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検索対象: 自己開発 上座部佛教の心髄
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1. 自己開発 上座部佛教の心髄

称賛することを示している。自己開発した人を仏教の目標を達成した人とみなしている。或は、 もう一つの偈でも、仏教は自己開発をした人を「多くの人の中で修習した人が最勝である」 (Dantosettomanussesu) と称賛している。人間の中だけで称賛するのではなく、「明と規律を 備えた人は人々と神々のなかで最高、大梵天王すら尊敬、崇拝する」 (Vijjäca 「 aosampanno sosetto devamänuse) つまり、仏教の基本には自己開発を非常に称賛するということ、自己開 発した人は仏教では称賛を受ける人の最高であるということだ。自己開発の原則は、仏教のあ らゆる修行の軸である。さて、これで本題に入ってきた。 自己開発の方法 このように理解して、さらに詳細に調べてみよう。自己開発が重要であり、自己開発をした 人が仏教で目標を達成した人であるなら、次に考えることは、どのような方法で自己開発する 力とい一フことである。 自己開発をする前に何をすべきか。まず、私たちが自己開発できるという基本的な信念がな ければならない。 これは仏教では非常に重要な信念である。つまり、仏陀の功徳を唱えていけ ば、無上士、調御丈夫 (Anutta 「 0 purisadamma sä「 athi' じようごじようぶ ) という言葉に気が 付かれるように、人間は修習できる衆生であるという信念がある。これは「人を調御させる最 高の馭者で、他に優れた人はない」という意味である。【注一 = 6 9

2. 自己開発 上座部佛教の心髄

本で読んだ人たちの印象とは逆かもしれない。 本を読んだ人たちは、仏教というものは何を教えるにしても、人生は苦であり、不快なもの だと見るものだと、理解しているかもしれない。 本を読まずにただタイは仏教国とだけ知って、ふらりとタイ〈やってきた人たちは、タイの 人たちを見ると、スマイルの国と呼ばれるのに相応しく明るい笑顔を作っていて、タイ国は幸 せな国だなと感じるかもしれない。 以前に若い西洋人の男女が拙僧を寺に訪れて来たことがある。知らない人で、誰が紹介した 、。どういう用件か聞くと、仏教について知りたいと言う。来るまでは関心がなか かも知らなし ったが、 来て早朝に窓から外を眺めると、明るい笑顔をしたタイ人が見える。タイ人を見ると 幸せそうだ。仏教は何を教えてタイ人を幸せにするのかと。 農村〈行って葬儀を見ても、楽しそうにやっている、彼らの国ではそんなことはありえない、 とまで言う人もいる。彼らの国の葬儀では皆がひどく深刻な顔をしている。悲しい気持ちで一 杯だ。でもタイは楽しそうだ。葬儀でも苦は見られない。仏教は何を教えているか知りたいと これがもう一つの印象である。タイ人の生活の状況を来て見た人にとって、仏教徒は幸せで ある。いつも深刻な顔だけで笑顔も見せず、苦悩が多くて精神を病んでいる西洋の国とは逆だ。 同じ仏教徒の姿のなかに、苦と楽が一緒にあると言うのはどう繋がりがあるのだろうか。私 たちが基本を正しく把握していれば、このことには何の問題もない。 回答はこれまで話してきた四聖諦の基本、あるいは、四聖諦に対する義務にある。仏教は苦 ワ 1

