘導、砲撃標示、後方兵站線襲撃などの通 略敵行為を主とし、抗日団体の指導者、抗日義勇軍人、共産党員などが含まれた。 むろん、短期間の大量処刑だから、調査の粗雑はまぬかれない。李某という容疑者がある場合、 ある地区に住む李姓の者をすべて逮捕したという話も伝わっている。またすでに述べたように、 ガ 澱日華事変ではぐくまれた日本軍の反中国人感情、クランジ川口の″ダル・フォ、ース〃など作戦の 志途中で実見した激しい華僑の戦意が、必要以上に対華僑態度を硬化させ、大量処刑の心理的基礎 になったことも疑えない。 そして、この苛烈な政策は、シンガポ 1 ル華僑をふるえあがらせた。三月上旬、代表者は河村
と予定したのである。ただ、問題は弾薬の集積、上陸準備の速度である。砲弾だけで、約四〇万 発以上を運ばねばならない。 ジョホール水道沿岸、とくにシンガポール北西部の対岸のゴム林、ジャングルの中では、イカ ダを作る音、舟艇を海岸に運びだす道を切り開く音、大砲の偽装設備をする音がこだました。ゲ マスまで汽車で運ばれた弾薬を運ぶトラックが、絶え間なく走りまわった。工兵は、水際で潮流、 水深を測り、障害物の有無の偵察に忙しかった。 山下司令官は、英軍がジョホール水道、あるいは島内の河川に貯蔵タンクの石油を流し、火災 戦術を採ることを恐れた。流水の激しい水道では、流した石油は平均した油層は作れず、川一面 が火の海になることはないと思われたが、山下司令官は万一を考慮して、すべての石油タンクを 砲撃、炎上させた。黒煙がシンガポール全島をおおった。 むろん、 ーイハル将軍も反撃を命じ、英軍砲兵はジョホール水道ごしに、日本軍を砲撃した。 しかし将軍は、シンガポールで三カ月間の籠城を考えていたので、砲弾は一門一日二〇発に制限 され、効果はあがらなかった。シンガポールにあるテンガー、セン・ハワン、セレター、カラン四 飛行場のうち、二月五日までにカラン以外の三飛行場は破壊されてしまった。残った数機の爆撃 機はスマトラに退避し、本国から送られたハリケーン戦闘機も、大部分は日本機の空襲によって 地上で撃破された。 ーシ。ハル将軍は、シンガポール防衛にあたって、①水際撃減、②島内抵抗の二つの方針を検
168 少将および第二十五軍司令部を訪れ、生命と業務を保証してくれるなら、在シンガポール華僑の 財産の半分を献上すると申し出た。日本軍は、その提案は拒否したが、五〇〇〇万海峡ドルの献 金に応じた。 以上が、華僑処刑事件の概要である。華僑の反抗が日本軍を刺激したのか、日本軍の偏見が華 僑の抗戦意欲を燃えたたせたのか、事件の遠因近因は複雑にからみあっているが、太平洋戦争を 暗くいろどる不祥事であることに変りはない。 こうして日本は、緒戦において早くもアジア人を 敵にまわし、戦争遂行に必要な現住民の協力を失った。マレー シンガポールの華僑は、この事 件によって、ますます反日態度を固め、シンガポール市、マレー半島におけるゲリラ活動は、そ の後決してやむことはなかったのである。
166 インド軍 六万七三四〇人 マレー義勇軍 一万四三八二人 計一三万八七〇八人 もっとも、このうち一三万人以上が捕虜たから、死傷者は八〇〇〇人以下、日本軍の損害を下 まわるわけである。 シンガポール陥落の報は、日本全国をわきたたせ、それまでの戦果と合わせて、戦捷第一次祝 賀会が盛大に行なわれた。 華僑処刑事件 シンガポール攻略戦は日本軍の突進と英軍の自減によって終ったが、いまわしい副産物がつけ 加えられた。華僑処刑事件である。この事件は、戦犯裁判で近衛師団長西村中将の刑死を招いた ほか、戦後も長くあとをひいた。一九六二年には大量の白骨が発見され、シンガポール華僑界に 波紋を投じ、日本とマレーシア連邦との国際問題に発展している。 日本軍が、シンガポ 1 ル攻略後、処刑した華僑は約五〇〇〇人だった。シンガポ , 、ル攻略のあ と、第九歩兵旅団長河村参郎少将が警備司令官に任命された。少将の指揮下に入ったのは、第二 野戦兵隊主力のほか、第五、第十八、近衛各師団から抽出した約二中隊の補助兵、装甲車お よび戦車一中隊で、その警備範囲はシンガポール市内を主とした。また近衛師団は市内を除くシ
