第一次一八三機四一二人、第二次一六七機三五三人、総計三五〇機七六五人の ( ワイ空襲部隊 である。この七六五人は、当時の日本海軍航空部隊の最精鋭たちだったその技術はいまや最高 度に錬磨され、その覚悟は決死であった。誰一人としてパラシ = ートを身につけず、飛びたって っこ 0 この朝のハワイは、申しぶんなく、うららかだった。午前七時ごろ、山かげから朝日が顔をだ すと、斜面の砂糖キビ畑の緑が輝き、南海の青さが一段と濃くなり、ワイキキの浜辺には、早く も朝食前のひと泳ぎを楽しむ市民の姿も見えた。 オアフ島には、キンメル大将の太平洋艦隊のほかに、ショート 中将指揮の歩兵第二十四、第二 十五師団を中心に約六万人の陸軍部隊がいた。ショート 中将とキンメル司令長官は、ともに戦争 の危機は感じていたが、オアフ島が直接の攻撃対象になるとは考えなかった。危険があるとすれ ば、サポタージ = ( 破壊工作 ) であろう。そこで飛行場では、航空機が警戒しやすいように間隔を つめて並べられていた。 真珠湾内には、九四隻の太平洋艦隊の艦船がいたが、駆逐艦「ヘルムーだけが、磁気機雷防御 装置の調整のため、湾内を航行中だった。湾口には防潜網がはられていたが、艦船は防雷網をは りめぐらしてはいなかった。真珠湾の水深は四〇フ ィートたらずで、当時の常識からいえば、最 低七五フィ トの水深を必要とする魚雷攻撃には浅すぎると思われたからである。
228 水艦三隻もさしむけた。、 、、ツドウ = ーを強化したのは、″〃が ( ワイであっても、途中の。 ッドウェー基地から日本艦隊を襲えるからだが、ニ ミツツ提督はやがて″の所在を明らか にできた。情報参謀ジ = セフ・・ロシフォート中佐は、″ ノドウェーではないか と予感し、「、 、、ツドウ = ー島の蒸溜施設がこわれて飲料水にこまっている」という電報を、平文 で ミッドウ = ーから打たせてみた。日本が傍受すれば暗号電にのる。その結果は、少なくとも ッドウェ ーかどうか、判定がつくだろう。二日後、太平洋艦隊司令部暗号班は、一 通の日本海軍電報を解読した。 「″ <g-v 〃は新鮮な水に不足している ニミツツ提督は、太平洋艦隊の総力をあげて、 、ツドウェーに山本長官を出迎えることにした。 五月二十八日午前一一時一四分、レイモンド・ スプルーアンス少将が指揮する「エンタープラ イズ」「ホーネット」を中心にした重巡五、軽巡一、駆逐艦一一、給油艦二の第十六機動部隊が 真珠湾を出発した。つづいて五月三十日、三カ月はかかると見込まれた修理を二日で完了した 「ヨークタウン , と、重巡二、駆逐艦六の第十七機動部隊が、総指揮官フレッチャー少将に率い られて後を追った。 ( ルゼー中将は、ホノルルの海軍病院に入院していた。病名は、「一般性皮膚炎」。原因はよく わからないが、いてもたってもいられないほど全身がかゆいのである。敢闘精神にもえる中将は、 千載一遇の大会戦に参加できない非運をのろい、文字どおり全身をかきむしりながら、病室の窓
ふっていたが、翌八日になると、他の上院議員といっしょに、双手をあげて大統領の対日宣戦布 告に賛成している。米国中にみなぎった「〃黄色いらず者〃をやつつけろ」の叫びに感奮せざ るをえなかったからである。 この点をとらえて、モリソン博士は、日本の真珠湾攻撃を「政略的にはとり返しのつかない失 敗」ときめつけるのだが、米国民の対日戦意昻揚をマイナスだというならば、同時に、真珠湾攻 撃が日本国民に与えた心理的影響をも見落してはならない。 「帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり の大本営発表を、臨時ニュースと号外で知らされた日本国民は、その評価に一瞬躊躇した。しか しつづく「米太平洋艦隊は全減せり」のニ = , ースは、「英東洋艦隊主力全減す」の報らせととも に、一挙に日本中をわきたたせた。長い日華事変で沈滞しがちだった国民の士気も、″新時代の 到来〃とばかりに高まったのである。 議会は感謝決議をした。国民はそくそくと陸、海軍省に献金した。とくに海軍省へ殺到した。 開戦後二日間で、一五九万一三九円八一銭、米太平洋艦隊にたいする戦果の詳報が発表された十 襲八日は、その日だけで三四〇万七一七〇円六二銭の献金が海軍省に寄せられた。それまで、朝日 新聞社が集めていた軍用機献納資金にしても、開戦前は、一日平均一〇〇 ~ 二〇〇円程度だった 珠 真 こと、一〇本入り紙巻タ・ハコ一箱平均一五銭という当時の物価などを思いあわせるとき、真珠湾 攻撃がいかに強い印象を日本国民に与えたかがわかる。
