別解脱律儀、静慮律儀、無漏律儀、忍辱律儀、精進律儀の五根 〔訳者注一一〕自己修習者 「世尊は自己修習者とは云何。世尊は身を修習し、戒を修習し、心を修習し、慧を修習し、 念処を修習し、正勤を修習し、神足を修習し、根を修習し、力を修習し、覚支を修習し、道を 修習し、煩悩を捨断し、不動通達し、滅を作証し居りたまふ」「南伝〕四四巻、小義釈 四念処観開発 (Bhävita satipattäno) 、如意足開発 (Bhävitaiddhi päda) 、四正勤開発 (Bhävita 八正道開発 2 sammappadhäno) 、五根開発 (Bhävita indariyo) 、五カ開発 (Bhävita balo) (Bhävita maggo) 、七覚支開発 (Bhävita bojjhfigo) 冖訳者注三〕諦 真実、諦 ( cca ) には、俗諦 ( mm 当・ & cca ) と真諦 ( pa 「 ama a ・ sacca ) がある。俗諦とは、 慣用的な世間一般の真実のことで、人、動物、善人、悪人など、日常生活で皆が一致して認め 合っている真実のことである。 (conventional t 「 uth) 一方、真諦は究極の真実で、色、受、想、 行、識、涅槃など。パュットー師は必ずしも適切な例ではないかもしれないが、水、塩などは 真の状態を示していない、ハイドロジェン・オキサイド、とかソデイウム・クロライドの方が より真実に近いという比喩を述べられている。
なり、別の側面を強調しておられる。僧侶については、仏陀は内側に重点を置かれる。内側の 自己を強調、在家については外部に重点を置かれる。僧侶については、増上戒だけが外部であ る。第二、第三項目すべて内側のことである。 在家のことについて見ると、 ( 一 ) 布施 : 外部との関係である。他人と共住して、援助、助け合いをすることである。 ( 一 l) 持戒 : 他人に迷惑を掛けないこと。他人と仲良く住むことに関することで、やはり、外 部との関係である。 仏陀は在家については外部とのことに重点を置かれた。というのは、在家は世の中、社会の 中において外部と関係する生活をしていることが多い。だから、最初の項目は、初めの増上戒 7 の内容を拡大して布施と持戒になった。それから物質に関係するものとなった。しかし、僧侶 については抽象的で心に関するものに重点が置かれている。在家については第三項目の修習だ けが心に関するものである。ここでの修習は僧侶の第二、第三項目である心修習、慧修習を合 わせたもので、心の修習と智慧の修習を合わせたものを第三項の修習として一項目にされた。 止修習、観修習もこの中に入っている。このようにはっきりしていることは、在家については、 仏陀は外部に重点を置いて初めの増上戒を二つに広げられた。というのも、布施と戒律は理論 的には場所により代替できる言葉であると見なされているからである。布施も一種の戒律であ る。戒律の一部分であり、布施と戒律に分けられる。戒律をさらにはっきりと拡大して具体的 にして、物質と、外部に重点を置かれた。そして、在家にとっての内部の項目は、修習である
子守と一緒に住まなければならない。生まれてきて世間を見ても何も出来ない。食べること、 座ったり、寝たり、排出したり、歩いたり、喋ったり、すべてを学習し訓練しなくてはならな これが人間の自然である。人間はすべてを修習しなければならない生き物で、この点から 見れば、劣った生き物だ。 だが、プラスの面から見れば、学習できるし修習できる。この部分が優れている。修習し学 習すれば、今度は人間が前方へ進む。智慧が増し、喋れて、意思の疎通が出来る。思考し創造 し、何でも発明する。物質世界を開発できる。色々な技術が生まれ有形、無形の繁栄がある。 芸術があり、文化文明を生み、自然界の中に重複して人間の世界が生まれる。 他の多くの生き物の中に自然の世界と別に自分たちの世界を築ける生き物があるだろう ・ありはしない。