仏陀 - みる会図書館


検索対象: 自己開発 上座部佛教の心髄
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1. 自己開発 上座部佛教の心髄

陀と同じように自分自身を修習する能力、潜在能力があると、自分自身を信じることができる。 私たちは仏教が仏陀の修行の歴史に重点を置いていることを知っている。五百五十もの「本 生経」 ( ジャータカ ) の重要な目標は、凡人から、畜生から仏陀として完成するまでの自己修習、 或は、仏陀の自己開発の過程を見せるためである。だから、私たちが仏教徒であれば、気力を 持ち、自己開発が出来ないと怯むことなく、波羅蜜を修行すべきである。そうすれば仏陀にな ることすら望みうるのだ。仏陀の功徳は三宝の第一項目に「仏 , をおかれて、私たちでさえ仏 陀になりうるということを確信させるものである。 以上、述べてきたことは、まったく初歩的な基本である。仏教は、これらに関する法の基本 8 を数多く教えている。例えば、人間を四種に分け、四種の蓮花に喩える。人間の差異を教える ために、仏陀自身でさえ人間の差異を推し量る智慧を持たねばならない。 これを仏陀は「根上 下智力」 (lndriya-pa 「 opariyatta ・ fiäna 、こんじようげ・ちりき ) と呼ばれる。多くの衆生の信、進、 念、定、慧の「五根」の上下優劣を推し量る智力である。その人間の自己開発の段階がどの程 度違っているか、どの人間がどのように根を鋭く強くしなくてはならないか知らねばならない。 仏陀には仏陀の方法がある。仏陀は人間を調御する最高の馭者である。仏陀は、人を十分に調 御する方法を、根を次第に鋭く強める方法を求められる。或は、仏陀には仏陀の十力の一つと して、「種種勝解智力」 (Nänädhimuttika-fiäna 、しゅじゅしようげ・ちりき ) があ . り、人間の性格

2. 自己開発 上座部佛教の心髄

に対してどのような態度、見解を持っているか、つまり、世をどう見るか、自然をどう見るか、 生命をどう見るかということから始める。要約すれば、仏教は一切の真理をどのように見るか とい一つことである。 この出発点は僧侶が追善供養の行事で読経している次の仏語にはっきりとある。 「比丘たちょ。如来、すなわち仏陀の出世、不出世に関わらず、真理は自然界の法則であり、 永遠不滅である、とその道理は定まれり・・ (Uppädäく bhikkhave tathägatänalil anuppädä tathägatänarh thitä va dhätu) これが仏教の様式による真理の見方である。この仏語が基礎的な基本である。私たちはまず この基本から始めるべきである。それは仏教がすべてのことを自然と自然界の法則として見る。 そのものの自然に従ってそのようにある真理は仏陀の出世と関わりがない。 この仏語の中で仏陀はさらに「如来は真理を知っている。この真理を得たので、かくのごと く、明らかにして示し、理解しやすくした」と続けられている。 仏語のこの部分は教祖の地位について、「仏陀の地位は真理の発見者であり」真理を導き示し たと言っている。仏陀は無から何かを定めたり、創造した人ではない。ただ、ある真理を示し ただけである。仏陀が多くの波羅蜜を実践されたのは、自然にあるこの真理を大悟して理解さ れためであった。 この真理は常に自然のまま存在する。作り上げる者はいない。 ( 造物主はいない。というのは、 もし造物主がいるのなら、その造物主を造った者がいなければならない。造物主が独りでにあ るなら、法の状態は間違いなく造物主がなくてもありえる ) 。誰かの支配下にあるわけではない。 6 ワ 1

