222 山本連合艦隊司令長官ニ命令 一、連合艦隊司令長官ハ陸軍ト協力シ「 略スペシ ( 終 ) 二、細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ指示セシム ッドウ = 、ー攻略にあたる一木支隊 ( 歩兵第二十八連隊長一木清直大佐 ) 、北海支隊 ( 穂積 同時に、 松年少佐指揮の独立歩兵第三百一大隊 ) の戦闘序列が下令され、両作戦に関する陸海軍中央協定も指 示された。 攻撃予定日は、夜明け前に残月があり、母艦機の夜間行動が可能な六月七日と決定した。 ( ワ イ空襲からちょうど六カ月目、日本機動部隊はふたたび太平洋を東に向かうことになった。 問題多かった図上演習 、、ツドウ = ー作戦が決まると、海軍は忙しかった。すでに述べたように、東部ニ、ーギ = ア攻 略は、第一段作戦の一部として策定されていた。三月七 ~ 八日、南海支隊の一部と海軍陸戦隊は、 ラエ、サラモアを占領したが、つづいて五月三日ッラギ、五月十日ポートモレスビ , ーを攻略、そ サモア作戦とつづく予定である。 さらに七月にはフィジ , ー のあと六月七日にミッドウェ ミッドウェー作戦には、山本長官みずから直率、連合艦隊のほとんど総力をあげて出動する。 呉、佐世保、横須賀その他の軍港では、連日連夜、各艦の補給、整備を急いでいた。港内を、お ミッドウェイ」及「アリューシャンー西部要地ヲ攻
33 昭和ナ六年秋 , 参謀本部 なえて九月いらい、仏印、海南島、南支那、台湾、奄美大島、パラオ、小笠原諸島などに移動を 開始していた。右の命令で、各部隊は作戦準備地点に集結し、次いで展開命令 ( 南方軍にたいして は十一月十五日、機動部隊にたいしては十一月二十二日発令 ) によって待機地点に進出、最後の開戦命 令で戦闘に入るのである。 開戦日は、とくにハワイ空襲に好都合な条件を考えて、すでに陸海軍作戦当局者の間で決定さ れていた。米艦隊が多く碇泊し、油断しがちな日曜日、そして攻撃隊発艦に便利な残月が日出前 まで輝く日ーー・十二月八日である。十一月七日、山本五十六連合艦隊司令長官は、準備命令とと もに日 ( 開戦概定日 ) を指示した。 機密連合艦隊命令作第一一号 昭和十六年十一月七日佐伯湾旗艦長門 連合艦隊司令長官山本五十六 連合艦隊命令 第一開戦準備ヲナセ 日ヲ十二月八日ト予定ス ( 終 ) 外交不成功を祈る 準備とはいえ、戦争の″決意〃はきまった。あとは十二月一日を待つだけである。
230 略部隊とされ、前日にサイ。 ( ン、グアムを出発した部隊も指揮下に含むが、主力は空母「瑞鳳ー のほか戦艦二、重巡四、軽巡一、駆逐艦八である。 ミッドウェーを目ざした。主力部隊は つづいて同日、山本連合艦隊司令長官直率の主力部隊が さらに主隊と警戒部隊に分かれ、主隊は戦艦「大和」「長門」「陸奥」のほか、空母「鳳翔」、軽 巡一、駆逐艦九。警戒部隊は第一艦隊司令長官高須四郎中将の率いる戦艦四、軽巡二、駆逐艦一 二である。 ッドウェ 以上の戦闘部隊のほか、警戒潜水部隊、各種補助艦船を合わせると、ミ = ーシャン作戦に動員された艦船は三五〇隻、飛行機一〇〇〇機、将兵はじつに一〇万人をこえ た。まさに日本海軍史上、空前絶後の大出撃である。 