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検索対象: 太平洋戦争 (下) (中公文庫)
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1. 太平洋戦争 (下) (中公文庫)

マーシャル主要兵力配置 同じくタラワ戦で不十分と認められた上陸支援砲爆 ( クエゼリン・メジュロを除く ) 〔ミレ凵 撃も改善した。すでに、十二月から一月にかけて、ク ( 陸軍 ) 南海第一支隊 ( 本部及一個大隊 ) 工ゼリンに三一 三トン、マロエラップ三二六トン、ヤ 第百七連隊第三大隊 山砲兵第十六連隊第三大隊 ル 1 ト二五六トン、ミレ四一五トン、ウォッゼ三六七 工兵第五十二連隊 トン、計一六七七トンの爆弾が基地航空部隊によって ( 海軍 ) 第六十六警備隊 計五五〇〇 投下されていたが、支援艦隊指揮官リッチモンド・タ 〔ウォッゼ〕 ( 陸軍 ) 第一海上機動旅団四個中隊 1 ナー少将は、大型空母一、小型空母一〇、戦艦七を 南海第一支隊第一一機銃大隊 含む三〇〇隻を動員して、上陸直前の砲爆撃に完全を ( 海軍 ) 第六十四警備隊 計三五〇〇 航空兵力配置 〔マロエラップ〕 ( 陸軍 ) 第一海上機動旅団六個中隊 二十二航戦二五二空戦三〇マロエラップ 南海第一支隊七個中隊 二八一空戦二五ルオット ( 海軍 ) 第六十三警備隊 計四〇〇〇 二十四航戦五三一空艦攻一〇ウォッゼ 〔ャルート〕 戦 ( 陸軍 ) 南海第一支隊第一一大隊 ル・オ・ツ , い の 七五二空陸攻二〇 マロエラップ 洋 機銃一個中隊 平 ( 海軍 ) 第六十一一警備隊 第六根拠地隊九五二空水債四ェビゼ 太 計三五〇〇 中〔クサイ〕 西艦二十三航戦七五三空陸攻一〇ルオット ( 陸軍 ) 南海第一一支隊第百七連隊の一部 計四〇〇〇南面 巖 ) 第四艦隊

2. 太平洋戦争 (下) (中公文庫)

えた。最後の第一大隊が七月五日夜、駆逐艦で輸送される途中、またも敵駆逐艦と魚雷艇の襲撃 を受けた。そのさい、駆逐艦「天霧」 ( 花見弘平中佐 ) がジョン・ケネディ中尉の魚雷艇 を、接触して分断し、中尉ら一一人は付近の孤島に泳ぎついた ( ケネディ氏が大統領になったあと、 その無人島は〃ケネデイ島″と呼ばれている ) 。 さて、レンドバ島上陸を知ると、第十一航空艦隊司令長官草鹿中将は、直ちにプーゲンビル島 ・フィンに司令部を進めた。そして、その日のうちに、三回にわたり、戦闘機七二、陸攻二六、艦 爆八で攻撃を行なったが、三一機を失った。古賀連合艦隊司令長官は、トラックにいた第二航空 戦隊 ( 酒巻宗孝少将 ) の全兵力、戦闘機四八、艦爆三六、艦攻一八を・フィンに派遣した。 ラ・ハウルの陸軍第二十飛行団もレンド・ハ攻 中部ソロモン守備部隊 撃に加わった。七月二日、重爆、戦闘機各一一 ージア島〕 第三十八師団第二百二十九連隊 ( 平田源次郎大佐 ) 主力四機が出撃、さらに四日、重爆、戦闘機各一 転 の呉第六特別陸戦隊 ( 岩淵三次大佐 ) 七機がレンド。ハに向かった。しかし第一回は 戦〔コロンバンガラ島〕 全機無事だったが、第二回は重爆七、戦闘機 一第六師団第十 = 一連隊第三大隊 一を失い、以後、陸軍機はソロモンには出動 横須賀第七特別陸戦隊 十〔レンドバ島〕 しなくなった。 昭第三十八師団第二百二十九連隊一個中隊 陸軍は、「中央協定」にも明記してあるよ 呉第六特別陸戦隊一個中隊 ( うに、中部ソロモン防衛に熱意はなかった。

3. 太平洋戦争 (下) (中公文庫)