3. 自己開発 上座部佛教の心髄

もし、まだ四聖諦のそれぞれの項を智見三転によって知らなければ、 ( 全部で十二行相と一言う ) 三藐三仏陀として大悟したとは公宣できない。四聖諦の各項を三回、計十二回の智で四聖諦を 悟ったとき、初めて三藐三仏陀 ( sammä mbuddha ) であると公宣できる。 転法輪経におけるこの偈は、これこそ仏教の要諦の重要な基本であると定めることができる。 この転法輪経を唱えられた方は、「比丘たちょ。われ、四聖諦において》かくの如く三転十二行 相をもって如実、智見のいまだ清浄ならざる間は・ ・」 (Yäva kivaöca me bhikkhave imesu catüsu ariyasaccesu evam ti-parivattalil dvädasåkä「 am yathäbhütam fiäna ・ dassanam ・・ ) A 」い一つ / ーリ語を思い浮かべられるだろう。 ( 相応部、転法輪経より ) ラーマ六世 ( ワチラーウット王 ) は『仏陀は何を悟られたか』という本を書かれておられる が、ここでもこの点を四聖諦とされておられる。 仏陀は四聖諦を悟られ、四聖諦を悟られたことで仏陀になられた。つまり、四聖諦こそ仏教 の要諦といえる。 イ陀がきわめて簡潔に言われた三蔵のもう一つの部分「比丘らよ。我らは前世でも現世でも、 苦の生起と苦の滅尽をのみ定め教示する」 (pubbecäham bhikkhave eta 「 ahiril dukkhaöceva Pa555 m 一 dukkhassa cani 「 odham) を取り上げる方もおられよう。もし、この点を取り上げ るなら、仏陀の教えのすべては、仏教の基本はこれのみ、すなわち、「苦の生起と苦の滅尽」に ある、ということを示している。 ブッタタート師は仏教の要諦と見なすべきは、「一切法は執持すべきではない」 ( sabbe

4. 自己開発 上座部佛教の心髄

如来は中に縁りて法を説く」 ( 相応部、因鷲 ) に見られるように、仏の大原理である縁起のことを 音している。縁起はこの世のあらゆることは、多くの原因結果がからんで循環しているという見方であ る。これは私たちの日常生活に照らしてみてもきわめて理解しやすい考え方であるが、実際にはついつい うつかりして単純な結論を出してしまうことがある。仏典では、例えば、仏陀は「苦は自作か、他作か」 という質問に対して、苦は縁生だと答えられている。これは物事が生まれるのは色々な因縁が重なって生 じているので、ある一つの単純な ( 極端 ) な見方をすることを戒められているのである。仏陀はこのこと を、両極端を離れて「中に縁りて法を説く」と一言われた。そしてこれが第一部の見出しとなっているとい うことは、第一部がこの縁起を中心課題として説明されていることを示している。本書の第一部、第一章、 第一一章の主たる内容はこれである。 「仏法、第一一部「中道」 ( 如何なる生き方をすべきか ) は、本書の第一一一章に相当する部分である。すなわ ち、仏法の実践である「八正道」の説明である。 四聖諦のうちの八正道について述べられている。師の最も重視される体法の実践篇である。さて、八正 道は、つまるところ「戒、定、慧」の三学に集約されるが、この三学を実践し完成する上で、一一一つのこと が重喫だとして強調される。 1 リ語の経典の中で、「日輪が上 それは、 ( 一 ) 善友 ( 一 D 不放逸 ( 一一 I) 如理作意である。これらは、パ がるときに、明るくなる兆があるように、善友、 ( 或は、不放渙或は、如理作意 ) は八正道を護できる ことの先駆であり、前兆である」としてその重要性が強調されているが、パュットー師も目らが編集され 139

5. 自己開発 上座部佛教の心髄

( 一 ) 精進、努力で行い、完成させる。 ( 一 l) 学習し、修習し、自己開発し、生活と社会を最高の善に向けて前進する。 ( 三 ) 不放逸に、熱心に探求して、善を創造する。 ( 四 ) 自立して、自由を持てば、他人に幸せを分け与えることができ、他人の頼るところと なれる。 この四項目が十分であれば、タイ国は発展する。 仏法の心髄は解脱と自立 善友の社会で助け合いの生活 「仏法の心髄」についての講演を終わらせていただくが、これらのことを「心材喩大経」 ( Mahä「。 pama ・ s a ) では、仏陀はこれらの仏教の心髄 ( 芯材 ) を、樹木の各種の構成要素に譬え ながら、最勝の生き方について話されている。 利得恭敬 ( を得て ) それだけで放逸になれば、芯材を求めながら小枝、木の枝葉を得た者。 戒 ( を得て ) それだけで放逸になれば、芯材を求めながら、木片を得た者。 定 ( を得て ) それだけで放逸になれば、芯材を求めながら、樹皮を得た者。 慧 ( 智見《天眼》に達し ) 、それだけで放逸になれば、芯材を求めながら、辺材を得た者。 , つからだ。

