全身を鳥肌が被って吐気を我慢するとは。 母親が口を開けて声を漏らした。 「どうしたんだい 「よくわからないけど、オシッコが出たいみたいなの」 洋服屋は足の方に回ろうとした。 「だめよ、お前はだめ、看護婦さんを呼んで来て」 「だって、おかあさん」 る「お前はだめ、看護婦にやってもらいます」 始「だだをこねちゃだめよ」 争「お願いだからそんなことはしないで、看護婦を呼んできて」 で「じゃあ俺、ついでにメロンを買ってくる」 こ「あんまり高いのを買っちゃだめよ」 の洋服屋は、母親に浴衣を着せて、軟膏の蓋をしめ、病室を出る。 病院の廊下は暗い。看護婦の詰所 ! こ行き、痒み止めの注射と、小便のことを伝えた。看護婦は 三人いて笑い合っていた。その笑い声の調子から洋服屋は、椅子に座って煙草を吸っている一人
女は手を振っている。 顔をこちらに向けて僕を見ている。逆光のためよくわからないが笑っているのかも知れない もし笑っているのだったら子供のような笑い顔だ。まるで初めて海というものを見た夏の子供。 緑と銀のストライプの水着。 首筋のあたりで真珠の首飾りのように光っているもの、汗だろうか、それともさっき海に入っ る ていた時の水滴だろうか、からだに張られた日焼け止めのオイルの表面に乗っている。 始 カープを描いてうんざりする程遠くまで延びた海岸には、あの女と僕以外誰もいない 争 海岸の砂は細かくて、手で握りしめても砂時計のようにこばれ落ちてしまう。 三本のビーチパラソルがある。一本は遙か遠くに少しだけ傾いて、一一本目は赤いやつであの女 のの物と思われる衣類や化粧品や煙草やサングラス、三脚付きの一眼レフのカメラ、バスタオル、 海 こぶんラム。ハンチが入っていたのだろう、ストローが二本さし込んであるパイナッ ヘアプラシ、オ 、グ、三本目の影には僕が寝転んでいる。 プル、透明なビニールヾン
160 ハイナップルの中身をくり抜き、中にジュースと炭酸とラム ていったラム。ハンチを飲みながら。 酒を入れたものだ。 「さっき、あのウェイター何て言ったの ? あなたに何か言ってたでしよう ? 「きようのダンスパーティーはとり止めになったんだってさ、バンドが来れなくなったらしいよ」 「夜は何もないの ? 「クラブ・レースだってさ、そのかわりにやどかりの競走をやるって言ってた」 「やどかり ? 」 に一度だけ見たことがある。こんな海辺 僕はフィニーにクラブ・レースを説明してやった。羽 のホテルではなく、ナイトクラブのショーで。フロアーに直径五メートルくらいの円を描く。真 中に数匹のやどかりがいて寵を被せてある。一匹一匹に名前が付いている。僕が見た時はイタリ アの映画監督の名前がつけられていた。フェデリコ、ロベルト、ルキノ、ピエルバオロ、ヴィッ りはノコノコと歩きだす。強 トリオ、ミケランジェロ、そんな風に。合図で籠が外され、やどか い照明がやどかりを暗いところへ追いやるのだ。それで早く円の外へ出たのが一着となる。 「その時は誰が勝ったの ? 」 「フェデリコだったな、確か」 「どれか一匹に賭けるわけね」
その漠然とした問を核にしていろいろな思い出が交錯し、自分を無理に納得させるため何とも 言えない息苦しさだけが残った。一人ばっちなのだ、という簡単な結論が頭の中に迷子のように ポツリと漂よい、す涙が溢れてきた。そうして泣いていることに気付くと荒て、窓際に寄って ロビーへ降りて牛乳を飲んだり、妻に電話したりして、他の事を考えるの 祭の進行を眺めたり、 今も洋服屋はまた涙を溜めて母親の寝顔を見ている。母親の寝顔、この女が本当にあの俺の母 だろうか ? と自分に問い、思わすゾッとした。医者は薬の副作用だと言っていた。副腎皮質ス 一丁ロイト ・。顔が変わったのである。 る きのうまではいくら痩せていても昔からの母親の顔だった。