それらは本能で生まれてきて、そのままの本能で死ぬ。そしてそれを 繰り返す。しかし、人間は特別な生き物で、修習し学習しなければならず、またそれが出来る。 仏教はこの自然界の真理を捉えて人間をカづける。修習する人間は諸天も褒め称えるほど最 勝であると。 「仏陀は人間であるのに、身も心も良く修習されて、天神といえどもかくの如きの人を敬う : ・」 「 Manussabhutam sambuddharil attadanatam samähitaril Deväpi コ a ョ namassanti 」 という偈がある。この偈は、人間の最勝の善は、学習し自らを修習開発することにある、と気 付かせカ付けてくれる。人間は学習し自らを修習、開発しなければ、善くなれない。だから、 正確に一言うなら「人間は修習により最勝の生き物となる」である。 間にある「修習により」を抜かして「人間は最勝の生き物だ」と言えば、不正確な言い方と
れたのはこの事実に基づいている。すなわち、 (<) 仏陀は帰依すべき模範である。つまり、私たちが一人の人間であることを気付かせてく れる器である。仏陀は修習される以前は私たちと同じような人間であられた。だから私たちも 修習して仏陀のように最勝の人になる潜在力がある。仏陀は最勝者で大悟され、あらゆること に完全な徳性を持たれた。そのような高い徳を持たれたのは、多くの波羅蜜を完全になるまで に修行されたと言われているように、自らを修習されたからである。 だから私たちは仏陀をお手本として取り上げ、「見よ、最高に良く修習し良く開発した人間は、 智慧を有し正法を知る、清純で解脱し自由となり、世間法を越え、楽と善なる命、完全な善美 の得を有し、世の人々の頼るところとなる。かように最勝である」と一言う。 このように思えば、如来菩薩信 (Tathägatabodhi saddhä) と言われる信仰心が生じる。仏陀 の大再の智慧を信じることで、これはさらに人間を仏陀にする智慧を信じることを意味する。 だから、仏陀に帰依することは、この意味にある。すなわち、 ( 一 ) 私たちを仏陀に結びつける信仰を生む。仏陀は私たちのような人間から、波羅蜜を修行 して仏陀になられた。私たちも同じ人間として、真剣に限界まで自己修習すれば、仏陀のよう になれる。仏陀のように修習する潜在力があるとの確信を生む。 ( 一 l) 自己の義務を気付かせてくれる。私たちは自己開発して最勝の人間になれる。修習し自 己開発することは、私たちが生きる義務である。私たちは常に自己修習し開発しなければなら ( 三 ) カ付けてくれる。仏陀は自己修習、開発を完全に成し遂げられて最勝の人間となる例を
るこの点が仏教の基本だと見なされている。 人間における特別な自然界は、訓練、或は、修習 ( しゅうじゅ ) できる生き物だということ である。この点が非常に重要である。新時代の用語で言えば、「開発できる生き物」ということ だ。一ヶ所に沈み込まないで質的に変化できる。あるいは、特別な生き物であると一一一一口える。特 別というのは、他の生き物と異なるということである。人間という生き物は他の生き物とは変 わっている。どのように変わり、どのように特別なのか。他の生き物は訓練できないか、或は、 ほとんど訓練できない生き物であるのに、人間は訓練 ( 修習 ) ができるという面である。 「訓練」 ( 修習 ) という言葉は、新時代の用語を使えば、学習と開発、真に基本的な用語とし ては、勉学、または、学、合わせて使えば、学習、修習、開発、或は、学習、修習、勉学、開 発であろうか 簡単に一一一一口えば、人間は修習できる生き物であり、修習せねばならない。他の生き物はほとん ど訓練する必要はない。なぜなら、それらは本能で生きている。生まれるやいなやすぐに両親 からちょっとだけ学習する。すぐに生きていける。