茂木必ずしも二つだけとは考えていないですね。ラーメン屋での感覚の違いをお話ししました が、質感という意味では全部同じなんですけど、違う種類の質感があるというのも事実なんです ね。何が違うのかというと、感じて行動するときの一連の流れにおいて機能の仕方が違う。 の クオリアについてひとっ疑問を持つのは、クオリアというのはほんとうに究極の概念なのか る なということなんです。たとえば原子はむかしは最小の物質だと考えられていたわけですが、その せ づ後、さらに小さい物質から成り立っていることがわかってきた。クオリアもそれが最後じゃなく 気 をて、クオリアを構成しているもっと本質的な要素が現われる可能性がないのかどうか。 ・カ 誰 る茂木それは重要なポイントですけど、わからないですね。厄介なことに、意識のなかでわれわれ て はクオリア以上のものは区別がっかないんですよ。われわれの意識のなかではクオリアが原子みた しまおっしやったように を いになっちゃって、それ以上の構造は見えないというか、感じられない。ゝ 詮原子を分解していくといろいろな構造が見えてくるように、同じだと思っているクオリアの背後に も違うものがあるんですね。まったく同じに見える色のクオリアが、光の波長でいうと違う波長と い一つこともあ一る。 われわれが世界を見ているときって、すごく安定している部分と、自分の解釈でダイナミックに 変えられる部分が共存しているわけです。色というのは、何回見ても基本的には同じに見えるはず 116
言った。日本の脳科学の偉い先生があとで首をかしげてばくのところにきて、「茂木くん、さっき ーローさんが言ったの、あれはちょっと違うよね。と言ってきた。私は何しろ自分のポスが言っ たことなので、とりあえず「ハイつ、すみません」とあやまっておきました ( 笑 ) 。 他人とのコミュニケ 1 ションなんてなくたって、たしかに意識は単独で存在しているように思う ・刀 せじゃないですか。むしろ意識の内容ってすごく伝えにくい。それぞれ主観的な意識を持っているか らこそ相手の体験がわからず、人間の断絶があるような気さえする。だけど逆にいうと、意識があ ん るからこそいろいろなものが共有できるようになっているというところもあるわけですね。 胞 ーが言ったことは、すごく深いところで意識というものがどういうものとして生まれてきたのかと 細 経 神 いうヒントを与えているかもしれないんですね。 の何であのときああ言ったのかいまだに謎なんですけど、ひとっ考えられるのは、あるものがいっ も同じものに見えるのは意識によって支えられているからなんですね。歌田さんがこの赤い丸を見 な たときに毎回同じ赤に見えると思うんですけど、そのときの神経細胞の活動を細かく見ると毎回違 うはずなんです。毎回神経細胞の活動が違うんだけど、同じものを見たら同じとわかるっていうの し Q は意識が支えているんですね。一人一人のなかで「 < は < である」っていうことが成り立っていな 隣 ければ、コミュニケーションはそもそも成立しないじゃないですか。コミュニケーションの前提と なる同一性の保証を意識が支えているという側面がある。
見えない。そこから神経細胞の関係性が生まれてくるんだけれども、関係性が生まれてくるために は関係性を見渡す何かが必要なんですね。それを「小さな神の視点ーというふうに言っているわけ です。それはいままでの脳科学のなかで徹底的に隠されてきた。神経細胞を外からだけ見ていれば 情報表現はあっかえるというウソにもとづいて研究してきた。脳科学で最大の問題はそこで、それ ・カ せを突破するのは掛け値なしにむずかしい。でもこの一歩がないとおそらくクオリアの問題など先に 一何けない。 ん 「脳のなかに小さな神がいる」というのはとても大胆な主張ですけれど、そうとでも考えな 細 経 神 いと解けないということなんでしようね。 の 茂木客観といっている科学でさえ、じつは仮想的な神の視点みたいなものを前提にしないと記述 . な ができないんですね。神の視点みたいな、全宇宙を見渡すような仮想の視点を獲得したことによっ かて近代科学は発展していった。だけど、宇宙全体を見渡している人はいない。宇宙のひとつひとっ し っ一 の粒子というのは自分のことしかわからない。粒子が飛んできて衝突したというけれども、この粒 隣 子の視点から見たら運動ということがそもそもありえないんですね。運動も何も自分が世界の中心 なわけです。二つの粒子がぶつかってはね返ったという記述ができるためには、それを見渡してい る仮想的な神様の視点がいる。物理学をはじめとする自然科学はそうした視点を仮想したわけだけ
