負傷してうめいていた。 だが、七月四日までに後続部隊および連隊長アーチボルド・マケニー大佐も上陸し、第十五、 第十七オ 1 ストラリア旅団と協力して、サラモアに進む体制を整えることができた。 ハルゼ 1 軍の″ニュージョージア攻略部隊〃は、ジョン・ヘスタ 1 少将の第四十三歩兵師団を 中心にして編成されたが、六月三十日、まずニュージョージア島ムンダ飛行場の対岸、レンド・ハ 島に、第百七十二、第百三連隊、第九海兵防御大隊を揚陸した。 零戦の優位くすれる 日本のソロモン防備は、三月二十五日の「南東方面作戦陸海軍中央協定」によって、北部ソロ モン 9 ーゲンビル島周辺 ) は陸軍、中部ソロモン ( ニ = ージョージア、イサベル島など ) は海軍が、 それそれ担任することになっていた。第十七軍司令官百武晴吉中将は、ガ島を引き揚げると・フー ゲンビル島に司令部を置き、一月下旬、中国から移駐してきた第六師団 ( 神田正種中将 ) を指揮下 におさめた。ガ島で疲れた第二師団は、ラ・ハウルで休養ののち、再編成されてビルマ戦線に向か っこ 0 百武中将は、・フ 1 ゲンビル島に第六師団の主力を配置し、中部ソロモンには佐々木登少将の南 東支隊を派遣した。佐々木少将は、ニュージョージア島ムンダに進出、コロイハンガラに第十三 連隊の残りの増派を命じ、その主力は七月二日までに、敵駆逐艦の攻撃を受けながら、上陸を終
八センチ高角砲 五アテ島を出発した翌日、十一月十四日から開始さ 一五ミリ機銃 れ、その範囲は、べチオ、マキンを中心にナウル、 一・五メートレ ノ探照灯 マーシャル諸島のヤルート、ミレに及んだ。艦載 機のほかに、エリス、フ = ニックス、サモア、べーカー各島の基地航空隊も参加した。十九日に は、重巡三隻、駆逐艦五隻が、二五〇トンの砲弾を・ヘチオ島に射ち込んだ。上陸直前の砲爆撃を 加えると、べチオ島には十四日いらい約三〇〇〇トンの砲爆弾が集中した。 十一月二十一日午前零時、タラワ沖に集結した輸送船では海兵の朝食がすみ、士官が食堂に入 ってきた。献立は士官も兵と同じで厚いビフテキ、フライボテト、卵、コーヒーだった。誰もが ぐっしより汗をかき、大急ぎで食べた。甲板に出ると、左舷四五度に半月が輝き、風は冷たくさ わやかだった。タラワ環礁は、西側に一カ所水路が開いている。上陸用舟艇でこの水路を通って 礁湖に入り、べチオ島サンゴ礁の縁で水陸両用車に乗り移って上陸する手はずだった。 午前四時四一分、舟艇群が水路入口の沖四〇〇メートルで隊形を整えているとき、島の空高く 戦一発の赤色吊光弾がうちあげられ、日本軍の砲撃がはじまった。島に配置された二〇センチ砲は、 洋シンガポール要塞から運んだ英国ヴィッカース兵器会社の特製品。照準は前もって慎重に定めら 太れていた。たちまち、舟艇群は吹きあがる水柱に包まれて混乱した。戦艦「コロラド」「テネシ 中 ー」「メリーランド」の大口径主砲が応戦した。「メリーランド」の一弾は、島の西端にすえつけ られた″シンガポールの大砲〃の弾薬庫に命中し、島をゆさぶる大轟音と黒煙をまきあげた。上
た。タラワには大佐だけでなく少将もいて、日本の海兵は逃げだすどころか、戦意を燃やして米 国の海兵を待ち構えていたのである。 タラワは、ギルバ ート諸島およびその西方のナウル、オーシャン両島を守る海軍第三特別根拠 地隊司令部の所在地だった。司令官は、七月に着任した柴崎恵次少将である。指揮下には同根拠 地隊のほか佐世保第七特別陸戦隊、第六十七警備隊 ( ナウル、オーシャン島 ) が配置された ( 各島の 兵力、装備は七四ページ上段の表参照 ) 。防備の主力はタラワ ( べチオ島 ) に集中され、その兵力、装 備は七四ペ 1 ジ下段の表のとおりだった。 