3. 自己開発 上座部佛教の心髄

一方、話しておかなければならない重要なことがもう一つある。 それは、調御があり、調御せらるべき人がいれば調御する人 (Damaka) がいる。一注一三 そこで仏教、或は、法において、私たちを調御するのは、他人ではないことをまず理解して おかなくてはならぬ。本来は、調御する人とは、私たちが自己修習をするのを助けてくれる人 のことを亠思味している。仏陀が「 Damako 」「 Dametu 」「 DametäJ と呼ばれているのは、いずれ もこの調御する人という意味である。 一注一三調御は、 Dama 、 Damana 、 Damatha 、など書かれるが、いずれも文法上の変化の問題で、簡 単には先ほどから説明しているように Da ョ a で、調御せらるべき人は、「調御者」 (purisa ・ damma) の中にある Damma である。 仏陀は「世尊はまだ調御を受けぬ人 ( Adan コ a ) を調御する人」 (Bhagavä adantänam dametä という言葉に見られるように仏陀は「 Dametä」と呼ばれている。さきほどの調御を与えると は、自己修習をしている人を助けるという意味であるが、その務めを行うことを、仏陀は「善 友」 (Kalyänamitta) の努めを行うと呼んでおられる。だから仏教の重要な基本のもう一つは、 「善友」の基本にある。仏陀の言葉に「すべての衆生は、生まれ、老い、病み、死ぬのは当然 のこと。われ如来はすべての衆生の『善友』になるべし」にあるように、仏陀は自らを「すべ ての衆生の『善友』である」と申され、生まれることが当然の衆生を生まれることから解放し、 105

4. 自己開発 上座部佛教の心髄

結構なことだ。 この「修習」 (Bhävanä) についてはすでに説明したように、「 BhävanäJ は名詞形、「 Bhävita 」 は分詞形で修習した人のこと、自分は「 A 計」または「 A 」、二つを合わせて、「 Bh 」十「 A 計」 「 Bh 一 ( a 」で、自己修習した人という意味である。普通、仏陀は阿羅漢のことを意味され ている。場所によっては、特に仏陀のことを指している。 パーリ語の仏典のある個所で、仏陀 に質問している人が仏陀を『 Bh ミ ( a 計』と呼んでいるが、サーリブッタ師はそれを「 Bhävitatta と言われる仏陀」 (kathari-n bhagavä Bh 0 ) と説明された。「自己開発をした人はどうな のか」については、仏陀は「身、戒、心、慧のそれぞれを開発した人だ」 (Bhävitakäyo Bhävita ミ ( a 当 0 Bhävita ci 0 Bhävita pafifio) と意味を拡大して詳しく説明された。〔訳者注二〕 ここで大きな基本にやってきた。自己開発した人とは、 ( 一 ) 開発された身体 (Bhävita käyo) ( 一 l) 開発された戒 (Bhävita a 当 0 ) ( 三 ) 開発された心 (Bhävita c 0 ) ( 四 ) 開発された智慧 (Bhävita pafifio) この四つの徳性を備えた人のことである。 それから、さらに拡大し、例えば、四念処観開発 ( しねんじよかん・かいほっ ) 、如意足開発 ( によいそく ) 、四正勤開発 ( ししようごん ) 、五根開発 ( ごこん ) 、五カ開発 ( ごりき ) 、八正 道開発、 ( はっしようどう ) 七覚支 ( しちかくし ) など数多くの徳性が上げられる。仏陀は、こ 121

5. 自己開発 上座部佛教の心髄

さて、私 ( 拙僧 ) は仏教の心髄についての前置きを長々と話したが、これはただ仏教の要諦 はどのように話してもいいと言いたかったからである。昨日の万仏節の説戒のように、多くの 長老たちが信者に話されるすべての基本は、すべてが色々の角度から言われる仏教の要諦であ るが、繋がりをつけて明確な基本にし、真剣に実践しなければならない。ぼんやりと眺めて何 かを喋る、ということではない。 仏教は世の暗い面を見ると言う知識を欠く人に、愚鈍に従うなかれ 仏教の基本。苦は見るべきもの、楽は持つべきもの、感じるもの ここまで話して脇道に逸れるが、ちょっと気付いたことを話そう。四聖諦の基本を見ると、 仏教は苦で始まる。あるいは外部の人、いや内部の人でさえ、仏教は苦だけを教えるもので、 すべてが苦、人生も苦だと見るものだと考えている。 西洋人もあるいは仏教は悲観主義であると一言うだろう。世を悪い面で見る。百科事典と西洋 人の教科書を見てみると、多くのもの、大部分のものが、仏教について触れて、仏教は人生を 苦と見ている。人生や生存が苦である、といったことが書いてある。しかし、これは大きな誤 解を招く。 この点を仏教徒自身が明確にしなければならない。 このことを説明する前に、もう一つ気付いたことを述べておこう。教科書、或は、理論で仏 教を学んだことのない人たちが、ふらりとタイへやって来て、タイ仏教について見る光景は、

