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検索対象: 自己開発 上座部佛教の心髄
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1. 自己開発 上座部佛教の心髄

るものがなくなる。苦悩がなくなる。煩悩と苦から脱するという、仏教の目標に達したという 煩悩に従わない。 真 ことだ。それからは何をしても、解決するにしても、因縁のままに行い、 の自由である。 自己開発を果たさなければ逆である。無我であることを知らず理解せず、執着心が増して自 我が拡大増加する。日がたつにつれて自我がますます大きくなり、大きくなれば苦も増える。 自我がこれだけなら、影響もこれだけ受け、苦もこれだけ。長くなればそれは拡大する。大き くなってこの物だとか、あの物だとかに執着する。すなわち、もし、私たちが世の中に生きて いけないなら、世に執着し、世の中のすべてのものに執着する。私たちが持っているもの、保 持しているものすべてに執着する。何を持っていても、私たちの自我はそれに執着してしまう。 それは私たちの自我に加わってしまう。コップを一つ持っている。そのコップも私たちの自我 だ。私たちの自我が拡大してコップにある。家を一軒持っている。私たちの自我が拡大して家 を包む。私たちは何を持っているか知らなくても、自我が拡大して捉える。自我がどんどん大 きくなると、今度は影響を与えるものが入ってきて大きな影響を与え、受け止めることができ 一日に、どれだけ影響を受けるか分らない。自我が大きくなればなるほど、影響を受け る範囲、領域は大きくなる。だから、苦も大きくなる。何をして、何を解決するかも利己的な 煩悩で行う。苦に苦しめられている感情の力に従って行う。因縁のままには行わない。だから、 ますます問題が沢山生じる。 従って、無我を覚知し理解し、自我のないことを見るために、自己開発を行う必要がある。 130

2. 自己開発 上座部佛教の心髄

かなりの知識を有し、修行もしたタイ人を対象に行われたものであり、このままでは分り難い面もある。 そこで、この『自己開をを理解する上で必要不可欠な上座部仏教の知識を解説キ ( れている『仏教の 心を合わせて取り上げ、この小冊子を一蔀構成することにした。 ただ、前書きによれば、『仏教の心色の講演も、タイの宗教局の局長をはじめとする高官に対して行わ れたものであり、上座部仏教に対するかなりの程度の知識が前提とされている。また、講演内容は一般に 仏教の要諦として何が一一 = れているかという一般的な話しから導入されており、特に上座部仏教を理解す るには、順序だった構成になっていない面がある。例えば、要諦の一つとして取り上げられた「一切法は 執持すべきではない」については、その煎或は、そこで「一切法」の説明は行われていないので、 ( この 件については、訳者注として本文末尾に簡単な説明を入れておいた ) 全体を導しなければ、理解できな い構成になっている。 そこで、同師の代表作である『体を参考に、師がどのような体系で「仏法」を説明されているかを ここで紹介しておく。まず、『体の構成と見出しとを見てみよう。 序章仏法、或は、自然の法則と生去芳にとっての価値 第一部中に縁る説法 五蘊と処 生命とは何か 一一一相と縁起 ( 縁起に関係する法の原理、業と四聖區 生命はどうなる 135