あれから母親はすっと眠ったまま 始だった。まだ自分の顔を一度も見ていない。 争さっき看護婦が打ってくれた注射が効いているのだろう、よく眠っている。医者は排泄異常を で和らげるための薬だと言っていたが、それにしても人間の顔というのはこれ程に変わるものなの にだろうか。丸く腫れた上を無数の湿疹が被っている。寝ていても痒いのだろう、しきりに全身を ,G 引っ掻く。小便が出ないと言って苦しみ、それを出やすくする注射で顔を腫らした。下腹が痛む と訴えて麻酔を打たれ発疹のために全身を引っ掻く。これでまた痒み止めの薬と発疹を治す注射 を打たれるのだろう。俺ならどうだろう ? と洋服屋は思ってみる。俺がこんなにひどい病気な
136 母親はまだ寝ている。相変わらす絶え間なく胸や太股を引っ掻く。黄色い爪、引っ掻いて削り かさた 取られた瘡蓋が爪の間を汚している。 洋服屋はまた鏡に気付いた。鏡をなんとかしなくてはならない。あの顔を見たら母親はきっと 非 5 しむに逞、よ しオい。悲しんで、こんな顔のまま死ぬのはたまらないと思い、痒み止めの薬を塗っ て慰めても、憂しくそっと死んでいくなどということは及びもっかなくなるだろう。竟だ。何と かしなくてはならないが、洋服屋にはどうしたらいいのか全殃わからなかった。鏡を母の手に渡 してはならないとそればかりを考えた。手を伸ばし、楕円形の額付きの鏡を手に取る。少し髭の 伸びた彼自身が映っている。この鏡だ。母親は低く呻いて体を半転させる。目を覚ますぞ、洋服 屋は腕に鳥肌が立つのを感じた。母親は顔と首を掻き始める。また少し呻く。洋服屋は手にした 鏡を田 5 いきり病室の床に叩きつけた。 鋭い音が響き、ドアの側の患者が叫び声をあげる。鏡は洋服屋の顔を映したまま落ちていき、 彼の足元でバラバラに砕けこ。 「今の音、何ですか ? 」看護婦がドアから顔を出してそう聞いた。 「いや、どうも申し訳ありません、何でもないんです、ちょっと手を滑らして鏡を割ってしまっ まうき 「あらあら、帚持って来ましようね」
102 狭い間隙で鉄の棒が並んでいる。床には、たぶん湿っているのだろう、茶に変色した藁が敷 いてある。厚い板の天井と壁、壁にはなぜか虎の絵が描いてあった。ライオンは牡牝一一頭、牝は 少年が手にしている肉塊を見て時々吠えた。こんなにすぐ近くでライオンを見たのは、五歳の息 子にとって始めてのことだった。これだけ側に近寄って見ると、ライオンはわけのわからないも たて ( み のに見えてくる。目やロや鼻ややザラサラして硬そうな毛がやたらにはっきりと見えるだけ 何か奇妙な感じ、本で見る時とちょっと違う。 「このライオン、火の輪を潜らなかったね」 五歳の息子が少年にそう一言う。少年はプリキの皿に肉塊とナイフを投げ入れると、こいつはも う年寄りなんだ、と小さな声で言った。 「もう、俺よりもすっと前に生まれたんだ、昔は平気で火の輪を潜ってたけど、しじいになると だめさ、何でもダメになるんだ、人間だと年をとってもすることがあるけどこいつらはだめなん だ、ああ、俺、そのおじいさん知ってるよ」 「え ? どこにいるんだい ? 「いや、俺に聞いたんです、俺がここにいると声をかけて」 「何か言ったのかい ? 「象はどこにいるんだって」