子牛は生まれて、二、三分もすると立ち上 がって歩けて、母牛と行く。ガチョウは早朝に卵を産み、朝の少し遅い時間には母ガチョウを 追って走り、池に飛び込む。走ることも泳ぐことも出来る。親鳥に付いて行き、餌を探すが、 本能によって生きている。餌を食べるなどの学習はわずかだ。それ以後は修習も、学習も出来 ない。だから、それらは生きている間、本能に頼り、生まれたままの状態で死んで行く。 しかし、人間は修習し、学習しなければならない。それをしなければ、生きていけない。、 い生活ができるかどうか一一一〕うまでもない。生存も出来ない。だから、人間は十年以上も両親や
なる。 私たちは人間は特別な生き物であるとだけ言った。他の生き物とは違った生き物という意味 である。「特別」というのは違ったという意味で、良し悪しは意味していない。しかし、この「最 勝の」は、善いということで、何となく最勝なのではなく、修習により最勝となるのであって、 修習しなければ畜生より劣る、さもなければ何も出来ない、生き残ることすら出来ないのであ る。 人間の最勝性は自己を修習開発することにある。これは他のすべての生き物が真似のできな いことである。他の良い生き物、馬や象は多少は訓練できるが、人間が訓練してやらなければ、 自己訓練はできない 他の生き物は、 一、人間が訓練してやる。 二、人間が訓練してやっても、限られた範囲で、多くを学ぶことは出来ない。 しかし、人間は自己修習ができ、しかもほとんど限界がない 生き物としての人間が学ぶべき自然界の基礎の上に 仏陀は三宝の基本を置かれた この点についての仏教の基本は最も重要である。というのは、人間は修習できる。自己を修 習できる。修習すれば最勝である。仏陀が ( 仏法僧の ) 三宝 (Ratanattaya) を基本として置か
ム它ま「慈愛を増やす」 ( Me 計 ) ことに重点を置かれた。これも他人との関係である。仲良 く暮らすことである。自分も幸せな気持ちで、他人とも良く暮らせる。お互いに助け合う。っ まり、心と智慧の面である修習についても「慈愛」の項目に重点を置かれているのである。 布施、戒律、修習の三福業 (Puöfiakiriyä-vatthu) は、仏陀は他のところでは別の言葉、「布施」 「自制」 (safiöama 、 samyama) 、「調御」を異型同義詞として使われている。「布施」は同じで あるが、「自制」 (Safiöama 、 Samyama) は「戒」と同義である。「自制」は他人に迷惑を掛けて、 苦しめ、社会に損害を与えることがないように表に出すことを自制することである。「調御」は 「修習」と同義であるが、基本語は「調御」の方である。最初の二項目は最初の基本を拡大し てよりはっきりと詳細にしたものである。三福業と呼ぶ代わりに、「如是語経」 (ltivuttaka 、に ーリ語で「 pufiöam-sikkhatiJ と説明されているが、これが よぜごきよう ) の中ではパ 「 pufifiam-sikkha 」のことで、三学のことに他ならないが、在家の「三学」では、布施、持戒、 修習、もしくは、先ほどの「布施」「自制」「調御」の三種である。しかし、これらの言葉は学 問面の知識であって、実際にはあまりお目にかからない。特に「自制」と「調御」はほとんど 語られることがない。しかし、本当は学問上の言葉で、布施、持戒、修習と同義語である。 「戒」についてはもう十分にお話した。しかし、「修習」に進む前に、今少し触れておきたい ことがある。 118