306 第四十四旅団は輸送の途中に大部が海没した。 牛島中将は、島の南半部で持久する方針を決めた。 敵上陸は当然、長くゆるやかな海岸線を持っ嘉手納海 岸に予想された。同海岸には北 ( 読谷 ) 、中 ( 嘉手納 ) もとぶ 両飛行場があったが、中将は北飛行場北部の本部半島 に第四十四旅団第二歩兵隊 ( 宇土武彦大佐 ) 、東に特設 第一連隊を配備したのみで、主力は南部に配置した。 伊江島飛行場は爆破した。特設連隊は、兵站、船舶要 員などで編成したもの ( 全部で六個連隊 ) だが、ほかに 兵力補充のため、満一七歳から四五歳までの県民男子 計六九一九九 約二万五〇〇〇人を動員した。この中には、男子中等 沖繩方面根拠地隊 ( 大田実少将 ) 学校上級生一六八五人 ( 鉄血勤皇隊 ) 、女子中等学校上 計約八 0 〇〇級生約六〇〇人が含まれた。これら県民召集部隊は、 総計約七七一九九 防衛隊、義勇隊として各部隊に充当された。本部半島 の宇土支隊三個大隊約三〇〇〇人も、・約五〇〇人が内地兵で、残りは県民部隊だった。 沖縄県民五七万人のうち、約一〇万人は島外に疎開し、老幼者の一部は北部に避難したが、大 半の約三〇万人は南部に残り、多くは陣地構築、補給作業に従事した。県民は、戦火の切迫はす 沖繩守備部隊 〔陸軍〕 第三十一一軍 ( 牛島満中将 ) 第二十四師団 ( 雨宮巽中将 ) 第六十一一師団 ( 藤岡武雄中将 ) 独立混成第四十四旅団 ( 鈴木繁一一少将 ) 野戦重砲兵第一、第二十三連隊 独立重砲兵第百大隊 重砲兵第七連隊 独立日砲第一連隊 軽迫第三 ~ 第十中隊 戦車第二十七連隊 その他 〔海軍〕 かでな

4. 太平洋戦争 (下) (中公文庫)

104 たが、たとえ来攻するとしても上の来襲機数表も示すように、まずミレ、ヤルー トを目標とすると信じていたからである。 ゼ オ マーシャル諸島の防備は、第四艦隊 ( 小林仁中将 ) のもとに、第六根拠地隊 ( 秋 数 6 ゼ山門造少将 ) 、第二十二航空戦隊 ( 吉良俊一少将 ) 、第二十四航空戦隊 ( 山田道行少将 ) が主力となり、陸軍部隊も配置された。総兵力は約二万八〇〇〇人。しかし、左 襲ウ 表のように分散配置されたために、各島とも兵力は不十分だった。防御施設もほ 面エプ とんどなく、米軍来襲時には、どの島でもようやく塹壕を掘りはじめたところた マラ ャ っこ。 シト 6 これにたいして、米軍側は万全の準備を整えていた。攻撃は三波に分かれて行 マ ャ なわれた。メジュロ環礁には、第二十七歩兵師団第百六連隊第二大隊が向かう。 レ囲ク = ゼリン環礁のうち、北端にある地続きの双子島ロイ、ナムール島は ( リー・ シュミット少将の第四海兵師団、南部のクエゼリン本島はチャールス・コーレッ ト少将指揮の第六歩兵師団、第二十一海兵連隊を、それそれ主力にして攻撃した。 タラワ戦の教訓を生かして、日本軍のトーチカ陣地破壊のため、砲爆弾はすべて貫通力の強い 徹甲弾を用い、直撃弾を浴びせるために弾着観測の第一合同攻撃通信中隊、第四海 兵観測機中隊を新設、参加させた。タラワ戦で不足を嘆いた水陸両用車は、こんどは二四〇台が 用意され、さらに水陸両用戦車 (*-2>+@① ) 七五台が配備された。

5. 太平洋戦争 (下) (中公文庫)

揮官山本恒市少佐以下は、つぎつぎ に倒れる戦友の死体を楯にして、文 字どおり最後の一兵まで戦った。四 オ 三年一月二日、つづいてブナ守備隊 が全減した。最後の突撃は、第百四 十四連隊長山本重省大佐 ( 楠瀬大佐 病気後退のあと着任 ) 、海軍陸戦隊指 揮官安田義達大佐以下八人だった。 南海支隊長小田少将は、一月二十 日、ギルワ地区の第四十一連隊、第 ギルワ・ブナ地区要図 四十七高射砲大隊 ( 淵山貞英中佐 ) に、 クムシ河口へ撤退を命じた。山県少将の第二十一旅団はその前日、命令を待たずに舟艇で撤退し 。小田少将は、傷病兵残置を決めたあと、食糧やタバコなど持物いっさいを部下に与え、 副官富田義信中佐とともに拳銃で自決した。 翌二十一日、米第三十二師団第百二十七連隊@中隊が、早くもギルワ村に突入した。中隊長フ レイザー中尉は、・ キルワの最期を報告している。 「村の東側に野戦病院があったが、その光景は悲惨だった。多くの傷病兵が群がり、そのほ いコ ヾサアーーー ガララーー " キ リンタ シャンクル

