「西田さんがその気になってくだされば、迷ってる社長も踏ん切りがつくと思うんですけど」 それはあり得ない。先刻の吉岡との激しいやりとりを山口が知ったら、どんな顔をするだろう 山口は俺に対して、無防備であり過ぎる。パターソンのパートナーであると信じきっているの だからしようがないが。結果的に山口をひっかけたことになるのはどうにも気が差す。しかし、 この際そ、つも一言ってられない・ 「ヴィクトリア・グロー バル・マネジメント・ Z 社をご存じですか」 ーカンパニーです。わがヴィクトリア・グレー 「タックス・ヘイプン ( 租税回避地 ) のペー ス・グループの一部とも一言えますが、便宜的手段としてはよろしいんじゃないですか」 「なるほど ノックの音がした。 ドアの向こうに、岡本綾子の顔が見えた。 「どうぞ」と、山口が応じた。 ら 「西田副社長、お食事はどうなさいますか」 の 募「もう十二時半ですか。山口さん、どうしましようかー 山口が時計に目を落とした。 章 「なんでしたら、会議室でコンビニの弁当でも食べましようか。ウチのお嬢さんは、どこへ行っ〃 第 2 ちゃったんだろう。お茶も出さないで」
グレース証券では、マネージング・ディレクター ( Q ) 以上は個室を与えられている。ドア の上部がガラス製なので、在席中の山口を目で確かめられた。 西田がノックをすると、山口はびつくりした表情でドアを開けた。 「ちょっとよろしいですか」 「どうぞ。でも呼びつけてくださいよ」 「なにをおっしゃいますか。先日は山口さんのレクチャーをおろそかにして、失礼しました。社 長とラクレルの熊野副社長を表敬訪問して、いま帰ってきたところです」 西田は、椅子に腰をおろした。 山口があわて気味に言った。 「会議室に行きましようか」 「ここでよろしいじゃないですか。どうぞお坐りください」 「なんだか落ち着きませんが、失礼しますー 五坪足らずの狭い部屋なので、応接三点セットはなかったが、木製の椅子が二脚ある。 デスクの上にパソコン、電話機などと一緒に家族の写真が三枚も飾られてあった。 外資系企業ではなぜかそうしている者が多い。ダイヤモンド・プラザーズでもスティープ・ 2
ヴィクトリア債のことには、ロ出ししてもらいたくない、 皮肉つほい口調だった。 のつべりした顔がいびつにゆがんでいる。 「おっしやるとおりです。しかし、グレース証券の主力商品に無関心でいられるほど、わたしは こ乗ってくれと言われてます」 無神経ではありませんし、吉岡社長から、経営全般について相談し さわ 「気に障ったら、ご容赦ください。でも、熊野副社長の件まで西田さんにオープンにするとは意 外でした。入社早々の西田さんには刺激が強過ぎると思いますー 「どうも。ご配慮感謝します。山口さんは先日も、そんなことを言ってましたが、遅かれ早かれ 分かることですよ」 「そもそも熊野氏からリべートの要求があったんでしようねえ。グレース証券から持ち掛けたわ けではないでしよう」 山口は返事をしなかった。 おいおい伺、つとして、今後ともよろしく 「きようは、本来の目的から脱線してしまいましたが、、 お願いします」 「こちらこそよろしくお願いします」 山口は浮かぬ顔で、ファイルを抱えて会議室から出て行った。 が」 、 0 と山口は言外に匂わせたつもりらし幻