ハルゼー中将の″個人的〃戦争命令 南雲中将がハワイに近づいているころ、米国海軍のウィリアム・ ハルゼー中将も、ハワイに向 かっていた。小柄で鋭い眼光、いつも苦つ。ほくひきしめた唇ーー、、二人の中将の風貌はよく似てい た。そして奇しくも 、ハルゼー中将も水雷科出身だった。ハルゼー中将は、空母「エンタープラ / トナム イズ」、重巡三、駆逐艦九を基幹とする第八機動部隊を率いて、ウェーキ島にポール・。、 少佐指揮の海兵隊戦闘機隊 ( グラマン戦闘機一二機 ) を運んで行った帰りだった。そして、 ハルゼー部隊もまた南雲部隊と同じく絶対の隠密行動をとっていた。 海兵隊戦闘機の輸送は、日米開戦のさいの米太平洋艦隊作戦計画恥第一法にもとづ くものだった。は、さらに米国総合防衛計画「レインポー五号」の中の海軍基本戦 略にもとづいていて、第一法「開戦前」、第二法「開戦直後」、第三法「その後ーの三段 ウェーキ、ジョンストン 階にわかれていた。第一法は、もつばらミッドウェ 、。、レミラ、サ モア、グアムなど太平洋の基地の防備を強化するためのもので、すでに十月十六日に発令されて いた。そして、早くも太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将は、ジョンストン島に重巡 一、駆逐艦五の第三機動部隊を派遣し、ミッドウェ 、ウェーキにそれそれ潜水艦二、輸送船一、 サモアに重巡一、機雷敷設艦一を配置。さらにハルゼー部隊のほかに、空母「レキシントン」基 幹の第十二機動部隊にも、 ッドウェーに海兵隊戦闘機一八機を増派することにしていた ( 同機
戦略・政略的勝利 また戦艦群だけを集中攻撃したことは、「戦略的にも愚の骨頂」とするモリソン博士の批判に もかかわらず、じつは大きな戦略的成果だった。 米太平洋艦隊作戦計画は、その開戦後の方針を次のように定めていた。 ▽開戦直後 ①北太平洋の日本輸送船攻撃 ②マーシャル諸島の偵察と大規模襲撃、可能なら南西諸島と南方諸島の海域の日本商船 を巡洋艦により攻撃 ③日本本土と日本軍交通線の潜水艦哨戒 ④マーシャル諸島の占領と支配の準備 ▽その後 ①マ】シャル諸島方面占領、艦隊泊地設定 ②トラック島占領、艦隊前進基地設定 空 湾すなわち、モリソン博士は、あわてて真珠湾を攻撃しなくても、いずれ太平洋に押しだす米艦 真 隊を待ちうけるほうが、より徹底的な戦果をあげられる。真珠湾攻撃は、その意味で戦略的必要 性のない作戦だったと批判する。
202 ″南方籠城〃か″攻勢防御れか 南方作戦が終ると、日本はビルマ、タイ、マレー、蘭印、フィリビンその他の東南アジア地域 を支配下におさめ、版図はさらに中部太平洋からニ = ーギニアにまで広がった。 米太平洋艦隊主力をはじめ、英、オランダ、オーストラリアの極東艦隊は海底に沈み、太平洋 からインド洋にかけて、南海を波だたせるのは、日本艦隊だけになった。 捕えた連合軍の捕虜は実に二五万人。撃沈した敵艦一〇五隻、大中破九一隻、撃墜した敵機は 海軍だけで四六一機、爆破炎上一〇七六機。これにたいして、日本側の損害は戦死約七〇〇〇人、 戦傷約一万四〇〇〇人、失った飛行機は陸軍四四〇機、海軍一一三機、艦船は二七隻を損失した 巡洋艦以上の大型艦は一隻も沈んでいない。まさに大戦果である。東京神田の共立講堂で開 かれた戦捷第二次祝賀大会では、海軍報道部課長平出英夫大佐が、 「西にロンドンで入城式というときに、東で = : ーヨ : クで観艦式 : : : その日が最後の戦捷 東京空襲とミッドウェー海戦
計二四〇四人 @負傷 海軍九一二人 海兵隊七五人 陸軍三六〇人 市民約二八〇人 計一六二七人 これらの被害は、米国史上、空前のものだった。艦艇の損害は、真珠湾在泊の太平洋艦隊九四 隻の一八 % 、しかし戦艦八隻は一〇〇 % の損傷をうけた。第一次大戦で米国が失った艦艇は、わ ずかに巡洋艦一、駆逐艦二、潜水艦一、砲艦および警備艇六隻にすぎなかった。航空機は、真珠 湾に存在した五四四機 ( 練習機その他非戦闘用機を除く ) の八八 % が被害をうけた。 人員の被害にいたっては、米西戦争と第一次大戦の被害合計の約三倍である。死者二四〇四人 は、ヨ 1 ロツ。ハ戦線を含めた第二次大戦の米軍戦死者合計二九万二一三一人の約一 % にあたる。 そして第二次大戦を通じて、わずか二時間の戦闘で二〇〇〇人以上の死者を数えたのは、米軍に とって、この真珠湾だけである。 これにたいして、日本側の損害は、ケタ違いに少なかった。 << 航空機