6. 太平洋戦争 (下) (中公文庫)

ニュープリテン島兵力 「 ( ここの一日は ) ト・フルクやエル・アラメイ 〔陸軍〕 ンの一〇日間以上のひどさだった」 第八方面軍 ( 今村均大将 ) 第二十師団はその北方ワレオ、ノンガカコの線 第三十八師団 ( 影佐禎昭中将 ) 第十七師団 ( 酒井康中将 ) に退いた。すでに一万二五〇〇人の兵力は七〇〇 計七万五〇〇〇 〇人に減り、その三分の二が死傷し、全員が飢え 〔海軍〕 南東方面艦隊・第十一航空艦隊 ( 草鹿任一 ていた。しかし、なお戦意は衰えず、抵抗をつづ 中将 ) けたが、第八方面軍は十二月十七日、第十八軍を 第二艦隊 ( 栗田健男中将 ) 第五戦隊 ( 大森仙太郎中将 ) 通じて第二十師団をシオに撤退させた。その二日 計四万 前、十二月十五日、・カニンガム代将指揮の第 総計一一万五〇〇〇 百十二騎兵連隊、第百四十八野砲大隊が、ニュー プリテン島西南岸マ 1 カス岬アラウェに上陸、ダン。ヒール海峡を東西から確保せんとする態勢を 示したからである。 ニュ 1 プリテン島西岸の防備は、松田厳少将指揮の第十七師団第六十五旅団 ( 第百四十一連隊基 幹 ) 、第五十三連隊、第五十四連隊、捜索第五十一連隊その他一万五〇一八人が担当していた。 マーカス岬の敵にたいしては、直ちに陸海航空部隊 ( トラックから約六〇機増援 ) も加えて反撃に 出たが、航空部隊の消耗は激しく、数日を経ないで、陸軍第四航空軍の爆撃機は二機に減るあり さまだった。しかも十二月二十六日、ニュ 1 プリテン島西端のグロセスタ 1 岬に、ウィリアム・

7. 太平洋戦争 (下) (中公文庫)

うに同法発動を下令した。 一、主隊及び邀撃部隊は二十三日トラック発、好機を捉え敵艦隊と決戦を行なう 二、一部兵力を以て在ポナベ陸軍甲支隊 ( 第百七連隊の一部約一五〇 0 人 ) をマ 1 シャル群島方 面に輸送し、好機ギ化ハート諸島方面敵上陸地点に逆上陸を決行、敵上陸部隊を撃減する だか、これらの措置は、、・ しすれも″好機〃と但し書がついているように、積極的なものではな かった。すでに二十二航戦は二十日に陸攻一九機を出動させたが、途中で米艦載機に捕捉されて 大半を失い、二十一日敵上陸直後に出撃した陸攻一六機も、タラワに到着できず、九機が未帰還 となった。二十二航戦の戦意もまた鈍り、タラワ陸戦隊が待つ日本艦隊決戦は望み薄になった。 孤立した精兵たち 二十二日午前六時、タラワ戦第二日が開幕した。海岸のシャウブ第二連隊長と連絡を回復した スミス第二海兵師団長は、一晩しゅう沖で待機していた第八連隊第一大隊に上陸を命した。だが、 戦使える水陸両用車は一八台しかなかった。第一大隊はそのまま舟艇を進め、サンゴ礁につきあた 洋ると同時に海中にとび下りて、岸を目ざした。第一日目と同じ状況だが、日本軍の銃火は前日以 太 上の激しさだった。夜の間に潜入した日本兵は、海岸の海兵の背後から、海を渡る第一大隊を攻 部 中 撃した。同士討ちを恐れる海兵の援護射撃は弱く、 第一大隊はつぎつぎに水中に倒れた。わずか 五〇〇メ 1 トルにたらない距離を渡るのに五時間かかり、しかも戦死一〇五人、負傷一一三五人の

8. 太平洋戦争 (下) (中公文庫)