、、ツドウ = ー作戦がひどくせわしなく決定され、準備されたことは、すでに指摘したが、作戦 にはいくつか根本的な欠陥があった。第一は、作戦目的の不明確である。五月五日に発令された ッドウェーを「攻略せよーと指定している。しかし、同時に明示された陸海軍中 大海令には、ミ、 、ツドウェー作戦計画には、作戦目的は次のように述べられている。 央協定および連合艦隊の、、 「ミッドウェーー島 ( 「キ = ア」島を含む ) を攻略し、 ( ワイ方面よりする我が本土に対す る敵の機動作戦を封止すると共に、攻略時出現することあるべき敵艦隊を撃減するに在り。 、、ツドウェー島攻略がねらいか、それとも敵艦隊撃減が目標なのか。 山本長官の望みが米機動部隊殲減にあることは、すでに明らかである。また、近藤中将が五月
間当時から論点になっていた。機動部隊が、エ トロフ島ヒトカップ湾を出撃するさい、南雲長官が 指示した「機密機動部隊命令作第三号」でも、次のように、反覆攻撃を行なう建前になっていた からである。 第一次及第二次攻撃隊帰艦セ・ハ直ニ次回攻撃準備ヲ完成シ置クモノトス此ノ際艦上攻撃機 ハ極力雷撃装備トナスモノトス 敵基地航空兵力殲減戦順調ニ経過セ。ハ直ニ反覆攻撃ヲ加へ決定的戦果ヲ獲得ス又敵ノ有力ナ ル出撃部隊アル場合ハ攻撃ヲ之ニ指向スルヲ例トス 日本内地にいた連合艦隊司令部でも、機動部隊がひきあげると知り、不満の声が高まった。参 謀長宇垣纒少将は、その日誌『戦藻録』でいっている。 「泥棒の逃げ足と小成に安んずるの弊なしとせず。僅に三十機を損耗したる程度に於ては、 戦果の拡大は最も重要なることなり。 自分が指揮官たりしせば、此際に於て更に部下を鞭撻して戦果を拡大、真珠湾を壊減する迄 やる決心なり」 もともと、ハワイ作戦はすでに述べたように、山本五十六連合艦隊司令長官の強い主張で実現 したものだが、山本長官は、そのねらいを、及川古志郎海相あて書簡で ( 昭和十六年一月七日付 ) 、 次のように述べている。 「日米戦争に於て我の第一に遂行せざるべからざる要領は、開戦劈頭敵主力艦隊を猛撃撃破
31 昭和十六年秋 , 参謀本部 戦計画」を上奏。その裁可を得て、つぎつぎに作戦準備を発令した。すでに、この日の朝、野村 吉三郎駐米大使を補佐する来栖三郎特命全権大使は、最後の日米交渉案、甲、乙案を持って、追 浜から海軍機でとびたっていた。 ▽大海令第一号 昭和十六年十一月五日 奉勅 軍令部総長永野修身 山本連合艦隊司令長官ニ命令 一、帝国ハ自存自衛ノ為米国英国蘭国ニ対シ開戦ノ已ムナキニ立チ至ル虞レ大ナルニ鑑、、 十二月上旬ヲ期シ諸般ノ作戦準備ヲ完成スルニ決ス 二、連合艦隊司令長官ハ所要ノ作戦準備ヲ実施スペシ 三、細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ指示セシム ▽南方軍総司令官等ニ与フル命令 大陸命第五百五十六号 命令 一、大本営ハ南方要域ノ攻略ヲ準備ス 二、南方軍総司令官ハ海軍ト協同シ主力ヲ以テ印度支那、南支那、台湾、南西諸島及南洋