海軍は、四三年三月四日、ギルバート諸島飛行場およびナウル島施設費として七四万九〇〇〇 円を支出したが、べチオ島の防備はとくに念入りだった。島の西部の南北海岸には、ヤシ丸太の 防壁を連ね、海中にも丸太の防塞、コンクリート柱に角材を植えつけた障害物、丸太に一〇番ワ イヤーで連結した機雷原を用意した。陸上には、地下二階鉄筋コンクリート造りの司令部をはじ め、コンクリート 、鉄板、ヤシ丸太、サンゴ礁岩、砂を利用した一 ~ 三〇人用の半地下式トーチ 諏カ陣地を配列した。その多くは地下壕で連絡し、直撃弾以外では破壊されない堅牢さを誇った。 洋構築資材のヤシの木は、島の遮蔽維持のため、すべて他の島から伐り出した。 太柴崎少将は着任すると直ちに軍紀粛正を励行し、さらに連日、払暁訓練、日中訓練、夜間訓練 中 を反覆した。激しい訓練は、兵士の自信を強化する。四カ月の猛訓練は、タラワ陸戦隊の練度と 士気を高め、第二海兵師団を迎える準備は整っていた。
られた。数回にわたる輸送が、いずれも損害が大きかったからである。 佐々木少将の南東支隊は、コロイ ( ンガラ島に撤収したが、八月十五日、・パロークロ少将 のニ = ージーランド第三師団が、同島をとびこえてべララベラ島に上陸した。 ( ルゼー大将は、 コロイハンガラ島の日本軍が、ニージョージア島以上に強力であることを知り、今後の作戦の ための兵力温存をはかって素通りしたのである。佐々木少将も南東支隊の自減を避けるため、九 月九日から十月はじめにかけて、さらにプーゲンビル島に撤退、中部ソロモンは完全に米軍の手 に渡った。 ラエ、サラモアの苦闘 ソロモンの戦いは″島〃をめぐる攻防戦だったが、ニ = ーギニア戦もまた、ジャングルの大海 に浮かぶ″孤島〃に似た日本軍陣地にたいする戦いだった。 第十八軍指揮下の三個師団は、第五十一師団がラエ、サラモア地区、第二十師団がマダン、第 四十一師団はウェワクに配置された。海上輸送力が乏しく、大軍を一カ所に集結しては補給が続 かないためだが、それにしても、ラエ ~ マダン間約五〇〇キロ、マダン ~ ウェワク間約三〇〇キ ロである。その間は険しい山脈とうっそうたる密林におおわれている。第二十師団が上陸いらい ツルハシとシャベルだけでラエに向かって一八〇キロの道路を構築したが、ようやくフィニステ ール山系の麓までで、兵力の移動に役立つほどのものではなかった。
した地域は、島全体の五分の一もなかった。しかし、当時の米軍にはそれとわからなかったが、 明らかに日本軍には敗色が現われていた。それは、指揮系統を失った軍隊の弱点ともいえるもの だった。タラワ陸戦隊は少数の集団、あるいは一人一人で戦っていた。それ自体は、精兵の名に 値する敢闘ぶりだったが、同時に戦況を総合的に知るすべはなかった。傷つき、疲れた陸戦隊員 は、個々に戦局の帰趨を判定し、つぎつぎに自決した。銃火の絶えたトーチカをのそきこんだ海 兵は、手榴弾で頭や腹を破砕し、銃口をノドに押しあてて足の指で引き金をひいた日本兵に目を 見はっこ。 午後六時、第六連隊第一大隊がべチオ島西岸に上陸し、第二大隊はべチオ島東隣りの。ハイリキ 島に向かった。バイリキ島には一五人の陸戦隊員が、機銃二挺を備えたトーチカを守っていた。 まず艦載機が銃撃すると、偶然にもその機銃弾がトーチカの銃眼からとびこみ、内部のガソリン 罐に引火して、一五人を一時に殺してしまった。第二大隊は、タラワ戦唯一の″無血上陸〃に成 功しこ。 諏その夜、海兵は再び日本軍の夜襲にそなえたが、日本軍は桟橋の西側、第八連隊第一大隊正面 洋を除き、細長く延びた島の東半分に後退して、態勢の建て直しに懸命だった。 太 二十三日午前七時、二〇分間の艦砲射撃と空爆で、第三日目の戦闘が開始された。砲爆撃はさ 部 中 らに同八時三〇分、九時三〇分、一〇時三〇分にそれそれ二〇分間ずつ繰り返されたが、目標は 島の東部だけに限られた。