6. 自己開発 上座部佛教の心髄

〔注一〕自己開発についてのパーリ語 タイ語の三蔵を見てもあまりはっきりしないから、タイ語は見ずに、。、 ーリ語での意味 を見ると、 パ 1 リ語の三蔵では、仏教の目標を達成した、自己開発した人を呼ぶ言葉と して、「 Bh く a コ巴と「 Dama 」一一つの言葉の活用がある。「 Bh く a コ巴を使一フ言葉は、「 p く一 ( a a 」 で、開発した自己を持つ人という意味だである。「 p 一 ( a 計」は「 BhävanäJ の分詞形で、 「 Pävita 」と「 A a 」 ( 自己 ) を合わせて、「 Päミ ( a a 」と言い 「開発した自己を持つ人」 という意味になる。仏陀にものを訊ねに来た人が、「 p 一 ( a 計」のお方と呼びかけること があった。つまり、「自己開発をされたお方」ということである。一方、「 Dama 」の方も 同様な使い方をする。分詞形は「 Danta 」である。活用形の「 Attadanta 」は「自己修習を したお方」という意味である。「 A a 」は自分、「 Danta 」は修習である。「 Päミ ( a a 」と 「 Attadanta 」の二つの言葉は、阿羅漢と合わせて、仏陀の呼ぶ呼称として最も多く使わ れている。所々では、預流果 ( よるか ) を得た一般の聖人にも使われているが、阿羅漢 と仏陀に関して好まれて使われている。 イ侶が唱える偈に、「正覚者は人間であられても、修習し自己開発され不抜の精神の人になら れ・ ・」 (Manussabhutam sambuddharh attadantarh samähitaril ・ ・ ) から始まって、「諸 天ですら敬う」 (devapi namassanti) に至るものがあるが、これは自己開発をされた方を尊敬、 9

7. 自己開発 上座部佛教の心髄

という言葉になる。仏教のすべての修習、すべての修行の過程は三学と呼ばれる。「 SikkhäJ は、勉学、留意、修習の意味である。 上記のすべての言葉はすべて修習の意味である。知り理解しなければならない三種の言葉が セットとしてあるということだ。仏教とは自己開発、或は、自己研鑽、勉学の宗教と言うこと も出来る。ここの講演の演題と一致させて、自己開発の宗教と言おう。このように呼ぶのも裏 づけのある理由がある。 第一、自己開発に関する法の基本は仏教の重要な中心の軸であり、法の修行のすべてである。 先ほど例に上げた「 Bh a 品」という言葉は、すべての仏法の修行で使う。先ほど述べたよう に、「ヂャルーン・ MettäJ は「 Mettä-bhävanäJ であり、「ヂャルーン・ Kusala は「 Kusala ・ BhävanäJ であり、「ヂャルーン・Ä品 na ・ sa ( 一」は「Ä品コ a ・ sa 早 b く a コ巴である。すべてこれらの善行 を生むための自己開発、自己研鑽ばかりである。「 Bh a コ巴はすべてを包含する修行である。 学 (Sikkhä) についても先ほど述べたように、三学 (T 「 ai sikkä) は仏教のすべての修行を含 んでいる。簡単に言えば、戒 ( a ) 、定 (samädhi) 、慧 ( P 当謌 ) である。「調御」 (Dama) ついては、次の第二項で述べるように、仏陀は人間の徳性を示す形で多く使われている。 第二、仏教の最高の人、或は、仏教の目標を達成した人は、自己開発した人、開発した自己 を持つ人、修行した人であると一一一一口う。一注こ 4

