304 米軍の損害は大きかった。海兵の死傷者は上表のとおりだが、海軍死傷 者一六五二人 ( うち戦死九八二人 ) を合わせると、二万四八五七人。米側が 攻勢に出ていらい、米軍の被害が日本軍を上まわった唯一の戦闘だった。 市民にまでおよぶ戦火 死明傷虜硫黄島戦は米軍を困惑させた。そこでは、地上と地下との戦いという、 方 これまでとは異質な戦闘様式の可能性が示唆された。日本兵の心理にも疑 戦行戦捕 問が起った。一九四四年十二月、太平洋方面総司令部が発行した。 ( ンフレ ット『心理作戦』には、それまでの戦闘を顧みて、日本人の心理の最重要要素は、グル 1 。フ意識 と運命主義だと述べていた。日本兵が激し、い抵抗を示し、・ハンザイ突撃をするのも、この心理の ためだ。だが、これら心理的要素は、突撃の支えになると同時に、敗北を受け入れる原動力にも なる。彼らも人間だ、人間として呼びかければ降伏するはずだ、という。硫黄島ではこの方針に 沿い、宣伝ビラ、マイクなどで丁重な心理作戦を展開したが、なんの効果もなかった。太平洋方 面総司令部も、どこか間違っているらしいと思ったが、その戦訓をかみしめている余裕はなかっ た。硫黄島戦とほ・ほ並行して、沖縄作戦が進んでいたからである。 沖縄作戦は、硫黄島戦と同様、いわば四のために生まれたものだが、沖縄作戦の第一段階は、 ほかならぬその四によって幕をあげた。三月十日の東京大空襲である。 硫黄島の損害 米 日 212
294 ったが、米国側もまた最後の決戦をどこに求むべきかに迷っていた。 本土進攻か海空封鎖か 統合参謀本部は、一月二十二日、硫黄島 ( 二月十九日 ) 、沖繩 ( 四月一日 ) の攻略計画を確定した。 キング作戦部長は、台湾攻略を主張したが、太平洋方面陸軍航空部隊司令官ミラ 1 ド・ 中将の進言で、台湾素通りが決まった。ハ ーモン中将は、マリアナ諸島から日本を空襲する四 の護衛戦闘機基地、また四の不時着基地として硫黄島占領を主張。台湾は、日本への距離はマ リアナからほぼ同じのうえ、途中で日本基地航空部隊の攻撃を受けやすいことを指摘した。マッ カーサー ニミツツ両元帥も賛成し、硫黄島、沖縄作戦は比較的簡単に決まったが、統合参謀本 部の頭を悩ましたのは、本土進攻作戦である。 統合参謀本部は、カイロ宣言で決定された日本無条件降伏を達成するための方策を探していた。 一月二十二日の硫黄島、沖縄作戦を決めた「日本打倒作戦計画」では、日本を無条件降伏させる 方策として、次の二つを決めている。 ①強力な爆撃、日本空海戦力の撃破と空海封鎖による、日本国民の抗戦力および戦意の低下 ②日本の産業中心部にたいする侵攻および占領 ①はカイロ会談の結論でもあったが、また米国空海軍 ( アーノルド陸軍航空部隊総司令官、キング 作戦部長 ) の意見であり、②は陸軍 ( マッカーサー元帥 ) の主張たった。統合参謀本部が、両者の見
298 間どることもあるまいと考えた。サイバンより小さく、 硫黄島攻略部隊 「上陸部隊〕 地形もサイバンのように複雑ではなかったからである。 第五水陸両用軍団 (X ・スミス中将 ) 第一波約一万五〇〇〇人の海兵は、ステ 1 キと卵の朝 第三海兵師団 (O ・アースキン少将 ) 食をすませ、牧師の祈りの言葉を聞いたあと、五〇〇隻 第四海兵師団 (O ・ケイツ少将 ) 第五海兵師団 ()d ・ロッキー少将 ) の上陸用舟艇に乗り込んだ。牧師の祈りは、印象的だっ 計七五一四四 た。「神よ、あなたはきよう私がどんなに忙しいかご存 〔支援部隊〕 第五八機動部隊 ( ・ミッチャー中将 ) じです。