義 観念として知っている色と、実際の色とが違うということですか。 茂木科学的な知識の限界という意味でジャクソンはその問題を提起したんですね。脳のメカニズ ムを科学的な知識としてこうだと説明したとしても、われわれの主観的な体験の質自体には迫れな いということですね。 その後ずっと脳科学では意識について語られない時期が続いたんですが、政治的な意味で大きか ったのが、フランシス・クリックの登場です。クリックは Z << の二重螺旋構造を発見してノーベ ル賞をもらった戦後の分子生物学界の大御所ですよね。クリック自身は何も新しいアイデアは出し ていないんだけど、九〇年前後に、「意識についてまじめに研究する時期がきた」と宣一言してさか んにしたんですね。『ネイチャー』のような堅い科学雑誌は、意識についての論文なんてそれ いて赤が見えるのかをメアリーは理解しているのですが、ある日、その白黒の部屋が壊れ、メアリ ーは色とりどりの野原に出て初めて赤い花を見る。そのとき初めてメアリーは赤い花のクオリアを 体験し、赤い色を見るというのはどういうことかを理解するだろう、というんですね。つまり科学 的な知識と、赤を見るという体験ーーーっまりクオリアーーーーは違うだろうとジャクソンは言った。そ れがおそらく現代的な意味で、クオリアということを最初に言った論文だと考えられているんです よ。
特別講義 どうやら、同一性や意味を保証するためには、まったく新しいアイデアが必要なようだ。 現在までに得られている脳科学、認知科学のさまざまな知見を総合すると、どうやら、その新し いアイデアは、「ホムンクルスーの概念を復活させることのなかにありそうなのである。 とは言っても、脳の中のどこかに実際に小人が隠れていると仮定しよう、ということではない。 あたかもホムンクルスが脳の神経細胞の活動を見守っているかのような、そのような形で私たちの 意識が生まれていること、そしてその意識の中で、さまざまな情報の同一性や意味が「クオリア」 として成り立っていること、そのことを神経細胞の活動として説明したいということなのである。 実際、「あるものがあるものである」という同一性を成り立たせるためにもっとも自然で簡単な やり方は、「誰かがそれを観察して、あるものとして認識する」ことである。コンピュータの中の 0 と 1 のかたまりが、何ら同一性や意味を保証するメカニズムがないにもかかわらずある情報を表 現しているという「解釈」が成立するのは、それを観察している人間がその情報をあるものとして 認識するからである。 ホムンクルスがあたかもいるかのように 249
前回までのお話で、われわれがもしもゾンビでなければ、クオリアと意識の問題が重要なん だということがわかってきたわけですが、少し角度を変えてうかがうと、どこからが意識なのかに 細ついてはどのように考えられているのですか。たとえば形や色の認識は意識なのかどうか。あるい はもう少しそれが感情的なもの、たとえば色だけじゃなくて、色にこもっている感情みたいなもの つを理解するというのが意識なのか。どこからが意識で、どこからが心なのか。 茂木そういう議論って意外と機能主義的な議論に親和性が高いんですけど、機能的な記述じゃな くて、だからこそクオリアの問題設定が重要なんです。われわれが朝起きたときに、それまで自分 かどこにもいなかったのに、 いきなり体験が生まれるわけですね。その「 0 」から「 1 」への変化 というか、意識がある状態とない状態がまったく違うんだということを、クリアカットにとらえる 概念がクオリアなんです。どこからどこまでが意識で、どこからどこまでは何がかかわっていると かいう議論はありうるわけですけど、こういう議論がすべて無意味になるくらい、意識がある状態 朝、目覚めると世界が生まれる
ンド〃というわけです。つまり意識は〃コンシャスネス〃で、〃マインド〃は意識と無意識の両方 を含むような概念ですね。 日本語の「心」というとまた厄介なことになっちゃうので、私は英語の発想で言葉を使っていま す。前に言ったように、 ニュートン以来の機械論的な自然観があってそれに対するアンチテ 1 ゼと ・カ せして現象学の哲学が出てくるという歴史を日本は経ていない。だから、日本人の使う「心」ってす ごく曖昧模糊としたもので、よくわからないわけです。西行法師の心がどうのこうのとそういう話 ん になっちゃう。