機動部隊進発 南雲忠一中将は、北太平洋を進む機動部隊の旗艦「赤城」の艦橋で、山本長官からの開戦命令 の飛電を受けとった。 心配された天候は意外にも晴天にめぐまれる日が多かったが、その日は海上を吹き渡る風は強 く、浪も高かった。給油は中止され、二三隻、三万人の機動部隊 ( ほかに給油船八、ミッドウェー島 砲撃に別行動をとる駆逐艦一 l) は、荒涼とうねる北太平洋を黙然と東に進んでいた。中将は、艦橋 の椅子に身をしずめ、唇をひきしめて、果てしなく広がる天緑色の海原に目をこらしていた。思 襲えば、この機動部隊が誕生し、こうしてハワイを目指すまでには、多くの努力と曲折があった。 湾もともと日本海軍には、、 / ワイ攻撃作戦はなかった。米国と戦うときは、外南洋方面の太平洋 真 で米艦隊を迎え撃つのが、伝統的戦略方針だった。だが、一九三九年 ( 昭和十四年 ) 八月三十日、 山本五十六中将 ( 翌年十一月大将に昇進 ) が連合艦隊司令長官に就任すると、山本長官は航空部隊 真珠湾空襲
208 この点で軍令部と連合艦隊の意見は相違した。軍令部は、米国の反攻基地覆減を考えた。最大 の反攻基地となるのはオーストラリアだから、まずその北部攻略を考えた。しかし、そのために は陸兵一〇個師団、船舶二 ~ 三〇〇万トンを必要とする。そんなことをすれば南方はガラあきに なり、北方、内地の守りさえ危くなると、参謀本部に反対された。そこで軍令部は、フィジ , ー サモア、ニューカレドニア諸島を攻略し、米国とオーストラリアの連絡を遮断する計画を立てた。 これらの島の攻撃には、歩兵九個大隊程度て間に合うと見込まれたので、陸軍も同意した。 山本司令長官の信念 連合艦隊は米艦隊撃減を主張した。米艦隊がいる限り日本の安全は保障されない。米本土に進 攻できない以上、見つけたらたたき、あるいは誘い出してはたたき、つねに相手を撃減または極 度の劣勢に置いておかねばならない これが、山本連合艦隊司令長官の変らざる信念だった。 ハワイ攻略、およびそれ 連合艦隊では、四二年 ( 昭和十七年 ) に入ると早くも、 にともなう日米艦隊決戦案を策定した。同日の宇垣参謀長の日記『戦藻録』には、こう記されて 「一月十四日水曜日半晴 四日間の努力に依り作戦指導要綱を書きあげたり。結論としては六月以降ミッドウェー ョンストン、。ハルミラを攻略し、航空勢力を前進せしめ、右概ね成れるの時機、決戦兵力、
260 研究作戦の任を受けて七月二十一日、・フナ西方の・ ( サ・ファ付近に上陸した。 つづいて第十七軍司令部はラ・ハウルに進出、 ミッドウェー海戦後の連合艦隊編制変えで新設さ にしぞう れた三川軍一中将の第八艦隊、テニャンに司令部を置き南東方面を担当する塚原二四三中将の第 十一航空艦隊との間に、七月三十一日、陸路および海路からポートモレスビーを攻略する協定を 結んだ。そして、ブナ付近に飛行場を概成する八月中旬、南海支隊主力を上陸させ、本格的作戦 を開始することになっていた。 だが、ガダルカナルを奪われては、ニューギニア方面は重大な脅威を受ける。ッラギからの飛 電に接すると、塚原第十一航空艦隊司令長官は、直ちにラ・ ( ウルの第二十五航空戦隊に反撃を命 ずるとともに、自分もテニャンからラバウルに飛んた。ガダルカナルの陸戦隊からの報告によれ ば、敵は空母一、戦艦一、巡洋艦三、駆逐艦一五、輸送船四〇以上という。 三川中将は重巡「鳥海」を先頭に、五藤存知少将の第六戦隊 ( 重巡「青葉」「衣笠ー「加古」「古鷹」 ) 、 松山光治少将の第十六戦隊 ( 軽巡「天竜」「タ張」 ) 、ほかに駆逐艦「タ凪ーを率いて、ガダルカナ ルに・同かった。 