が損害を増加させることにもなった。 こうした状況から、海軍としては中部ソロモンを米反攻阻止の要地とみなしたにもかかわらす、 航空攻撃は効果をあげることができず、またしても消耗戦の様相をおびてきた。補給と輸送も、 ガ島のときと同様の、駆逐艦、舟艇による夜間の″東京急行〃を再現せざるをえなかった。 中部ソロモン、米軍の掌中に 七月五日、米軍は第四十三師団主力をムンダ飛行場東方の海岸に揚陸した。佐々木南東支隊長 は、コロイ ( ンガラ島の第十三連隊第一、第三大隊を呼びよせた。米軍はレンド・ ( 島のほか、海 岸に近いルビアナ、アイ ( アイ ( 両島にも砲兵を進出させ、さかんに援護射撃を加えるが、上陸 した第四十三師団は、飛行場の東に布陣した日本軍 ( 第二百二十九連隊 ) を攻めあぐんで、前進で 転きなかった。師団長へスター少将は、第百六十九、第百七十二両連隊の連隊長、参謀たちをつぎ 争っぎに解任して、士気を高めようとしたが、効果はなかった。 一おまけに、「ロイ ( ンガラからきた第十三連隊は強かった。中国で十分に戦闘体験を積み、ジ 年ャングル内の行進では憂消な顔をしているが、敵の姿を見るや、たちまちニコニコと銃剣をかざ + して走りだす。旗手が砲弾で吹き飛ばされても、連隊長は「軍旗を地面にたおすということがあ るか。 ーと叱咜し、絶命寸前の中隊長はかけよる部下を「片腕一本、心配するな」としりそける といった調子である。

9. 太平洋戦争 (下) (中公文庫)

プーゲンビル島兵力 ・フーゲンビル島に上陸した米海兵第三師団にた 〔陸軍〕 いしては、これより前十一月八 ~ 九日、浜之上俊 第十七軍 ( 百武晴吉中将 ) 第六師団 ( 神田正種中将 ) 成大佐指揮の第六師団第二十三連隊基幹の一三四 独立混成第三十八旅団 ( 木島袈裟雄少将 ) 〇人が攻撃した。その第十二中隊 ( 本川定中尉 ) は、 南海第四守備隊 計四万四〇〇〇大発で海兵隊橋頭堡西側のラルマ川湿地に上陸し 〔海軍〕 たが全減、浜之上連隊も、予定されたラバウルか 第八艦隊 ( 鮫島具重中将 ) らの逆上陸部隊 ( 第五十四連隊 ) の進出を待たず、 第一海軍根拠地隊 佐世保第六特別陸戦隊 退却せざるをえなかった。第八方面軍は「命令な 計二万一〇〇〇 く撤退した浜之上大佐に自刃させよーと強硬に要 総計六万五〇〇 0 求したが、百武第十七軍司令官は拒否した。神田 第六師団長は岩佐支隊三個連隊、野砲一個大隊 ) をもって第二次攻撃を企図したが、今村第八方 面軍司令官は慎重に延期を指示、 ( ルゼ 1 軍の・フカ島飛行場襲撃に備え、第十七師団から一個大 隊を増派することにした。 十一月二十四日、香川清澄大佐が率いる駆逐艦五隻は、ラ。 ( ウルから九二〇人の将兵をブカ島 に揚陸、航空要員一一〇〇人をのせて帰途についた。この久しぶりの″東京急行〃をいち早く察知 したハルゼー司令部は、″三一ノットく / ーク〃に進出を命じ、 ーク隊 ( 駆逐艦五 ) は・フカ島西方 五五マイルを目ざした。二十五日午前一時四二分、「スペンス」のレ 1 ダーが、七五度、一万九

10. 太平洋戦争 (下) (中公文庫)

かオーエンスタンレー山脈の奥地に分散し、海岸に到着した物資を届けるにも、その手段がない。 空中投下を試みても途中で敵機に襲われる。たとえ投下しても、はてしないジャングルに落ちる だけで拾うすべもない。将兵の状況は、ガ島にまさるとも劣らない悲惨な状況を呈した。第百四 十四連隊第二大隊第二機関銃中隊の一兵士の日記は、その様子を伝えている。 十月十七日 ( 昭和十七年 ) ついに食糧は完全に無くなった。木の根を食い、草を食う。 十月十九日ほかの中隊では、とうとうオーストラリア兵の死体の肉を食べる者が出た。な にも食うものがない。 支隊長堀井少将は、四二年十一月十九日、筏でクムシ川を下り、ゴナ西方の河口からカヌーで 海路ギルワを目ざしたが、海上一〇キロの地点で突風にあおられてカヌ 1 は転覆。堀井少将は、 当番兵と二人でしばらく泳いだが、やがて「もうわしは泳ぐ力がっきた。堀井はここで死んだと 転伝えてくれ」といい残して、海中に姿を消した。 争南海支隊長の後任には小田健作少将があてられ、独立混成第二十一旅団 ( 山県栗花生少将 ) が増 一派されたが、戦況は完全に末期的症状を呈した。南海支隊は、北ギルワ ( サナナンダ ) を中心にそ の東のブナ、西のパサ・フアを底辺とし、南ギルワを頂点とする三角形地区を守っていたが、横山 工兵連隊長は「糧食欠乏・ : : ・このままにて推移せんか戦わずして死減するのみ」と、ラウルに 打電した。 十二月八日、・ ( サ・フアの野戦道路隊、陸上輸送隊をかき集めた守備隊八〇〇人が全減した。指