6. 自己開発 上座部佛教の心髄

解脱 ( 智見に達しても ) 不放逸にならなければ、不動心解脱、すなわち、芯材に到達する。 ここで仏教の心髄に到達した。解脱して自由になるということは、最後に述べた基本と一致 することである。自分に頼れるように自己開発し、自由になり、最後には心と智慧において自 由になることである。 私たちは他人に頼る。例えば、仏陀に頼る。それは自分に頼ることができるようになるため である。仏陀は私たちが自分に頼るように助けてくれるのだ。目標は自分に頼り自由になるこ とである。そうして、仏教の基本は最高の心髄に到達した。すなわち、解脱して、自由になる ことである。仏教の心髄はこの点で終わる。 最初は行為の自由、それは社会からの自由である行為を意味する。強制され迫害されること なく、何でも出来、何でも喋れることである。しかし、同時に煩悩のない心から生じた行為で なくてはならない。それでこそ真に迫害のない自由である。真の自由は、行為ではなく心と智 慧の状態である。完全な自由は智慧の自由である。 行為については、仏陀は別々に分けた形での、各自がばらばらの自由を教えてはおられない。 行為については、利得恭敬の多くを含む外部のものに依存することを覚識されて、仏陀はお互 いに依存し合い、物や労力などで助け合うことを望まれている。しかし、それは小枝、木葉と 同じで、助け合う要素に過ぎない。真ではない。 この生命の外部との関わる行為については、互いに依存し合い、互いに善友である種類の社 会とされる。

7. 自己開発 上座部佛教の心髄

一方、話しておかなければならない重要なことがもう一つある。 それは、調御があり、調御せらるべき人がいれば調御する人 (Damaka) がいる。一注一三 そこで仏教、或は、法において、私たちを調御するのは、他人ではないことをまず理解して おかなくてはならぬ。本来は、調御する人とは、私たちが自己修習をするのを助けてくれる人 のことを亠思味している。仏陀が「 Damako 」「 Dametu 」「 DametäJ と呼ばれているのは、いずれ もこの調御する人という意味である。 一注一三調御は、 Dama 、 Damana 、 Damatha 、など書かれるが、いずれも文法上の変化の問題で、簡 単には先ほどから説明しているように Da ョ a で、調御せらるべき人は、「調御者」 (purisa ・ damma) の中にある Damma である。 仏陀は「世尊はまだ調御を受けぬ人 ( Adan コ a ) を調御する人」 (Bhagavä adantänam dametä という言葉に見られるように仏陀は「 Dametä」と呼ばれている。さきほどの調御を与えると は、自己修習をしている人を助けるという意味であるが、その務めを行うことを、仏陀は「善 友」 (Kalyänamitta) の努めを行うと呼んでおられる。だから仏教の重要な基本のもう一つは、 「善友」の基本にある。仏陀の言葉に「すべての衆生は、生まれ、老い、病み、死ぬのは当然 のこと。われ如来はすべての衆生の『善友』になるべし」にあるように、仏陀は自らを「すべ ての衆生の『善友』である」と申され、生まれることが当然の衆生を生まれることから解放し、 105

