かも知れない。少年は、拳大の肉の塊を息子に渡した。五歳の息子は擱みぞこねて落とし、砂に 塗れたものをもう一度両手でしつかりと握った。檻に近づく。本当にそうだ、ライオンじゃな、 みたいだ、ロ 何か機械みたいだ、不思議な輪郭の顔だなあ。ライオンは息子を見ている。息子はラ イオンの長い舌と暗い穴のようなロとクリーム色の牙を見て恐くなったが、催眠術にかかったみ ・」わば 小便がしたいと思ったが たいにからだが硬張って、かってに足が進んでいった。泣きたくなり、 足がいうことをきかなかった。髪の色の薄い少年はニャニヤ笑っている。五歳の息子は少年を見 る。少年は、手を差し出せ、と動作で示す。息子は檻の前でライオンの匂いを嗅ぎ、手を鉄の棒 の間から差し入れた。衛兵の妻がそれを見て悲鳴をあげ、息子を突き倒した。肉の塊だけが檻の る中に残っている。ライオンはそれを食べようとしない。髪の色の薄い少年がかん高く笑い始めた。 始「バカだなあ、バカだなあ、鯨の肉なんだよ、こいつら鯨の肉はあんまり好きじゃないんだ、い 争っも獣の肉を食べていたんだから、鯨なんて、食うわけないんだよ」 で衛兵達は駅に向かうことにしたが、港へ向かう人々の波に加わってみて驚いた。五歳の息子は こもちろんのこと、衛兵も、妻も、これ程の大群集を見たことはなかった。彼らだけではない のに集まってきた人の恐らく全てが、これ程巨大な人間の渦の中にいたことなどなかったこ、 背負われた五歳の息子は、衛兵の頭上からこの群集を見てまるで海だと思った。魚釣りの海 と同じだ。海から頭だけをピョコンと出している時と同じ感しだ。この町にこれだけの人間がい
104 「ええ、そ、つですよ、駅に行くと何かわかるだろうって、そう言いました」 「それで、駅に行ったのかい ? 」 「それは知らないよ、どうですかねえ、行ったのかも知れないな」 「駅なんか行けやしないだろう、この混雑だ、どこにも行けやしないよ」 「でも、こんなに人が増えたのはついさっきなんですよ、はんの十分くらい前です、その、おし いさんと俺が会った頃はこんなしゃなかったですよ」 「どっちに行ったのか、わからないのね ? 」 「俺は見てないよ、こうやって座って一日中肉を切ってるだけだから、しばらくそのおじいさん と話してて、目を上げるともういなかったんですよ」 「どっちに行ったのかわからないのね」 「ええ、何か悪いんですけどね」 五歳の息子は話をはとんど聞いていない。プリキ皿の肉塊とライオンを交互に見ている。 息子は衛兵の背中から降りた。蠅のたかっている肉の塊に近づく。気付いた少年が、ライオン に肉をやりたいかい ? と五歳の息子に聞いた。息子は驚いて首を振る。大丈夫だよ、噛んだり はしないさ、こいつら人間に慣れてるからね。息子は衛兵の方を見る。両親は、これからどうす るか、 ~ 具剣な顔で話し合っている。駅に行ってみるか、いやひょっとしたらもう宀豕に帰っている
「ええ、それでね、俺は教えたんですよ、象はいるけど、ここじゃないって、病気になったんだ よ、ここに着いて、貨車から降ろす時に病気だってわかったんです、出発する時はわからなかっ た、よく餌も食ってたし」 「それで ? おじいさんは ? 」 子供達の一群が港へ向かって走ってい 側を駆け友ナこ。 「おじいさんはどこへ行ったの ? る「それで、そのおじいさんは、そのおじいさんというのはあんた達が捜している人なんだろうつ 始て思うけど、また俺に聞いてきたんですよ、今象はどこにいるんだってね、俺は、知らないって 争答えたよ、だって本当にね、本当に知らないんだから、ここにはいないんだ、伝染病かも知れな かったし、貨車からは降ろせなかったんですよ、この町の、たぶん保健所の人だろうと思うけ こど、動かしちゃいけないってそう言ったものだから、きのうの夜ここに着いて、俺達はテントを の張らなくちゃいけないからまっすぐここに来たけど、たぶんまだ駅にいるのかも知れないし、 なくても駅で聞けばわかるだろうって」 「おじいさんにそう言ったんだね ? 。人の波の間を走り抜けて、一人が少年と衛兵のすぐ