どうか、私があなたを忘れても、あなたは私を 空母一七、戦艦八、重巡四、軽巡一二、 忘れないで下さい」。海兵たちは、なんとなく不安を感 駆逐艦七七 ( 艦載機一一七〇 ) 第五二機動部隊 ( ・プランディ少将 ) 硫黄島には、栗林忠道中将の指揮下に第百九師団を基 護衛空母一一 第五四機動部隊・ロジャース少将 ) 幹とする陸軍約一万五五〇〇人、二十七航戦司令官市丸 戦艦七、重巡四、駆逐艦一五 利之助少将ら海軍部隊約七五〇〇人がいた。栗林中将は、 「愛馬進軍歌ーの作詞で知られるように、豊かな文才の持ち主だったが、同時に果敢な武将でも あった。中将はいち早く島民、一般市民を避難させ、地下二〇 ~ 三〇メートルにも達する地下道 を縦横に掘りめぐらし、ロケット砲を含む多数の火砲 ( 左表参照 ) を貯えて、強固な地下陣地網 を構築した。硫黄島は、その名のごとく、硫黄ガスのこもる火山灰の孤島である。水も硫黄を含 み、人はしばしば下痢を病む。防毒面をかぶり、ガスと熱気にむれて地下道を掘る将兵は、とき
第五海兵師団第二十八連隊の攻撃を受け、二十二日、「むしろ出撃して万歳を唱えん」といって きたときも、死守を厳命した。 二十一日、神風特攻隊第二御楯隊二〇機が硫黄島上空に現われ、上陸支援艦艇群を攻撃した。 空母「サラトガ」に三機が激突し、「サラトガ」は二一五人の死傷を出して大破。護衛空母「ビ スマルクシー」は一機の突入による誘爆で沈没し、護衛空母「ルンガポイント」と輸送船二隻は 中破した。その後、日本側の航空攻撃はなく、二十三日に摺鉢山は陥落した。観戦中のフォレス タル海軍長官は、頂上にひるがえる米国旗に感激し、スビーカーで全海兵を激励した。 「マウント・スリ・ハチは陥落した : : がんばれ、諸君。あとたった数キロで全島を占領できる」 弾丸尽き、水涸れた硫黄島 たしかに、あと数キロには違いなかった。海兵隊は予備の第三師団も投入し、サイ。 ( ン戦と同 じく、左翼から第五、第三、第四各師団を一線に並べて北上した。しかし、頑固な栗林戦術に遭 遇して前進ははかどらなかった。支援艦隊は連日平均三〇〇〇発、一四〇〇トンの砲弾を射ちこ 戦んだが、念入りに掘られた日本軍地下陣地にたいしては大きな効果はなかった。 後栗林中将は、硫黄島を東西南北と摺鉢山の五地区に分け、北地区に主力を置いたが、海兵隊が 最も苦戦したのは南地区だった。南地区は千田貞季少将の独立混成第二旅団が、玉名山を主陣地 にしていた。この屏風山 ( 三八二高地 ) から東部落にかけての戦線で、第四海兵師団の三個連隊
ねて非公式に意思表示していたドイツ降伏二 ~ 三カ月後の対日参戦を正式に約東したのである。 統合参謀本部にとって、むろんソ連参戦は歓迎すべきものだったが、ヤルタ会談ではもうひと つ、重要な軍事的決定が行なわれた。日本無条件降伏の再確認である。会談の途中、チャーチル 首相は、「日本に条件つき降伏を認めてはどうか」と発言した。大損害を予想させる日本本土攻 略に気乗り薄の統合参謀本部は、条件つき降伏なら本土作戦は不必要かもしれないと期待したが、 ーズベルト、スターリン両首脳は反対した。カイロ宣言が明示するように、日本打倒の目的は、 日本が再び侵略国たりえぬまで撃破するにある。それには無条件降伏以外こよよ、。 冫冫オしこの決定は 日本に条件つき和平の道を閉ざすと同時に、統合参謀本部の進む道も確立した。戦略はつねに政 略の指導下にあるからである。 統合参謀本部は、すでに動きだした硫黄島、沖縄作戦の推移を見ながら、日本本土作戦検討に 本腰を入れることになった。 猛訓練重ねて待っ栗林兵団 戦 二月十九日、第三、第四、第五海兵師団七万五一四四人が、硫黄島の沖に到着した。支援艦艇 後四九五隻、ジ = ームス・フォレスタル海軍長官も観戦に来ていた。あとに控える沖繩作戦もあっ て、硫黄島攻撃日程は苦しかった。事前の砲爆撃三日間、上陸後五日間で攻略という予定である。 上陸部隊総指揮官ホランド・ スミス海兵中将は、予定内の攻略は無理かもしれないが、とくに手