慧である。しかし、本当は学問上、真に仏法上の言葉では、仏陀は ( こ「増上戒学」 (AdhisiIa ・ sikkhä) ( 一 I) 「増上心学」 (Adhicitta-sikkhä) 、 (lll) 「増上慧学」 (Adhipaifiä・ sikkhä) と 完全に一言えばこうだが、時には簡単に戒学、心学、慧学と言っている。これは理論的には正 しくない。簡単に言うなら、戎、定、慧である。これが仏法の分類、種類別にしたものである。 しかし、修習するものを三学と呼ぶなら、増上戒学、増上心学、増上慧学と呼ぶべきである。 ( 一 ) 増上戒学 : 戒がますます増大するように修習すること ( 一 l) 増上心学 : 心がますます増大するように修習すること。 ( 三 ) 増上慧学 : 智慧がますます増大するように修習すること。 戒とは、身や言葉、他人との関係、迷惑を掛けないことなど、外部との関係のことである。 それらは社会の中で他人と善く共存する初歩の基礎的なことである。 それからさらに深く修習して、心の段階に来ると増上心学である。自分の心に関する修習で ある。自分の心を開発すること。新しい時代の言葉で解説すれば、自己訓練、自己開発して、 善い心の状態、善い心の能力、善い健康な心を作ることである。 ( 一 ) 善い心の状態、これは道徳心、慈悲心、喜心、信仰心、親切心があるなど。 ( 一 l) 善い心の能力、これは忍辱、忍耐、集中心、不動心、祈願心、精進、努力、決断、念、 115
憶念など、強固で能力のある、仕事をする用意のある心である。仏陀はこの心の重要なことは、 修習して定を得れば、仕事に善く使えて、次の智慧への足がかりとなると言われる。仕事に善 く使えることは、「適業性」 (kammaniya) と言い、仕事に適した心の意味である。 、喜、悦、満足、嬉しい、上機嫌、 ( 三 ) 善い健康な心、この状態の心があれば、気分 晴れやか、快適、など気分をよくするもの。 増上心学における自己修習は上記の三種にある。 次は第三項目の増上慧学である。これは智慧の修習を行うことである。智慧とはつまり、真 理に従ってすべてのことを知り、理解することである。或は、世と生命の状態を覚知して、心 を自由にし、煩悩の支配力に陥らず、苦から脱却することで、智慧が舵を取って、修習の過程 を完成させる。要約して言えばこうである。仏教で修行することは、戒、定、慧、或は、増上 戒学、増上心学、増上慧学の基本のこの三項目だけにある。 ちょっと付け加えると、仏陀は普通はこの三学は僧伽に教えられ、在家に教えられた形跡は どうしてそうなのだろうか。実は、同じように教えられたのだ。しかし、仏陀は在家に 相応しいように新しい言葉を使われた。在家のための三学は同じように三種ある。しかし、新 しい言葉として、「布施」 (Däna) 「持戒」 (51a) ( 修習 ) (Bhävanä) という言葉を使われた。 これは昔から「三福業」という言葉として知られている。「積善」 ( タンプン ) のことである。 通常、在家の人々の方によって使われている。本当は三学のことであるが、重点の置き方が異 116
しく実践する。 これらが構成する基本であり、自己開発を助ける基本である。 これ以外に、仏陀は聖声門、特に優婆塞、優婆夷の自己開発がどこまで進んだか成長を測る 聖増長 (Aュを・ vaddhi) という基本を作られた。これは次の五項目がある。 ( 一 ) 信 (saddhä) 正しい信仰があるか。どの程度根拠のある信仰か。 (ll) 戒 ( a ) 仏教の基本に従ってどの程度、正しく善い行いをしているか。 ( 三 ) 博達 (suta) 自らを助け他人を適切に助けることの出来る教え、法の基本を持っている 、刀 ( 四 ) 捨 (Cäga) 他人を助けるための犠牲、気持ちがあるか。 ( 五 ) 慧 ( pa 巴どの程度、色々の真理を知り、世の中と生命の状態を覚知して、心が解脱 し自由になっているか 第三の基本、「修習」 ここで最後の項目〈行く。「修習」 (Bhävanä) である。この「修習」が「開発」という言葉の ーリ語で「修習」 (Bhävanä) は開発だと説明されている。そして現在 実体である。仏陀はパ 私たちは開発という言葉を好んで使っている。仏陀の言う所へ戻ったということで、大変 120