一方、話しておかなければならない重要なことがもう一つある。 それは、調御があり、調御せらるべき人がいれば調御する人 (Damaka) がいる。一注一三 そこで仏教、或は、法において、私たちを調御するのは、他人ではないことをまず理解して おかなくてはならぬ。本来は、調御する人とは、私たちが自己修習をするのを助けてくれる人 のことを亠思味している。仏陀が「 Damako 」「 Dametu 」「 DametäJ と呼ばれているのは、いずれ もこの調御する人という意味である。 一注一三調御は、 Dama 、 Damana 、 Damatha 、など書かれるが、いずれも文法上の変化の問題で、簡 単には先ほどから説明しているように Da ョ a で、調御せらるべき人は、「調御者」 (purisa ・ damma) の中にある Damma である。 仏陀は「世尊はまだ調御を受けぬ人 ( Adan コ a ) を調御する人」 (Bhagavä adantänam dametä という言葉に見られるように仏陀は「 Dametä」と呼ばれている。さきほどの調御を与えると は、自己修習をしている人を助けるという意味であるが、その務めを行うことを、仏陀は「善 友」 (Kalyänamitta) の努めを行うと呼んでおられる。だから仏教の重要な基本のもう一つは、 「善友」の基本にある。仏陀の言葉に「すべての衆生は、生まれ、老い、病み、死ぬのは当然 のこと。われ如来はすべての衆生の『善友』になるべし」にあるように、仏陀は自らを「すべ ての衆生の『善友』である」と申され、生まれることが当然の衆生を生まれることから解放し、 105
という言葉になる。仏教のすべての修習、すべての修行の過程は三学と呼ばれる。「 SikkhäJ は、勉学、留意、修習の意味である。 上記のすべての言葉はすべて修習の意味である。知り理解しなければならない三種の言葉が セットとしてあるということだ。仏教とは自己開発、或は、自己研鑽、勉学の宗教と言うこと も出来る。ここの講演の演題と一致させて、自己開発の宗教と言おう。このように呼ぶのも裏 づけのある理由がある。 第一、自己開発に関する法の基本は仏教の重要な中心の軸であり、法の修行のすべてである。 先ほど例に上げた「 Bh a 品」という言葉は、すべての仏法の修行で使う。先ほど述べたよう に、「ヂャルーン・ MettäJ は「 Mettä-bhävanäJ であり、「ヂャルーン・ Kusala は「 Kusala ・ BhävanäJ であり、「ヂャルーン・Ä品 na ・ sa ( 一」は「Ä品コ a ・ sa 早 b く a コ巴である。すべてこれらの善行 を生むための自己開発、自己研鑽ばかりである。「 Bh a コ巴はすべてを包含する修行である。 学 (Sikkhä) についても先ほど述べたように、三学 (T 「 ai sikkä) は仏教のすべての修行を含 んでいる。簡単に言えば、戒 ( a ) 、定 (samädhi) 、慧 ( P 当謌 ) である。「調御」 (Dama) ついては、次の第二項で述べるように、仏陀は人間の徳性を示す形で多く使われている。 第二、仏教の最高の人、或は、仏教の目標を達成した人は、自己開発した人、開発した自己 を持つ人、修行した人であると一一一一口う。一注こ 4
これが自然界の法則の真理である。それを仏陀は「三相」 (Tilakkhana) という出色の基本と して教えられた。それは、無常、苦、無我である。すべてのものは無常 (Aniccam) である、生 じては滅し変化する、元の状態を留まることはない。苦 (Dukkaham) は、葛藤のある状態であ る。もし、人が欲望をもって関係しても、望み通りにはならない。無我 (Anattä) は、誰の自 ということである。誰かが所有、支配できない。なぜなら、それはそのものの因 我でもない、 縁、或は、そのものあるがままの状態に従っているからである。 人が法の真理に覚知しないときには、 自然界の苦を自分の苦として作りだす この三相における苦を、私たちは痛みと見がちである。本当は、苦はすべてのものの自然の 状態、或は、自然界の状態なのだ。すなわち、すべてのものが元の状態に留まれない症状で、 英語ではストレス ( 緊張 ) とかコンフリクト ( 摩擦 ) と訳されているが、常に抑圧や軋轢が生 成し、消滅する様々な因縁、或は、構成要素によって変化が生まれる状態であり、苦はそれら の関係から生じる総合的な状態である。 すべてのものは色々な構成要素が集まって生まれる構成物であり、それぞれの構成要素が常 というのは、もしそれぞれ に生成、消滅し変化するとき、構成物はもとの状態に留まれない。 の構成要素が変化すると、軋轢が生じて内部の圧力となり状態は安定できないからである。 この状態を苦と言う。自然界 軋轢、反発、圧力がある状態は、これ等すべては安定しない。