102 狭い間隙で鉄の棒が並んでいる。床には、たぶん湿っているのだろう、茶に変色した藁が敷 いてある。厚い板の天井と壁、壁にはなぜか虎の絵が描いてあった。ライオンは牡牝一一頭、牝は 少年が手にしている肉塊を見て時々吠えた。こんなにすぐ近くでライオンを見たのは、五歳の息 子にとって始めてのことだった。これだけ側に近寄って見ると、ライオンはわけのわからないも たて ( み のに見えてくる。目やロや鼻ややザラサラして硬そうな毛がやたらにはっきりと見えるだけ 何か奇妙な感じ、本で見る時とちょっと違う。 「このライオン、火の輪を潜らなかったね」 五歳の息子が少年にそう一言う。少年はプリキの皿に肉塊とナイフを投げ入れると、こいつはも う年寄りなんだ、と小さな声で言った。 「もう、俺よりもすっと前に生まれたんだ、昔は平気で火の輪を潜ってたけど、しじいになると だめさ、何でもダメになるんだ、人間だと年をとってもすることがあるけどこいつらはだめなん だ、ああ、俺、そのおじいさん知ってるよ」 「え ? どこにいるんだい ? 「いや、俺に聞いたんです、俺がここにいると声をかけて」 「何か言ったのかい ? 「象はどこにいるんだって」
キーの瓶が倒れた。衛兵の妻のストッキングが濡れる。液体に触れた足の指の間から全身に鳥肌 が走った。首を掴まれた痛みと吐気と怒りで喉がプルプル震える。男の涎がプラウスに垂れる。 あんたの顔はますい、あんたはこのサーカスの女と同しだ、あんたはきれいじゃない、俺はきれ いくら怒った顔をしてもだめだぜ、恐くない いな人が好きさ、あんたはきれいじゃねえから、 俺はたくさんの女を知ってるからよくわかるさ、あんたはカスみてえな生活をしているんだ、カ スみてえな生活をしてる女の肌はこういうものさ、ざらざらして安物の香水だ、あんた、がキの 小便の匂いがするぜ、俺達より臭いよ。男は彼女のうなじに舌をあて、それを滑らせる。太股の 内側に爪を立てストッキングが破れる。 唾液は背中に落ちて流れる。舞台のライトが男の髪と額を照らしている。シンバルの音が聞こ る える。男の髪の毛の隙間から、ピエロが跳びはねているのが見える。衛兵の妻は下腹からせり上 始 耡が 0 てくる猛烈な吐気で、魚釣りの時の船酔いを思い出した。男は股を割「ていた手を離し、そ れを口の中に入れてきた。 で 彼女は指を噛もうとする。涙を流しながら歯に力を入れようとする。はらおばちゃん、噛め のよ、噛むんだよ、食い千切ってみろよ、俺の指を食い千切ってくれよ。 海 男の指が舌をはさんだ。衛兵の妻は、悲鳴のかわりに冷たくて酸つばい固まりが胃の底から駆 四け上がってくるのを感した。
「ここに座れよ、そしたら返してやるさ、なあ ? 返してやるよ、あんたの子供の棒なんだろ ? ちょっとだけ座ってそれで早く持っていってやんなよ、待ってるんだろ ? 」 やもり 前歯が折れた男のわざとらしい笑い声、何かに似ている、そうだ夜中に聞こえる裏庭の守宮の よだれ 鳴き声そっくりだわ。男が指差す座席は少しだけ濡れている、酒か、涎か、もっと汚ないものか。 あんた棒が欲しいんだろ ? 本当に警備員のような人はいないのかしら、きっとみんな港に行っ てるんだわ、魚を見に集まった人々を整理するためにみんな出てるんだわ。 「座るから手を離してよ、座るから」 男は肩に手を回してきた。あなた何もしないって言ったしゃないの人を呼ぶわよ本当に大声を 、こ貫れていない 出すわよ。鼻をつく酒の匂い、彼女はこの匂しー 1 吐気が込みあげてくる。歯が折 おくび れた男が曖気をして酸つばい胃液の匂いが顔を撫でる。あんた三十前だろ ? 幾つだ 肌がくたびれてるよ、それに少しは化粧しなよ、もっと目を大きく見せなきや ? ええ ? 俺が いつもやる飲み屋の女もはんとはあんたぐらい目が細いんだ、でも俺の女は描いてるぜ、目を大 きくさ、顔がますい女は化粧しなきや。衛兵の妻は声を出すことができない。からだが震えてい る。 : ハンチング 、ンチングの男の濡れた右手が首を掴んでいる。叫ばうと思っても声が出なし が男の頭から落ちた。男は顔を近づける。首を擱む指に力を入れて顔を近づけてくる。左手を膝 の間に入れた。彼女は跪く。左の靴が脱げる。歯の折れた男が笑うのを止めている。床のウイス もが