8. 自己開発 上座部佛教の心髄

( 一 l) 何を眼にしても学習 この、何を眼にしても学習だという人は、自己の修習だけでなく、自己の精神面にとっても 善い結果を生むことができる。このような人たちは、常に得ることだけで失うことはない。 この、何を眼にしても学習ということは、先ほど述べた目標を目指すということと似た善い 結果をもたらす。目標を目指す者は、誰が何をしても、もし、彼の目標と関係しないことであ れば気に留めないし苦にもしない。今度は、何を眼にしても学習ということは、彼は経験した だけで、何を得たか、得たものに何があるか、何を学習したか、と考えることができる。彼が このような姿勢でものを眼にするとき、心を傷つけるものは生じない。他人が何か話して、良 い話でも、悪い話でも、何を眼にしてもすべて学習と見る性格の人は、見て探し、はて ! 相手 の言葉の中に何か学習できるものはないか、何か役に立つものがあって自己改良に使い、善を 起こすものはないだろうかと、心はそこに留まって選び、心はそこへ行く。だから、悪いこと、 粗野なこと、下品なことなど、彼はそんなことには関心がない、興味の外である。だから、傷 は受けないで、 しい気分でいられる。悪い下品な言葉から役に立っことを見つける。このよう な人たちは得ることだけだ。 てるようになる。この「調御」に関する特徴の、第一の角度は、心が目標を目指すということ である。 111

9. 自己開発 上座部佛教の心髄

だから、普通のことを喋る人、或は、上品に忠告する人だけでなく、この種の人たちは激し い言葉遣いの人に出会っても、どんなに善意がなく話しかけられても、心は傷つかない。常に しい気分でいる。というのも、ああ、今度も何か学んで増えた、いつも役に立つ、とだけ見る からである。 だから、この種の人間は常に明るく喜びに溢れ、嬉しくなっている。喜ぶというのは、満足 していること。嬉しくなっているとは、晴れ晴れとしていること。常に喜び、嬉しくなってい る。というのも、何に出会っても常に得るだけだから。彼は言う。うん、今度はこの知識を得 た。この考え方、或は、この考えを使って役に立てよう。もうすぐ、自己改良できると。だか ら常に進歩する。この種の人間は進歩しないことはないと言う。次に、良い結果が引き続いて 2 。精神状態 また起こる。何か得たという気持ちがあると、喜び嬉しくなり、幸せで気分がいし というのは、傷つく自我がないからである。こ が良くなる。この種の人間は心が傷つかない。 れは大事なことだ。 次に、何かを喜んでいい気分で見れば、何の傷もっかずに、誰に対しても怒りも怨みも起こ らない。だから、社会の他の人々と善い関係ができる。気分が善く、心が傷つかなければ、怒 りも怨みも少なく、問題も減る。社会にとっても役に立つ。 これが「サムニアック」と呼ばれるものの特徴である。これは勉学を望む者、或は、学者の 性格である。私は学者を作るなら、このような性格の学者を作り、いろいろなことを学習する このような性格を持たせるべきだと思う。自己開発、或は、勉学の性格を持つ者は常に勉学を

10. 自己開発 上座部佛教の心髄

目標は最も優れたものに見せねばならない。あんなに善い、 こんなに善い。人がすっかりそ の気になってその目標を達成しようとすればするほど、問題を引き起こした張本人を憎悪しく 駆逐したいと思い込む。 人はそのような状況を好んではいない。問題だと指摘され、駆逐すべき悪の張本人が原因で あると指摘されれば、人の心は標的を狙う。このように準備が整えられていれば、望ましい目 標の指示は成功する。今や完全に準備完了である。「こんな風に、こんな風にやれ」と言えば、 実行方法がいかに困難であれ、心配することはない。やろう。どんなに困難でもやるだけだ。 力を合わせてやり遂げよう・・・道への到達である。 要するに、四聖諦は自然界の真理と人間の実践とを繋ぐ基本である。 真の自然界の真理を取れば、縁起の道理と涅槃で、これが自然に従う一切の真理の面から見 た心髄である。 しかし、そのようにすべて真理に沿って語ることは非常に困難である。そこで、仏陀は四聖 諦の形で提供されたのである。 出来事に沿って見るとよりはっきりする。 ( 一 ) 悟りを開かれた後、仏陀は悟られた法、此縁性縁起と涅槃は人に説いても理解すること は困難である、そこで、説法しないと心に決められた。 (ll) その後、教え始められたとき、つまり、最初の説法のとき ( これを初転法輪という ) 仏 陀は完全に四聖諦を行うか、四聖諦の義務を果たして、四聖諦を悟ることを話された。