106 たのかしらと衛兵の妻は思っている。 港一帯は海岸に並ぶ市場に囲まれている。金網で仕切られた大きな駐車場、果樹園とゴミ処理 場のある山を背に魚肉加工工場と冷凍倉庫が並び、加工された魚貝類を運搬するための引き込み 線が町から続い ていて、端は貨物専用の駅になっている。恐らく父親はその駅へ行こうと思った のだろうが、この群集の中をどのようにして進んだのだろうか、足が悪いのだし、倒れたりして いないだろうか、倒れたりしてもこの人の多さでは救護所の場所などわかるわけがないし、警備 員も見つけてくれないだろう。 衛兵達の後からも人々は続々と詰めかけてきて、どこにいるのかさえもわからなくなってき サーカスのテントや市場、工場等の建物、港に入った船のマストを見て大方の位置と駅への 方向を定めようとするのだが、後方の人々から押され、湿気と人いきれで頭が痛くなり、妻の手 を握っているだけで精一杯だった。 「駅はどっちなんでしよう、ねえ、あなたわかる ? 今、駅に向かってるの ? 」 「ちょっとお前、こいつを見ててくれ、僕一人ならなんとか駅を捜せるかも知れない」 「そんなのだめよ、今度はあたし達がバラバラになってしまうわ、それはだめよ」 祭の日に、 この特別な魚が採れたのは久し振りだった。みんなその魚を一目見ようと思って集 まってきたのだ。警備の人間が多数動員されているが、彼らは魚を陸上げする巨大なクレーンを
「そんなに痒いのかい ? 「うん、お前それが終わったら、背中の方を掻いてくれるかい ? 」 「あまり掻くと良くないって医者が言っていたからねえ」 「そうなの ? じゃあ我慢しようわ」 「薬をつけてあげるよ」 「話をしてもい いかい、気が紛れるから」 「少しだよ、長くするとだめだよ」 「おとうさんとおかあさんと小さい頃のお前でねえ、暗い河を渡っていたのよ、三人でね、暗い る夜の河なの」 始「泳いでかい ? トに三人でしつかりとっかまってね、水につかって、おとうさんは荷物を持って 争「いいや、ポー でわ、あたしがお前の手を持ってわ」 「昔のこと ? 向 の「そうわえ、昔なんだろうけど」 「戦争中のことかい ? 」 「とっても不安なのよ、三人共、泣きたいくらいに緊張して、見つかると殺されるかも知れな
しだと思うな、何回も何回も訓練してるうちにれるのさ」 「おとうさん、象が見たいなあ」 「でも、あなたのお勤めと、ライオンが火の輪を潜るのとは少し違うわ、やつばり違うわ」 「だから、慣れるのさ」 「ねえ、ねえ、象は ? 」 「いや、火の輪を潜るんだ、饋れるということはない、俺は何度もあの火の輪と同じようなもの を潜ったが、ああいうことは饋れられると言うものじゃないぞ」 「ねえ、ねえってば、象がいないじゃないか」 「ほら、坊や、お猿さんよ、お猿さんがポールを蹴ってるわよ、お上手でしよう ? 「何言ってるの、猿なんて、この前のあのおばあちゃんのお墓があるとこの檻の中にもいつばい いたよ」 「坊や、よく見ると、あそこにいた猿とは違うみたいよ、お尻の毛の回りが黒いしゃない 「猿じゃないかあ」 「象が見たいんだ、なあ ? 「あの、おじいちゃんと見た絵には象の絵があったよね」 こんなサーカスだ、ひょっとすると象はいないかも知れないぞ、と若い衛兵は思った。
たけど内気でね、その人があたしにライカのをくれたの、だけどその人ったらがーナに行っ て頭がおかしくなったのよ、だからも、フカメラも要らないだろ、つと田 5 ってハッセルプラッドを貰 おうと思って家に行ってみると彼のおかあさんがカメラと機材を庭に山のように積んでがソリン をかけて燃しているのよ、もったいない。 「陽差しが強いからすぐ乾くだろう ? 」 「マニキュア ? でもだめなんじゃないかしら太陽が強すぎてひび割れるんじゃないかしら、海 岸でマニキュアなんかしたことないから」 「足の爪には塗らないのか ? 「違う色のやつを塗りたいのよ、考えてよ」 始「同し色でいいんじゃない ? 争「でもたくさん持ってきちゃったから、考えてよ、あなた画家なんでしよう ? で「補色にしたら ? 」 こ「オレンジの補色って何 ? 」 の「緑青ってやっさ、プロシャンプルー」 「そんなのないわよ」 フィニーは、できるだけプロシャンプルーに近い青を足の爪に塗る、さっきウェイターが置い