3. 自己開発 上座部佛教の心髄

るこの点が仏教の基本だと見なされている。 人間における特別な自然界は、訓練、或は、修習 ( しゅうじゅ ) できる生き物だということ である。この点が非常に重要である。新時代の用語で言えば、「開発できる生き物」ということ だ。一ヶ所に沈み込まないで質的に変化できる。あるいは、特別な生き物であると一一一一口える。特 別というのは、他の生き物と異なるということである。人間という生き物は他の生き物とは変 わっている。どのように変わり、どのように特別なのか。他の生き物は訓練できないか、或は、 ほとんど訓練できない生き物であるのに、人間は訓練 ( 修習 ) ができるという面である。 「訓練」 ( 修習 ) という言葉は、新時代の用語を使えば、学習と開発、真に基本的な用語とし ては、勉学、または、学、合わせて使えば、学習、修習、開発、或は、学習、修習、勉学、開 発であろうか 簡単に一一一一口えば、人間は修習できる生き物であり、修習せねばならない。他の生き物はほとん ど訓練する必要はない。なぜなら、それらは本能で生きている。生まれるやいなやすぐに両親 からちょっとだけ学習する。すぐに生きていける。子牛は生まれて、二、三分もすると立ち上 がって歩けて、母牛と行く。ガチョウは早朝に卵を産み、朝の少し遅い時間には母ガチョウを 追って走り、池に飛び込む。走ることも泳ぐことも出来る。親鳥に付いて行き、餌を探すが、 本能によって生きている。餌を食べるなどの学習はわずかだ。それ以後は修習も、学習も出来 ない。だから、それらは生きている間、本能に頼り、生まれたままの状態で死んで行く。 しかし、人間は修習し、学習しなければならない。それをしなければ、生きていけない。、 い生活ができるかどうか一一一〕うまでもない。生存も出来ない。だから、人間は十年以上も両親や

4. 自己開発 上座部佛教の心髄

次いで生命と自然界の接触という、「処」の説明がなされている。この五蘊、十一一処、十八界が、現象界に おける「一切法」と呼ばれるものであり、本文に説明される「一切法は執持すべきではない」という要諦 は、ここのところを指している。 次いで、仏陀がお生まれになろうとなるまいと定まっている基本原則で、仏陀はそれを見出されただけ だとされる一一一相 ( 無常、苦、無我 ) の説明が行われている。この三相をきちんと理解して生きることが、 正しい生去芳であるとされる。この三相の説明方法が、きわめて、自然科学的であることに注目しよう。 例えば、苦は、自然界に存在するものが「安定しない」ことに基づいていると説明されて、説鬻である。 するので、ここではこれ以上の説明は行わない 次の「生命はどうなる」の章の中で、仏教の美の原理である四聖諦と縁起の説明が行われている。四 聖諦については、四聖諦の各項に関して、 ( 一 ) 理論的な理解 ( 一 l) 四聖諦に対する実践 ( 一一 l) 実践したと いう自覚、再確認、があって初めて大悟したことになるという、三転十一一行相の説明がなされている。仏 陀は、大悟されたとき、当初、この法はとても姿で、他人には理解してもらえないだろうから人には説 かない、と決められたと伝えられているが、この四聖諦で見ると、 ( 一 ) の過程は ( 0 に理解されても、 ( 一 l) の実践の過程が非常に困難だ A えられるから、理解してもらえないとは、実践してもらえないことまで 含むのだろう。 ところで「仏法」の第一部には、「中に縁る説法」 ( マヒ a m ) というタイトルがつけ られている。この「中に縁る」という表現は、「南伝大蔵経」の中にも「比丘よ。これら両極端を離れて、 138

5. 自己開発 上座部佛教の心髄

* 「一切法は固執すべきではない」 * 「苦の生起と苦の滅尽のみを定めて教示する」 * 「此縁性縁起と涅槃」 すべての要諦は四聖諦の基本に含まれる。 何が仏教の要諦であるか知れば、その心髄にまで掘り下げなければならない点を把握できた のと同じである。 四聖諦が自然界の真理を人間の利用に結びつける基本であるということを繰り返させていた だく。自然界の法則だけでは、それは自然にあるだけである。実践方法を知らなければ、開始 点を知らなければ、順序を知らなければ混乱してしまう。 イ陀は私たちが自然界の法則を便利に役立てることを願われた。そこで、形と形式と体系を 作られた。これを四聖諦という。これは、はっきりと順序を立てて、教える方法であり、問題 の解決方法であり、色々のことを行う方法である。この四聖諦の基本に従って行えば、困難な 自然の真理も容易になる。 自然にある真理 仏陀は智慧をもって探り開かれた 以下、「仏教の心髄」を見るときは、真理の基本をもう一度見なければならない。仏教は真理

