聞、電気スタンドといったものが、同時に、並列して見えてくる。そして、文章を書くことに熱中 して注意を向けていなかったときにも、これらのものが視野の中にクオリアとして同時並列的に存 在していたということに気がつく。 それらが何であるか、はっきりと言葉にしたりラベルをつけたりすることこそ一度に一つしかで きないものの、目覚めているとき、私たちの心の中にはずっと同時に多数のものが見えている。こ のような状態を視覚的アウェアネスという。ここに、アウェアネスは、「気づいている」というよ 神 うな意味の言葉であり、意識の中で数多くのクオリアが同時に感じられるという性質を表す用語と さ して現代の脳科学で使われている。 む 私たちが、視覚的アウェアネスのなかにさまざまなものを同時に見ていることは、取り立てて驚 くべきことではないように思われるかもしれない。しかし、この一見あたりまえの事実のなかにこ 中 脳そ、現代科学の最大の謎である意識というミステリ 1 の核心があるのである。 一度は否定された脳内ホムンクルス 私たちの「見る」という体験がなぜそれほどの驚異なのか、その「神髄」を味わうためには、見 240
実際、私たち人間にとって、「あるものがあるものである」という同一性は、それを認識する 「私」と切り離すことができない。何よりも、私たちが視覚的アウェアネスのなかで身の回りのさ まざまなものを同時並列的にとらえている、という疑いようのない事実がある。そして、そのよう な意識のあり方のなかで、私たちがさまざまなものの同一性をとらえているという事実がある。 どのようにして意識が、そして視覚的アウェアネスが生み出されているか現時点では明らかでは ない。しかし、私たち人間にとってもっとも自然な「同一性」の成り立ちが、それにホムンクルス 神 という名前をつけるかどうかは別として、「何か」が世界を見ている、という形式のなかにあるこ . な さ とも事実なのである。 む 実際、先に紹介したフランシス・クリックとクリストフ・コッホが二〇〇三年に連名で発表した と断一『一口し 判論文は、「ホムンクルス仮説は、今日ではすっかり時代遅れのものと言わざるをえない の た後で、次のように続けている。 「しかし、結局のところ、私たちがあたかもホムンクルスがいるがごとく意識の体験をしているこ とも事実である。この、疑いようがないようにさえ見える幻覚が、何らかの意味で脳の一般的組織 原理を反映していなかったとしたら、むしろその方が驚くべきことだと一一一一口うことができるだろう」 クリックとコッホが言うように、私たちは、あたかもホムンクルスがいるかのように意識体験を している。それは疑いようもない事実である。しかも、「ホムンクルスがいるかのように」見てい る世界のなかで、「つやつやとした赤いリンゴ」や「犬と草原で遊ぶ子ども」といったものの同一 250
特別講義 ふたたび、この「特講ーの最初に触れた、視覚的アウェアネスの不思議に立ち返ろう。 「私」が身の回りのものを同時並列的に見渡しているということは、あまりにもあたりまえに思え る。私たちは、ついつい「見る」という体験の不思議に気がっかずに通り過ぎてしまいがちだ。 しかし、一体どのようなメカニズムでそのようなことが可能になっているのかを考えはじめる と、この世にこれほど不思議なことはないというくらいの謎がそこに潜んでいる。 視覚的アウェアネスの中で同時並列的に見えているさまざまなものは、脳の中の視覚野で活動し ている神経細胞の関係性が、前頭葉を中心とする神経細胞の関係性によって生み出される「ホムン クルス , によってメタ認知されることによって生じている。そこでは、あたかも、「私」という視 点が、脳の中の神経細胞の活動を「見渡している」かのようである。 「私」はこの宇宙全体を見渡す「神の視点」はもたないが、自分自身の一部をメタ認知し、自分の 脳の中の神経細胞の活動を見渡す「小さな神の視点ーはもっている。私たちの意識は、脳の中の神 経細胞の活動に対する「小さな神の視点」として成立している。 私たちの脳の中には、 小さな神が棲んでいるのである。 これが、私たちの意識の成り立ちを最新の脳科学の知見に基づき考察していったときの、論理的 な帰結である。それは、現時点では、とても信じられないような不思議な命題であるように思われ る。しかし、将来、意識の謎が解明されたときには、「私たちの脳の中には小さな神が棲んでいる , という命題は、「木からリンゴが落ちる」のと同じくらい自然な現象として理解されることだろう。 259