「とんでもない。そんな失礼なことは申しません」 山口がグラスを両手でこねくりながら、話をつづけた。 「ただですねえ。マイクは、われわれにとって神様みたいな存在なんです。グレ】ス証券はマイ ク一人でもってるようなものですよ。われわれはヴィクトリア債の売り子に過ぎません。マイク に楯突くなんて、それこそバチが当たるって、みんな思ってますよ。吉岡社長だって、そうだと しや、マイクにいちばん心酔してるっていうか、惚れ込んでるんじゃないでしょ 田 5 います . けど。、 、つか」 「パターソン教の信徒っていうことですか」 「まあ、そうですね。なんたって実績が凄いんですから、文句は一言えませんよ」 す 気のせいか、山口の目が据わっていた。 、気色悪くなった。 もはやパターソン教の信徒の目付きだ、と西田は思い 残りの水割りウイスキーを飲み乾して、山口の目が優しさを取り戻した。われに返ったらしい 山口がふたたび時計に目を落とした。 「もうこんな時間ですか。今夜は、失礼しました」 「こちらこそお引き留めして、失礼しました」 時刻は午後十一時四十分だった。 たてつ 2 ノ 2
O ・サイクス、ゲア リー・・ケニーなどを含めてほとんどはそうだった。 サイクスなどは五枚も飾っていた。そんなのに限って、けっこう女好きで遊び人ときている。 家族の写真は免罪符のつもりなのかもしれない。 西田は気恥ずかしいし、キザつほくも思えて、そんな気はさらさらなかった。もっとも定期入 れの中に娘の写真はいまだに仕舞ってあるが。 西田が写真立ての一つを手に取った。 「奥さん、美人ですねえー 「ええ、まあ。でも十人並みですよ」 山口はちょっぴり照れたが、目を細めた。 「お嬢さんも、奥さんに負けず劣らずじゃないですか。山口さんのほうに似てますかねえ」 「わたしに似ていると言われることをひどく厭がってます」 「どうしてなんですか。不思議ですねえ。近影の写真なんでしよ」 ノワイのマウイ島で息子が撮った写真です。娘は東京女子大の英文科で、 「三年前ですかねえ。、 、ら 三年生です。息子は大学一年で、西田さんの後輩ですよ」 の 募訊きもしないのに、山口は自たらしく説明した。 私 「お二人とも秀才なんですね」と思わず口をついて出そうになったが、なんだか変なので、西田 六はあいまいにうなずいて、写真を元の位置に戻した。 「山口さんは、わたしの先輩ですか」 2
山口は部厚いファイルを抱えてきたが、無駄に終わった。ラクレルの熊野副社長がらみの話で 三十分経ってしまったからだ。 「吉岡社長と例の件でつい今まで一時間も話し込んでしまいましたが、小骨が喉にひっかかった 感じで、すっきりしません」 「聞かなかったことにはならなかったんですか」 「山口さんに、そう言われたことを社長に話したら、山口は大人だねえ、って褒めてましたよ。 しかし、聞かなかったことには、なりそ、つもないですねえ 山口が小首をかしげたので、西田は苦笑を洩らした。 「わたしの性格的な問題もあるんでしようが、熊野氏のリべート要求は断固拒否すべきで、将来 に必ず禍根を残すと思いますよ。今後、熊野氏の要求を拒否したら、ラクレルとの取引は解消に 向かうと思いますか」 「多分そういうことにはならないと思いますけど、マイクも社長もそんな気はさらさらないのと 違いますか。相当ぎくしやくしますからね」 べ 「わたしは、熊野氏に対して断固たる態度を示さない限り、グレース証券の明日はないと思って ハターソンとじっくり話してみたいと思いますが、わたしの意見が容れられな 額ます。ミスター 巨 ければ、グレース証券を去るしかないと腹をくくってますよ」 五山口がふたたび小首をかしげた。 「西田さんが、熊野副社長の件でこんなにナーバスになっているとは思いませんでした。ナー ノ 3 2
