寝入りばなを電話で起こされた西田健雄の声は、不機嫌にならざるを得なかった。 「もしもし : ・・ : 」 「西田さんですか」 「はい。 西田ですが」 「遅い時間に申し訳ありません。グレース証券の吉岡です」 西田はいっぺんに目が覚め、べッドに上体を起こした。 、まさらながら脱帽してますよ。一一年前でしたか 「あなたの先見性、本質を見きわめる眼力に、し ねえ。ラクレルの熊野氏へのキックバックに反対されたのは : : : 」 きようは一九九九年 ( 平成十一年 ) 九月十九日日曜日。午後十一時四十分だ。 西田がグレース証券の私募債のからくりを見抜いて、グレース証券を十日足らずで去ったのは、 二年前の九月だった。 ヴィクトリア債がデフォルト ( 債務不履行 ) に陥り、国内企業約七十社、約一千三百億円の私 クレース証券事件が表面化したのは九月上旬のことだ。 募債は紙屑と化し、 ( テレビ、新聞などのマスメディアは連日、この事件をセンセーショナルに報道していた。 グレース証券会長のマイケル・ < ・パターソン ( ヴィクトリア・エコノミックス・インターナ 8 2
ハシフィック証券の残高証明を < >< してやるか 「舐めたロをきくじゃねえか。ふざけるなー ら、ホテルとルームナンバーを教えろ」 その残高証明が本物という保証はどこにもないし、辞めていく俺になんの意味があるというの 「なあ、ケン。考え直したらどうだ。おまえは正義派気取りでいろいろ一一一一口うが、ヴィクトリア債 は損失先送りの商品としても、クライアントが大儲けする商品としても、世界中で評価されてる んだ。頭を冷やしてよく考えてみることだな」 「損失先送りの商品」とは言いも言ったりだ。つい本音が口をついて出てしまったと見える。 「どこのホテルに宿泊してるんだ」 ハターソンの声がやわらいだが、目の怒りは取れてなかった。 ハターソンとの出会いを大切にしたいと考え 「すぐに帰らなければならないのです。ミスター たからこそ、わざわざお別れを一一一一口うためにニューヨ】クにやって来ました」 「ケン、いし力、冫 日成にしろよ」 「一千万円は東京に帰り次第、グレース証券に返却します。わたしがグレース証券で見聞きした ことを一切他言しないことを誓います。守秘義務は守ります。ダイヤモンド・プラザーズに入社 クレース証券とはまだサインしてません。 するときは大変な誓約書にサインさせられましたが、 ' したがって、在籍しなかったことにしていただきたいと思います。金融の世界から足を洗うこと も考えています」 0 2
クレース証券、ヴィクトリア社マイケル・ヾ さらに一九九三年九月 >< 日の Z 新聞は、 ( ン会長招きセミナーの見出しで、次のように報じている。 グレース証券は二十二日、米国・ヴィクトリア・エコノミックス・インターナショナル会長の マイケル・ < ・パターソン氏 ( 四十二歳 ) を招き、都内のホテルでセミナーを開く。グレース証 券の顧客である生命保険、投資顧問など機関投資家を中心に百人近くの参加を見込んでいる。セ ミナー開催により顧客への情報提供の機会を増やすのが狙い。 ヴィクトリア社は、債券、金利、為替、貴金属などの市場分析を中心に業務を行っている。 ハターソン氏は、これまで人工頭脳コンピュータを活用、市場トレンドの転換点を把握するシ ステムを開発している。 同社は米国市場だけでなく、日本市場の予測にも力を入れている最中。 これまで八九年末の主要銘柄平均株価の最高値を予測するなどの実績を持つ。 今回のセミナーでは「 ( 政府の株価維持策 ) は無力である」など数々の分析結果を予測 する予定だ。 まだまだあるが、 Z 新聞がパターソンを評価していることは明々白々だ。 九三年で四十一一歳なら、いま現在四十六歳ということになるが、初対面で、西田はもっと老成
