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検索対象: 太平洋戦争 (上) (中公文庫)
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1. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

た。したがって、真珠湾攻撃は、米国側にと 発信 ( 東京時間 ) 一米海軍受信 っては予想外の椿事だったが、さらに意外な 準備すべき指令 6 日午後 8 時分日午前 7 時 ~ 事態が起った。最後通牒の遅延である。 6 日午後 2 時 ~ 6 日午前 8 時 3 分 覚書第 1 ~ 部 7 日午前 1 時 8 分 ~ 午前Ⅱ時分米国は、一九四一年四月から日本の外交機 7 日午前 3 時 5 ~ 械暗号を解読していた。暗号機械と同じもの 覚書第部 7 日午前 4 時分 分 を六台作り、陸、海軍省通信局に二台ずつ、 七日午後一時 7 日午後 6 時絽分 7 日午前 4 時分 手交指令 一台をロンドン、一台をフィリ。ヒンに設置し 暗号破棄指令 7 日午後 6 時分 7 日午前 5 時 7 分 た。この機械で解読された暗号は″マジッ ク〃と呼ばれ、少なくとも四一年六月からの日本の主要外交電報は、完全に解読されたとみられ る。機械でなく、暗号書によるものはもっと早く解読されていた。 日本は、十二月六日午後八時五六分から、対米最後通牒にかんする電文を発信した。統帥部の 注文で、 ( ワイ空襲三〇分前、ワシントン時間午後一時に手交するためである。その発信と米海 軍通信所 ( 奇数日海軍、偶数日陸軍が解読担当 ) の接受状況は右表のとおりであった ( 東京 ~ ワシント ンの時差一四時間 ) 。 かくて、ルーズベルト大統領、マーシャル参謀総長ら米国側首脳は、前述のように、七日午前 中にはすべての解読文を読み終っていたのだが、日本大使館の仕事はスローモーだった。六日深 夜までに、第十三部までは終ったが、その後電信課員は帰宅し、七日朝九時すぎに出勤したため、 ( ワシントン時間 )

2. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

隊はシンゴラ、 。ハタニ 1 の道路を閉鎖した」という情報が届いた。″マタドール〃計画発動の時 機である。だが、・フルックポーハム総司令官は、発動をやめた。まだ、日本軍の行動の目的がは つきりしないと思ったからである。 十二月七日、朝、コタバル飛行場からカタリナ飛行艇一機が偵察にとんだが消息を絶った ( 日 本船団護衛の戦闘機に撃墜された ) 。午後五時三〇分、別の飛行艇が報告した。「輸送船一隻、巡洋艦 一隻、コタ・ハル北方一一〇マイル。シンゴラニ向カウ」午後六時三〇分、さらに報告が入った。 「駆逐艦四隻、。 ( タ = 1 北方六〇マイル、海岸沿イ = 南下中」 ″マタド 1 ル〃計画発動の第二のチャンスである。プルック。ホ ーハム総司令官は、その日、駐タ イ公使サー ・ジョシア・クロスビーから、電報をうけとった。クロスビ 1 公使は、タイ・英国間 の友好を指摘して、強調した。 「日本がタイに第一撃を加えない限り、英軍は一インチたりとも、タイ領を占拠しないよう、 神の名において切望する」 ・フルックポ ハム総司令官は、フィリツ。フス東洋艦隊司令長官と相談した。そして、もう一度、 八日払暁の偵察の結果を待って判断することにし、午後一一時二〇分、インド第三軍司令官ヒー ス中将にたいして、八日未明を期して″マタドール〃発動の準備をするよう命じた。 十二月八日午前零時四五分、輸送船三隻に分乗した第十八師団の先発隊、歩兵第五十六連隊 たくみ ( 那須義雄大佐 ) を基幹とする佗美浩少将の第二十三旅団が、コタ・ハルに上陸。つづいて、午前一

3. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

①九日一日中、艦隊の北方約一二〇マイルまでの索敵 ②十日シンゴラ偵察および日出後はシンゴラ付近の戦闘機護衛 これにたいして、プルフォード司令官は、マレー基地の状況が不安なので、返事を留保した。 プルフォード司令官の不安は的中したといえる。優秀な日本機は、マレー半島の英空軍をつぎ つぎに撃減していた。日本機は、上空の英機を探し求めるとともに、滑走路を破壊したので、英 機は空でたたかれ、逃げのびて着陸しようとすれば、あるいは穴だらけの滑走路にひっくり返り、 あるいは待ちかまえた日本機に地上で撃破され、一方的に殲減された。 開戦第一日、早くもマレー半島で使用可能な英機は五〇機に減り、九日にはわずか一〇機とな って、シンガポール引揚げを余儀なくされた。同時に、損害が多いというので、昼間爆撃はいっ さい禁止された。おかげで、ジャワから応援にかけつけるはずだったマ 1 、チン爆撃機二二機を含 むオランダ空軍は、出発をとりやめた。オランダ飛行士は、夜間爆撃の訓練はうけていない。昼 間爆撃をやらなければ、出かけていっても無駄だからである。 さて、八日午後五時三五分、沈む夕日を背にうけて「プリンス・オプ・ウェ 1 、ルズ」「レバル 戦 ス」、そして駆逐艦四隻 ( 「エレクトラ」「エクスプレス」「・ ( ンパイヤ」「テネドス」 ) から成る ″ N 部隊〃は、日本艦隊を求めてシンガポ 1 ルを出撃した。部隊がシンガポ 1 ール島東端に達した レ マ とき、フリ ィッ。フス提督は、「遺憾ながら″部隊〃にたいする戦闘機の護衛は不可能である , 旨、プルフォ 1 ド司令官からの連絡を受けとった。

4. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

塚田作戦準備が作戦行動そのものです。飛行機や水上、水中艦船などは衝突を起します。 だから、外交打切りの時機は、この作戦準備の中で、ほとんど作戦行動とみなすべき、活 発な準備の前日まででなければいけません。これが十一月十三日です。 永野小衝突は局部的衝突で、戦争ではない。 東条および東郷外交と作戦と平行してやるのだから、外交が成功したら戦争発起をやめる ことをうけあってくれねば困る。 塚田それはだめです。十一月十三日までならよろしいが、それ以後は統帥をみだします ( 杉山、永野も同意見 ) 。 嶋田海相 ( 伊藤次長にむかい ) 発起の二昼夜くらい前までは、よいだろう。 塚田だまっていて下さい。そんなことはだめです。いったい、外相の必要とする期日とは、 部 何日ですか。 本 謀塚田次長は、八字型のロひげをふるわせて論じたてたが、ここで、二〇分間の休憩となり、 その間、参謀本部は田中新一第一部長、軍令部も福留繁第一部長を呼んで、いつまで外交をつづ けられるかを検討した。参謀本部は、十一月三十日までときめ、会議再開の席で、その旨を述べ 十 昭 しいから、ながく外交をやらせることはできぬか。 東条十二月一日にはならぬか。一日でも、 塚田絶対にいけません。十一月三十日以上は、絶対いかん、いかんです。 こ 0

5. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

オランダから完全な対日輸出停止を受けた場合の、物資の民間ストヅク状態を別表のように指摘 し、「現状を以て推移せんか、帝国は遠からず痩衰起っ能わざるべし」と警告した。 「沈思苦慮の日続く、一日の待機は一滴の油を消費す。一日の待機は一滴の血を多からし むー ( 「機密戦争日誌」 ) 決意か準備か 参謀本部が対策に悩んでいるところに、八月十六日、陸海軍部局長会議で、海軍は「帝国国策 遂行方針 , を提示した。 " 戦争決意することなく戦争準備を進め、この間外交を行ない十月中旬 に至るも外交打開の途なければ、実力を発動す″ー・ーという内容であった。 参謀本部は、早速、案をねり、陸軍省の修正を加えて成案を得た。その趣旨は、①戦争決意を 部して十月下旬を目標に戦争準備を進める、②九月中旬までに外交交渉が成功しなければ、開戦を 謀決意する、というものだった。海軍案との違いは、①まず戦争決意をする、②開戦決意を一カ月 早める、という二点にあったが、当時は、近衛文麿首相が日米交渉打開のため、ルーズベルト大 統領との会談を計画していたころである。政府としては、日米開戦という非常事態を予想する段 十 階ではなかった。はたして海軍側から異議がでた。とくに岡敬純軍務局長は、その後も同じ論法 和 昭 で反対した。陸軍案が「まず決意してから戦備を進める、というのにたいし、岡局長は「決意は 最後にすべきだ」と強調した。この対立は、多分に伝統的な陸海軍思想の相違にもとづいている。

6. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

イナンド〃はさらに重大な役割りを果たすことになる。 バンテグリフト少将の不安 リッチモンド・ターナ 八月七日ーー三一隻の輸送船団と六〇隻の米、オーストラリア艦隊が、 ー少将に率いられて、ガダルカナル島西方に近づいた。輸送船に乗っているのは、アレクサンダ ・・ハンデグリフト第一海兵師団長の指揮するガ島攻略部隊一万九〇〇〇人である。フレッチャ ー提督指揮の空母部隊ーー「サラトガ」「エンター。フライズ」「ワスプ」は、ガ島南方海上を警戒 していた。 ハンデグリフト少将は、気が重かった。八月一日の作戦開始日が一週間延期されたことはあり がたかったが、将兵の装備も訓練もひどくお粗末だった。本来なら、第一、第五、第七海兵連隊 が第一師団の兵力だが、第七連隊はサモアに派遣され、第一連隊は米本土から三週間前に到着し 死たばかり、増強された第一襲撃大隊、第三防御大隊は、それそれヌーメア、 ( ワイからかけつけ、 島 七月二十八日の上陸予行演習にやっと間に合ったありさまである。 ナ カ さらに重大なことは、ガダルカナルという島は米海軍にはもちろん一般にもほとんど知られて ダ いなかった。敵情はさつばりわからず、満足な地図一枚なかった。″フェルディナンド〃報告は ガ 「ツラギ地区に約一八五〇人、ガダルカナルに約五〇〇〇人の日本軍がいるーといっている。と くにガダルカナルには「完全装備の歩兵一個連隊が駐屯しているーというが、確認できない。地

7. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

170 ジャワ攻略の前哨線 ( 昭和 17 年 3 月 1 日まて ) ー川口支隊ー、 コタバル ダ オ 2.20 」朝支椦 . ′′タラ ポルネオ 2.25 ′ 1. ポンチャナク 一相島 2 .25 ー 東方支隊 隊 ロ戦「 ぐンガホ司レゴー 第 38- ョ マ たたフィリビンのほうは、マニラ攻略で主作戦終了 心島 ・ン という日本側の考えに反し、米比軍は。ハターン半島 島 籠城戦を展開するという見込み違いがあった。しか しマニラまでとすれば、十二月下旬には、予定 ( 二 ル月初旬 ) より約一カ月、マレー作戦も一カ月早く終 立ロ る見通しがついた。南方軍のこの予想をきき、参謀 スグレ の 本部は即座に、蘭印戦の一カ月繰りあげを決定、 = ン 九四二年 ( 昭和十七年 ) 一月二十日、第十六軍にた 、ン いしてジャワ攻略命令を発した。 ・い、マ ーレ - O 今村均中将麾下の第十六軍主力が、ジナワ島に上 ャ陸したのは三月一日だったが、それに先だっ ( 、ジ ャワを包囲する形で、周辺の要衝を、同軍隷下各部 一一 0 ー乙キー 隊が攻略した ( 上図参照 ) 。 ▽坂口支隊 ( 坂口静夫少将の混成第五十六歩兵団 ) 一月十一日夕ラカン ( ポルネオ ) 0 、 0 、 一月二十四日 ハンジェルマシン ( 二月十日 シャムビ べンクレン 21 2 レい 第師団ー 匸第 2 師団 ャ

8. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

ランドで待機中の第三十八師団第二百二十八連隊第一大隊を、第二師団の攻撃に即応して飛行場 東方のコリ岬に強行上陸させることにし、同部隊をコリ支隊と名づけた。 攻撃隊主力である第二師団は、アウステン山南麓を迂回し、ルンガ川右岸地区から北進して飛 行場を急襲する計画をたて、次のような兵力部署を定めた。 右翼隊ー川口少将の指揮する第二百三十連隊主力および第百二十四連隊の一大隊 左翼隊ー那須弓雄少将の指揮する第二十九連隊 ( 古宮政次郎大佐 ) ほか 予備隊ー第十六連隊 牽制隊ー住吉正少将指揮の砲兵隊。第十七軍直轄部隊として、マタニコウ左岸から飛行場を 砲撃して注意をひきつける 十月十六日正午那須部隊が、翌十七日司令部と川口部隊が、それそれ出発した。第十六連隊と 砲兵隊は十八日前進を開始した。飛行場まで約八六キロの行程である。道はただ一筋ーーエ兵隊 がジャングルの下枝をはらって切り開いた幅約五〇 ~ 六〇センチの小道だった。それは師団長の 名前をとって″丸山道〃と名づけられた。兵士たちは、食糧五日分、弾薬、装備のほか、砲弾一 発ずつを持って延々一列縦隊で進んだ。 進むにつれ、道はあるいは曲りくねり、あるいは嶮しくなった。日中でも暗いジャングルの中 で、ただ前に進む兵について歩いた。第一夜、豪雨がふりそそぎ、道はぬかるみ、前進は困難を きわめた。雨はその後も一日一回は降った。そのたびに、坂の上から川のように雨水が流れ落ち

9. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

空母相闘ったサンゴ海海戦 米海軍も忙しかった。米国は日米交渉において日本外務省の暗号を解読していたように、日本 海軍の暗号も解読し、かっウェーキ島その他での沈没軍艦から暗号書をひきあげていた。 だから、まず日本のツラギ、ポ , ートモレスビー攻略計画は早くも四月中旬に察知し、日本輸送 船団のラ・ハウル出発日時も正確に承知していた。「レキシントンー「ヨークタウンーの二空母を基 幹とするフランク・フレッチャー少将指揮の第十七、第十一機動部隊が南方に派遣された。 呉第三特別陸戦隊が五月三日ッラギを占領すると、直ちに翌四日午前六時三〇分から六時間に わたって「レキシントンー艦載機が来襲し、駆逐艦一、掃海艇二、駆潜艇一を撃沈した。またポ 戦 ートモレスビー攻略部隊には、空母「瑞鶴ー「翔鶴」を持っ第五航空戦隊 ( 原忠一少将 ) が護衛に 海 一あたったが、七日、五航戦の索敵機が米機動部隊を発見、翌八日にサンゴ海海戦が行なわれた。 ウ この海戦は、世界戦史における最初の空母同士の戦闘だった。水上艦艇は互いに相手の姿を見ず、 敵艦めがけて発射された砲弾は一発もなかった。戦いはひたすら航空機の攻防に終始した。 襲結果は、「レキシントンーおよび油槽船一、駆逐艦一を撃沈、「ヨ 1 ークタウン」を大破したが、 京日本側も改装空母「祥鳳」が沈没し、「翔鶴ーは大破した。とくに第五航空戦隊の飛行機搭乗員 は訓練が未熟たったため、三五〇マイルの距離から発進した第一回攻撃隊の艦爆一二機、艦攻一 五機は、艦爆一、艦攻八機を撃墜され、残りは全部海中に不時着した。ラ・ ( ウル基地から発進し

10. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

134 のようにさながら″記念日合わせ〃の作戦計画を考えた。 ▽開戦 十一月三日 ( 明治節 ) ▽マニラ攻略 一月一日 ( 元旦 ) ▽シンガポール攻略二月十一日 ( 紀元節 ) ▽ジャワ攻略 三月十日 ( 陸軍記念日 ) ▽ラングーン攻略 四月二十九日 ( 天長節 ) つまり、シンガポールの紀元節攻略は、もともと参謀本部の構想たった。軍命令をだしたのは、 上陸いらいわずか五日目である。持っていた地図が一〇万分の一、二〇万分の一という大ざっぱ なものなら、敵情もろくにわかっていない。当然、綿密な計算の下に作戦期間の一カ月繰上げが 割り出されたとは思えない。おそらく、進撃の快調ぶりを見た辻参謀が、調子づいた馬にここぞ と鞭をいれる心境で、かねて構想の紀元節まで予定を繰り上げたのだろうが、結果的には、この 決定は大成功となった。とくに紀元節攻略を、軍命令で布告したことに意義があり、マレー作戦 成功のカギはこの命令にあったと考えられる。 マレー快進撃の条件 参謀本部は、マレー作戦の基調精神を奇襲と突進においた。南方作戦における敵軍のうち、マ レー英軍が装備、兵力の面で最も手ごわいと予想され、さらにマレー作戦の成否が全南方作戦に