上陸全減した英極東空軍英東洋艦隊を求めて南海の激闘 フィリビン進攻、ウェーキ島攻略 後手にまわった比島米軍無敵の″沈黙海軍〃ウェーキ島夜 間上陸に失敗三砲台・四グラマン機に撃退さる帝国海軍の 名誉をかけて暗夜の混戦勝利の代償 香港、シンガポール攻略 ジン・ドリンカーズ・ライン突破英軍老兵部隊の奮戦クリ スマスの夜の降伏紀元節シンガポール攻略マレー快進撃の 条件〃銀輪部隊 4 の突進スリム殱減戦英軍を撃破、ジ ョホールへ備えなきシンガポール ジョホール水道をはさん で華僑の〃ノド切り部隊″工兵隊、上陸に活躍・フキテ マ攻防戦シンガポール陥落華僑処刑事件 蘭印、。ハタ】ン半島攻略戦 ハレン・ハンに降下部隊スラ・ハヤ沖 : ハタビャ沖海戦現住民 の歓呼の中をパンドン入城第一次・ハタ 1 ン攻撃の失敗本間 将軍の無念マッカーサー大将の幸運マッカーサー将軍の脱 出 ・ハターン陥落 " 死の行進み苦い勝利 169 103 125
Ⅷ剣、はては斧をふるって、日本軍前線に突っこんだ。 国司隊の哨線は突破した。そしてシンガポールにつくまで、大尉たちは二度と戦うことはなか ハトバハも、そしてその北東の堅陣ョン。ヘンも、日本軍に押し破られた。いつの間にか、 オーストラリア将兵の間では、日本軍と同じようにシンガポール、 へシンガポ 1 ルへ、という声 が高まった。どの陣地も、退却してくる味方兵士の姿を見るやいなや、放棄された。陣地を過ぎ るたびに敗兵の列は太くなり、敗北の歩度は一段と速まった。 一月三十一日午後二時、第五師団の第九歩兵旅団がジョホール州の首都ジョホール・ハルに突入 した。最後の英軍が撤退したわずか六時間後である。さらに同日夕、近衛師団の岩畔追撃隊も同 市に進出、ともにジョホール水道をへだててシンガポールを望んだ。この日、牟田口中将以下第 十八師団主力はクルアンに到着、佗美、木庭連隊を掌握してジョホールバルに向かった。第二十 五軍の総兵力が勢そろいして、シンガポールを目ざすのである。 コタ・ ( ル上陸からジョホール・ ( ルまで、行程約一一〇〇キロ、ちょうど東京 ~ 下関間の距離を、 第二十五軍はわずか五五日で突破した。一日平均約二〇キロ、ただ進むだけでもなかなかの強行 軍なのに、その間、戦闘を重ねること九六回。一日に約二回敵と戦ったうえでの追撃である。さ らに、主な橋の修理二五〇回、舟艇による海上機動六五〇キロを加えている。損害も少なくなく、 戦死一七九三、戦傷二七七二 ( 計四五六五人 ) を数えたが、約三万五〇〇〇の兵力で約八万の英軍 を撃破、とくに約四個旅団をほぼ完全に壊減させたことを思えば、マレー進軍はまさに、日本陸
だろう。敵情にたいする無知は、かえって突進を可能にする要素になりうるのである。 以上は、しかし、あくまでも潜在的条件にすぎず、それだけで戦力となることはむずかし 。ところが、期限っき、それも国民感情にアビールする記念日を目ざす軍命令が出された。そ れが突進の必要を自覚させ、潜在的な条件は、明確な行動目標に結集され、戦力として具現化さ れ、威力を発揮した。ここに〃紀元節攻略〃命令の大きな効果があり、日本軍は激しい戦意を燃 やして、シンガポ 1 ル目ざしてまっしぐらに進撃したのである。 これにたいして英軍側は、日本軍とは対照的な状態にあった。そこには、いわば″自減〃の要 素があった。指揮官の自信のなさが、最大の欠点だった。守る英軍側としての、第一の問題は、 どこで日本軍をくいとめるかであるが、この点について、英軍の方針は混乱していた。前に述べ た″マタド 1 ル〃計画は、マレー半島に日本軍が入るのを防ぐためのものである。だが、チャ 略チル首相は、マレー英軍司令官。 ( ーシ。ハル中将に電報している。 「シンガポール島および要塞の最終的防備に必要な兵力は、くれぐれもマレ , ー半島防備のた めに使用または一部転用されぬよう、注意ありたし。重要さにおいて ( シンガポール ) 要塞に ガ ン 比すべきなにものもなし」 港 ーシ・ハル将軍は、とまどわざるを得なかった。シンガポールを守る必要性はわかっている。 だからこそ、マレーで日本軍をくいとめようと兵力を配置したのだが、チャーチル首相の電報は、 シンガポ 1 ル籠城戦を指示しているようにも受けとれる。