特別講義脳の中に棲む小さな神 あたりまえのことに気がつくこと 視覚的アウェアネスの謎 第日目講義人間の脳は不確定性に対処するためにできた ギャンプラーの不思議な心理ーーー、神経経済学がめざすもの 感情というリスク分散装置 第肥日目講義脳内物質で揺れ動く心 生理的報酬がほしくて 「生きたまま , と「試験官のなか」 2 ろ 0 219 224
第 5 日目講義 何かが同じであるとか違うという判断力のうえに言葉が成り立っているというのはなるほど と思うんですが、でも同一かどうかという識別能力と言葉の能力のあいだの段差はけっこうありま すね。それはどうやって飛び越えたんでしようね。 いうのをそう定義していいわけですか。 茂木意識にもいろいろな階層があるでしようけどね。最も基本的な意識と言われているのが " ア ウェアネス % 日本語だと「気づき」って訳されるんですけど、世界が見えているとか、聞こえて しるという状態ですね。見えたり聞こえたりしていることをかならずしも自分が認識している必要 はない。ただ見えて聞こえている状態っていうのがアウェアネス。それが最も基本的な意識の状態 だと思われているんですけど、それはおそらく動物とかにもあるだろうと多くの人が思っている。 ただ「いま意識があるんだ」とか「おれはおれなんだ」っていう高度に発達した自己意識とかにな ると、すべての動物にあるというのはやつばり無理かなという感じがするんですけど。 「一一口語乗っ取り仮説」
特別講義 私たちが日々体験しているごくあたりまえの事実のうち、もっとも驚異的なことの一つは視覚体 験のあり方である。 たとえば、こうしてこの文章を書いている私の目の前には、ノートブックパソコンがある。パソ コンの下にはテープルがあり、テープルの上には、コ 1 ヒ 1 カップや、ノート、ペン、本などが乱 雑に散らばっている。 部屋の向こうにはソフアがあり、そこには読みかけの新聞が広げられている。ソフアの横、部屋 の隅には、電気スタンドがある。 文章を書くことに熱中しているときには、これらの視野の中にあるものの存在に気がっかない。 、ソコン、テープル、コーヒーカップ、。 しかし、いったん手を休めて前を見ると、 ヘン、本、新 視覚的アウェアネスの謎 意識にかぎらず、科学に残された難問の解決への道は、きっとまだその問題の所在にさえ私たち が気づいていないようなごくあたりまえの事実のなかに隠れている。私たちは日々自分が実際に体 験しているあたりまえの事実に気づき、それを見つめ直す必要があるのである。 239
特別講義 るということを脳科学がどのように説明して来たかを振り返らなければならない。 「目というカメラを通して撮影した画像が脳の中のスクリ 1 ンに投影されることが、すなわち見る ということである」 子どもの頃、私たちは見るという体験をそのような素朴なモデルで説明されただろう。大人にな っても、「見るという体験の生質についてとくに深く考えることがないかぎり、「見るーというこ とを説明するこのような「素朴モデルは、案外説得力を持っているかもしれない。 たしかに、私たちが日々身の回りを見ているときの、視覚的アウェアネスの成り立ちを考える と、このような素朴な考え方をとりたくなるのも無理はない。しかし、この考えの延長線上には、 「スクリ 1 ンに投影されたイメ 1 ジを見るのは誰か ? 」という難問が隠れている。一見いかにも当 然な、「見るーということに関するモデルが、意識をめぐるもっともむずかしい問題に直結してし まうのである。 もちろん、脳の中に実際にスクリーンがあるわけではないが、網膜から入力した刺激が、脳の神 経活動となり、視覚イメ 1 ジを作り出す。そのように作り出された視覚イメージを「誰か」が観察 することによって、「見る」という体験が生じるーーーー・現代の脳科学者はこのような、脳の中に小人 ( ホムンクルス ) がいて神経細胞の活動として表現されたイメ 1 ジを見ているという考え方を否定 する。 実際、本文中でも紹介した意識の問題に正面から取り組む代表的な科学者であるフランシス・ク 241