人から誘われたんですー ハターソンがにたっと笑った。 「エリート同士の友情というわけだな」 「わたしはエリートではない。叩 き上げのトレーダーで、ハイティーンの頃からウォール街に入 り浸っていたよ。連戦連勝とまではいかないが、為替と株で大勝ちしたことのほうが圧倒的に多 いな」 「だからこそ、こんなペントハウスに住めたんでしよう」 「そ、ついうことだ」 ハターソンは夫人に流した目を西田に戻した。 「グレース証券の会長をしているミスター吉岡を知ってるか」 「名前ぐらいは : : 。たしか興日証券のニューヨーク支店長をされた方と聞いていますが」 「六年前の一九九一年に経済評論家の三浦敦に紹介されて意気投合し、グレース証券の会長に迎 えたんだ。吉岡がわたしの忠実な部下だから、グレース証券は成長を続けてるんだよ。ヴィクト リア・グレース・グループは、まだまだ発展するぞ。わたしは常々グレース証券にインベストメ ハンキングの機能を持たせたいと考えていたんだが、ケンとの出会いでそのチャンスが出 てきたよ、つな気がしないでもない。わたしのインスピレーションには、自分でも布いくらい神力 かり的なものがあるからねえ。一九八七年のプラックマンデーを的中させて大儲けしたのは、わ
一九九七年 ( 平成九年 ) 九月一日午前八時一一十分に西田健雄は日本橋のオフィスビル三階にあ るグレース証券に初出勤した。 グレース証券では毎週月曜日の朝八時半から朝礼がある。 この日は月曜日だったので、西田が朝礼で吉岡社長から社員に紹介された。 「西田健雄君をご紹介します。西田君はハー ノ ード・ビジネス・スクールで < を取得し、最 近までニューヨークのダイヤモンド・プラザーズ本社のインベストメント・ ハンキング部門で活 躍していましたが、 このたびパターソン会長の熱心なスカウトが功を奏し、グレース証券に入社 していただくことになりました。副社長兼エグゼクテイプ・マネージング・ディレクターとして、 わたくしを補佐してもらいますが、同時に、当社にインベストメント・ ハンキング部門を設置し、 収益部門の柱として育ててもらいたいと思っております。それでは西田君に一一一一一口抱負を述べてい ただきます」 拍手の中で、西田は一礼し、笑顔で五十名ほどの社員に語りかけた。 「おはようございます。本日付でグレース証券にお世話になることになりました西田健雄です。 まだ三十八歳の若輩ですので、皆さんに鍛えていただき、一日も早く戦力になりたいと願ってい ます。グレース証券はパターソン会長と吉岡社長に率いられた、ヾ ノイタリティあふれる企業と聞 786
ス・プレジデントになりましたから、図に乗ってたんでしようかねえ。結局、白人優位社会の中 で、限界を感じたっていうことでしようか。もっとも、 ハターソンとの出会いがなかったら、 Q を飛び出さずに辛抱したかもしれませんけど」 「グレース証券のことはあまりよく知らないのですが、いまどきの中小証券にしては急成長して るようですねえ。西田さんほどの大物をスカウトするなんて、パワーがありますよ」 西田は吹き出した。いくらなんでも大物はない 「わたし程度の小物だからスカウトできたんです。インベストメント・ ハンキング部門を立ち上 ターソンから、おま、んク げて軌道に乗せるまで、どのくらい時間がかかるか分かりませんか、パ ラスを四、五人集めろって言われてますから、それなりに余力はあるんでしようねえ」 西田は網焼き牛ヒレ肉を口へ放り込んで、ゆっくりと賞味し、冷酒を二つの小さなグラスに注 いでから、話をつないだ。 「いい加減なやつだと思われても仕方がありませんが、わたしも実はグレース証券のことはほと んど分かってません。ただ、吉岡社長は信頼できる人物だと思うんです」 「ラクレルの熊野副社長がグレース証券さんを莫迦に買ってると聞いたことがあります。熊野副 額社長は運用ではプロ中のプロとして聞こえていますが、熊野副社長に評価されているということ 巨 は、ある種のお墨付きになるんじゃないでしようか」 五「ニューヨークで、パターソン会長、吉岡社長と一緒に熊野氏と会食したことがありますが、そ のとき、 ハターソンがヴィクトリア・グレース・グループにとって、社外重役のよ、つな人だとい
「見通しは暗いな。それ以前の問題として、いろいろあるしなあ。中に入ってみると、厭な面が 見えてくるってい、つか : ・・ : 」 「西健がグレース証券に入社して、まだ一週間にもならないじゃないか 「きようおまえと会う本来の目的は、ヘッドハンティングすることだったんだが、スイス銀行と のアライアンスで、それどころじゃなくなって、よかったよ」 「俺はもともと東長銀を辞めるなんて気はないぞ。このことは西健に何度も言ってるけど、よか ったって、なにがよかったんだ」 ハターソンの出方いかん 「小野だから一言うけど、グレース証券を辞めるかもしれない。マイク・ だが」 「冗談だろう」 「本音だよ」 「大森はどうなっちゃうんだ。あいつは子供を奥さんの実家にあずけて、ヨーロッパ旅行を楽し んでるが。西田が辞めて、大森がグレース証券に行くなんてあり得ないよなあ」 「問題はそこだ。頭が痛いよ」 ートナーとして迎えられたんだろう」 「西健はパ 「まあねえ」 「その西健が、入社わずか五日で、辞意を洩らすなんてどういうことなんだ。無責任もきわまれ りじゃないか」 244