西田は溜息をついてから、七行目以下に目を走らせた しよ、つやく 抄訳するとこ、つなる。 これはマンハッタン・ノミニーズ バルファン ・リミテッド ( 誓約名義人 ) 、ザ・ z »--a ・グロー ド ( 誓約者 ) 、マンハッタン銀行の三者が債券の登録所有者であり、満期日または満期日以前に ( 期限前償還が可能 ) 米ドルで所定の金額を受領できる権利を保証するものである。 この文書が事実であることを証明するため発行者を代表して、ここに署名する。 一九九六年六月十四日 マイク・ < ・パターソン 西田は二枚目以降をパラバラとめくりながら、項目だけ目を通した。そして、再び吐息を洩ら した。 「山口さんはこの文書をお読みになりましたか」 「ど、つも : ・・ : 。横文字は弱くて」 山口は照れ臭そうに頭を掻いた。 「ありがと、つごさいました」 西田は書類を山口に返した。 274
3 ・証券を保全するカストディー ハンクであるパシフィック証券は、格の格付けを有する シフィック・ナショナル・ヾ ノンク・オプ・ニューヨークの一〇〇 % 子会社です。 分離口座 ()n 0<<\0) により証券会社、運用会社が倒産しても資金は一 〇〇 % 回収できます。 ( 破産防止法 ) 西田が書類から目を上げて、山口を凝視した。 山口は居眠りしていた。緊張感の欠如もいいところだ。 「山口さん」 「サンライト電気といえば、総合電子部品メーカーの大手ですよねえ。財テクの失敗がこんなに 積もり積もっていたとは知りませんでした。ここにあるドル建てで三〇〇〇万ドルのヴィクトリ ア債の発行は実現したんですか」 「ええ。もちろんです」 「ヴィクトリア土貝よ、 イ ( しいことずくめですねえ」 の たまもの 募「マイクの凄さの賜ですよ」 / ハ 西田は、読んだばかりの極秘と称する文書のすべてを頭の中に叩き込んだ。むろん多少はメモ 六も取った。 さりげなく西田が言った。 2 〃
「それは残念だねえ 「二次会に合流しましようか」 山口が大野と顔を見合わせながら一一一一口うと、吉岡は手を振った。 「それには及ばん。一一次会までは考えとらんよ」 「社長はともかく、せつかくですから銀座のカラオケぐらいどうですか」 のぞ 山口に顔を覗き込まれた田原が話を引き取った。 「西田さん、いかがですか」 「わたしは、どっちでもけっこうです」 「それではぜひおっきあいくださいよ 「ええ」 山口が中腰で言った。 「これで決まりですね。じゃあ九時半に銀座の″美鈴れということで。一一次会は中田、江口、高 木の三人はパスしてもいいからな。八人は多すぎるよ」 「わたしもパスしましようか」 「そうねえ。森村に限らず、一次会に出席する人たちは、西田さん以外無理することはありませ んからね。念のため申し添えます」 これで幹部会は解散になった。 しかん 朝つばらから緊張感が欠如し、空気が弛緩しているともとれるが、言いたいことが言える風通 788
西田は、吉岡のきつい目に負けまいとして、鋭く見返した。 「ミスター ハターソンに後日しかるべくわたしの考えを伝えさせてもらいます」 「それはやめたほうが身のためだな」 「クビを覚唐しろっていう意味でしたら、もちろんそのつもりだと答えさせていただきますけ ど」 吉岡はむすっとした顔を横にそむけた。 西田も険しい顔で天井を仰いだ。 長い沈黙を西田が破った。 「昨夜、山口さんに、聞かなかったことにしたらどうかと言われましたが、 いまやそういう訳に もいきませんね」 「山口は顔に似合わず、大人だねえ。わたしも、一億円の件は西田にまだ話してないといえばよ かったのかもなあ」 「しかし、遅かれ早かれ分かることなんじゃないですか。バレる心配はないと山口さんも話して べ ましたが、 その保証はないと思います。百億円の償還には応じるべきなんです。コンプライアン はうれいじゅんしゅ 額ス ( 法令遵守 ) の社内体制を確立しなければ、株式の店頭公開なんて夢のまた夢に終わってし 巨 まいますよ」 五「株式の公開 ? 」 「ええ。ミスター ハターソンは、社員にも株を持たせて、創業者利潤を分かち合いたいような 279