8. 自己開発 上座部佛教の心髄

第一部仏教の心髄 はじめに 今日お話しする「仏教の心髄」とは非常に大事なことである。仏教はきわめて難解とされて いるが、まず経典で簡単に調べてみよう。仏教の言葉と言われるものを収集した仏教の基本的 な、或は、第一級の経典は「三蔵」 (Tipitaka) である。この第一級の経典だけで四十五巻もあ る。或は、八万四千の法門と言われるほど多くが含まれている。私たちは心髄をどのように捉 えるか、心髄はどこにあるのか、そして、心髄についての見解、意見は一致するのかどうか そのようなことをお話しする。 第一章仏教の要諦 仏教の要諦はなにか。様々な言葉で言いあらわされているが、すべて正しい。どれをとっても同 じことである 昨日は万仏節 ( マーカプーチャーの日 ) だったので、万仏節での仏陀の言葉を思い出してみ ーリ語では「仏陀 よう。というのは、仏教徒は万仏節を、タイ語では簡単に「仏教の要諦」、パ

9. 自己開発 上座部佛教の心髄

という言葉になる。仏教のすべての修習、すべての修行の過程は三学と呼ばれる。「 SikkhäJ は、勉学、留意、修習の意味である。 上記のすべての言葉はすべて修習の意味である。知り理解しなければならない三種の言葉が セットとしてあるということだ。仏教とは自己開発、或は、自己研鑽、勉学の宗教と言うこと も出来る。ここの講演の演題と一致させて、自己開発の宗教と言おう。このように呼ぶのも裏 づけのある理由がある。 第一、自己開発に関する法の基本は仏教の重要な中心の軸であり、法の修行のすべてである。 先ほど例に上げた「 Bh a 品」という言葉は、すべての仏法の修行で使う。先ほど述べたよう に、「ヂャルーン・ MettäJ は「 Mettä-bhävanäJ であり、「ヂャルーン・ Kusala は「 Kusala ・ BhävanäJ であり、「ヂャルーン・Ä品 na ・ sa ( 一」は「Ä品コ a ・ sa 早 b く a コ巴である。すべてこれらの善行 を生むための自己開発、自己研鑽ばかりである。「 Bh a コ巴はすべてを包含する修行である。 学 (Sikkhä) についても先ほど述べたように、三学 (T 「 ai sikkä) は仏教のすべての修行を含 んでいる。簡単に言えば、戒 ( a ) 、定 (samädhi) 、慧 ( P 当謌 ) である。「調御」 (Dama) ついては、次の第二項で述べるように、仏陀は人間の徳性を示す形で多く使われている。 第二、仏教の最高の人、或は、仏教の目標を達成した人は、自己開発した人、開発した自己 を持つ人、修行した人であると一一一一口う。一注こ 4

10. 自己開発 上座部佛教の心髄

一注こ Da ョョ a と Dha ョョ a の差異について 「 purisadamma 」の「 Damma 」が、法とか善法とか不善法などの「 Dhamma 」 ( 旗のトー ) とは違う字で書かれた「 Damma 」 ( 兵隊のトー ) であることに注意して欲しい。このい ずれもタイ語での発音は「タマ」である。この「 Damma 」は、これは先ほどの「 Dama 」 ( 調御 ) の分詞形である。「 Dama 」は非常に重要で、仏陀の功徳に出てくる。「 Damma 」は この人間は調御出来る衆生である。いまだ野生の本能を持っているときから、最高の仏 陀に至るまで調御できる衆生である、という意味である。 先ほどの偈の中で、「正覚者は人間であられても、修習し自己開発され不抜の精神の人になら ・」 (Manussabhutam sambuddham attadantarfi samähitaril ・ ) と多くの徳 性について説明し、「諸天でさえ敬うと」締めくくられる。つまり、仏教は自己の修習を称讃す るということだ。これを現在の言葉と比較すると、人間は潜在能力を持っていると言うことが 出来るだろう。仏教は衆生は修習できると人間の潜在能力を信じている。これが非常に重要な 基礎である。仏法僧の三宝の基本に於いて、三宝の最初の項目である「仏」は、仏陀が私たち の指導者の例であることを、仏教徒に確信させることである。これは人間は修習できる衆生で あり、仏陀も最初は凡夫であったが、波羅蜜を修行して美徳を積まれ、最後には仏陀として完 成されたことを示している。私たち全員が仏陀を、大悟された智慧を信じるなら、私たちも仏 9