そういう意味ではなくて、あくまでもここで問題にしているのは、ゝ しま一一 = ロったよう 胞 細 な思想の流れを前提にしたうえでの話なんです。 経 神 のーーーー・意識のあるなしが、そういうぐあし。。 ゝこよっと飛び越えられちゃうのはなぜなのかっていうの はたしかにずいぶんむずかしい問いですね . な 茂木だからクオリアが重要だということなんです。クオリアがあるってわかっている人にとって し っ一 はこれほど明らかなものはない。クオリアのあるなし、意識のあるなしはぜんぜん違う。あまりに も違いすぎてしまって、「これが意識ですか ? 無意識ですか ? 。という質問自体が成立しないぐ らい違うと、私には思えるんですけど。もっとも話が通じない人もいるんです。機能主義者で、 「お前の言っているクオリアって何なのかよくわからないよーっていう人もいる。自分がふだんや
実際、私たち人間にとって、「あるものがあるものである」という同一性は、それを認識する 「私」と切り離すことができない。何よりも、私たちが視覚的アウェアネスのなかで身の回りのさ まざまなものを同時並列的にとらえている、という疑いようのない事実がある。そして、そのよう な意識のあり方のなかで、私たちがさまざまなものの同一性をとらえているという事実がある。 どのようにして意識が、そして視覚的アウェアネスが生み出されているか現時点では明らかでは ない。しかし、私たち人間にとってもっとも自然な「同一性」の成り立ちが、それにホムンクルス 神 という名前をつけるかどうかは別として、「何か」が世界を見ている、という形式のなかにあるこ . な さ とも事実なのである。 む 実際、先に紹介したフランシス・クリックとクリストフ・コッホが二〇〇三年に連名で発表した と断一『一口し 判論文は、「ホムンクルス仮説は、今日ではすっかり時代遅れのものと言わざるをえない の た後で、次のように続けている。 「しかし、結局のところ、私たちがあたかもホムンクルスがいるがごとく意識の体験をしているこ とも事実である。この、疑いようがないようにさえ見える幻覚が、何らかの意味で脳の一般的組織 原理を反映していなかったとしたら、むしろその方が驚くべきことだと一一一一口うことができるだろう」 クリックとコッホが言うように、私たちは、あたかもホムンクルスがいるかのように意識体験を している。それは疑いようもない事実である。しかも、「ホムンクルスがいるかのように」見てい る世界のなかで、「つやつやとした赤いリンゴ」や「犬と草原で遊ぶ子ども」といったものの同一 250
チャーマ 1 ズは新しいことを言ったというよりも、本のなかで「クオリアが意識の問題の本質 で、それこそが唯一のむずかしい問題だ」と徹底的に主張したんですね。それで多くの人が、「あ あそうなのか」と思った。何がむずかしいのかということをはっきり認識したというのがチャーマ ーズの本の功績だと思うんですね。 チャーマーズは哲学者として言ったわけですね。するとそれを脳生理学に持ってくるという のはひとっ壁がありますね。哲学者が言うぶんにはそういう伝統があるからいいでしようけど、そ 義れを脳生理学で問題にするというのはまた別のことですよね。 茂木そこはなかなか乗り越えられない壁ですね。で脳を調べれば、神経細胞の活動と主 観的体験が結びつくという研究はたしかにいまできるし、実際、大はやりです。知識としてはそれ はすごくありがたいんだけど、意識の体験がそもそも何で生まれるのかという第一原理がわからな そこをやろうとしている人はいるんだけど、それがなかなかむずかしい。だからおもしろいん ですけどね。
段階で、頭頂葉の体性感覚野や前頭葉の運動野のところで準備電位が出ています。意識が気づくの は一秒後です。そういうことを考えても、意識がコントロ 1 ルしているとか、前頭葉がコントロー ルしているということは一概には言えないんですね。 その準備電位はどうやって出ているわけですか。 茂木要するに、最終的に「ゴ 1 ーのシグナルが出る前にあからじめ計算しておくべきことがあっ 義て、それを体性感覚野の身体イメ 1 ジをつかさどる領域や運動野の運動の出入をつかさどる領域が やっているんですね。あらかじめ計算しておかないと「ゴー」ですぐにスタートできない。 なるほど。われわれが意識する前にすでに何ごとかやられているわけですか。無意識が意識 をコントロールしているのかどうかといったことは研究されているんですか。 茂木無意識と意識の関係というのはほとんど脳科学ではやられていないと思いますよ。フロイト とかュング系統の分析医の方々はそういうことをやっていると思いますけれども、脳科学の言い方 でいうと、ポトムアップとかトップダウンという言い方で延々と議論されていますね。 ポトムアップというのは無意識から意識への情報の流れで、トップダウンは意識から無意識への 137