連合艦隊司令部も、ことの意外さに驚いたが、同時に生色をとりもどした。米海兵隊が上陸し たのは、いわば人質をとったようなものである。この人質がある限り、敵艦隊はその周囲にうろ つくから、こんどこそ決戦をいどんでたたける。山本長官は八日午前一時、旗艦「大和」の統率 の下に第二、第三艦隊に出動を命じた。まずトラックに向かい、 ソロモン決戦の機会をねらうの
から機動部隊の出撃を見送った。 空前絶後の大艦隊出撃 米機動部隊が西に向かったころ、時を同じくして日本艦隊も北と東に進んだ。 五月二十六日、北方部隊 ( 第五艦隊司令長官細萱戊子郎中将 ) の主力、角田覚治少将が指揮する第 四航空戦隊の空母「竜驤」「隼鷹。を基幹とする重巡二、駆逐艦三、油槽船一の第二機動部隊が、 大湊要港を出港した。アツツ島攻略の北海支隊、キスカ島攻略の舞鶴第三特別陸戦隊 ( 向井一二 三少佐 ) をのせた輸送船三、これを護衛する軽巡三、駆逐艦八、細萱中将の主隊である重巡一、 駆逐艦二、その他随伴の駆潜艇、運送船らは五月二十八日、そのあとにつづいた。 戦五月二十七日、第三十七回海軍記念日、ミ ッドウェー作戦部隊で主役をつとめる南雲忠一中将 一の第一機動部隊が広島湾を出撃した。「赤城」「加賀 , 「飛屯」「蒼竜」の空母部隊を基幹とする戦 艦二、重巡一一、軽巡一、駆逐艦一二、油槽船八。各艦一〇〇〇メートルの間隔をとり、延々とっ づく威容をすれ違う漁船は歓呼の声で見送った。 襲五月二十八日、ミッドウ = ー攻略に当たる一木支隊、大田実大佐指揮の第二連合特別陸戦隊は 京一二隻の輸送船に分乗、護衛の水上機母艦二、軽巡一、駆逐艦一一とともにサイ。 ( ンを出港。同 日、やはりその護衛に任ずる重巡四、駆逐艦二がグアム島を出発した。 五月二十九日、第二艦隊司令長官近藤信竹中将の部隊の主力が広島湾を離れた。近藤艦隊は攻
た中攻隊三一機も、フレッチャー部隊の重巡二、軽巡一、駆逐艦二を攻撃しながら、一発の命中 弾も与え得なかった。 「レキシントンー「ヨークタウン」撃沈破後は、五航戦の攻撃可能機は戦闘機二四、艦爆七、艦 攻九に減った。「翔鶴」は黒煙をあげて燃え、「瑞鶴ーに収容できない飛行機はつぎつぎ海上に不 時着、その乗員を救うために駆逐艦がかけまわり、戦場は修羅場の様相を呈した。日本海軍がは しめて体験する苛酷な戦争の姿である。 ラ・ハウルで総指揮にあたっていた第四艦隊司令長官井上成美中将は、情況を知ると、五航戦以 下の全部隊に避退を命じた。電報の傍受で様子を注目していた連合艦隊では、この措置を不満と し、情況の報告を求めたが、井上中将はそれに答えす、ポートモレスビー作戦の無期延期を指令 連合艦隊は大いに憤慨し、第四艦隊のほか第六艦隊、第十一航空艦隊にも追撃を命じたが、す でに戦機は去り、米機動部隊の姿はなかった。ポートモレスビー作戦も七月に延期された。 米太平洋艦隊、を解読 ニミツツ提督は、山本長官が大作戦を計画していることを探知した。五月十六日、そのため、 ( ルゼー部隊を呼び返したが、山本長官の目標はまだはっきりつかめていなかった。ただ、推測 はできた。南ではない。すでにサンゴ海には日本空母が出現した。二度つづいて同じ目標を襲う