6. 自己開発 上座部佛教の心髄

そしてそれを決めたあとは、それをやり遂げる。その目標を達成する。これを能証と言う。や って明らかにする、やって実現する。つまり、成就、完成させることである。 ( 四 ) 目標を設定すれば、次は実行に移す段階である。手術や投薬、病人にどのような運動 をさせるか、すべての治療方法は第四項にある。すなわち、道とは、着手して行う段階のこと であり、道に対して行うべきことを修習と言う。これは詳細多岐にわたる大きなことである。 こうしたことから、四聖諦は科学的方法であると言える。教育にも使えるし、病気の治療に も使えるし、医者もこの方法を使う。 四聖諦は実践の体系を提案し 人間に自然界の真理を役立たせる法である。 本当は、自然界の実相は、結局は此縁性縁起の過程である。その過程を越えた状態は涅槃だ けであるが、仏陀は人間の実践での段階を見せるために、四聖諦として導入し説かれたのであ る。また、四聖諦は教えの方法でもあった。すなわち、人が理解しやすく、それに従ってやる 気にさせるだけの修行の成果を生み、かっ明瞭に段階が追える方法である。 四聖諦は本当は原因と結果の原理である。一般に私たちは原因を先に言い、それから結果を 一一一一〔う。しかし、仏陀は逆にまず結果を上げて示し、それから後で原因を言われた。どうしてそ うなのか 苦は結果としての現象である。集は苦の原因。これは結果と原因の一対である。

7. 自己開発 上座部佛教の心髄

の戒条」 ( 0 品 dapa ( 一 mokkha ) と呼ばれる基本を、仏陀が示された日だとして覚えているからだ。 「心髄」と言えば、「要諦」という言葉と近い。昨日仏教の要諦について話したので、少しば かり繰り返すことになる。しかし、「仏教の要諦」としている教えを、ここで心髄だと言う意味 ではない。話の導入部としようということだ。昨日仏教の要諦を聞いたばかりだから、復習し てみようということだ。 仏教の要諦されている基本に、「一切の悪をなさず、善を行い、自己の心を浄む」という簡略 ーリ語では次のよ , つに一言一つ。 な偈があるが、これは僧侶の言葉、または、パ kusalassüpa sampadä 「 Sabba päpassa aka 「 anam etam buddhäna säsanam 」 sacitta pariyodapanaril 「諸悪莫作」 ( しょあくまくさ ) 「衆善奉行」 ( しゅぜんぶぎよう ) 「是諸仏教」 ( ぜしよぶつきよう ) 「自浄其意」 ( じじようごい ) 「七仏通戒偈」 ( しちぶつつうかいげ ) これは、「もろもろの悪をなすことなく、多くの善を行い、心を曇りなく洗い浄めること、こ ムの教えであり、仏教そのものである」という意味だ。 れが諸イ 「これが諸仏の教え」という最後の語句によって、これが結論であり、仏教の真の内容はこ こにあると理解される。そこで、万仏節に因んで、これを「要諦」と呼び、出発点としよう。

8. 自己開発 上座部佛教の心髄

一方、話しておかなければならない重要なことがもう一つある。 それは、調御があり、調御せらるべき人がいれば調御する人 (Damaka) がいる。一注一三 そこで仏教、或は、法において、私たちを調御するのは、他人ではないことをまず理解して おかなくてはならぬ。本来は、調御する人とは、私たちが自己修習をするのを助けてくれる人 のことを亠思味している。仏陀が「 Damako 」「 Dametu 」「 DametäJ と呼ばれているのは、いずれ もこの調御する人という意味である。 一注一三調御は、 Dama 、 Damana 、 Damatha 、など書かれるが、いずれも文法上の変化の問題で、簡 単には先ほどから説明しているように Da ョ a で、調御せらるべき人は、「調御者」 (purisa ・ damma) の中にある Damma である。 仏陀は「世尊はまだ調御を受けぬ人 ( Adan コ a ) を調御する人」 (Bhagavä adantänam dametä という言葉に見られるように仏陀は「 Dametä」と呼ばれている。さきほどの調御を与えると は、自己修習をしている人を助けるという意味であるが、その務めを行うことを、仏陀は「善 友」 (Kalyänamitta) の努めを行うと呼んでおられる。だから仏教の重要な基本のもう一つは、 「善友」の基本にある。仏陀の言葉に「すべての衆生は、生まれ、老い、病み、死ぬのは当然 のこと。われ如来はすべての衆生の『善友』になるべし」にあるように、仏陀は自らを「すべ ての衆生の『善友』である」と申され、生まれることが当然の衆生を生まれることから解放し、 105