はじめに でいるのかということをできるだけリアルに、わかりやすく説明したものである。『本の未来はど うなるか』などの著作をとおして、複雑な問題を明快に解説することで定評のある歌田明弘さん が、私、茂木健一郎にインタビューしそれをまとめて下さる、という形で本作りが進行した。 ここでの「リアルに」とは、ウソをつかないということである。世の中には、「脳の機能はこう である」「こういうメソドで脳は鍛えられる」とある見方で決めつけた本も多数存在する。しかし、 脳科学の現場にいるものは皆わかっているように、人間の脳という複雑な対象がそう簡単に決めつ けられ、わかってしまうわけではない。むしろ、脳の中の一〇〇〇億の神経細胞からどのようにク オリアに満ちた意識が生み出されるのか、その根本的な仕組みがいまだにわからないことでも明ら かなように、人間の脳はいまだ謎ばかりである。それだけ人間の脳は素晴らしい可能性に満ちてい るということでもある。そのようなミステリアスな脳の謎に挑んでいる現代の脳科学の様子を、見 てきたようなウソをつかないでなるべくリアルにお伝えしようとしたつもりである。 また、「わかりやすく」ということは、 ) しま世間で言われているような「誰でも読めばばっとわ かるーということを意味するのではない。 世間で言われる「わかりやすさ」とは、要するに「これこれこうである」という「決めつけ」の ことのようである。人間の脳は、元来素晴らしい可能性に満ちている。本書を読んでくださればわ かるように、私たちが意識の中で感じるクオリアは、その素晴らしい可能性の象徴でもある。新し いものを生み出す創造力、人とコミュニケーションする力、未知の可能性を探索する力、このよう
脳の中に棲む小さな神 ホムンクルス自体は、プラックポックスとして魔法のように生まれるわけではない。ホムンクル スという主観性の枠組みは、脳の前頭葉を中心とする神経細胞のあいだの関係性によって生み出さ れる。そのようにして生み出されたホムンクルスが、自分自身の一部である神経細胞のあいだの関 係生を、「あたかも外に出たように」眺めることで、そこに「つやつやとした赤いリンゴ」という イメージが生じる。どうやら、私たちの意識はそのようにして生み出されているようなのである。 小さな神の視点 じたはる き めちなシメるメ るはいスタ 時 テ認私認 期ホもム知た知 にムちの的ち的 来ンろなホのホ てクんかム意ム しゝノレ クのク のをの体ル成ル で消モとスりス あすデな るのルっモちの ででてデにモ は意存ル関デ な識在ですル くのしはるは 、謎て、最 そのい認新現 れする識の在 をベ。の理に 脳てし主論お のがた体でけ 神解がとある 経明っ客る脳 細さて体。科 胞れ、は学 のるそ の 関わこ脳知 係けにの見 性では かは〇も らな無〇と 生い限〇づ み。後億い 出い退の て すず神考 れの経え とによ細る をせう胞 と 考よなか 、問らの え は私題なで 258
第 4 日目講義 例で言うと、文字がなぜ情報だと言えるかというと、私が見ているからですね。日本語がわかる人 が見て初めて情報になる。それでないと意味のない記号がただあるだけということになる。これま での情報理論は、誰が読むのかをまったく考えずにやってきた。でも、それを考えない情報表現と いうのはありえない。脳のなかの情報表現は私が世界を見ているという主観性の問題と切り離せな いことがわかってきたというのがここ二年ぐらいの進歩ですね。いままでの脳科学のやり方は主観 性を抜きに情報表現を議論しようとしていた。それが根本的に間違っていたと思うんですよ。 神経科学の学生は、勉強をはじめる第一日目に、「脳の活動をモニタ 1 する小人がいるわけでは オし と習うんです。過去五〇年ぐらいの神経科学の研究はそれが前提になっていた。だけど、そ の前提がおそらくだめなんです。もちろん前頭葉に小人がいて脳のさまざまな領域をモニターして いるなどというナイープ ( 素朴 ) なモデルがだめなことはだめなんですけれども、私が世界を見て いるという主観生の問題抜きに情報表現は解明できないということをとっかかりにしなければなら オし これまでの脳科学の常識に反することですけど、昔みたいに小人がいるなどという形ではな くて、どうやったら小人のような存在を作れるのかということですね。脳の問題としてそれをやら ないとクオリアは解けないし、クオリアどころかそもそも情報表現自体が理解できないと思います よ。それがばくは鍵だと思っているんです。 脳のなかにはじつは小さな神の視点があるんですよ。視覚野の数十億の神経細胞が活動して私た ちはいまこうやって見ているわけですね。一個一個の神経細胞は、脳のなかで隣りの神経細胞しか