とない状態って違うじゃないですか。そこがポイントなんですね。そこがすべてのポイントで、何 で意識がある状態とない状態という二つの状態があるのかということですね。だって、意識がない 状態で、夢遊病者みたいに身体を動かすことはあるわけです。だから極端な場合、夢遊病者がもっ と精密になって、夢遊病者のまま言葉をやりとりしているっていうことも可能性としてはありえま すよね。なんでわれわれがそういう存在でなかったんだろうっていうことなんですよ。 たしかに、われわれ人間は夢遊病者やゾンビのような存在に進化していても不思議はなかっ た。けれども、意識のある状態とない状態は明らかに違っていて、われわれは毎日それをいとも容 易に飛び越えて暮らしている。朝起きると意識がある状態になっていると言われましたけど、寝て いる状態というのは意識がないということになるのですか。意識と心の違いはどう考えられている んですか ? 茂木英語だと「意識」は〃コンシャスネス〃で「心」は〃マインド〃です。日本語だとその区別 は曖昧ですね。英語で言う〃コンシャスネス〃はいま言ったように、朝起きて、ばっと目が覚めて 生まれる意識で、 0 か 1 か、あるかないかというものです。一方、英語の″マインドみは無意識の 働きまでも含めている。たとえば計算するときに計算過程すべてをかならずしも意識しているわけ ではないですよね。一部分は無意識のなかで計算が行なわれている。そういうものも含めて〃マイ
て、自分のところでニュ 1 トンの力学や量子力学を作る一方で、機械論的な宇宙観への反発から現 象学の哲学を生み出してきた人たちと、日本みたいに全部輸入してきたところはやはり違う。 だから、意識の問題がこんなに重要なんだよということを日本で言うときには、そもそも前提か ら説明しなきゃいけない。意識とか心とかが不思議だと言っても、日本人って、意外とそんなのあ たりまえじゃないかと思っちゃう人が多いんですよね。脳とか身体がニュ 1 トンカ学とか量子力学 で物質の客観的な振る舞いとして説明できるということを踏まえたうえで、「でも意識を説明でき ないのは不思議だよねーっていうその話の流れが日本では共有されていないんですね。ョ 1 ロッパ 義の人にとってそういったことは当然の常識で、だからこそクオリアって大きな問題のわけだけど、 日本だと、赤い質感を感じているなんてあたりまえじゃないかって思っちゃう。「何かそれが不思 第議なの ? 何が問題なの ? 」ということになりがちなんですよ。 あ、じつはばくもちょっとそう思っていました ( 笑 ) 。クオリアみたいなのあるの、あたり まえじゃないのって。 茂木ほら ( 笑 ) 。ョ 1 ロッパの大前提としては、身体や脳の振る舞いっていうのはニュートン以 来の物理学的な世界観でもう完全に記述できるはずなんですよ。そういう認識があってはじめて、 いまニュ 1 トン以来の近代科学ではあっかえないクオリアみたいな脳の活動の現象学的側面が問題
・刀 な ん 細 経 神 ク々しつこいですけど、でもたとえば意識のあるなし、 0 と 1 のあいだに何かあるとは考え のられないんですか。主観と客観のあいだに何かあるというのはちょっとむずかしそうな気がします けれど、意識と無意識だったら、ここまでが無意識で、〇・五を超えると突然意識になるとか、数 え 値化してどこかの点を超えるとがらっと世界が変わるということだとわかりやすい話だと思うんで かすが、そういう考え方はできないんでしようか。そうするためには数値化しなければならないです し けれど、数値化しようがないという段階なのか、あるいは数値化すること自体がおかしいのか。 隣 茂木いまここに— O レコーダーがありますよね。そういうことは合意できるわけです。「茶碗が 三つあります」というのも合意できる。それができるのが客観的データの基礎ですね。一方、主観 茂木さんは、「電車のなかでノ 1 トをつけていたとき、ふいに " ガタンゴトン〃という音の 質感がとても生々しく迫ってきて、クオリアの問題に目覚めた」と何度か書かれていますね。 コミュ一一ヶーションはなぜ成立するか ?