綾子には悩んでいる、と言ったが、西田の気持ちは決まっていた。 ヴィクトリア・ファンドはヘッジファンド以上にハイリスク・ハイリターンであることはたし かだが、資金量に圧倒的な格差がある。 資金量にものをいわせ、レバレッジを効かせた先物・オプションなどのデリバテイプで、ヘッ ジファンドは巨額の収益を上げていたが、現在表面化しつつあるアジア諸国の通貨危機でも、ヘ ツンファンドは犯人視されていた。 マイク・ < ・パターソンがヘッジファンドの尻馬に乗って、稼いでいる可能性は否定できない としても、ヴィクトリア債がハイリスクの私募債であることは間違いない。 、つぬほれるのもど、つかと田ハ、つかノ 、ターソンと吉岡は、俺を仲間に引っ張り込んで、私募債の 拡張を狙っているとしか思えない。 ード・ビジネス・スクールで << を取得し、ダイヤモンド・プラザーズのヴァイス・ プレジデントの経歴をもっ俺は、グレース証券で小さな看板ぐらいにはなるだろう。 インベストメント・ ハンキングに色気はあるのだろうが、こっちのほうはおまけみたいなもの ら かもしれない。 トレーディング部門もあり、証券や為替取引も行って 募もちろん私募債だけがすべてではない。 いるが、ヴィクトリア債がグレース証券の主力商品であることは、わずか六日間出社しただけで、 六把握できた。 グレース証券はヤバイ、危なっかしい 28 ノ
ーク ) の責任について、どう考えていますか。 2 「ヴィクトリア債で集めた資産を適切に運用せずに、流用していた疑いが濃厚なので、東京地 検に詐欺罪で告発せざるを得ないと考えています」 グレース証券の今後の事業見通しについて聞かせてください。 「先週の木曜日に約五十人の全従業員に九月末で解雇する旨、通知しました。しかし廃業まで は考えていません。私はいつでも退く覚悟はできていますが、今は問題の処理に全力で取り組 みますー 2 前後するが、吉岡からの電話で、眠りを破られた西田は、なかなか寝つかれず、午前一時過ぎ まで水割りウイスキーを飲んでいた。この二年ほどの来し方が思い出されてならなかった。 わけても、グレース証券元社長秘書の岡本綾子との関係に思考が向かいがちだ。 この日に、西田は綾子とデートした。西田が綾子を中野二丁目の賃貸マンションに呼び出すこ とが多かった。二人が恋に落ちてから一年以上経つ。 西田は不惑になったが、綾子は七歳下の三十三歳だった。 西田の勧めで、グレース証券を九七年十二月に退職した綾子は、外資系の運送会社に勤務して
ハターソンのビジネスを手伝わせていただきますー 「結論から申し上げます。ミスター 「オオウッ ! オオウッ ! 」 パターソンは異様な叫び声をあげながら、西田の隣に坐った。そして西田を抱き締めた。 「サンキュウべエリー 丸太棒のようなパターソンの腕に強く抱かれて、西田は呼吸がままならず、息苦しくなった。 ハターソンと固い握手を交わした。 西田は、なんとか太い腕をほどいて、距離をつくり、 「それで、ダイヤモンド・プラザーズはいっ辞めるんだ」 「七月下旬です。八月は夏休みですから、九月からグレース証券で仕事をさせていただきます」 「けっこうだ。ヒロも喜ぶぞ。さっそく電話で知らせてやろう」 ハターソンはコードレスの電話機とアドレス 東京は六月一一十八日、土曜日の午前十一時だ。 帳をメイドに運ばせて、グレース証券社長の吉岡弘の自宅に国際電話をかけた。 「さっそくだが、朗報があるぞ。ケンがわたしのパートナーになってくれることになったよ」 「ほう。そうですか。ダイヤモンド・プラザーズを辞めるのは勇気を要しますから、わたしはそ 橋の確率は低〕とば諦めてたんですが」 い「わたしは違、つ確信があった。ケンは必ずわがヴィクトリア・グレース・グループに来てくれ るとな」 章 「マイクの引力の強さを改めて見直しましたよ」 第 「いま、ここにケンかいるから、電話を替わろう」 737