それを変化させる者はいない。だから、智慧のある者は誰もがそれを知り、理解し、利用出来 る。 問題は私たちがそれを理解する智慧がないことである。この自然界の法則と呼ばれる真理を 知らないときは、すべてのものに対して正しく行動できない。 というのは、すべてのものはそ の真理に従って存在するからだ。その真理を知らなければ、それに対して正しく実践できない ので、私たち自身に問題が生じる。 従って、自然界の真理を知ることが非常に重要なことになる。ある種の、または、一部の真 理、或は、自然界の法則を発見した科学と同じように、知ったときは、すべてのものに対して 正しく実践できる。発見すれば、その自然界の法則を使って、各種のものを作ることが出来る。 例えば、蒸気船、自動車、航空機からコンピューターに至るまで各種の発明物を作ることが出 来るが、これはその自然界の法則の真理についての知識から来ている。知ったときには、それ を処理できる。それを用いて利用することが出来る。知らなければ、行き詰まり、うまくいか なくてただ問題が生じるだけだ。 このことは科学と同じである。しかし科学は物質の世界の真理だけであるが、仏教は世間と すべての生き方についての真理である。 要約すると、仏教は一切の真理は、存在しそのものの自然のままにある自然界のことである と見る。仏陀はこのことを発見し、学習し易いような体系と形式に形を整える方法と様々な規 則を作って、理解し易くされた。 これがすなわち仏陀が真理の基本を把握し、私たちが理解を易しくするために体系を作り上
導的哲学者のデカルトから社会主義国のすべての思想家に至るまで調べて、西洋の思想とは、 すべてが自然を克服する夢、熱望についての見解である、としている。 自然の克服が二千年以上の間、西洋の思想、信仰を導いてきた目標である。いっか人類は自 然を克服し、人類の世界は完全に豊になり、世界は地上の天国になるというのが、切望する目 標であり信念であった。 このような信念により、西洋の人たちは自然界の知りがたい知識を探求し、科学と技術を開 発してきたのである。意業とは、このような思想、信仰であり、現在の文明すべての背後に存 在する。これが仏陀が意業が最も重要なものであると言われた一例である。 開発の基礎、すなわち、意業を放棄すれば 人間開発、社会開発に真の成果は得られない すなわち、西洋が代表する現在の文明は、人間が自然を克服できるという思想を基礎にして 繁栄しているが、現在、西洋は逆にこの思想を非難し、同時に自分たちの先祖も非難している。 先ほど述べた本でも、すべてが自然を克服することを目指すのは間違った思想、信念であり、 現代の最も大きな問題である環境問題を引き起こしたと、西洋の先祖を非難している。 西洋の思想、見に従えば、人間は自然を敵と見なし、責任も取らずにこれを征服し、思うま まにせねばならないとしている。環境学者でもあるゴア副大統領は「 Earth in the Balance 」 という自著の中で、西洋は自分たちの文明が自然に対して責任を取らず、自然に対して何でも
さて、私 ( 拙僧 ) は仏教の心髄についての前置きを長々と話したが、これはただ仏教の要諦 はどのように話してもいいと言いたかったからである。昨日の万仏節の説戒のように、多くの 長老たちが信者に話されるすべての基本は、すべてが色々の角度から言われる仏教の要諦であ るが、繋がりをつけて明確な基本にし、真剣に実践しなければならない。ぼんやりと眺めて何 かを喋る、ということではない。 仏教は世の暗い面を見ると言う知識を欠く人に、愚鈍に従うなかれ 仏教の基本。苦は見るべきもの、楽は持つべきもの、感じるもの ここまで話して脇道に逸れるが、ちょっと気付いたことを話そう。四聖諦の基本を見ると、 仏教は苦で始まる。あるいは外部の人、いや内部の人でさえ、仏教は苦だけを教えるもので、 すべてが苦、人生も苦だと見るものだと考えている。 西洋人もあるいは仏教は悲観主義であると一言うだろう。世を悪い面で見る。百科事典と西洋 人の教科書を見てみると、多くのもの、大部分のものが、仏教について触れて、仏教は人生を 苦と見ている。人生や生存が苦である、といったことが書いてある。しかし、これは大きな誤 解を招く。 この点を仏教徒自身が明確にしなければならない。 このことを説明する前に、もう一つ気付いたことを述べておこう。教科書、或は、理論で仏 教を学んだことのない人たちが、ふらりとタイへやって来て、タイ仏教について見る光景は、
ロ業 : 私たちの言葉が善くなる 身業 : 私たちの行動が善くなる この三業は循環する人間の開発の過程である。 仏教は意業が最も重要であるとしていることを覚えて欲しい。人は一般に身業が最も重要だ と見がちである。というのも、人間社会では、殴りあって武器をもって人を殺害することまで あるからだ。だが、「世 ( 人間社会 ) はその業に従う」、 (Kammunä vattati 一 0k0 ) と仏陀が話 された基本を考えていただきたい。世が業に従うという条件こそが、世のすべてが意業から生 じているという証拠である。 この世のすべては身業で大部分が動かされているわけではなく意業から来る。この人間の心 の中の感情、考え、信念の過程が重要な要因である。意図、欲求はどこから来るか。思想、信 念、主要な価値観、理想への固執などから来る。この点が重要である。 これら信念や思想や理想への固執などのことを僧侶は簡単に「見」 (Ditthi) という言葉で言 い表すが、或は、価値観でも、もし、見が働くと欲求などがそれに応え、それから、信念など の「見」に従って口業が働き始め、業の過程が生まれる。 一例を上げると、もし、物質が豊かにあるか、或は、最高に豊な経済状態である時に、人間 は完成され、私たちの生活は完全な楽しさがあるのだという信念、固執、思想があると、文化、 文明はすべてこれに従い社会はそれに従って歩む。 この信念の影響によって、人間は物質を豊かにするためにあらゆることを目指す。物質主義 の潮流が強くなり、消費主義にまでなる。 6