300 中将は、「 : : : われら敵十人を斃さざれば死すとも死せず : : : 」と六訓を布告し、戦法を、狙 撃、肉迫、斬込みに限定して徹底的に訓練した。「生きて勝てなくても死んで勝っー 二万の 将兵は、この中将の決意をわが覚悟と定め、″栗林洞穴″にひそんで敵来襲を待っていた。 海兵の不安は的中した。午前八時、上陸用舟艇群は隊形を整えていっせいに海岸に向かい、海 兵はしばらくは小銃弾一発飛んでこない航海を楽しんでいたが、あと二〇〇 ~ 三〇〇メ 1 トル、の 地点で、情勢は一変した。島全体が炸裂したかと思うような銃砲撃が集中した。海兵は、日没ま でに約三万人、戦車二〇〇台が揚陸され、幅三・六キロ、奥行四〇〇 ~ 九〇〇メートルの橋頭堡 を確保したものの、すでに死者二四二〇人に達した。 その夜、海兵は日本軍の襲撃を予期した。だが、なんの音沙汰もなかった。海兵たちはホッと するとともに多少気抜けがしたが、ここに硫黄島戦と栗林戦術の特徴があった。タラワからサイ パンまで、あるいはほかの戦場でも、攻める米軍が陣地を固め、守る日本軍が突撃してはみずか ら敗北を早めた。吶喊を最上の戦法と教えこまれた日本軍にとって、陣地持久戦は不安を招く。 そこで出撃するが、それはただ待ち受ける砲の集中射に飛びこみ、兵力の消耗に終るだけだった。 栗林中将は厳重に指示して、陣地確保を命じた。こちらは遮蔽物にかくれ、敵は鉄カ・フトひとっ を頼りに進んでくる。相手は射ちにくく、こちらは射ちやすい。平凡な戦理である。だが、この 戦法を採用したのは、太平洋戦争の島嶼戦ではペリリューと硫黄島だけであり、いずれも大きな 効果をあけている。栗林中将は、だから、南端の摺鉢山守備隊 ( 厚地兼彦大佐、約一六八〇人 ) が、
299 最後の戦闘 海 に辛さを訴えたが、中将は頑として掘りつづけさせた。砲爆弾に吹きとばされるために来たので はない。敵兵を殺すのが任務であろう。 硫黄島守備隊の兵備 硫黄島守備隊 〔陸軍〕 三二〇ミリ大型日砲一二九〇ミリまたは 小笠原兵団 ( 栗林忠道中将 ) 七〇 一五〇ミリ日砲一三八一ミリ臼砲 第百九師団 ( 栗林中将 ) 一五センチ沿岸砲四五〇ミリ擲弾筒三八〇 混成第一一旅団 ( 千田貞季少将 ) 四四七ミリ対戦車砲五四 一四センチ〃 歩兵第百四十五連隊 二〇三七ミ 一二センチ〃 独立混成第十七連隊第三大隊 三〇四〇ミリ高射機関銃四 一二センチ砲 戦車第二十六連隊 九 一〇センチ砲 独立機関銃第一、第二大隊 五二五ミリ機関銃二一三 独立速射砲第八 ~ 第十二大隊 八センチ砲 四 中迫撃砲第二、第三大隊 七・五センチ砲一八二〇ミ 独立日砲第二十大隊 一五〇ミリ迫撃砲一 その他 四戦車 六火炎放射器 一〇〇ミ 三五〇 四重機関銃 九〇ミ 四八〇 五軽機関銃 七五 二〇〇 七五ミリ山砲一七噴進砲 七〇ミリ大隊砲二四 計約一五五〇〇 第二十七航空戦隊司令部 ( 市丸利之助少将 ) 南方空陸戦隊 その他 計約七五 0 〇
