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検索対象: 太平洋戦争 (上) (中公文庫)
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1. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

170 ジャワ攻略の前哨線 ( 昭和 17 年 3 月 1 日まて ) ー川口支隊ー、 コタバル ダ オ 2.20 」朝支椦 . ′′タラ ポルネオ 2.25 ′ 1. ポンチャナク 一相島 2 .25 ー 東方支隊 隊 ロ戦「 ぐンガホ司レゴー 第 38- ョ マ たたフィリビンのほうは、マニラ攻略で主作戦終了 心島 ・ン という日本側の考えに反し、米比軍は。ハターン半島 島 籠城戦を展開するという見込み違いがあった。しか しマニラまでとすれば、十二月下旬には、予定 ( 二 ル月初旬 ) より約一カ月、マレー作戦も一カ月早く終 立ロ る見通しがついた。南方軍のこの予想をきき、参謀 スグレ の 本部は即座に、蘭印戦の一カ月繰りあげを決定、 = ン 九四二年 ( 昭和十七年 ) 一月二十日、第十六軍にた 、ン いしてジャワ攻略命令を発した。 ・い、マ ーレ - O 今村均中将麾下の第十六軍主力が、ジナワ島に上 ャ陸したのは三月一日だったが、それに先だっ ( 、ジ ャワを包囲する形で、周辺の要衝を、同軍隷下各部 一一 0 ー乙キー 隊が攻略した ( 上図参照 ) 。 ▽坂口支隊 ( 坂口静夫少将の混成第五十六歩兵団 ) 一月十一日夕ラカン ( ポルネオ ) 0 、 0 、 一月二十四日 ハンジェルマシン ( 二月十日 シャムビ べンクレン 21 2 レい 第師団ー 匸第 2 師団 ャ

2. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

これで障害になる外郭要地の整理は終り、あとはジャワ島上陸を実施するだけだが、ジャワ近 海には米、英、オランダ連合艦隊が待ち構えていた。第十六軍司令官今村中将は、上陸作戦の困 難を予想し、全軍にたいして、次のように悲壮な訓示を布告した。 「われ自ら第一線に征かん。もし軍司令官海中に瞑せば師団長は軍司令官の職を代行すべし。 師団長もし溺死せば、われ師団長を兼ぬべし」 スラバヤ沖、バタビャ沖海戦 ジャワを守るオランダ、米、英、オーストラリア連合国海軍の司令官は、オランダのコンラッ ド・・ >-ä・ヘルフリッヒ中将だった。中将は、日本軍はパリ島にやってくると考えた。ジャワ リ島攻略はジ 東方に隣接するバリ島は、マレ 1 半島におけるシンガ。ホールと同じ関係にあり、 略ャワ攻略に通ずる。ヘルフリッヒ中将は、カレン・・・・ドルマンオランダ海軍少将に、 鴫日本船団を海上で撃減せよと命じた。ドルマン艦隊の編成は次ペ , 、ジ表のようであったが、これ 一にたいする日本上陸船団の護衛は、第五、第七戦隊、第二、第四、第五水雷戦隊の重巡四、軽巡 四、駆逐艦二二より成る計三十隻だった。 第十六軍は、その主力である第二師団 ( 丸山政男中将 ) と第三十八師団第二百三十連隊 ( 東海林 俊成大佐 ) 、第四十八師団 ( 土橋勇逸中将 ) と坂口支隊の二手に分かれて、ジャワに向かった。主力 の船団五六隻、第四十八師団らの船団四〇隻。前者は第七戦隊、第五水雷戦隊が守り、後者の護

3. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

179 蘭印 , パターン半島攻略戦 第師団ーー ーー東海林支隊一一 -- ー -- ーーー - ジャワ本島攻略図 坂口支隊ーー マ フ ・ンクラカ、 カリジャ ーバヤ ジョ : ・劯ル 9 がゆえの不統一が災いした。日本軍が迫っているというのに、く ドンではまだ、オランダ、米、英、オーストラリア部隊の防備地域 協定に論議を重ねている段階だった。しかも、オランダ軍司令部は、 最初から熱心に戦う気はなかったとみえ、現住民の情報にまどわさ れただけでなく、積極的な情報収集の努力にも欠けていたようであ る。第二 / 二オーストラリア・パイオニア大隊の記録によれば ・サモンズ中尉が、オランダ軍司 「 : : : 大隊の情報将校・ 令部に日本軍の動きを知りたい、と連絡すると、まだ朝刊が配 という返事だった」 達されないのでわからない、 有名なポイテンゾルグ植物園地域を守っていたオランダ軍は、三 月三日午前一一時五〇分、「日本軍はまだジャワに上陸してない」 という声明を発表した。日本の軽戦車が前線に姿を見せたのは、そ の五分後だった。 テルプールテン中将は、三月五日午後六時、・ハンドンで指揮官会 議を開いた。中将は、インドネシア人の敵意が強いのでゲリラ戦は 不可能である、最高指揮は・ハンドンでしか行なえないが、ハントノ は長く持ちこたえられそうにない、と述べたあとで宣言した。

4. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

282 「速かにガ島に前進し同島攻略の目的を以て十月十七日迄に飛行場付近に対し攻撃を準備す 第十七軍は、闘志に燃えていた。ガ島戦深入りをいましめる二見秋三郎参謀長は更迭され、新 参謀長に宮崎周一少将、作戦主任参謀に小沼治夫大佐を迎えたほか、山本筑郎少佐ら七人の参謀 を増員。大本営からは辻政信中佐、杉田一次中佐、林忠彦少佐の三人が派遣参謀として出張した。 第二師団の兵力も、続々とラ・ハウルに到着し、街の周辺のヤシ林にテントを張った。兵に至る まで金時計、防水時計を腕にまき、一見して快適なジャワ占領地生活にひたりきっていた印象を 受けるが、とにかく、そのジャワ攻略で勇名をはせ、精鋭をうたわれてきた師団である。いまま での一木、川口両支隊とは、兵力、装備、素質ともに段違いのはずである。そのころ、ようやく ガ島の米軍は「ンデグリフト少将を指揮官とする約一万の海兵隊なるもののごとく」とわかっ たが、こちらはその二倍の約二万の精兵である。こんどこそ、その・ ( ンデグリフト少将に白旗を かつがせてみせよう。 第十七軍は、十月二日、丸山中将をガ島に送り出す前日、次のような作戦計画を参謀本部に打 電した。 一〇・二〇三二〇発沖参電第八〇八号 軍のガ島攻撃計画要旨左の如し 一、方針

5. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

174 ドルマン艦隊の編成 衛は第五戦隊、第二、第四水雷戦隊が担当した。 オランダ海軍 二月二十七日午前二時二七分、 ドルマン艦隊がジャワ海警戒を 軽巡「デ・ロイテル」 ( 旗艦 ) 同「ジャワ」 終えてスラバヤ港に帰ってきたとたん、ヘルフリッヒ中将の命令 駆逐艦二隻 が到着した。 英国海軍 「スラ・ハヤ北方九 0 マイルのパウエン島に日本船団近接中、 重巡「エクゼター」 直ちに攻撃せよ 駆逐艦三隻 オーストラリア海軍 この日本船団は、フィリ。ヒンからきた第四十八師団と坂口支隊 軽巡「バ をのせたものだった。わずか九〇マイルに接近しているとあって 米国海軍 は、作戦会議をしている暇はない。・ トルマン少将は直ちに出撃を 重巡「ヒューストン」 駆逐艦四隻 決意した。たた、なにぶんにも四カ国連合艦隊、それも最初から ( ほかに一隻修理中 ) の編成ではなく、日本軍の南進にともなって、フィリ。ヒン、シン 一四隻 ガポールなどから逃げてきた米英豪艦隊とオランダ艦隊が合成さ れたものだけに、共通の戦術暗号もなく、出撃命令ひとっ下すにも、手間がかかった。 たとえば、米国艦隊への命令はまず旗艦「デ・ロイテル」 ( オランダ ) にのっている米連絡将校 に命令書を渡す。将校はそれを重巡「ヒーストン」に伝え、「ヒ「一ーストン」から電話で四隻 の米駆逐艦に指示が与えられる。英、オーストラリア部隊にも、それそれ発火信号で伝えねばな らない。したがって、命令はつねに簡単にする必要があったが、このときも至って短文だった。 計

6. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

77 マレー沖海戦 雄大な南方攻略構想 真珠湾への一撃で米艦隊の脅威は除かれ、日本軍は南方攻略に専念できることになったが、そ の構想は雄大であった。攻略目標は、 英領香港、マレー、ポルネオ、ビルマ 米領フィリビン オランダ領ジャワ、スマトラ、セレベス、チモール島 の南方要域のほかに、中部太平洋の米領土グアム、ウ = 1 キ島、そしてオーストラリア信託領ラ ・ハウル ( ニ、ープリテン島 ) 、カビエン ( ニ = ーアイルランド島 ) におよんた。作戦範囲は東西約五四 〇〇マイル、南北約二四〇〇マイルに達し、ほとんど東南アジア全域と太平洋の西半分をおおう。 一国が計画した作戦としては、史上空前の大規模なもので、アレキサンダー大王やジンギス汗の 征図も、これにはおよばない。 マレー沖海戦

7. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

雨音だけで、危険を知らせる物音を聞き分けるすべもなかった。 い、たれ下る その雨のジャングルの中を、日本軍は進んだ。鉄カプトにからみつくシダをはら ッタを銃剣で切りはらい、木の根につかまり、ぬかるみに足をふみしめ、ずぶぬれの身体をふる わせる寒気に歯をくいしばりながら、ひたすら敵陣をめ 一丁ナルハ ざした。 雨は降りつづいた。攻撃予定時刻になっても、その勢 いは衰えず、暗黒のジャングルの中で、第二師団はよう やく焦慮にかられた。道のけわしさもさることながら、 方角が判明せず、進んだと思いながらしばしば同じ地点 に引き返すことも多かった。 午後九時、やっと雨がやみ、満月がガ島を照らした。 の月光が木の間から斜線をえがいてジャングルにさしこん図 撃 ルだ。ぬれた軍服は身体の熱気でむれ、月光の中をむらむ 工 カらと水蒸気をただよわせながら兵は進んだ。 の だが、右翼の東海林連隊は、快進撃の記録をつくった団 ガ ジャワとはあまりに勝手が違うジャングルに迷い、東海ニ 第 林連隊長もまた、攻撃寸前に指揮を任されてとまどい 293 ル ンガハ 岡連隊 アウステン山 ウ 隊 東 那須部隊

8. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

134 のようにさながら″記念日合わせ〃の作戦計画を考えた。 ▽開戦 十一月三日 ( 明治節 ) ▽マニラ攻略 一月一日 ( 元旦 ) ▽シンガポール攻略二月十一日 ( 紀元節 ) ▽ジャワ攻略 三月十日 ( 陸軍記念日 ) ▽ラングーン攻略 四月二十九日 ( 天長節 ) つまり、シンガポールの紀元節攻略は、もともと参謀本部の構想たった。軍命令をだしたのは、 上陸いらいわずか五日目である。持っていた地図が一〇万分の一、二〇万分の一という大ざっぱ なものなら、敵情もろくにわかっていない。当然、綿密な計算の下に作戦期間の一カ月繰上げが 割り出されたとは思えない。おそらく、進撃の快調ぶりを見た辻参謀が、調子づいた馬にここぞ と鞭をいれる心境で、かねて構想の紀元節まで予定を繰り上げたのだろうが、結果的には、この 決定は大成功となった。とくに紀元節攻略を、軍命令で布告したことに意義があり、マレー作戦 成功のカギはこの命令にあったと考えられる。 マレー快進撃の条件 参謀本部は、マレー作戦の基調精神を奇襲と突進においた。南方作戦における敵軍のうち、マ レー英軍が装備、兵力の面で最も手ごわいと予想され、さらにマレー作戦の成否が全南方作戦に

9. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

162 力の下に、逆襲をこころみた。・フキテマでは終日、肉弾戦が展開された。しかし、大勢はすでに 決定的だった。いかに一部の兵士が抵抗をしても、大部分の指揮官の自信は失われ、兵士たちの 多くが戦意を喪失していた。 そのころ、シンガポールの街は、混乱と絶望にいろどられていた。市街には、日本軍の砲爆撃 に倒れた死体が、至るところにころがっていた。子供の死体の側にペタリと坐りこみ、声をかぎ りに中国人老婆が泣いていた。マレ 1 人、中国人、英人が日ごろの感情的対立を忘れて、負傷者 の救出と破壊された建物の片づけに一心に働いているかと思うと、港では、恐怖におびえた逃亡 兵がジャワ、スマトラに向かう船に割りこみ、あるいは銃をふりまわしてポ 1 トを徴発しようと 恐怖と絶望を、享楽に忘れようとする人々もいた。キャセイ・ビルの映画館は、その日も″フ イラデルフィア物語〃を上映していた。超満員だった。アデルフィ・ホテルではバンドが演奏を つづけ、ホ 1 ルはダンス客でごった返した。。ハ 1 シ・ハル将軍の宿舎だったラッフルズ・ホテルの ーには、後方勤務の士官たちが群がり、ひたすら飲み、しゃべっていた。 シンガポール陥落 0 、 ーシバル将軍は、上司であるウェーベル大将の抵抗継続命令があるので戦っていたが、最後 が近いことは自覚していた。十一日夜、・フキテマ高地は完全に占領され、その北方を進む近衛師

10. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

114 の行動圏外に脱出して、再挙をはかるためだった。「望月ーは、幸い敵機に見逃されたか、無事 に陸戦隊員を乗艦させたが、大発二隻はそのまま放棄して、旗艦「タ張」のあとを追った。 梶岡少将は、夜間に再上陸を決行しようとしたが、海上はなお一四、五メ 1 トルの東風が吹き、 波浪も激しく、さらに味方の被害は甚大である。午前一〇時、少将は上陸を断念し、ク = ゼリン に帰って出直すことにした。 文字どおりの完敗だった。開戦からジャワ攻略までの第一段作戦において、日本軍の上陸が阻 止されたのは、このウ = ーキ島第一次戦だけである。しかも日本軍は、三つの砲台とわすか四機 のグラマン機の反撃により、駆逐艦二隻を失い、駆逐艦二隻と輸送船一隻を小破された。人員の 被害は、撃沈された「疾風、「如月」の乗組員一一一三五人はただ一人の生存者もなく、ほかに戦死 六、重傷一三、軽傷四三、行方不明二をかそえた。これにたいして、ウ = ーキ島米軍の損害はた った軽傷三人にすぎなかった。 帝国海軍の名誉をかけて ほとんど存在しないと思った敵機が四機もいたこと、壊減したはずの砲台が健在だったこと、 予想外に風浪が激しくて上陸が困難だったこと、対空火器が貧弱だったこと。失敗の原因はいろ いろあるにせよ、この結果は当時破竹の勢威を誇る日本軍、とくに海軍にとって、慮外の汚点で あったことは間違いない。敗報は第四艦隊、さらに連合艦隊に飛んだが、むろん、反応はただひ