参謀総長 - みる会図書館


検索対象: 太平洋戦争 (上) (中公文庫)
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1. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

188 下奉文第二十五軍、今村均第十六軍両司令官とともに、本間中将は杉山参謀総長から、第十四軍 司令官任命の内意を受け、同時に作戦計画を内示されたときである。山下、今村両中将はなにも 質問しなかったが、本間中将は率直に、アニラ攻略が上陸後四、五日と予定されている根拠をた だした。敵情をつぶさに承知せずにはそんな予定は立てられないというのが、中将の意見だった。 杉山総長は眉をしかめた。名誉ある軍司令官拝命である。ただ謹んで受諾するのが当然なのに、 文句をつけるかのごとき本間中将の態度は心外だった。杉山総長は、「参謀本部の研究結果であ るーと声を荒らげて突っぱね、「任命がいやなのかーとまで、不快げにもらした。 本間中将としては、このようないきさつもあるので、できれば・ハターン攻略も無事に終らせた いま援軍を求めるとすれば、南方作戦参加の陸軍部隊で唯一の例となる。当然、中将の武将 としての声価にも、傷がつくことになるだろう。 だが中将としては、体力の限界をこえている部下を叱咤して、みすみす生命を失わせる決心は つかない。中将は、おそらく昇進の途がとざされることを覚悟して、・ハターン戦中断、援軍要請 を打電したのである。 ハターンには、田 はたして参謀本部では、本間中将ならびに幕僚の弱腰を責める声が高まり、 中新一作戦部長、富永恭次陸軍省人事局長らが相次いでやってきた。その結果、新手を加えて攻 撃を再開することになったが、同時に前田参謀長ら幕僚の更迭が行なわれ、新参謀長に和知鷹二 少将が就任。参謀本部作戦課長服部卓四郎大佐みすからが第二次攻撃作戦計画を作成し、シンガ

2. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

一、参謀総長、次長及び部下一同に一切の迷惑をかけず、自己一身に引き受けてやること。 : ・午後十一時半より三十分。大臣、次官、軍務局長、人事局長、次長を前に第一部長の大 臣に対する諫一 = ロ、再考要望は至誠至情、肺腑をつき余すところなし。言たまたま荒々しくな るところありとするも、蓋し重盛の父清盛に対する忠言に等しく、一座粛然として声なく、 室外に待機するもの赤松、二宮秘書官、真田、西浦課長、種村のみー ( 「機密戦争日誌」十二月 六日 ) 田中部長はこの夜、論争の末、気力ャロウ」と東条首相を一喝した。東条首相は翌日早朝、 杉山参謀総長と会見し、田中部長の更迭を求めた。いかに熱心のあまりでも、首相兼陸相が「 ( カヤロウ . 呼ばわりされては、軍人軍属統督の立場がないという理由である。その代り、船舶徴 傭については損失多大のときは考慮すると首相は約束した。田中部長は即日、南方軍総司令部付 となり、後任に綾部橘樹少将が就任した。 死高官とはいえ、個人の進退と国策とを取り引きするのは、本末を転倒した形だが、ともかく、 島 ″田中事件″で、参謀本部の権威は取り戻された。参謀本部は朝鮮の第二十師団、北支の第四十 カ一師団のガ島、ニュ 1 、ギニア転用を決め、ガ島奪回を策した。 ダ 米海兵隊の交代 「機密戦争日誌」の記録が示すように、″田中事件れの副産物にはガ島撤退論の抬頭があったが、 309

3. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

東郷外相が就任早々、松宮順元仏印特派大使、重松宜雄文書課長ら四人を辞任させたように、 外務省にも主戦派はいたし、他の官庁、財界にもいた。海軍もむろん例外ではない。現に、開戦 と決するや、海軍軍人の間には「いまや、海軍が主役を演ずるときがきた」 ( 十二月五日、「香椎」 艦長訓示 ) とする者が少なくなかった。したがって、海軍にも″機密戦争日誌″があったならば、 そこにあるいは参謀本部少壮将校と同じような意見をみることができたかも知れない。 さらにまた、「日誌」が開戦を主張するのは、その意思が彼ら少壮将校だけのものではなく、 すでに指摘したように、参謀本部の幹部もまた、同意していたからにほかならない。決して下剋 上の成果ではない。 では、参謀本部がかくも強く開戦を主張したのは、な・せか。作戦に自信があったからである。 部戦争の見通し 謀杉山参謀総長は、軍事参議官会議 ( 十一月四日 ) で、南方地域の連合国正規軍兵力を次のように 推定している。 年 約六 ~ 七万人約三二〇機 ▽マレー 十 約四万二千人約一七〇機 ▽フィリ。ヒン 和 約八万五千人約六〇機 ▽蘭印 約三万五千人約六〇機 ▽ビルマ

4. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

十月三十一日、参謀本部は部長会議を開き、「即時対米交渉断念、開戦決意、十二月初頭戦争 発起。今後の対米交渉は偽装外交とす . という結論をだした。第二十班は、もしこれ以外の案で まとまるときは、「会議決裂に導くべしーとの意見をそえた。 ところが、この参謀本部案にたいして、陸軍省は″一面戦争一面外交案〃を主張した。一方、 海軍は、十月二十三日の連絡会議で、永野軍令部総長が「一時間に四〇〇トンの油を消費してい る。ことは急である , と いいながらも「どちらかに決めてくれーと述べたように、必ずしも開戦 に同意してはいない。参謀本部は孤立するおそれが出てきた。 十一月一日午前九時、連絡会議が開かれたが、それに先立って、午前七時半から約一時間にわ たり、東条首相は杉山参謀総長と会談した。東条首相は前日、閣僚にたいして、次の三案を提示 し、あらかしめ検討を求めていた。 ①戦争を極力避け臥薪嘗胆する。 ②開戦を直に決意し、政戦略の諸施策をこの方針に集中する。 ③戦争決意の下に、作戦準備を完整すると共に、外交施策を続行してこれが妥結に努める。 東条首相は、海軍、大蔵、企画院は第三案、外務省の態度はまだはっきりわからないが、自分 としては第三案でいきたいと杉山総長に語り、次のようにつけ加えた。 かみ 「また、お上は正々堂々やることをお好みになることも考えると、いま開戦を決意し、その後偽 騙外交をやることは、お聞き届けにならぬと思う。しかし、この案を統帥部として成功せしめる

5. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

論に同意しなかったのは、この選挙をひかえて、船舶の民需用転換など、国民へのアビールをし たかった気持もあったからだった。それだけに、東京空襲が国民の士気にあたえる影響が懸念さ れたが、幸い少数機の短時間空襲だったので、全国民に衝撃を及・ほすほどではなかった。だが、 とにかく参謀本部にとってはショックだった。少なくとも、海軍とくに連合艦隊の″積極的敵艦 隊撃減論〃の必要性を裏書きするかのごとき印象を受けたのは事実である。 そして、連合艦隊が主張するミッドウェー作戦は、にわかに現実性をおびた。この作戦につい ては、参謀本部は、軍令部と連合艦隊とのやりとりも知らず、突然、″軍令部総長も同意した、 ノドウェー作戦は、 もし陸軍がいやなら、海軍独力でやる″という形で申し入れを受けていた。 アリューシャン攻略も含んでいる。アリューシャン攻略は、北辺防備、米ソ遮断という陸軍の戦 ミツ・トウェー、 アリューシャン攻略とも、各歩兵一個連隊以下の兵力ですむ 戦略にかなう。また、 一ので、参謀本部もとくに強い反対理由を見出せなかった。ただ、いきなり提案されたため渋って ウ いたが、いまや東京空襲の事実を前にしては、参謀本部としても米艦隊制圧の必要を痛感、同意 せざるをえなくなった。 アリューシャン作戦が発令された。 襲五月五日、コレヒドール陥落の前日、ミッドウェ 空 京 ▽大海令第十八号 東 昭和十七年五月五日 奉勅軍令部総長永野修身

6. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

254 この海軍の意向にたいして、マッカーサー大将もまた、対日反攻の時がきたと信じていた。大 将よミツ・ トウェー海戦三日後の六月九日、早くもニ ミツツ提督に手紙を送り、水陸両用訓練を受 けた一個師団と空母二隻を貸してくれるならば、ラ。ハウルを攻略する覚悟だと述べた。むろん、 ニミツツ提督は断わった。数少ない空母を二隻も敵基地航空兵力の攻撃にさらすことはできない、 というのが表向きの理由たったが、腹の底には、これまでもこれからも戦争の主役は海軍だ、と いう決意があったからにほかならない。またラバウルが日本の手に落ちたさい、海軍は、その南 方の島の防備に陸兵の派遣を要請したが、マ , ーシャル参謀総長に拒否されたいきさつもある。 ッドウェー戦で自信に燃える海軍を代表するキング 問題は統合参謀本部に持ち込まれたが、ミ 作戦部長は、マーシャル参謀総長に強硬な書簡を送った。 「海軍は、たとえ南西太平洋方面の陸軍兵力の支援がなくても、 ( 戦争主導権を握るソロモン攻 略 ) 計画は遂行すべきだと信ずるー 妥協が行なわれ、三つの作戦が考え出された。 ①サンタクルーズ諸島、ツラギおよびその周辺の攻略 ②残りのソロモン群島、東ニューギニアのラエ、サラモアおよび周辺地域の攻略 ③ラ・ハウルおよび周辺の攻略 第一作戦はニミツツ提督、第二、第三作戦はマッカーサー大将の管轄とされ、作戦開始日は八 月一日と定められた。

7. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

317 ガダルカナル島の死闘 方 / 要線ヲ占領シ爾後 / 作戦ヲ準備セシム・ヘシ 昭和十七年十二月二十八日 参謀総長杉山元 第八方面軍司令官今村均殿 撤退と書いてなくても、むろん察しはつく。方面軍では、かかる重大な新方針を大陸命 ( 大本 営陸軍部命令、天皇の命令を仰ぐ ) でなく、大陸指 ( 大本営陸軍部指示、大陸命にともなう指示事項 ) でい ってくるとはなにごとかといきまいたが、参謀本部は十二月三十一日、作戦の重点をニューギニ アに転換する作戦方針を決定。つづいて一月四日、同方針を明示した大陸命第七百三十二号およ びガ島撤収を命ずる次のような大陸命が発せられた。 大陸命第七百三十三号 命令 一、第八方面軍司令官ハ海軍ト協同シ速ニ「ガダルカナルー島ニ在ル部隊ヲ後方要地ニ撤収 二、細項ニ関シテハ参謀総長ヲシテ指示セシム 昭和十八年一月四日 また同日、撤収に関する陸海軍中央協定が指示され、撤退作戦は「ケ」号作戦と名づけられた。 捲土重来の″ケ〃をとったものである。そして、第十七軍にたいする撤退命令の伝達は、方面軍

8. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

ポール攻略で″勇名〃をはせた辻政信中佐も、参謀本部から作戦指導のために特派された。 マッカーサー大将の幸運 当時、マッカーサー大将は、コレヒドール島マリンタ・トンネル内の司令部で指揮をとってい たが、本間中将とは対照的に武将としての幸運にめぐまれていた。 ハターン戦のさなか ( 一月二十六日 ) に六二歳の誕生日を迎えた大将は、米国陸軍史上まれな秀 才とうたわれた。陸軍士官学校は首席、史上最年少の陸軍参謀総長となった。一九三七年十二月 ・マッカーサー中将が軍政官をつとめたゆ 三十一日、功成り名遂げて米陸軍を退職。父アーサー かりの地、フィリビンに陸軍元帥として招かれた。年俸三万一五〇〇ドルだった。当然、そのま まフィリ。ヒン政府顧問軍人として生涯を終えるはずだったが、戦雲急を告げだしたおかげで、四 戦 略一年七月二十六日、再び米陸軍中将、極東軍司令官に返り咲き、開戦後大将に昇進した。この点 島は、大将の部下の第一軍団長ジ = ナサン・ウ = インライト少将も同じだった。米陸軍では代将ど 一まりのところ、フィリビンにきて少将になったのである。 マッカーサー大将の幸運は、その返り咲きだけではなかった。開戦後、 0 3 計画を発動す るさい、大将が最も恐れたのは、く / ターンに逃げ込んだものの日本軍が攻撃してこない場合だっ た。 0 3 計画では、米本土から救援がくるまで六カ月間・ハターンにたてこもることになって いる。食糧は、肉と魚の罐詰三〇〇〇トンをコレヒドールに貯蔵してあった。ところが、フィリ

9. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

発令され、ハワイ空襲をふくむ作戦研究も、着々と形をととのえてきていた。 そして、作戦時期としては、米英と結んだソ連が行動に出てこない冬の間が有利である。その ためには季節風が強くなって、上陸作戦が困難になる十二月以前、すなわちできれば十一月に作 戦を開始すべきだ というのが、陸海軍作戦担当者の一致した意見だった。「要領ーにいう十 月下旬、十月上旬という期限は、、・ しすれもこの十一月開戦の予想を根拠にしたものである。 荻外莊会談 九月二十五日、大本営政府連絡会議の席上、永野軍令部総長は杉山参謀総長とともに、政府に たいして次のような要望を行なった。 ①南方作戦の発動は、おそくとも十一月十五日であることを要する。 ②そのためには十月十五日前後から兵力の輸送を開始し、南部仏印に戦略展開をさせねばな らない。 ③したがって、日米交渉は一日も早くその成否を判定し、十月十五日までに政戦の転機を決 定してほしい。 この要望は最初、参謀本部第一部 ( 作戦 ) 起案の文書による予定だった。すなわち、陸軍は文 書の形をとることによって、海軍の覚悟を明確化させようとしたのである。海軍は反対し、要望 は口頭で行なわれた。しかし、陸軍としては、たとえ口頭でも、期限付きの申し入れに海軍も同

10. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

13 昭和十六年秋 , 参謀本部 一日の待機は一滴の血を多からしむ 太平洋戦争開幕の主役をつとめたのは、陸軍とくに参謀本部だ 0 た。そして、参謀本部が太平 洋戦争の決意を固めたのは、一九四一年 ( 昭和十六年 ) 八月二十二日であ 0 た。参謀本部第二十班 ( 戦争指導 ) の「機密戦争日誌」は、その日、次のように記録している。 「陸軍省案を加味したるものにて部長会議開催。前後四時間にわたり審議し、対米英戦決意 を決定す。 次長 ( 著者註・塚田攻中将 ) 対米英戦決意の意見牢固たるものあり。 約一カ月にわたり、苦悩に苦悩を重ねたる結果、戦争決意に到達したるものの如く、次長の 意思は極めて鞏固なり。 右案果して海軍または政府と意見一致するや否やに関し、総長 ( 著者註・杉山元大将 ) 以下大 なる疑問を持ちあり。一致三分不一致七分と考えあるが如く、内閣瓦解は必至なるべし」 昭和十六年秋、参謀本部