が修習、自己開発し完成できるようになるためには、自然界の法則の真理を理解し、因縁の法 則に従って実践するように、その法則に従って正しく実践しなければならないのだ。 自然界のすべての法則の中で最も大きな法則は因縁に従うということである。それは仏陀が 言われた二つの重要な基本のうちの一つである。 二つの重要な基本とは、次の二つである。 ( 一 ) 三相 (TiIakkhaoa) の基本、無常、苦、無我 ( 二 ) 無常、苦、無我の背後には因縁に従う状態の自然界の法則がある。それが此縁性 (ldappaccayatä) ということである。 従って、仏陀は三相の次には縁起の道理、完全に一言えば此縁性縁起について教えられた。す べてのものが因縁により起こるということである。 因縁の過程に入ると、色々な基本がお互いにすべて明瞭に繋がり、自己修習の修行に入って くる。無常、苦、無我だけを知っていても、私たちは何もすることが出来ない。すべてのもの が生まれ、滅し、変化し、恒久ではなく、元の状態に留まれないで因縁に従う、それを知るだ けでただ安心するだけで、何も行うことは出来ない。 しかし、無常、苦、無我の背後にある因縁の法則、つまり、此縁性があり、それはこういう ことだと知っていれば、今度は実行に移すことが出来る。つまり、人間の自己修習、開発にそ れを用いることが出来る。それは人間の特別の自然と、一切のものの自然界とを結びつけるも のである。 さて、ここで自然界の法則をどのように人間の生命に導入して用いるかを見てみよう。 4
目の苦に戻る説明方法である。 真理を知る智慧が生まれれば、渇愛に頼ることを止め 智慧に頼り、法を役立てることが出来る 逆に、世間と生命の真理を知り、新たな関わり方に変える、無明、渇愛、取で関わらずに 明を明に変え、すべてのものと智慧で関われば、集は消えて滅に変わる。 無明、渇愛、取がばっと消えれば、集が消え苦も消えて滅に変わり、一切の苦が消えるか、 或は、苦はもう生じない 従って、解決の方法は、無明、渇愛、取がなくなるまで人間が智慧を持つように開発するこ とである。だから、無明がなくなるまで渇愛を次第に少なくするような生活をするために、明 を起こす。無明がなくなれば滅であり、苦はもう生じない 自然界の法則から四聖諦に繋がることは、十分に理解していただけたことと思う。 もう一回戻ってみよう。自然界の法則は一切のものの自然にある。それは生滅、変化して元 の状態を保てず、そのものの因縁によって現れる現象である。このような自然に従って、人間 が世に住めば、これらすべてのことと関係することになるが、もし、正しくない関係、すなわ ち、無明、渇愛、取を用いれば、直ちに問題が生じて、苦が生じる。だから、仏陀は私たちに これらすべてのものを無明、渇愛、取に頼らないようになるまで、理解して智慧を用いるよう、 正しい関係を持つように教えられた。私たちが最高に智慧を開発すれば、私たちは無明、渇愛、
は原因があって生じるのだ、原因は何だ、その原因は除去しなければならないと知る。だが、 私たちはまだ何もしていない。それから、私たちは苦の原因を除去できれば、目標とする滅に 到達することができると知る。しかし、これらのすべては、最後の項目、すなわち、道を行う ことに着手して成就できるのである。 苦、集、滅の三種とはどういうものか理解できた。それらについては何が出来る。何も実践 出来ない。実践できるものは、第四項目の道だけだ。道に従って実践するとき、集を除去し苦 の原因を解決出来、苦から脱却し、問題はなくなる。私たちは目標とする滅に到達出来る。だ から、道の項だけで、最初の三項目についての仕事をすべてを成就することが出来るのである。 つまり、私たちが実践しなければならないのは一項目だけである。しかし、最初の三項目に ついては、知る必要があるということだ。 ここまで来て、「一切の悪をなさず、善を行い、心を浄む」という基本を振り返って見ると、 道は行い実践という側面であるから、仏教のすべての実践部門の基本は、道、つまり、四聖諦 の第四項目にあり、情況がどうであるか目標はどうか、という真理の基本は、四聖諦の第一、 二、三項目にあることが分る。 だから、四聖諦はより広範囲に、「一切の悪をなさず、善を行い、心を浄む」の基本を包含し ていると言える。 もし、実践の面、実行の部門、或は、生き方の面だけ語りたいなら、「一切の悪をなさず、善 を行い、心を浄む」の面だけ、これだけで仏教の要諦になる。直ちに行い実践出来ることだか ら、これだけ実践すれば完全である。