9. 自己開発 上座部佛教の心髄

たことである。四聖諦は最も短い形態に凝縮すれば以下の二組になる。 苦と、苦の原因である集の一組。 苦を消す滅尽と、苦の滅尽への方策である道の一組。 だから、短く話すときは、苦のことが一つ、それから、苦の滅尽が一つ、簡単に一一一一口えば四聖 諦を二つに縮めるのだ。 だから仏陀が「比丘らよ。我らは前世でも現世でも、苦の生起と苦の滅尽のみを教示する」 というのは矢張り一つのことであり、四聖諦のことであって、それ以外に行きようがない。 それにもう一つ。先ほど言うのを忘れたが、仏陀が悟りを開かれ仏教を宣言されたとき、考 えられたことは三蔵にはこう書かれている。「我が證得せし法は」 (Adhigato khO muyäyayam dhammo ) 、難解なり ( Du 「 anubodho ) 。すなわち、一つは此縁性縁起 ( ldappaccayatä paticcasamuppäda 、しえんしようえんぎ ) 、一一つは涅槃 (Nibbäna 、ねはん ) である。そして更に こう続く。仏陀は、すべての衆生は誘惑するものに溺れては浮かれており、この二つを理解す ることは困難であろうと考えられ、教えまいと決められた、と。 イ陀が「私の得た法は、此縁性縁起の道理と涅槃である」と言われたことにより明らかなこ とは、これも同様に佛教の要諦であると言えるということだ。しかし、関連付けて見れば、本 質はどこへも行かない。本当は同じことである。 此縁性縁起とは何か。 これは、私たちが苦と呼ぶ現象を起こす面から見た自然界の真理である、すなわち、苦や様々 な問題が生じてくる自然界の法則そのものを捉えることである。

10. 自己開発 上座部佛教の心髄

が残っている。だから、消滅しなければならない。私たちが仏教の目標に至るまで実践すれば、 苦のない、苦の残りがない滅尽に到達する。もうこれから先、苦は生じることはない。 実践中、関わっている間は、苦は減少し楽が増えている。だから、楽は滅の側、目標の側に ある。滅に対する行い、 または、義務は、すなわち、能証である。明らかにするという意味で ある。つまり、自分に明らかにする、或は、到達することである。従って、楽は私たちが到達 した状態がどんどん増すことだ。 苦は私たちが遍知することである。それから、解決の道を求める、もし、目標に進めば、楽 が徐々に増え、苦が徐々に減り、苦がなくなり、真の楽になる。「涅槃は最高の楽」 ( N 一 b a ョ℃ a 「 a ョ sukam) である。実践の間、私たちは苦から遠のき、楽がだんだんと増えてくる。 だから、真の生活、実践においては、仏教徒は楽が増加し、苦はだんだんと減る。これが真 の生活である実践的仏教を見ることである。だから、西洋人が仏教徒は明るい笑顔をしている と見るのだ。しかし、基本をきちんと把握しない人が書いた理論的な本を読めば、苦から始ま るので、仏教を苦だと見る。しかし、本当を一言えば、仏教の基本も仏教の実践も一致していて 一つである。 仏教徒はこの四聖諦に対する行い、 義務の基本を把握せねばならない。 一、苦 : 私たちは、遍知、覚知、知悉する義務がある。それがどこにあるか、どんなものか、 解決するために、学んで理解し、はっきりと把握する。 二、集 : 苦の原因であり、断、駆逐、改善の義務がある。 三、滅 : 能証の義務がある。苦を滅尽する目標を達成し、楽を増やす。