そう言った衛兵の妻の声は震えていた。彼女はこの種の男達との話し方を知らない。変に怯え た態度をとると、こういう男はかえって嫌味な返事をするものである。 「何だい、おばちゃん」 「その棒は私達がここに忘れたんです、返して貰えないでしようか」 「あんた何を言ってるんだい そう一言ったのはもう一人の方で、その男は酒焼けした顔の前歯が一一本折れていた。 「その棒なんですが」 「棒がどうしたの ? 」 「あたしの子供のものです、返して下さい」 一一人の男は突然抱き合って笑い始めた。口を大きく開け相手の肩を叩き合って笑い転げる。 おい聞いたかい ? 棒を返せってよ棒だってよ。 「返して下さい、お願いします」 前歯の折れた男はその隙間から大粒の唾をとばして、体を折って笑っている。返せって言われ てもこの棒は俺のからだにくつついてるんだしなあおいこのおばちゃん何を言ってんだろうな。 衛兵の妻は頭の中が熱くなってきた。酔っ払いに何を言ってもだめだ、早く棒を取り返して戻ら 、ンチングの男が掴んだ。 なければ、そう思った彼女が黙って棒を取ろうと伸ばした腕を、
狭い通路で人を躱すため、壁にびったりとくつついている衛兵にそう言ったのは、出口の椅子 に座っているモギリの男である。男は壊れかかった椅子に半分だけ尻を乗せビールを飲んでい 「六十歳くらいの、黒い背広を着た老人なんですが、ここを通りましたか ? 」 男は飲み干したビールの罐を衛兵の足一兀に放り投げた。 「え ? 何か言ったかい ? 」 「六十歳くらいの黒い背広を着た老人がここを通りませんでしたか ? 」 「年寄りか、年寄りは知らないね、俺は年寄りはあまり気を付けて見ないからね、年寄りのこと はわからんね」 の男がシンバルを鳴らした。一輪 衛兵の妻が暗い通路から客席の方に戻った時、シルクハット 車に乗る男の、筋肉が盛り上がった肩の上で女が逆立ちをしたのだった。 争 最前列の彼女らの席に戻ってみると、一一人の男が半ば崩れるように座席に座っている。客席と で こ舞台を区切るために並べられたの上に足をもたせて、代わる代わるに瓶の口からウイスキーを の飲んでいた。中央が裂けて髪がはみ出ているハンチングを被った一人、その男は衛兵の息子の透 海 明な棒を股に立てかけていた。 「あの、その棒はここに私共が忘れたんですけど」 る。 かわ
品つばい通路はこばれた酒や水で濡れていて、衛兵達は靴を汚さないように注意して歩いた。 煙草の喫い殻が浮いた水溜まりを、五歳の息子を抱きかかえて避ける。衛兵は脇腹を流れる汗に 「一度出ると、もう入れないわよね」 出口近くで妻が舞台を振り向いて言った。すると衛兵の耳のそばで息子が大声をあげた。 「あ、忘れた」と泣き出しそうな声をあげた。 「棒を忘れたよ、椅子に忘れた」 「バカだな、人がいつばいでもう戻れないよ、店でも売ってるから買ってやるさ」 立ち止まると、先を急ごうとする人が背中を押し通路の土は湿っているので滑りそうになる。 妻は、息子が目に涙を溜めているのを見て、ハント / 。ヾッグを衛兵に預け通路を戻ることにした。 右手に息子を抱き、左手に妻のハンドバッグと背広の上衣を持った衛兵は汗を拭くことができ ない。煙草の煙が混しった空気、彼は苛立ちを抑える。 出口から見える外はひどい混雑である。港へ向かう人の波に、サーカスを見終わった連中が加 わろうとしている。衛兵は、外へ出すに妻を待っことにした。 「いいなあ、あんたら魚を見に行くんだろう ? 魚はでかいらしいぜ、緑色だって言ってたなあ、 くそ、俺も見に行きてえなあ」
「あの蛇は何もしないんだよ」 「ほら見てごらんなさい、みんなもう帰っちゃうのよ、ほらこの棒をくれた人が言ってたでしょ 悪い子だとこの棒が叱っちゃうって、 おじいちゃんを捜しに行くのよ」 棒が叱っちゃうわよ、妻がそう言ったとたん、五歳の息子の顔色が変わった。 「バカだね、そんな風に言う奴があるか」 「僕、何でも一言、つこと聞くよ」 「ああ、ほらあの蛇はああやってあの人の腕に巻きついてるだけで、何もしないんだよ、飾りな んだ、ああそうだ、まだ魚を見れるぞ、 これはもう終わりにして魚を見に行こう」 始 通路はみ合っていた。出口に向かうのは狭い上に一本しかなく、魚を早く見に行こうとして 争 みな急いでいるからである。 で 暗い通路からはつかりと明るい舞台を振り返って見る。シルクハットの進行係が相変わらすシ のンバルを構え、腕に蛇を巻いた女が勢いよく舌の上のを吐き出し、一輪車がグルグル回り、ピ 海 ェロは白粉を汗で溶かして転げ回り、煙草の煙が立ち込めた座席では若い男女が舌を吸い合って