軍の勇猛心と実力を顕示した、戦史に残る偉業であった。 備えなきシンガポール ジョホール水道にかかる一本の橋は、すでに途中の約七〇メートルが爆破され、泡立っ海水が 二つにちぎれた橋の間を流れていた。汗にまみれ、泥をかぶった日本軍は、相つぐ戦闘に血走っ た目を細めて、橋のかなたの島を見つめた。燃える石油タンクの黒煙が空を流れた。 シンガポールへーーそれを合言葉に進んできた、その目的地である。そこには、東洋一の大要 どんなものなのだろうか。ハ リねずみのように大砲をつ 塞があるという。要塞とよ、、 きだした鉄壁の巨城なのか。堀をめぐらせ、地雷原にかこまれた数重のト 1 チカ陣地群なのか。 だが、シンガポ 1 ルには、要塞はなかった。強いて探せば、六三〇〇万ポンドの巨費をかけた 略セレター軍港の海軍基地と、それを守る一五インチ砲五門、九・二インチ砲六門、六インチ砲一 六門が、それらしいたたずまいだが、制海、制空権を失ったいま、それらの巨砲がどれだけの役 に立つかは、疑問である。第一、巨砲は日本軍のくる陸上へではなく、海へ向けて照準されてい 澱るのである。また、シンガポールは、この段階になっても、物心両面とも、まだ戦争の準備はで 漑きていなかった。 映画館、レストラン、ダンスホールーーーみんな自由に営業している。公式には、レストランで は、一週二日″肉なしデー″を設けることになっていたが、狩猟肉、ニワトリは″肉〃でないと
チャーチル英首相は、四月、下院機密会で「五日または六日間の混乱、しかし激戦は行なわれる ことなく軍隊と要塞は降伏した」と、 ーシ・ハル将軍の戦意不足に不満をもらした。 シンガポール攻略の戦果は、次のとおりだった。 各種火砲 約七四〇門 重軽機 二五〇〇挺以上 小銃類 約六〇〇〇〇挺 機関車・貨車約一〇〇〇輛 自動車 約一〇〇〇〇輌 戦車・装甲車約二〇〇輛 飛行機 一〇機 略日本側の損害は、戦死一七一四人、戦傷三三七八人で、マレー上陸からの損害を合わせると、 戦死 三五〇七人 ガ 戦傷 六一五〇人 ン シ 計九六五七人 漑英軍側はマレー シンガポール作戦で、次のような兵力を失った。 英本国軍 三万八四九六人 オ】ストラリア軍一万八四九〇人
156 大佐に計画実行を指示した。大佐は、クリスマスの直前、クアラルン。フールで、″ダル・フォ ス〃の中核部隊を組織したが、シンガポール華僑の抗日活動はその前から開始されていた。 一五〇〇万人とも二五〇〇万人ともいわれる南方華僑の中で、経済的、政治的中心勢力を占め るマレー シンガポール華僑は、日華事変いらい、本国政府と呼応して抗日意識を高めた。政府 にたいする資金源となるとともに、抗日義勇軍華僑連合会も誕生した。日本も、このような華僑 の動向を知り、マレー進入にともなう華僑対策としては、華僑の利用よりも現地住民による反華 僑勢力の育成を基本方針とした。謀略、政治工作の対象がマレー インド人に集中したのも、そ の現われである。これにたいして華僑連合会は、消極的な抗日運動だけでなく、日本軍の全線に わたって積極的に後方攪乱、情報工作を行なった。第二十五軍情報参謀杉田一次中佐は、戦後極 東軍事裁判で証言している。 「馬来作戦に於て華僑はその終始を通し : : : 我が作戦を不利ならしめたること甚し。即ち ・ : ひんばんなる通敵行為により我作戦企図は敵に察知せられ : : : 我部隊の密集地域に砲爆 撃を蒙り : ・ ・ : 兵站線の襲撃、交通線、軍用通信線の破壊 : : : を実施し軍需品特に弾薬の戦場 到着を遅延せしめ、ために神速を要せし馬来作戦を妨害困難ならしめたること屡々なり」 このような華僑の態度をみて、すでに中国戦線で反中国人感情を身につけていた日本軍はます ます反感を燃えあがらせた。イボ 1 、クアラルンプールでは、抗日分子とみられる華僑は処断さ れ、その首は街柱にかかげられた。日本軍の硬化は、さらに華僑を刺激する。シンガポールでは、