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検索対象: 太平洋戦争 (上) (中公文庫)
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1. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

ランドで待機中の第三十八師団第二百二十八連隊第一大隊を、第二師団の攻撃に即応して飛行場 東方のコリ岬に強行上陸させることにし、同部隊をコリ支隊と名づけた。 攻撃隊主力である第二師団は、アウステン山南麓を迂回し、ルンガ川右岸地区から北進して飛 行場を急襲する計画をたて、次のような兵力部署を定めた。 右翼隊ー川口少将の指揮する第二百三十連隊主力および第百二十四連隊の一大隊 左翼隊ー那須弓雄少将の指揮する第二十九連隊 ( 古宮政次郎大佐 ) ほか 予備隊ー第十六連隊 牽制隊ー住吉正少将指揮の砲兵隊。第十七軍直轄部隊として、マタニコウ左岸から飛行場を 砲撃して注意をひきつける 十月十六日正午那須部隊が、翌十七日司令部と川口部隊が、それそれ出発した。第十六連隊と 砲兵隊は十八日前進を開始した。飛行場まで約八六キロの行程である。道はただ一筋ーーエ兵隊 がジャングルの下枝をはらって切り開いた幅約五〇 ~ 六〇センチの小道だった。それは師団長の 名前をとって″丸山道〃と名づけられた。兵士たちは、食糧五日分、弾薬、装備のほか、砲弾一 発ずつを持って延々一列縦隊で進んだ。 進むにつれ、道はあるいは曲りくねり、あるいは嶮しくなった。日中でも暗いジャングルの中 で、ただ前に進む兵について歩いた。第一夜、豪雨がふりそそぎ、道はぬかるみ、前進は困難を きわめた。雨はその後も一日一回は降った。そのたびに、坂の上から川のように雨水が流れ落ち

2. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

南雲中将は、ミッドウェーの仇討ちを期して勇みたった。二十四日正午すぎ、日米の機動部隊 は、ガ島北方でお互いを発見した。フレッチャー提督は、日本機の攻撃を分散させるために「サ ラトガ」を分離し、同時に爆撃機三〇、雷撃機一〇を発進させた。 「翔鶴」飛行隊長関衛少佐の率いる艦爆二七、零戦一〇の第一次攻撃隊が発進、続いて「瑞鶴ー 飛行隊長高橋定大尉の第二次攻撃隊の艦爆二七、零戦九が飛びたった。 米攻撃隊は、南雲部隊本隊はねらわず、その日ガ島飛行場攻撃に分派された「竜驤、を襲い 撃沈した。また、水上機母艦「千歳」を炎上させた。日本側は、「エンター。フライズ」の甲板に 直撃弾三発をたたきつけ、これを中破した。 川口支隊の輸送は、二十八日から行なわれた。駆逐艦輸送と舟艇機動によったが、第一日目、 敵機の空襲を受けて駆逐艦「朝霧」が沈没、乗っていた一個中隊が海没する事故があり、大発三 〇隻による舟艇機動は、荒波と空襲によってその二〇隻を失った。九月二日までに、川口支隊の 死主力は飛行場の東約四〇マイルのタイボ岬タシンボコ村付近に、舟艇機動隊の第百二十四連隊長 島 岡明之助大佐以下は西端エスペランス岬に集結した。 ナ カ 川口少将が率いたのは、岡連隊の第一大隊 ( 国生勇吉少佐 ) 、第三大隊 ( 渡辺久寿吉中佐 ) 、第二師 団所属の第四連隊第二大隊 ( 田村昌雄少佐 ) 、それに一木支隊の第二陣″熊大隊〃 ( 六五八人 ) 計三 ガ 九九六人である。火砲は山砲一、迫撃砲二門だけ。島の反対側にいる岡連隊長は第二大隊を率い ていたが、大隊長鷹松少佐は機動中の空襲で戦死していた。兵力はわずかに五五〇人。

3. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

したが、日本軍の撤退にはまったく気づかなかった。 訓練不十分の補充兵約七〇〇人から成る矢野大隊は、予測をうらぎって敢闘した。米軍は矢野 大隊の激しい抵抗に出会うと、たちまち進撃速度を落し、ゆっくりと戦うことにした。ただ第二 師団の右翼第一線にいた内藤大隊約五〇人は、連絡がとれないままに包囲され、全員戦死した。 アウステン山の岡連隊は一月十日の攻撃のあと撤退を試みたが、旗手小尾少尉を除き、岡大佐以 下ことごとく戦死した。小尾靖夫少尉は連隊旗を腹に巻き、二月七日最後の引揚げ日にカミンポ 岬にたどりついた。 撤収は、橋本信太郎少将の第三水雷戦隊、小柳富次少将の第十戦隊所属の駆逐艦計一一〇隻で行 なわれた。駆逐艦は二月一日、途中、ペララベラ島の″フェルディナンド石看視員の通報による 空襲を受けたあと、魚雷艇と海戦を交えながら、エスペランス岬沖に到着した。第一次撤収部隊 の第三十八師団は、整然と四〇組の縦隊を組んで海岸に待機していた。親泊参謀は、一部兵力を 死もって同日夜から三日夜まで、エス。ヘランス岬からタサファロングに至るジャングル内に、順次 島 カガリ火をたかせ、新上陸部隊が移動中のように見せかけた。午後一一時四五分、大発で乗艦を ナ 完了した第三十八師団は黒々と静まりかえるガ島に黙疇をささげながら、プーゲンビル島に向か ガ 二月四日、第二師団と第十七軍司令部が引き揚げ、二月七日、最後の部隊が撤収した。駆逐艦 は将兵を乗せたあともなお岸辺を旋回し、「誰かいるか」「まだ、乗る者はいないか」と連呼した。

4. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

とっーーー日本海軍の面目にかけて攻略実現である。 ハワイ空襲の帰途にある機動部隊にたいして、ウェーキ攻略支援が命ぜられ、南雲長官は山口 少将の率いる二航戦 ( 空母「蒼竜」「飛竜」 ) 、阿部弘毅少将の第八戦隊 ( 重巡「利根ー「筑摩」 ) を派遣 した。そのほか、五藤存知少将の第六戦隊 ( 重巡「青葉」「衣笠」「加古」「古鷹」 ) 、第二十九駆逐隊 の残り「タ凪」「朝凪」と輸送船「聖川丸ー「天洋丸」、さらに上陸部隊として、サイバンから舞 鶴第二特別陸戦隊の板谷中隊 ( 小銃二小隊、機銃一小隊、高射機銃一小隊基幹 ) が増派された。また、 上陸にあたっては、哨戒艇二隻を海岸にのりあげる、大発艇の舷側にハシゴをつけて下船をス。ヒ トアツ。フするなどの工夫もこらされた。 略 一方、米国側も、ウェ】キ救援をめざした。フランク・フレッチャー少将の指揮する第十四機 島動部隊 ( 空母「サラトガ」、重巡三、駆逐艦九隻基幹 ) が十六日、真珠湾を出発した。水上機母艦「タ 一ンジ】ルーに第四海兵大隊の一部、三〇〇万発以上の機銃弾、小銃弾、手榴弾、鉄条網、地雷、 五インチ砲弾九〇〇〇発、三インチ砲弾一万二〇〇〇発、レ 1 ダー二基などを積んでいた。 進ただ、給油船「ネクス」が最大速度一二ノットの老朽船であり、さらに日本潜水艦を警戒して ジグザグ運動をして進むため、第十四機動部隊は、時速一〇ノットという低速でウェ 1 キに向か わねばならなかった。真珠湾からウェーキまで約二〇〇〇マイル、そのままで行けば、到着は十 フ 二月二十三日の見込みである。 そして梶岡少将もまた、十二月二十三日を期して、ウェ 1 キ島攻略を決意していた。十二月二

5. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

が寄せられた。岡明之助大佐の一隊はアウステン山に布陣したが、東海林連隊の前進がおくれて 川口支隊の攻撃正面は、前と同し″血染めの丘〃になっているが、十八日に配布された航 空写真によれば、同地区には以前と違って多くの陣地がみられる。まともにぶつかっては成功の 見込みがないので、丘を右に回り、草原地帯から飛行場に前進すべきであるーーーというのである。 再び″血染めの丘〃を選んだのは、米兵死体から奪った地図によれば、その辺が最も防備手薄 とみられたからだった。ところが、この地図は、米軍が一木支隊斥候隊から奪った地図を複写し たものだった。その意味では、 川口少将の意見は危険を予知した慎重なものだったが、司令部や 参謀は、 川口少将に反感を抱いていた。前回の攻撃のときでも、先頭に立つべき少将はジャング ルをうろっき、せつかく田村大隊が飛行場の一角に突入したのにむざむざ失敗させている。いま また、攻撃をためらう。臆病にすぎるのではないか。 左翼の那須部隊は二十三日夜攻撃可能を連絡してきていた。いまや全軍が戦意に満ちあふれて 死 いるのに、出鼻をくじくような意見は士気に関する。丸山中将は川口少将の解任を命じ、右翼隊 の の指揮は東海林大佐にとらせることにした。しかし、東海林連隊の前進が間に合わないのでは仕 カ方がないので、攻撃は二十四日に延期した。 ダ 一方、連合艦隊は第二師団の飛行場突入とともに、海上から砲撃を加えるべく待機していたが、 ガ 一日また一日と延期される攻撃にジリジリしていた。いっ敵機動部隊が現われるかも知れず、 冫。し力ない。二十三日の延期電には、さす たずらにガ島北方海面を行きっ戻りつしているわけこま、

6. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

から機動部隊の出撃を見送った。 空前絶後の大艦隊出撃 米機動部隊が西に向かったころ、時を同じくして日本艦隊も北と東に進んだ。 五月二十六日、北方部隊 ( 第五艦隊司令長官細萱戊子郎中将 ) の主力、角田覚治少将が指揮する第 四航空戦隊の空母「竜驤」「隼鷹。を基幹とする重巡二、駆逐艦三、油槽船一の第二機動部隊が、 大湊要港を出港した。アツツ島攻略の北海支隊、キスカ島攻略の舞鶴第三特別陸戦隊 ( 向井一二 三少佐 ) をのせた輸送船三、これを護衛する軽巡三、駆逐艦八、細萱中将の主隊である重巡一、 駆逐艦二、その他随伴の駆潜艇、運送船らは五月二十八日、そのあとにつづいた。 戦五月二十七日、第三十七回海軍記念日、ミ ッドウェー作戦部隊で主役をつとめる南雲忠一中将 一の第一機動部隊が広島湾を出撃した。「赤城」「加賀 , 「飛屯」「蒼竜」の空母部隊を基幹とする戦 艦二、重巡一一、軽巡一、駆逐艦一二、油槽船八。各艦一〇〇〇メートルの間隔をとり、延々とっ づく威容をすれ違う漁船は歓呼の声で見送った。 襲五月二十八日、ミッドウ = ー攻略に当たる一木支隊、大田実大佐指揮の第二連合特別陸戦隊は 京一二隻の輸送船に分乗、護衛の水上機母艦二、軽巡一、駆逐艦一一とともにサイ。 ( ンを出港。同 日、やはりその護衛に任ずる重巡四、駆逐艦二がグアム島を出発した。 五月二十九日、第二艦隊司令長官近藤信竹中将の部隊の主力が広島湾を離れた。近藤艦隊は攻

7. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

討し、水際防衛策を採用した。島内での抵抗は、陣地、物資集積所が分散していて防御しがたい 、つ、えこ、、 冫しったん日本軍の上陸を許したら、軍隊、市民の士気を崩壊させるおそれがある、と判 断されたからである。 では、日本軍はどこから上陸してくるか。それによって防備の重点が違ってくるが、オースト ラリア部隊のベネット少将は、北西岸だ、と予想した。一月二十日にシンガポール防備を視察に きたウェーベル大将も、北西岸を指摘した。しかし、 ーシ・ハル将軍は、北東部だと考えた。北 西部は渡河距離が短いが、岸はマングロープと湿地におおわれ、大部隊の作戦には不適当だ。そ れにくらべて、北東部こそ、日本軍の目標である″要塞がある。日本軍は必ずやまっしぐらに やってくる。おそらく、破壊されたジョホール橋を渡ってくるだろう。将軍は北東部に新鋭の第 十八英師団を配し、北西部は第八オーストラリア師団と第四十四インド旅団の担任にした。 略すでにマレー英軍の大部分は疲れはて、意気消沈していた。兵力も少なくなり、オーストラリ ア部隊は、使えるのは四個大隊と二個機銃中隊だけだった。おまけに、英軍内部の気持ちは・ ( ラ ガラだった。英本国軍とオーストラリア軍は仲が悪く、インド兵は英豪兵と反目すると同時に、 澱お互い同士がし 0 くりしなかった。厳格なカースト ( 階級 ) 制度、種族間の慣習の相違などがそ の原因だが、 ( イデラ。 ( ッド部隊はパワルプル部隊に顔をそむけ、グルカ族とシーク族は白眼で にらみあった。 日本軍の宣伝工作も、英軍内の精神的離反に効果をあげた。日本軍は、開戦前から対「レー人、

8. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

140 第十五、第二十八インド旅団で、道路をはさむ丘陵地帯に三十数門の火砲をそろえて抵抗、攻撃 は停滞した。師団長松井太久郎中将は、渡辺綱彦大佐の第十一連隊を西岸のルムトから海上を南 下させて、カン。 ( ル背面のテロクアンソンに上陸せしめ、近衛第十四連隊の吉田大隊もキンタ川 を渡って、テロクアンソンに出た。一月二日、両部隊はカン。 ( ル南方のスンカイに進出、インド 旅団は退路を遮断されるのを恐れて、退却した。守備にあたった第五 / 二パンジャプ大隊のディ キン中佐はいう。 「大隊は死ぬほど疲れていた。指揮官の仕事はなんとかして部下を眠らさないことたった。 すでにこの三週間、一七六マイルも退却してきた。この間、休んたのは三日間だけだ。士気 は低下し、死傷二五〇人、戦力の五〇 % を失ったー カンパルの戦闘で、第十五旅団は四二一人、第二十八旅団は七五〇人に減ってしまった ( 大部 分は捕虜 ) 。 カン。 ( ルを突破すると、直ちに安藤忠雄大佐の第四十二連隊が、銀輪をつらねて先頭におどり 出た。マレー作戦の特徴のひとつは、このように要地ごとに部隊を交代突進させる用兵の妙にあ るが、それを助けたのは、エ兵部隊の活躍である。 英軍は、日本軍の進撃をくいとめるため、その進路にある橋を丹念に爆破して退却した。安藤 連隊も第一線に躍進したものの、スンカイ川にはばまれた。歩兵はなんとか渡れても、重火器は 足どめである。前方につらなるトロラク、スリム、タンジョンマリムの陣地を制圧するには、火

9. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

の腹づもりだった。 参謀本部は、この作戦のために、次のような南方軍と南海支隊の戦闘序列を下令していた ( 四 一年十一月六日 ) 。南方軍総司令官は寺内寿一大将、同総参謀長には参謀次長塚田攻中将自らがあ たった。南海支隊は大本営直属である。そしてマレ ー、ビルマ、ポルネオ作戦には第三飛行集団 を、フィリビン作戦には第五飛行集団 ( 一段落後、ビルマに転用 ) を、それそれ航空兵力として配 備した。 一方、海軍も、第二艦隊基幹を主隊とする南方部隊、第四艦隊基幹の南洋部隊を、次のように 編成した。南方部隊麾下に、第十一航空艦隊 ( 塚原二四三中将 ) の三個戦隊があった。 以上のほか、香港攻略には、陸軍は支那派遣軍から第三十八師団 ( 佐野忠義中将 ) を主力とする 第二十三軍 ( 司令官酒井隆中将、参謀長栗林忠道少将 ) が、海軍側は支那方面艦隊 ( 古賀峯一大将 ) 麾 下の第二遣支艦隊 ( 新見政一中将 ) があたった。 この兵力配置からもうかがわれるように、南方作戦の重点は、マレーすなわち″東洋のジプラ ルタル〃シンガポール攻略におかれた。海 ( 軍 ) の真珠湾、陸 ( 軍 ) のシンガポール かくて 太平洋戦争は、最も劇的な形で幕をあげるのである。 日本軍をなめた英軍 当時、マレー半島の守備は、英極東軍総司令官サ 1 ート・・フレックポ ーハム空軍大将指

10. 太平洋戦争 (上) (中公文庫)

222 山本連合艦隊司令長官ニ命令 一、連合艦隊司令長官ハ陸軍ト協力シ「 略スペシ ( 終 ) 二、細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ指示セシム ッドウ = 、ー攻略にあたる一木支隊 ( 歩兵第二十八連隊長一木清直大佐 ) 、北海支隊 ( 穂積 同時に、 松年少佐指揮の独立歩兵第三百一大隊 ) の戦闘序列が下令され、両作戦に関する陸海軍中央協定も指 示された。 攻撃予定日は、夜明け前に残月があり、母艦機の夜間行動が可能な六月七日と決定した。 ( ワ イ空襲からちょうど六カ月目、日本機動部隊はふたたび太平洋を東に向かうことになった。 問題多かった図上演習 、、ツドウ = ー作戦が決まると、海軍は忙しかった。すでに述べたように、東部ニ、ーギ = ア攻 略は、第一段作戦の一部として策定されていた。三月七 ~ 八日、南海支隊の一部と海軍陸戦隊は、 ラエ、サラモアを占領したが、つづいて五月三日ッラギ、五月十日ポートモレスビ , ーを攻略、そ サモア作戦とつづく予定である。 さらに七月にはフィジ , ー のあと六月七日にミッドウェ ミッドウェー作戦には、山本長官みずから直率、連合艦隊のほとんど総力をあげて出動する。 呉、佐世保、横須賀その他の軍港では、連日連夜、各艦の補給、整備を急いでいた。港内を、お ミッドウェイ」及「アリューシャンー西部要地ヲ攻