の第一次攻撃隊 戦闘機三機、艦爆機一機、艦攻機五機 @第一一次攻撃隊 戦闘機六機、艦爆機一四機 艦船 特殊潜航艇三人乗り ) 五隻 O 人員 ( 戦死のみ ) 搭乗員五五人、潜航艇乗組員九人 ( 酒巻和男少尉は捕虜 ) 計六四人 ( ほかに澣水艦イがオアフ島東方で消息を絶っている ) ″真珠湾空襲、演習にあらず〃 日本機の空襲がはじまったとき、太平洋艦隊九四隻の対空火砲七八〇門のうち、兵員が配置さ れていたのは、その四分の一。陸軍は全高射砲三一門中、砲手がついていたのはわずか四門、お 襲まけに弾丸は一発も用意されていなかった。そして、陸軍が戦闘配置を完了したのは、午後四 ~ 五時で、それまで陸軍高射砲は、ついに火をはかなかった。 真 海軍のほうは、とにかく射撃体制下にあったので、駆逐艦「エルウイン , が午前七時五八分に 射撃を開始したのをはじめ、日本部隊がもつばら戦艦群に攻撃を集中したため、目標をまぬがれ
117 もっとも、これは電信係がまったくの冗談で打電したもので、後にデブルー少佐が述懐したと ころでは、「ジャップをどこかほかの所に移してくれ」というのが本音だった。しかしいずれに せよ、″ジャップ送れ〃の一電は、ウェーキ将兵のアメリカ魂の発露として、全米国民を感動さ せた。 フレッチャー部隊も、このウェ ] キ島の海兵たちの敢闘精神に応えるべく、遅い船足にいらだ ちながら、夜を日についでかけつけてきたのである。だが、フレッチャー少将は、当惑した心境 にあった。 太平洋艦隊司令長官キンメル大将は、十二月十七日、 ハワイ空襲の責任を問われて解任された。 略代ってチェスター ニミツツ少将が大将に二階級特進して後任に発令されたが、ニミツツ大将着 島任までの間、ウィリアム・パイ中将が代理をつとめていた。ところが、そのパイ中将の命令は、 一まるで猫の目のように変るのである。ハワイを出発するときは、フレッチャー部隊の任務は、ウ ウ = ーキ島の二〇〇マイル以内に接近し、日本艦隊を探して、これを攻撃することだった。ところ 進が、航海の途中、パイ中将から命令変更の指令がきた。水上機母艦「タンジール」を派遣し、ウ = 1 キ守備隊を収容せよ、という。そのつもりでいると、また前言とり消し、「タンジール」の 増援部隊、物資を陸揚げし、同時に空母「サラトガ」からも戦闘機をウ = ーキに送ってひきあげ ろ、という。 し / し ( ワイはなにを考えているのだ、とフレッチャー少将は不審に思ったが、無線封止
て戦争の恐怖がせまってきたからである。 だが、これは日本機ではなかった。空母「エンタープライズ」からとびたったグラマン戦闘機 が、哨戒に疲れはてて着陸しようとしたのを、緊張と恐怖にかられた高射砲員が、日本機だと誤 認して射撃、全真珠湾の火砲が同調してしまったのである。六機の戦闘機のうち、四機が撃墜さ れ、ハルゼー中将の太平洋戦争第一日は、同士討ちによる損害という不愉快な結果に終った。 「エンタープライズーをはじめ太平洋艦隊は、その後数日間、日本艦隊を求めてハワイ周辺を探 しまわったが、日本機動部隊は攻撃隊の収容後、速力をあげて北進、補給部隊の待っ点 ( 北緯 三七度、西経一六〇度 ) を目指して、戦場を離脱していたのである。 予測されなかった攻撃 ところで、「真珠湾空襲、演習にあらず」の悲電は、ワシントン時間七日午後一時四〇分 ( ( ワイ時間午前八時四〇分 ) ごろ、スターク作戦部長に届き、作戦部長はすぐノックス長官に電話を かけた。 「そんなバカなツ。そりやフィリ。ヒンじゃないのか 真珠湾と聞いて、ノックス長官は仰天したが、間違いないとわかると、あわててホワイトハウ ス直通電話にしがみついた。午後一時四七分、ノックス長官からの電話が鳴ったとき、ルーズベ ルト大統領は側近の、 ノリー・ホ。フキンズといっしょに、昼食をとっていた。ホ。フキンズは、即座