20 ーギニア全図 毛ロタイ ハルマヘラ 冫フォル サ ) サポール サロンマ クビ、物サルミ 日誌」四月五日 ) と、感心したが、「顔色ありや」と問われた 海軍は、ガ島戦後も、ニューギニア、ソロモンに釘づけにさ ンアナれていた。 島っ - ノモフ ニューギニア作戦は、ガ島戦と前後して開始された。シン 延ガポール攻撃に偉勲をたてた横山与助大佐の独立工兵第十五 連隊を先遣隊として、ポートモレスビー攻略を目ざしたので ィア ある。横山連隊のあとを歩兵第百四十四連隊 ( 楠瀬正雄大佐 ) 、 歩兵第四十一連隊 ( 矢沢清美大佐 ) を主力とする南海支隊 ( 堀 井富太郎少将 ) がつづいた。 ところが、まったくガ島と同じく、地形困難と糧食の不足 にたたられ、ポートモレスビーの街の灯をはるかに望見する っ東北約五〇キロのイオリ。 ( イワで、ついに後退のやむなきに ア至った。南海支隊は飢えとマラリア、そして追尾するオース トラリア、米軍約二万と戦いながら、北東岸の。ハサ・フア、ギ ルワ地区に退却した。ガ島の場合は、比較的戦場はせまく、 曲りなりにも日本軍占領地帯が存在し、補給もその海岸に揚 陸すれば足りた。しかし、ニューギニアの南海支隊は、はる バッチャン セラム チモ曰し
188 サイバン島攻略部隊 戦用意、「渾」作戦中止を 第五八機動部隊、第五艦隊司令長官・スプルーアンス海軍大将麾下下令した。小沢部隊はギマ 第五一合同進攻部隊 (x ・ターナー海軍中将 ) ラス泊地で給油をすませ、 第五六・一任務群、北方部隊上陸部隊・スミス海兵中将 ) サイ。ハンに急進した。 二二九六 第五水陸両用軍団・スミス海兵中将 ) 司令部 二一七四六 第二海兵師団 (e ・ワトソン海兵少将 ) 海兵少将 ) 第四海兵師団・シュミット 斎藤中将、防備に不安 一六四〇四 第二十七歩兵師団・スミス陸軍少将 ) 六月十五日未明 四七一五 砲兵部隊その他 サイバン攻略軍 ( 上表参 計六六七七九 照 ) の第二、第四海兵師団、 第二十七歩兵師団を乗せた輸送船団は、サイ。ハン島西岸に達した。 サイ。 ( ン島は、南北一九・二キロ、東西二・四 ~ 九・六キロ。タラワやマキンのような環礁で はなく、中央部を山地が縦断している歴とした島である。島の真中に聳える標高四七四メートル 、、北にガラバン町、 のタポチョウ山は、星明りの夜空にもはっきりと見えた。その麓の海岸に沿し 南にチャランカノア町がある。ガラ。 ( ン町は、精糖、水産、牧畜等で繁盛するサイバンの中心地 で、料理飲食店が九五軒を数えた。またチャランカノア町には、南洋興発、南洋水産両会社のエ 場が並んでいたが、町は連日の砲爆撃に崩れ、いまも赤々と燃えあがっていた。 サイ。ハン島には、三人の中将がいた。海の南雲、高木両中将、陸の斎藤中将である。もう一人、
304 米軍の損害は大きかった。海兵の死傷者は上表のとおりだが、海軍死傷 者一六五二人 ( うち戦死九八二人 ) を合わせると、二万四八五七人。米側が 攻勢に出ていらい、米軍の被害が日本軍を上まわった唯一の戦闘だった。 市民にまでおよぶ戦火 死明傷虜硫黄島戦は米軍を困惑させた。そこでは、地上と地下との戦いという、 方 これまでとは異質な戦闘様式の可能性が示唆された。日本兵の心理にも疑 戦行戦捕 問が起った。一九四四年十二月、太平洋方面総司令部が発行した。 ( ンフレ ット『心理作戦』には、それまでの戦闘を顧みて、日本人の心理の最重要要素は、グル 1 。フ意識 と運命主義だと述べていた。