人間というものは、そうと気がついてしまえばあたりまえのことに、なかなか気づかないでいる 神ものらしい ニュ 1 トンが「手を離すと物が落ちるのはなぜなのだろう ? 」と疑問に思うまで、誰も何かが落 む ちるのを見たことがなかったということはありえない。手に持っているものを放せば、下に落ち 棲 る。リンゴが熟れて、やがて木から離れれば地面に落ちる。そんなことはほとんど毎日のように見 中 脳ているにもかかわらず、私たちは、それがあまりにもあたりまえなので、かえって気づかずにすま せてしまう。 私たち人間が意識を持っているという事実も、あまりにもあたりまえなので、多くの人がそのこ との重大さに気づかずに通り過ぎてしまうのかもしれない。朝目が覚めると、いろいろなものが見 えてくる。聞こえてくる。そんなことはあまりにも当然なので、私たちはかえって、何かを見る、 あるいは何かを聞くということのなかに潜んでいる驚異に気づかずに通り過ぎてしまうのかもしれ あたりまえのことに気がつくこと 238
さて今回からいよいよ本格的に脳研究の裏表についてうかがいたいと思います。今日の脳研 究の源というのはそもそもどのへんにあるのでしようか。 の る 茂木十九世紀末に、脳の構造がどうなっているかについていろいろな論争がありました。そのと っ き、スペインの学者ラモニ・カハールたちが、脳は神経細胞という単位からできているという「ニ 見 ューロン説。を主張して、これが神経科学の源流になっているんです。一九〇六年にカハールは、 を ニューロンを詳しく調べる方法を見つけたイタリアの神経学者カミロ・ゴルジとともにノーベル医 学生理学賞を受賞しています。ただ、そのときには、ニュ 1 ロンはネットワークを作っているけれ ども、ニューロンとニューロンが切れているのかつながっているのか、そういう基本的なことさえ わかっていなかったんです。 ニューロンは見えてなかったんですか ? 「おばあさん細胞」へ到る道◎脳科学のはじま
カ 茂木一般に胎児の脳の研究というのはほとんどないですね。カール・セーガンという宇宙物理学 者が、臨死体験でトンネルの向こうに光が見えるのは、記憶として残っている誕生時の体験を蘇ら せただけだという説を出しています。それは一つの説で、ほんとうのところはわからないですね。 き生まれた瞬間というのはまさに一回的なもので、その前後の脳を測るというのはむずかしい。で と る も、やってみたいことはやってみたいですね。 実 禅問答は思いこみを突き崩すものだと言われていますね。 ・カ の 茂木疑うということ自体が脳を不安定化させる。いま目の前にあるものがほんとうにあるのか疑 想 いはじめたら、脳はやっていけない。自分が見ているものがほんとうに現実かどうか疑ってい と、脳がだんだん不安定になって、徐々にふつうの人間の脳と違うところにいくということはあり えますね。脳って可塑性があるから、やろうと思えばいろいろなことをやれる。疑うというのはお そらく、昔からある宗教のトレ 1 ニングのテクノロジ 1 のひとつだと思いますね。それで、また逆 に神を信じると安定するということもある。 128
たいなもの、たとえば「林のなかで蝉がミンミン鳴いている」というように視覚と聴覚という違う 感覚情報が結びついて一つになっているような場合は、視覚野と聴覚野という違う領域の神経細胞 の活動を結びつけなくてはいけないわけですね。そういう問題になってくると、機能局在ではどう しても説明できなくなっちゃう。しいて説明しようとすれば、視覚野と聴覚野を結びつけている第 三の領域があって、そこの神経細胞が働いているということになるけれど、どうもそうじゃないら しいということがわかってきているんです。 誰 の 感覚の種類が異なると、 いよいよ問題は大きくなるわけですか。 る っ茂木われわれは、視覚と聴覚というのはぜんぜん違うだろうとあたりまえのように感じているわ 見けですけど、脳の神経細胞の活動を一個一個見ていくと違いはないんです。いままでそれをどうご まかしてきたのかというと、じつは研究者によって立場がぜんぜん違う。心理学者は「赤い色の見 え方と音の聞こえ方は違う」という形でバーンとジャンプしてしまって、「それはもう違うんだよ ね . っていうことで研究をしている。ところが脳科学は、数値化できるもの以外はあっかってはい けないというイデオロギーのもとにずっとやってきているんです。だから「視覚と聴覚はたしかに 主観的には違うんだけど、それは数値化しようがない。数値化できないものはデータではない。脳 科学の対象にはできませんね」ということになる。そんなふうに考えに入れなかったということ