総攻撃は九日午後六時を期して行なわれ、千田少将は右第一線の先頭を進んで戦死した。第四 海兵師団は、その後も抵抗をつづける日本軍に手こずり、玉名山の占領を終えたのは三月十五日。 損害は師団兵力の半数九〇九八人 ( 戦死一八〇六人 ) に達し、戦闘力を失った同師団は十八日 ( ワ イへ引き揚げ、二度と太平洋戦線に姿を見せることはなかった。 しかし、第四海兵師団が苦戦している間にも、第三、第五海兵師団は次第に栗林部隊を島の北 部に圧倒、中将は十六日、訣別の言葉を東京に打電した。 胆参電第四二七号三月十六日一七二五発硫黄島宛参謀総長 戦局遂に最後の関頭に直面せり : : : 敵来攻以来 : : : 部下将兵の勇戦は真に鬼神をも哭かしむ るものあり : ・ : ・今や弾丸尽き水涸れ戦い残れる者全員愈々最後の敢闘を行わんとするに方り 熟々皇恩の忝さを思い粉骨砕身亦悔ゆる所にあらずに永えに御別れ申上ぐ : 東京は栗林中将の大将昇進を決め、その旨を父島経由で伝えようとした。硫黄島は父島の呼び 出しに答えなかったが、二十三日、突然通信してきた。しかし受信の用意はなく、つづけざまに 数通の状況報告を送るのみだった。そして「父島ノ皆サンサヨウナラ」と打ち終ると、通信は 戦絶えた。 後栗林中将は、十七日夜、「飽クマデ決死敢闘スペシ己レヲ顧ミルヲ許サズ」の攻撃命令を発 し、みずからその言葉どおり陣頭に立って戦い続けたのち、二十七日朝、高石参謀長、中根参謀 とともに拳銃で自決した。
リビンに決戦をもとめて 詰腹きらされた東条首相前途多難の小機〃木炭ススみ内閣 ″七割決戦〃ーーー捷号作戦マ将軍、レイテ攻略作戦を押し通す 「観念的必勝論と合理的敗戦論」比島決戦の日迫る米軍、レ イテ防備弱体を察知″卑劣な計画な ーー台湾沖航空戦「私は 帰ってきた」神風特攻隊、編成される 比島沖海戦 船団攻撃より艦隊決戦を栗田艦隊、緒戦にして旗艦を失う 「武蔵ーシプャン海に沈む反転、そして再転スリガオ海峡 に潰えた西村、志摩部隊四提督の眠れぬ夜サマール島沖の 紛戦「第三四機動部隊いずこにありや」レイテ″決戦〃なら 最後の戦闘 島嶼戦から本土決戦へ陸海思想の徴妙な食違い本土進攻か 海空封鎖か猛訓練重ねて待っ栗林兵団弾丸尽き、水涸れた 硫黄島市民にまでおよぶ戦火沖縄持久作戦か決戦か連 合艦隊の最期首里をめぐる攻防「秋をまたで枯れゆく島」 三分の一の出血も辞さず「近頃やることなきものの如し」太 287 220 254
302 ( 第二十三、第二十四、第二十五 ) は、高地を占領し たと思うと、いつの間にか背後から砲弾と機銃弾 3 ) 山 を受け、あわてて退却。戦車を先頭に、火炎放射 器をふりまわして進むと、こんどは日本軍がさっ △屏風山 と退き、息をつくとたんにまた集中砲火を浴びて コ , 南第 3 団 ャ山行 ~ 阪 / 元飛 5 兵退却という戦闘を繰り返した。 二十五日から始まったこの攻防で、第四海兵師 団は、三月三日までに三〇パーセント六五九一人 の死傷を出した。だが、日本側の損害も次第に増 鉢 し、食糧は砲火に焼かれ、貴重な飲料水の不足に、 硫黄島米軍進攻図 将兵の体力は消耗した。 八日、総攻撃を決意した千田少将は栗林中将に連絡した。中将は直ちに「総攻撃を中止し、最 後まで死守せよーと返命したが、千田少将はやはり玉と砕ける死を選んだ。 八日夜、千田少将は各隊長を集めて命令を下達したあと「長い間ご苦労だった。靖国神社で会 おう , といって、コップ一杯の水で乾杯した。命令には「戦闘 = 参加シ得ナイ病症者ニ ( 現在ノ 戦況ヲ知ラシメ、将来ヲ語リ、隊長ノ面前ニオイテ自殺セシメルョウ努メラレタシーとつけ加え られてあったが、各隊長は申し合わせて、ただ一発ずつの手榴弾を傷病兵に与えて別れを告げた。