日本兵が激し、い抵抗を示し、・ハンザイ突撃をするのも、この心理の ためだ。だが、これら心理的要素は、突撃の支えになると同時に、敗北を受け入れる原動力にも なる。彼らも人間だ、人間として呼びかければ降伏するはずだ、という。硫黄島ではこの方針に 沿い、宣伝ビラ、マイクなどで丁重な心理作戦を展開したが、なんの効果もなかった。太平洋方 面総司令部も、どこか間違っているらしいと思ったが、その戦訓をかみしめている余裕はなかっ た。硫黄島戦とほ・ほ並行して、沖縄作戦が進んでいたからである。 沖縄作戦は、硫黄島戦と同様、いわば四のために生まれたものだが、沖縄作戦の第一段階は、 ほかならぬその四によって幕をあげた。三月十日の東京大空襲である。 硫黄島の損害 米 日 212
106 期した。 一月三十一日午前八時、米艦隊は砲爆撃を 開始した。上陸は翌日、その日はひたすら爆 弾と砲弾を射ちこんだ。艦載機の爆撃、ロケ ト弾攻撃も併用されたが、なんといっても 重点が置かれたのは艦砲射撃だった。艦隊は 午前中に二六五五トン、午後は二二六四トン、 総計六九一九トンの砲弾を、主としてロイ、 ン ナムール島に集中した。 この砲爆撃の効果は著しく、二月一日正午、 第二十三海兵連隊がロイ島、第二十四海兵連 隊がナムール島に上陸してみると、両島守備司令官山田少将三十二航戦司令官 ) はすでに戦死し、 第六十一警備隊分遣隊約四〇〇人、航空部隊約一五〇〇人を基幹とする日本軍二九〇〇人は、ほ とんどが死傷していた。飛行機もすべて撃破または炎上し、建物は一軒残らず爆砕され、弾薬、 燃料も完全に焼失していた。ナムール島で抵抗が見られたが、翌二日正午までには攻略は終った。 捕虜は下士官二、兵一、軍属八、残りはすべて戦死または自決した。 クエゼリン本島の占領は手間どった。守っていたのは、第六根拠地隊司令官秋山少将を総指揮 1 ワ 0 。 . , ウォッゼ マロエラップそ、、 ( メジュロ ヤ丿トト マキン 0 タラワ 滝バママ ナウル オーシャン
出発していたのである。総指揮官・ス。フルーアンス大将、大型空母八を基幹とする・ ャー中将の第五八機動部隊を護衛に、・スミス海兵中将の第五水陸両用軍団 ( 第一「第四海兵師 団、第二十七歩兵師団基幹 ) を従えた艦艇総数七七五隻、かって、、 、ツドウェーを目ざした日本海軍 の二倍に及ぶ大部隊である。 六月十一日、第五八機動部隊はロ夕、サイ。ハン、テニアン、グアムを空襲して、角田部隊に大 打撃を与えた。軍令部と連合艦隊は、この報告を検討した。問題は、この空襲が本格的なマリア ナ攻略戦の前ぶれか、それとも単なる機動作戦かである。軍令部は、依然敵の主反攻線はニュー ギニアにあると考えていたので、後者とみた。連合艦隊も、決戦海面をパラオにしたい希望にす がって、軍令部に同調した。翌十二日、またもやサイ。ハン周辺に艦載機の空襲が行なわれた。連 合艦隊は、なお敵情を確かめる必要があると判断した。ビアク島に向かっている宇垣中将には、 「敵がマリアナ攻略を企図する事明となるか、其の機動部隊マリアナ線以西に進撃せば決戦に移 る。然らずして北方に移るか又は避退せば : : : 庫作戦を強行すーと通告した。 小沢中将は、しかし、いち早く敵のサイ。ハン攻略企図を認めた。かねて訓練のために移動を予 失 島 定されていたギマラス島 ( 中部フィリ。ヒンのネグロス、パナイ島中間 ) に向かい、六月十九日までに サイ。 ( ン西方に進出して敵機動部隊と決戦する決意を固め、十三日全部隊に出撃を命じた。ビア ク島に向かっていた宇垣中将も、情勢切迫を感じとり、独断北上を開始した。豊田長官はさらに 慎重に構えていたが、サイ。ハンに艦砲射撃が加えられたことを知って、ようやく「あ」号作戦決